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関東騒乱(後北條五代記・中巻)  作者: 田口逍遙軒
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関東騒乱(四)

 金堀衆を甲斐に呼びに行かせてから四日程も過ぎたころ、凍てつく正月の寒さの中でも日差しが緩く差し込んだ日があった。

 昨年来からの葦原の銀世界は一向に表情を変えなかったが、その日の午の刻を回った頃、葦原の先にある街道には甲斐から到着した金堀衆が列をなして松山城下の甲州勢の陣に到着し始めていた。

 幾組かの集団に分かれてやって来ているので、先頭が甲州勢の陣に入ってもまだ後続が街道を歩いている。かなりの数の金堀衆を呼んだようだ。

 迎え入れる甲州勢の陣でも金堀衆の寝床となる寝小屋を作り始めていたので金山の採掘現場かとも思えるような活気が出て来ていた。

 寝小屋を作っている陣内を幾人かの馬廻りと共に見回っていた信玄、

「さて、おのれらはその辺りに生えている幹の太い竹を切り取って参れ」

 そう言うと寝小屋を作る者とは別に、城方の哨戒の任に就いている歩卒を除いて陣内に屯する足軽の半数を近場の竹林へと送り出した。

 相当数の竹を伐り出し終わると今度は長さを切りそろえて縄を結わせる作業を命じている。

「この青竹で何を作られるのです?」

 馬廻りが信玄に疑問を投げかけると、即座に玉避けじゃと答えた。

 戦場に出ていた武者達の経験から、鉄砲玉は丸く堅い竹に当たると良く弾かれる事が知られ始めていた為、信玄は城方の二百丁の鉄砲に対抗するには竹筒を切りそろえた楯で対抗するのが最も良いと結論付けたのだ。

 松山の陣に到着して信玄に挨拶を済ませた金堀衆はその後直ぐに青竹楯作りとそれに使う縄結いの作業を陣所にいた足軽達と共に始めた。

 一度に数百人が各陣所や寝小屋内で竹を縄で結い合わせる風景はある意味壮観だったろう。

 この作業が終了し各部隊に青竹楯が行き渡った翌日、愈々それを押し並べて金堀衆が松山城の麓まで寄せて行く事になった。

 城方も土塀や逆茂木の間からこの青竹の楯を押し並べた大勢の人数を見ていたが、武器らしい得物を持たないこの人足、一体何をするのだろうと声を潜めている。

 城に攻め寄せる動きをしたら先日のように二百丁の鉄砲で射殺す心算なのだ。

 じりじりとした空気が流れた。

 そんな中、楯を並べて穴掘りの作業を始めた金堀衆、青竹楯が眼隠しとなって城方には何をしているのか都合よく隠せていた。

 また寄せ手の北條・武田勢、城方が一歩でも押し出してきたら迎え撃つ用意をしていたので城方も一切鳴りを潜めており、そのお陰で昼夜分かたずの作業を進めた金堀衆によって見事に松山城の地下に坑道を完成させる事が出来た。

 更にこれを掘り進め、城内数か所に作られていた矢倉の根元を掘り崩して二つ程も壊し、城兵が飲み水として用意していた大甕も底から打ち壊して水を抜いた。

 また城内に幾つか掘られていた井戸も、横から穴をあけて中の水を全て流す事に成功している。

「これで城方の水の手が切れたであろう。あとは城を囲み干殺ひごろしにするか、憲勝が木戸(城門)を開くを待つか」

 武田の本陣で、信玄と氏政は重臣達に囲まれながら談笑していた。

「このままいけば十日と持たずに城は自落しましょう、鉄砲の数に初めは肝を潰しましたが、これは意外と早く城攻めも終わりそうにござるな。しかし金堀衆を使って穴を掘り、そこから水の手を切るとは、流石に兵法を熟知すると言われた徳栄軒殿にござる」

 綱成の言葉に信玄は口角を片方だけ上げて笑みを見せた。

「此の度は孫子の言葉通りに仕ったのみじゃ」

「兵は詭道なり。でござるな」

「左様。『故に能くして之に能くせざるを示し、用いて之に用いざるを示し、』じゃ」

 綱成はこの信玄の言葉を聞いてしきりに頷いていた。

「流石に信玄殿じゃ。此度は学ばねばならぬ事が幾らでもあると云う事が身に染みて分かり申した」

「武勇鳴り響く黄八幡殿にそう言われるとどうにもこそばゆいな」

 これに陣内にいた重臣皆が笑った。

 陣幕内では城の水の手を断った事により既に勝負が決したと考えているようで、どこか余裕の雰囲気が流れている。

「では明日より再び城攻めを始めましょうぞ。此方から攻め寄せる所を見せ、それに釣られた城方が走り回れば喉も渇く。これを繰り返せば飲み水が無くなり往生致すでござろう」

 氏照の言葉に氏政も頷いた。

「徳栄軒殿、明朝寅の刻(午前四時)、総攻めを始めようと思う。我らと合わせての城攻め、宜しく頼みましたぞ」

 この時の信玄の力強い頷きは、水攻めが完全なものとなったと確信したものであったろう。

 信玄と氏政、暫しの談笑を続けてのち、其々の陣に引き返して行った。

 そして明朝、日も明けぬ寅の刻、城方を叩き起こすかのような鬨の声が一斉に上がると、幾筋かの火矢が城門、逆茂木、倒壊を免れていた矢倉に突き刺さり火を噴き始めた。

 燃え盛り始めた炎がよい目印となる。

 まだ暗い空に吸い込まれるように陣太鼓が滔々と鳴り響くと、青竹楯を抱えた足軽が一斉に城門に取り付き、掛矢や丸太を使って遮二無二討ち叩き始めた。

 しかし中々閂すら壊れない。

 その間に鉄砲や強弓で射かけられ、さしもの青竹楯でも全ての鉄砲玉を防ぐ事は出来ずに攻城兵を再び多数失う事になった。

 多大な犠牲を払いながらも閂を打ち壊し、土塀を引き倒し、逆茂木を引き抜くと、東の守りである外曲輪、追手入口である広沢曲輪、三の曲輪までは押し込めることができた。

 人数を入れ替えながら息を整える北條・武田勢ではあったが、城方もそろそろ水も底をつく頃と気力を奮い立たせて奪った曲輪を守るのだが、一向に城兵が水に困った様子が現れない。

 それどころか引き倒された矢倉に登った足軽の報告では、城内では水甕から代わる代わるに城兵が水を飲んでいると云う。

 信玄は、もしやもう一本水の手があるのかと考え、城攻めの最中に再び金堀衆に水の手を切る為の坑道を掘らせ始めた。

 そんな時である。

 安房の里見が松山城後詰に出陣、既に上総の小弓を通って下総の国府台で待ち受ける北條方江戸衆、下総の千葉氏、原氏に対して合戦を始め、また積雪を押して越後の謙信が越山、里見と歩調を合わせて松山城後詰にやって来たと氏政の陣から報告を受けたのだ。

 この時期の小田原からの知らせなのでこれに偽りはないであろう。

 あともう一息なのだが、中々手強い抵抗を見せる松山城。

 流石の信玄も多数の鉄砲を並べられた上に、水の手を切りきれない松山城を即座に攻め落とすのは難しいと考えはじめていた。

 里見と謙信の軍勢がここに到着する前にこの城を落とす事ができるのだろうか。

 少々不安を覚えた信玄は本陣内で誰彼とも無く評議を始めたのだが、特にこれと云った妙案も出ない。

 退却もやむを得ぬかとの思いも出た頃、重臣の最後として飯富昌景を呼んでみた。

「飯富はおるか」

 信玄が本陣内で飯富昌景を呼ぶと、知らせを受けた昌景が直ぐにやって来た。

 陣幕内に入った飯富を見た信玄、焦りの為か飯富が辞儀もせぬうちに言葉を投げた。

「飯富よ、安房の里見が松山へと向かって来たそうだ。また越後の謙信も三国峠を越えたとか。なんとかこの城を早めに落としたいものじゃが、何か良い手はないかのぅ」

 いきなりの信玄の言葉に一瞬驚いた昌景、まずは参上仕ったとの挨拶を告げてから言葉を受けた。

「房州勢と越後勢がやって参りまするか」

 そう一言口に登らせたが、昌景は唸ってしまった。

 戦上手と言われている信玄が攻めきれぬこの城、自らが落とせる方法などあるものか。

「房州の里見、越後の謙信、この両人が出陣したとあってはこの城を攻め落とす事は益々難しくなりましょう。力攻めもこの通り、まるで効かぬ城にございますれば」

「飯富にも良い知恵は無いか」

 そう言った信玄は溜息を吐いた。

「菅介ならばどのような手を打ったであろうな」

 信玄の懐かしむような声音に昌景もふと菅介を思い出していた。

「山本殿が居られれば何か良い知恵を出してくれたかもしれませぬが、こうなったら降伏でも呼び掛けてみまするか」

「なに!?」

 言葉に軽く戯言を混ぜた心算の昌景だったが、これに思わぬ反応を見せた信玄、突然大声を上げた。

 昌景は降伏勧告を信玄に咎められたと思い身を竦ませたのだが、信玄からは続く叱責の言葉が出て来ない。

 恐る恐る信玄を見た途端に「それじゃ!」との声を聞いた。

「何が、それ、なのでございまするか?」

「飯富よ、弁舌の立つ者はこの陣にはおらぬか?」

「手元には居りませぬが北條殿の手勢には居るやもしれませぬ。しかしそのような者をどうされまするので?」

 信玄はここで満面の笑みをたたえて昌景を見た。

「飯富よ、そちも菅介に劣らぬ才覚を持っておるようじゃ。城方へ降伏を進める」

 これに昌景は驚いた。

「降伏ですと!?」

 自分から吐いた降伏の言葉を、再び自らの口を使い疑問で返しているとは昌景、この時思いもしなかっただろう。

「そうじゃ。降伏させる」

「如何に?三の曲輪まで落としているとは申せ、越後、安房の軍勢が参るとの知らせが城方に入れば降伏など受けるとは思えませぬ」

「そこじゃ。城方に知らせが入れば、であろう。この松山城、東の外曲輪は我が方の手中にあり追手からの広沢曲輪・三の曲輪も押えた今、外から知らせを入れるには西と南の水の手からしかあるまい」

「城への知らせを未然に防ぎ、その間に降伏させようとのお考えにございまするか」

「今はまだ城方に謙信の越山も里見の後詰も知らされてはおるまい。降伏の使者を送るは今が丁度良いのだ。飯富、その方に西と南の水の手からの敵勢の監視、申しつける。また左京大夫から弁舌の立つ者を預かって参れ」

 飯富の偶然口に登らせた降伏勧告が信玄に採用されると、早速氏政の本陣に使いが出された。

 そこで弁舌が立つとの評判があった武蔵の住人で勝式部少輔と云うものが選ばれて信玄の陣に迎えられると、事の次第を言い含められて後、降伏勧告の使者として松山城へと赴く事になった。


 松山城に入る事が出来た勝式部少輔、上杉憲勝とその重臣達にこれ以上の籠城に利がない事と援軍がやってこない事などを切々と語ると、今城を明け渡せば籠城の人数の命は保証すると持ちかけた。

 しかし籠城方も初めのうちは、これまで持ちこたえてきたのに城を明け渡すのは越後に対する丹誠(誠意)を疑われる事になるとの意見も出て中々纏まらなかったのだが、結果として水の手を切られた事が痛手となっており、とても長く籠城出来ぬとの結論に至ったようだ。

 使者を受け入れてから翌日、城主上杉新蔵人憲勝を筆頭に三田五郎佐衛門、広沢兵庫介、高崎刑部佐衛門他の籠城の衆全てがこの永禄六年の二月松山城を退去する事を決定。

 松山城を受け取った氏政は、近頃暗礫斎(安礫斎:安独斎とも)と号して蟄居していた上田朝直と上田上野介朝広を召し出して松山城城代に戻し、何れやって来るであろう越後勢に対しての備えとして松山城から西へ三里程にある青山(現埼玉県比企郡小川町青山)・越塚(現埼玉県比企郡小川町越塚)の両砦にも人数を詰めさせた。

 また北條・武田の本隊も松山城に詰めている。

 この城の明け渡しに際して小田原方に降った上杉憲勝は身一つで小田原に送り届けられて処分を待つ身となったが、後に武州都築郡(現神奈川県横浜市都筑区)に居所と三万石の扶持を与えられており、家格の高い上杉家の縁者として懇ろに扱われたようだ。

 実はこのころ、雪深い越後から越山した上杉謙信が上州厩橋の城に入っており、国府台城で北條勢と刃を合わせていた太田三楽斎に使者を送っている。

 越後勢本隊が近々、石戸の渡し(現埼玉県北本市付近)に進むのでそれに合わせて参陣せよとの使者を送ったのだ。しかしその知らせは城方に送られてはいなかった。

 この籠城戦での憲勝の不運は、松山城攻めが始まってから落城までの期間、一切援軍の知らせが届かなかったことである。

 越後または安房からの知らせが届けば松山城落城の憂き目には遭わなかったかもしれない。

 ある意味この独力で四カ月間戦い抜いた籠城戦は、憲勝が見せた扇谷上杉氏の意地であっただろう。

 一方謙信の呼びかけに答えた太田三楽斎が国府台城を囲む手勢を纏めて石戸方面に去った後、国府台城攻めの主力だった里見義弘は単独で国府台城を攻め落としてその勢いのままに松山城へ進軍をはじめたのだが、松山城が落城した知らせを受けると一転、居城久留里城へと引き返して行った。

 里見の帰国を知らぬままに進軍を続ける太田三楽斎は、越後勢の寄せて来ると言われた武州石戸の渡しに急ぎ向かい、謙信の着陣に合わせて到着。

 時を同じくして石戸の渡しに着陣した謙信の陣所に挨拶に向かった三楽斎は、越後勢と合流するとそのまま謙信と行動を共にする事になった。

 謙信は初め、毛利丹後守が守っていたこの石戸城を拠点として松山城を囲む北條・武田合同軍を攻める心算でいたが、石戸城は既に藤田乙千代に落とされており入城が叶わない。

 とは言えここで石戸城を無理に攻めても松山城を落とした北條・武田勢に背後を突かれては勝ち目がない事を悟った謙信、雪深い越後をわざわざ抜けて来たというのに自分の到着を待たずに開城した上杉憲勝への恨みがふつふつと沸いて来た。

 謙信の悪い癖である激情がここでも現れたのだ。

 その陣幕内に太田三楽斎が越山の挨拶にやって来くると、相変わらずの軍律の厳しさを漂わせる越後勢の陣幕内とは別に、何かぴりぴりとした空気が張り詰めている事を感じた。

 三楽斎の正面に座る謙信の目が既につり上がり、充血している事が分かる。

 三楽斎は一抹の不安を感じた。

「三楽斎殿、よう参った。此の度の国府台攻め、まずは執着」

 謙信の声が妙に甲高い。何か腹に一物を持っている時の癖であろう。聞いている方の耳にきんきんと響いて来るのだ。

「松山城後詰の為に深雪を押しての越山、不識庵殿の御厚情まことに有難く、この三楽、感謝してもしきれませぬ」

 この社交辞令の言葉を聞きながら、謙信は酒の満たされている盃をぐいと呷った。

「したが松山城は落ちておるな。儂が厩橋から此方に参る時、城を落とされた者が次第次第に合流してきたぞ」

「城に詰めさせておりました上杉憲勝と重臣である三田五郎佐衛門、広沢兵庫介、高崎刑部佐衛門が必死の抵抗を見せて三の曲輪まで抜かれても耐えていたのでござるが」

 三楽斎が途中まで言うのを謙信は遮った。

「新蔵人憲勝などという柔弱者に城を預けた為に無用の後詰となってしまった。これは返す返すも無念である!」

 言葉の最後が既に怒りで震えているようであった。

「太田よ、城に籠りおった人数の書付があろう、見せよ」

 三楽斎は懐に入れておいた書付のたとう包みを、恐る恐る謙信に披露して見せた。

 じっと書付を見ている謙信に対して山楽は、上杉憲勝の子二人を岩付で人質に取っている事も付け加えた。

「左様であるか、ならば三楽斎には落ち度無し。但しその人質をここに連れて来よ」

 落ち度無しの言葉にほっとする三楽であったが、人質を連れて来いとの言葉に嫌な予感を覚えた。

「人質の子など如何されまするので?」

「憲勝め、勝手に城を落ちた事許すわけにはいかぬ。よって憲勝の小倅をこの場にて見せしめとする」

 三楽斎の嫌な予感が的中してしまった。

 反北條を貫く関東勢を纏める三つの要の内の一つ、古河公方足利藤氏が伊豆に幽閉されてしまった今、残る二つの要、山内上杉憲政と扇谷上杉憲勝のどちらかでも失う事は関東の結束を弱める事にしかならないのだ。しかも既に憲勝は小田原に送られている。

 謙信は憲政の救援に答えての関東攻めであろうが、冬になる前には必ず越後に引きこもってしまう為に関東の鎮護と頼む事は出来ない。

 この謙信の要が頼めない以上、そもそも山内と扇谷の両上杉氏は長年相克し合っていた仲を争いなく治める事は不可能なのだ。

「お待ち下され、不識庵殿のお怒りは尤もなれど、憲勝の倅はまだ道理も弁えぬ子供にござる」

 謙信の目が冷たく光った。

 怒りにまかせて感情を励起させた今の謙信に最早人の感情は無い。

「そのような事でこの荒れた関東を纏める事などできぬ、今すぐに憲勝の倅をここに差し出せ」

 取り付く島もない謙信の剣幕に三楽斎は引き下がり、岩付から人質を連れて来るように家臣に伝えた。

 後にこの憲勝の子は謙信によって切り殺されており、三楽斎の危惧したとおりに関東のたがが外れる遠因となって行くのだが、一人謙信のみはそれに気が付く事は無かったのである。

 憲勝の子を手討ちにする事が決定すると、北条きたじょう丹後守に命じて三楽斎を主賓とした酒宴を開く事になり、本陣陣幕内で越後の重臣達に囲まれながら三楽斎は盃を受けた。

「ところで今、松山城には誰が籠っておる?」

 盃を交わしながら謙信からの問いに道々得た情報を披露する三楽斎。

「北條家では左京大夫氏政、源三氏照、黄八幡の綱成にござる。また援軍の武田家では徳栄軒、逍遙軒兄弟に信玄の倅太郎義信が入っているようでござる」

 これを聞いた北条丹後、松山城には六人の大将がおりまするか。と戯れた。

「馬鹿を言え、大将が六人もおれば天下がとれるわ」

 越後の主従は声を上げて笑うのだが、一人三楽斎のみは笑う事ができなかった。

「不識庵殿、松山城には五万を超える軍勢が詰めておりますぞ。ならば大将分が六人おっても不思議ではありますまい」

 この真剣な三楽斎の目を見た謙信、

「氏政と信玄こそ大将。他の者は刀の背打みねうちちをくれてやるにも尚不足の敵じゃ」

 そう言い放ち再び酒を呷り、口から洩れた酒を手で拭って大きく息を吐いた。

「今から我が手勢八千でこの者達を退治してくれよう」

 この自信過剰な越後の国主を三楽斎は持て余し気味になって来た。

「いくら大将分が二人となっても兵は五万を超えるのですぞ、それが城に籠り此方が寄せて行くのを虎視眈々と狙っておるのです。そのような所に城兵より少ない八千の人数で攻め寄せるなど以ての外」

「三楽!臆病風に吹かれたのであらばこの城攻めの同行はいらん。戦とは時の運ぞ、その運は我が身を持って作るものである」

 この言葉を吐くと謙信は酒の酔いも手伝ってか颯っと立ちあがり、今から出陣する旨越後勢重臣達に下知した。

 性急な下知ではあったが謙信の性格を知り抜いている越後の重臣たちは、飲みかけの盃をその場に置き捨てると言葉もなく己の陣所に駆け戻り、準備を整え終わらせた者から出陣して行った。

 このあまりに急な越後勢の出陣に、独り陣幕内に取り残され呆気に取られた三楽斎、

「この大将、頼むべきに人物にはあらず、しかし今はそれに縋るしかないのか」

 そう我が身の不幸を口惜しそうに呟くのみであった。

 謙信の急な出陣を知る由もない松山城に籠る北條・武田勢ではあったが、ひたひたと城の周りに寄せて来た越後勢を偶然にも急作りの望楼矢倉から見物していた者がいた。

 矢倉上にいた者は氏政と氏照、綱成の北條三将である。

「あれに見えるは越後勢ではないか?」

 氏照が未だ遠い越後勢を、眉の上に手を翳して遠望している。

 確かに何処かの軍勢が寄せて来るようだ。

「おぉようやっと見えたわ、見覚えのある『毘』の旗印、越後の山猿め毎年ご苦労な事じゃのぅ」

 氏照が一年ぶりに関東の地を踏んだ謙信に憤りを感じ、口汚く罵った。

「とうとう越後の兵どもがやって参ったな。今少し城攻めに手間取っておったら危ない所であった。徳栄軒殿には感謝せずばなるまい」

 氏政がさも危なかったと言いたげに綱成に話しかけた。

「左様にござるな、乙千代様が石戸の城に入ったからといって我らがこの城を攻めていれば、謙信は石戸の乙千代様を見ようともせずに突きかかってきたでありましょう」

「さて綱成、やって参った謙信、どう料る?」

 綱成は城を囲んだ越後勢の気勢を見た。人数は少ないものの、遥々越後からやって来たこの軍勢、意外と覇気がある。下手に手を出せば敗れる事は無いとしても痛手を被ることもあろう。ましてやこちらは四月も城を囲んでいた軍勢である。疲れも溜まっておれば思わぬ敗北を喫する事もあるのだ。

 様々に考えた結果、綱成は籠城策を献策した。

「なるほど、越山してから一戦も交えて居らぬ越後勢には覇気と勢いがあるのは確かじゃ。籠城も手よのぅ。」

「したが手合わせもせずに籠城したとあっては後日の物笑いの種になり申そう」

 血気に逸る氏照は籠城策を良しとはせずに討ち出す事を進め、様々に兄を説こうとしたが結局氏政は首を縦には振らなかった。後日の物笑いになろうとも城を守り兵を失わず、最終的に自領の平穏を守る事が最善の策なのだ。

 またこの籠城策を信玄に伝えると信玄も籠城策を氏政に伝える心算であったと漏らして即座に同意してきた。

「不服ではあるが兄上と徳栄軒殿が同じ考えであるならば間違いはござるまい」

 主戦派の氏照も不承不承この籠城策を受け入れる事になった。

 この結果城に籠ったきりの北條・武田勢に対して、一気に城を攻め落とそうとしていた謙信の作戦も肩透かしを食らった形となり、人数を遠巻きにして松山城を眺めるだけとなっていた。

 気の短い謙信は何とか籠城軍を引き摺りだそうと手勢を繰り出すのだが、一向に相手にされない事を知ると再び悪い癖が出た。

 謙信に追いついて来た三楽斎を自陣に呼ぶと、この近くに北條方になっている城はないかと尋ねて来たのだ。

「ここより東二十里先に埼玉郡の私市城がありまする」

「そこは誰が入っておる城か?」

「北條に帰服した忍の成田長泰の弟、小田助三郎朝興が入っております」

「成田長泰の弟か。長泰めは先の鶴岡八幡宮で儂に無礼を働いた上に裏切を働き北條に付いた者であるな」

 三楽斎は、これにどう物を言おうかと言いあぐねる内に謙信が決断を下した。

「助三郎には何の恨みもないが、このまま城も攻め落とせずに越後に帰陣するのは如何にも口惜しい。よってその私市城を撫で切りにして越後への土産と致そう」

 小田原を退却する時にも見せた行がけの駄賃のように、今回も私市城を目がけて八つ当たりの合戦を仕掛けたのである。

 しかしこれが小田原のときと若干異なるのは、この松山城を包囲した越後勢を解いて私市城に向かう時、謙信自らの手で認めた決闘状が城方の氏政に差し出された事であった。

 謙信は配下にいた斎木庄助と中沢和泉守にその書状を持たせて松山城に赴かせている。


 曰く、


『此の度松山籠城の後詰として赴けるも、それを待ちえずに城明け渡しの後なれば如何ともし難し。また北條・武田の両軍に一戦を試みるも応ずる色なく、輝虎、武士の面目にかかわる事なればやむを得ず、氏康殿の持ち分小田助三郎が私市城を襲わんとす。心あらば甲相二軍をもって後詰として参られよ。ここにて雌雄を決せん』


 この傍若無人とも云える挑戦状を差し出した謙信は、そのまま軍勢を私市城まで繰り出して城を囲み城攻めに入った。

 無論私市城の小田助三郎も一廉の大将である。謙信の攻めが如何に神懸かりであってもその剛勇でなる坂東武者は簡単には落ちるものではない。

 越後勢と一進一退を繰り返す小田助三郎に対して、正攻法では城は落とせぬと考えた謙信、奇策に打って出た。

 この私市(騎西)城、城の造りは北西から東南にかけて五つの曲輪から構成された、湖水に囲まれる水城である。

 北西に一の曲輪と二の曲輪を梯廓式に設け、二の曲輪から土橋により厩曲輪と天神曲輪を結んでいる。また天神曲輪の南端に土橋をかけて中曲輪と連結させ、その中曲輪は更に東側に大きく張り出すように造られた追手曲輪と土橋で連結させていた。

 先の通り城の周りは一面の湖水を湛えている為城に入るには追手曲輪に繋がる追手門以外に侵入路はない造りである。

 謙信はこの城の追手門に本城繁長、黒川為盛、山浦源五郎、山岸右衛門尉、鍬兵右衛門を置き、また外堀となっている中曲輪の対岸に筏を用意するとそこに新発田長敦、柴田治長、大野弘家の人数を忍ばせて其々に長い竹竿を持たせた。

 日が落ちて辺りが暗くなりだした頃、その長竿の先に薪を括りつけると城方に気付かれぬように筏に乗り込ませ、同時に追手に並ばせた本城繁長らに鬨を上げて攻めかからせる。

 この間長竿を幾本も持った兵が乗り込む筏をそっと岸から離れさせ、その竿の先にぶら下がった薪に火を点けさせた。

 城兵が攻め寄せて来た追手曲輪に殺到した頃を見計らうと、対岸の土塁外側に取り付いた兵達に中曲輪の塀の外からこの火の点いた長竿を差しこませ、板塀を遮二無二叩きならさせる。これに合わせてその火を左右に振らせると、城内から中曲輪を見れば、既に中曲輪が火を吹いて落とされているかのように見えたのだ。

 これは中曲輪が敵の手に落ちたかと勘違いをした小田助三郎、中曲輪を捨てて本丸へと退去して行った。

 兵の居なくなった中曲輪に板塀を乗り越えて侵入してきた越後勢は、天神曲輪に繋がる虎口を押えると、追手曲輪に殺到。

 追手曲輪は二の曲輪と追手門から攻めたてられ、混乱して逃げ回る城兵や女子供を唯一の逃げ口である追手虎口で片端から生け捕りにして行った。

 そして日もうっすらと明け始めた頃、さしもの坂東武者も謙信に降る事となった。

 しかしそもそも謙信の八つ当たりでの城攻めである。

 ましてやこの城主、小田助三郎は本家の成田氏を辿れば太田三楽斎と繋がるのだ。

 城主を処分するよりは忍領の成田氏を手懐ける事も含ませて城主はそのままに、三楽斎の管轄城として成田氏を牽制するに留めた。

 またこの時謙信から、太田三楽斎の娘を忍の成田長泰の嫡子、左馬助氏長に嫁がせるように指図されている。

 これは太田三楽斎の兄、太田資時が成田長泰の姉婿であった為、太田と成田の婚家の誼を深くするべく取った措置であろう。

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