岩付の城
大永四年師走。江戸城を攻略して約一年が過ぎたころ、海に近い小田原では師走の海風が寒風を運び非常に肌寒い日が続いていた。
そんな中氏綱は小田原城内に設えてある弓場に立って三人張りの弓を軽々と引き、厳冬の空気の中で小気味の良い矢の音を響かせていた。
この弓、現代人ではまず引く事すらできないと言われている。手元の資料によればその弓から放たれる矢の飛距離は約四百メートルにもなったらしい。現在は二百メートル弱との事なので、当時の弓の強力さが伺われる。
その弓場にふらりと裃姿の男が現れた。
「小太郎か、如何した」
「駿河の氏親殿が事に御座いますが、ますますご病状が悪くなり最早寝たきりになったように御座います」
駿河の今川家では宗瑞の甥である氏親が中風にかかり寝たきりになっていた。
中風とは脳卒中の事で、脳出血によって運動機能が麻痺し手足が動かなくなったり半身が不随になる病気だ。
長男龍王丸はまだ十二歳。兄弟に彦五郎と出家させられていた弟、玄広恵探と梅岳承芳等がいたがまだまだ幼く、正室である寿桂尼が政治の補佐をしている状態だった。この兄弟のうちの龍王丸が後に今川氏輝と名乗り、梅岳承芳が数えで六歳になる後の今川義元である。
「そうか。龍王丸はまだ幼いな」
「数えて十二になったばかりとか」
「ふむ、新九郎と勝千代に歳が近い」
弓場で氏綱の近くに侍っているのは新九郎と勝千代だった。
「今川家は当家とは血縁じゃ。何か助けになるような事があらば何時でも頼って参られよと伝えておけ」
そして再び的に向かって矢が放たれると、相変わらずの小気味よい音が鳴り響いた。
「それともう一つ、岩付の渋江右衛門太夫からの使者が参り、用意が整った故何時にても攻め寄せて来られたし。との知らせを寄こして参りました」
「さようか」
氏綱の顔に若干の笑みが現れた。
「武蔵の版図が大きくなりまするな」
「小太郎、手の者を使い岩付を探れ。大小漏らさず随時伝えよ」
「畏まりましてございまする」
「勝千代、軍評定を家老達に伝えよ」
勝千代は鐘を打つような返事を残して小走りに家老達の詰め所に走り去った。
それを見送った氏綱が再び弓を引き絞り、頃合いをみて放った矢は星を射抜いていた。
年が明けて大永五年二月、氏綱は軍勢を纏め武蔵の国は江戸城から北に向かい、豊島郡を抜け足立郡の岩付領に進軍した。
この時期の岩付城は太田資頼が城主となっており、成田氏から岩付城を盗った父資家は四年前に病没している。
そしてこの岩付城攻めは先の渋江右衛門太夫の内応もあり、東の里見氏とはいまだ敵対関係になく、北の古河公方家は娘が嫁いだ先でもあるため後顧の憂いなく攻め込む事ができた。
北條軍来襲の報を受けた太田資頼は籠城策を採ったが、内側からの渋江右衛門太夫の裏切りにあい、後に三千人に及ぶ死者を出して落城、城主資頼は岩付城から西方にある石戸城(現埼玉県北本市)に落ちる事となる。
氏綱は武蔵の東側を版図に加えることに成功した。
そして落城せしめた岩付城代に渋江右衛門太夫を指名し、北條軍は小田原に凱旋する。
すると間もなく小太郎から知らせがきた。
「殿、去る四月十六日、憲房殿が身罷った由にございまする」
「ほう、山内の管領殿がか」
「左様に御座います。憲房殿は我が方が江戸を落としてから急ぎ上野は平井の城から武蔵の鉢形城に移られた様子でしたが」
「おおかた扇谷の江戸城を取り戻す積りでおったのだろう」
「はい。河越城の朝興殿に合力致し、鉢形城の兵を纏めていた矢先に重病に陥ったとの事」
「憲房殿には一人子がおったの」
「今年三つになる御子が御座いまする」
この憲房の一人子は後に上杉憲政と名乗る事となる。後年、家来筋の長尾景虎を養子とし、上杉の姓と関東管領の職を譲る人である。
「そのような幼き子では上杉の家は纏められまい」
「はい、そこで古河公方高基様の子であられる晴氏様の御弟君を養子にされるとかで、京の室町に使いを出されたように御座る」
「なに?」
「これで兵を損ずる事無く山内を取り込めまするな」
小太郎の顔にはありありと喜びが浮かんでいた。氏綱の女婿の兄弟が山内上杉家を継ぐと聞いて、すぐさま公方家、ひいては北條家に靡くと思っているようだ。
八代将軍義政の時代に復権した五代鎌倉公方成氏から飽きることなく関東の戦乱を引き起こしてきた古河公方家と両上杉家である。周囲から見れば特に目的も無く、自らの欲望のまま徒に戦乱を引き起こしてきた主魁たちだ。これは警戒せねばならぬ。
この公方家から山内上杉家への養子縁組も、両上杉家と敵対している北條家と縁戚になっている公方家が氏綱に知らせも寄こしておらぬのに既に京の室町には使いを出しているという。
いったい何をしておるのかと氏綱は公方高基に怒鳴りつけてやりたい気持ちがこみ上げてきた。
「殿、如何なされました」
押し黙ってしまった氏綱を見た小太郎が氏綱の心の異変を感じとり、声をかけた。
「小太郎、弁舌の立つものを選んで梁田に使者として立ててくれぬか」
先にも紹介したが、梁田とは古河公方家の奏者の家柄であり家宰でもある。そもそも地方の守護達では公方家に対しては直接の目通りが許されず、奏者を通して謁見するのが通例だった。公方家と縁戚となった北條家も形上は公方家に対する相模の守護となるので氏綱も公式の場ではその通例を崩さずに使者を送る事も梁田を通した。
事実は梁田を糾弾して公方家に養子縁組を断らせる積りなのだが。
そして小太郎は忍である。その忍の配下を使者とする事はこれを公式ではあるが公にせぬと言う事だ。小太郎はそこまで考えは回らなかったが、秘密裏の使者であることは理解した。
「それはかまいませぬが、どのような使いをさせるので御座いましょう」
「我が北條と縁戚になりながら敵対する山内に養子を送るとは言語道断と使者を送る」
「諫言の使者ですな」
「此の度の件は、おそらくは高基様の勝手な振る舞いかとも思われるがそれを止められぬ高助ではあるまい。関東の戦乱はその敵味方の曖昧さから来ておるとなぜ気がつかんのか」
氏綱が嘆息し、小太郎に口上を聞かせると、すぐに相模の小田原から下総は関宿まで使いとして走らせた。
卯月の下総は春の芽吹きも盛りを迎え、関宿城の周りを天然の堀とした現在の江戸川、利根川の周りは(旧河川湖沼は利根川、中川、逆川、大山沼、釈迦沼、長井戸沼等か)春の花が咲き誇り、草木も戦国の世などはどこ吹く風とばかりに青々と葉を茂らせ我が世の春を謳歌している。
田も初夏の田植えの備えのため代搔きも始まり、城下の百姓達も親類縁者挙って田仕事に精をだしていた。当時は兵農分離がされていない時代だったので関宿城に詰める家臣たちも田仕事に出ていた。
そこに数騎を従えた高助が領民達に声をかけ視察している。これは高助の日課にもなっている事なのだが、小田原からの使者が来るとは夢にも思っていない高助は、関宿城下を馬上で揺られ春の呼気を胸に吸い込みながら散策に勤しんでいた。
町屋を見まわり商船を抱える商家の船からの荷降ろしや、各地へ商売のために荷揚げする数十艘に及ぶ船を見て満足したように帰城の途に付いた。この関宿の河川流通で上がる運上銭は梁田氏の貴重な財源となっているため高助も関心を寄せており、後年北條氏康をもって一国に値する城とまで言わしめている。
そして城に帰りつくと家臣が転び出るように高助を城門まで迎え出た。
「如何したのじゃ騒々しい」
騒々しいと言われた家臣はそれどころではないとばかりに身振り手振りを添えて小田原からの急使が参った事を伝えた。
高助は何故に小田原から使者が来たのか見当も付かなかったが、そこは公方家の縁戚となった北條家のため急ぎ衣服を整えて使者の待つ客間へと向かったが、はて何事であろうかとの思いが出てくる。急使とあらば何か思いもかけぬ事が小田原で起こったのであろうか。
色々と脳裏を過るのだが一向に思いつく所が無い。まあ使者に会ってみればわかるかと思いを定めて客間の襖を開けると、そこには小太郎から指名された風魔の使者が折烏帽子に直垂姿で着座していた。
「小田原より遠路苦労であった、して如何様な知らせでござろう」
これに対し氏綱の使者は、使者の挨拶を告げた後は春の訪れ等を話の端々に入れて中々本題に入らない。ときに、と使者が呟いたのは四半時も過ぎたころであろうか。
「つい先だって、小田原に古河の公方様の御弟君晴直様を山内上杉家に養子に出されたと云う余り宜しくない噂が流れてございます」
これを聞いた高助が、余り宜しくないとの言葉に不穏な空気を読み取った。
しかし小田原殿からの使者がこう言ってくるということは北條殿がそう考えていると云う事だろう。しかし何故であろうか、足利家と上杉家との合体は関東の平穏をもたらすであろうに。
「先年北條家は公方家にお力添えして関東の内乱を治めようと扇谷の上杉家の江戸城を手に入れ、次いで岩付の城も手に入れ申したのですが、丁度そのころ山内上杉家で憲房殿が身罷りましたな」
公方家に力添えとは良く言ったもので、公方家に敵対していた山内上杉家と同族の扇谷上杉家をこれ幸いとばかりに北條独力で押し込んでいっただけなのだが、そこは頓着しない風魔の使者である。
「左様。それで高基様御二男の晴直様が御養子に入られました。これは室町様へも使いを出してお認め頂いたところにござる」
「扇谷家は、表向きは山内家の被官になってござるな」
「いかにも」
「ならば我が北條家と足利家は、山内家を挟んで敵対してしまう事になり申そう」
この言葉で高助は、古河公方家と梁田家の考え方と北條家の考え方の相違を付きつけられた。
公方家と上杉家は遠く遡れば同族であるため、全滅させることなく良い所で手を打つと云う事が応仁以前からのしきたりの様になっていたが、北條家の考えは公方家を頂点に、その他の勢力を徹底的に排除していく考えだったか。
これに思い着いた高助は異質なものに触れてしまった危機感を覚えた。
「しかし公方家と上杉家は縁戚の間柄、養子縁組は左程問題はないかと」
高助の言葉に不安の色が現れた事を感じた使者は尚もたたみかけた。
「その縁戚に甘き御家なれば長年の公方家と管領家の争いが絶えず、更には小弓の義明様までが独自の勢力を持つに至ったのではありませぬか」
関東各地の豪族が、公方の御旗を自らに味方させれば近隣を屈服させる事ができるため、あらゆる方向から利権の誘いがきている事は事実だった。その公方の血筋を身内に行き込めれば尚の事だ。下総の真里谷武田氏が義明を旗頭として担いで千葉氏と戦った後に、元々独立心の強かった義明が、千葉氏から奪い取った小弓を本拠として本家古河公方家を追い落とし、自らが公方としての実権を握る野心を持ったのが小弓公方の始まりである。
「氏綱様に於かれましては、此の度の公方家管領家の縁組は破棄されて然るべしとのお考えでござる」
「そ、それは」
高助も事は公方家にかかわる重大事なので即答できずにいると、返答は暫くお待ちいたしましょう。その間ちとこの関宿の地に逗留させて頂きたい。と提案してきたため渡りに船とばかりに高助は了承した。
これは高助に猶予を与える形を採っていたが、その実は風魔の諜報活動をこの関宿の地でやりやすくする為の方便でもあった。
そして高助。
これは事が重大になったぞと急ぎ下河辺の庄は古河の地にある古河城に赴くため馬上の人となった。
事の意外な大きさに少なからず当惑していた高助は、既に養子として上杉家に入る準備をしているだろう晴直と高基に、どのように報告するかを考えていた。
周りの春爛漫の風景に一人取り残されたような深刻な表情を浮かべながら古河城付近まで来ると、高助と同じく稲宮八郎佐衛門と諏訪三河守が城に出仕するところだったらしい。
二人ともに馬に揺られながら複数の家臣を連れていた。
「これは梁田殿、これからお城に赴かれますか」
下河辺より西の郷の稲宮の領主(現在の古河市稲宮)稲宮八郎佐衛門が声をかけて来た。
「如何なされた、顔色が優れぬようですが」
諏訪三河守が高助の深刻な顔を不安げに見ていた。諏訪三河守は八郎佐衛門の領地を隣り合っている小堤の領主だ。(現在の古河市小堤)
この二人もたまたま出仕の刻限が一緒だったので同道していたのだろう。
「これは稲宮殿と諏訪殿か」
高助も一応は声をかけたものの後が続かない。
「如何された、日頃の梁田殿とは何とのう感じが違うようじゃ」
諏訪三河守が心配そうな顔を向けた。
「お二人とも、大事が出来してござる。城に着いてからちと御相談したいと思う」
古河足利家奏者の口から大事と聞いて、二人ともに否応なく緊張が走った。
「何かあり申したか」
三河守が問うが、まずは城へと二人を伴い古河城へ入っていった。
登城後、高基の御座所へと向かい、緊急の事もあって参内のあらゆる形式を省略して高基と対面し、同時に晴直も人を使って呼びにやった。
「高助、急ぎの用件等と申していかがした」
水干姿の高基が奥から現れると、同僚二人を伴って登城してきた高助に声をかけてきた。
小姓も連れずに独り歩いて来た所を見ると、危急の参内と伝えられていたための、高基なりの演出だったかもしれない。
「先ほど我が関宿の城に小田原北條家からの使者が参りました」
「ふむ、晴直の上杉家養子縁組の祝いにでも参ったか」
高基も小田原からの使者の意味が分からないようである。
高助がなかなか切り出せずにいると、諏訪三河がどうなされた高助殿。と声をかけた。
するとその声に後押しされたかのように高助がようやく口を動かし、「残念ながら諫言の使者でござった」そうぼそりと吐露した。
一瞬の沈黙が訪れた後、諏訪三河が一言声を出した。
「諫言の使者と」
高基と稲宮、諏訪の三人は諫言とは何事ぞ。と真意を測りかねているようだ。
「仮にも足利基氏公より続く鎌倉の公方家の血を引く上様に対し奉り、身分も弁えず諫言するとはいかな事か」
稲宮八郎佐衛門が高助に問いかけると、高助は苦渋に満ちた顔で先ほどの小田原よりの使者の口上を三人に説明を始めた。
「北條殿が申すには、公方様をお助けするために先ごろ江戸と岩付の城を攻め、山内の臣下になった扇谷の上杉家を攻め申し、その城代である太田資頼を石戸の城に追い落とし仕ったとの事」
「それは存じておる。敵対する上杉家の勢力を削ぎ、我が足利家に向いていた目を北條家に向けてくれたようじゃの」
「いかにも」
「しかしその敵の大将、上杉憲房が身罷り我が足利家の血を上杉家に入れたいと申してきたのじゃ。いまだ小弓の義明が何かと兵を出してくる故これは敵を小弓の一つとする又と無い好機ではないか」
「北條殿が申しているのはその養子縁組の事でござる」
「何故にこの良縁が諫言になるのじゃ」
「北條家はつい先ごろ公方様と同族になった新参故、足利家と上杉家が同族故の縁組での政略を知りませぬ。よって我が敵となった上杉家と縁組をするとは如何な了見かと問うてきておる次第」
「ならば北條殿にその謂れを教えて進ぜれば良いだけではないか」
ここで高助は使者から伝えられた氏綱の本心を吐いた。
「公方家はその縁戚に甘き事をする故長年公方家と管領家の争いが絶えず、新たに小弓の義明様という難敵を抱えてしまったのだと云っております」
ここまで聞いて稲宮八郎佐衛門は顔を赤くして怒り出した。
「なんと恐れを知らぬ妄言を吐く奴輩よ、公方家をなんと心得るのか」
「いかにも、それではこの関東の戦乱の元は公方家にあるとでも言いたげではないか」
諏訪三河守が稲宮に合わせるが、言いえて妙。まさにその通りなのではあるが、それは当事者には分からない事。
「しかし如何する、北條家の力はこれからも我が足利家には必要なものじゃ、そして山内上杉家も取り込む好機は捨てがたい」
高基も北條家と事を構えるのは避けたい。でなければ二方面ではなく三方面から事を構えなければならなくなるのは自明の理。
丁度そのころ晴直が幾人かの家臣と共に参内してきた。これ幸いと、事の次第を高助から説明されると晴直も顔を少々青ざめさせたようだ。
「高助、儂は上杉へ参らぬ方が良いのか」
若い晴直は率直に高助に頼る。これを見た高基は良い顔はしないのだが、かといって自らも良い案があるわけではないので沈黙していると、倅晴氏が何時ともなくやってきており話に加わって来た。
「晴氏、そなた何時からそこに居ったのだ」
高基が問いただすと、父上への御機嫌伺いに参ると既に梁田、稲宮、諏訪の三人が深刻な顔をして父上と話し合って居ったので声をかけ辛かったのだと云った。
「この晴直の上杉家への縁組、既に室町様の御了解を得ておる事。ならば我らの一存で取り消す事などできぬ故、憲房殿の一子が元服するまでは納得せよと言い渡せば良いのではないでしょうか」
この晴氏の一言で高助は救われた。
「その手があったか。それは良い。早速その言上を北條殿の使者に伝えて参りましょう」
高助の顔には重責を払拭できる事への幸喜の色が浮かんだが、晴氏は冷めた目で見ていた。
こやつら莫迦ではあるまいか。良いように北條に使われ始めておるわ。と心中思うのだ。が、自らの室も北條氏綱の息女であり、仲も睦まじい。叶うものなら室の芳春院が北條家の出でなければ良いと思う事が幾夜もあった。しかし江戸、岩付を落とした北條家の伸長はどうしても晴氏には快事とは思えなかった。
晴氏の冷徹な眼差しに不安を覚えた高助が、晴氏に問いかけると再び思いもかけぬ言葉を吐いた。
「高助、北條の義父殿はまこと我が足利家のために江戸、岩付を攻めたと思うのか」
「晴氏様、北條殿は晴氏様の義父上様で御座いますぞ、足利家にも良いように振舞われましょう」
やはり莫迦か。せめて父高基には同意してほしかったのだが、高基がこの時採った行動は、「晴氏、控えておれ」の一言だった。
この晴氏の言葉を真剣に受け止めたのは、ここに同席していなかった今年十九歳になる高助の倅で後に晴氏の奏者となる晴助のみだった。
この僅かな父子の感覚のずれが後々大きな溝になることには此の時誰も気が付いていない。
そして北條家への方針が決まったことで安心した高助は、ゆるゆると馬をうたせて関宿の城に帰り北條家の使者を懇ろに馳走して言上を伝えると、その使者が小田原へ帰り古河足利家の返事を氏綱に伝えた。
氏綱は思うところがあったのかそれを聞いたが沈黙したままだった。
後日上杉家と足利家の縁組の式も終わり、正式に晴直が上杉家の当主となり、名乗りを上杉憲弘と変えて暫定の管領家当主となったおかげで、公方家との諍いが無くなり久方ぶりの平穏が関東を覆う事になる。
その縁組から暫くして扇谷上杉家の家臣で元岩付城主、太田資頼が武蔵は松山城城主(現埼玉県比企郡吉見町)の同じく扇谷上杉家臣、難波田憲重(弾正・法名は善銀)と共に祝いの使者として古河城にやってきた。
「これは弾正殿と美濃守(資頼)殿」
声をかけたのは久しぶりに難波田憲重を見た高助だ。
この難波田氏は平安の昔から武蔵に勢力を張った武家、武蔵七党の一の村山党は金子氏を祖とした豪族で、武蔵国の難波田(南畑とも:現埼玉県富士見市大字上南畑・下南畑)に居を構えたことから難波田を名乗るようになった。そして難波田憲重は、その名の由来となった難波田の地にある難波田城と松山城の二城の主に納まっている。
このうちの難波田城は、現在は殆どが住宅地となっているが、当時の半分の規模ではあるが城址公園となって整地され、富士見市民の憩いの場となっており、遺構も残ってはいる。が、北條氏に併呑された後に整地拡幅されたようで、此の当時とはだいぶ違っているだろう。
「梁田殿、お久しゅうござるな」
相好を崩した憲重が高助に快く声をかけた。
憲重の風貌は、風流人として名が通っているわりには見た目が武人然としており、しかつめらしい顔をしてはいるが笑った顔はどこか人懐こさを感じる。
「此度は足利家と上杉家との縁組の、目出度く存ずる。ようやく武蔵の戦乱が治まる事は嬉しき事にござる」
「左様よな。足利家と上杉家とは長らく争ってきたが、事ここに至ってようやく平穏が訪れたか」
「しかも敵味方にあらず、ですな。まこと良き具合になったものでござるよ」
この三人、今までは戦場で相まみえるか主家の使者として行き来する程度で、ついぞ今日の平和裏の使者として会った事はなかった。
故に「お久しゅう」等と言われる関係でもないのだが高助、憲重の顔につい引き込まれた。
「して、本日は如何様な御用で参られた」
「いやなに、如何様な、等と畏まった用事では無いのだがな、ほれ、こうして儂と同道して来た太田の資頼殿がの、祝いの参内に一緒に参ろうと言われるものでこうやって参内した次第」
なるほど憲重の隣には資頼がいる。
高助に一瞥をくれ、こちらも相好を崩し辞儀をした。
「此の度は足利家、上杉家の縁組まことに目出度き次第。資頼心よりお祝い申し上げる」
「これは丁重な挨拶いたみいる。しかし先ごろは太田家にとっては辛き時にござったな」
「はい。只今は石戸の城に籠りおる次第」
「しかし扇谷の上杉殿には覚え目出度き美濃殿と弾正殿が共にこの古河の地に参られたのじゃ、心よりの馳走致さねばなりますまい」
難波田憲重に惹き込まれた形での挨拶のあと、古河城は客殿に案内されて公方高基と晴氏に参内した。
一通りの祝賀の言葉を述べられ無事に祝賀参内を済ませると、高基、晴氏が退出した入れ替わりに酒肴が運ばれる。
「これは古河の酒でござるか」
憲重は顔に似合いかなりの酒好きらしく、酒盃を旨そうに舐めている。
「よい土地には良い酒があると聞きまする。古河の地は余程良い所なのでしょう」
資頼が憲重の酒の癖にあわせて古河を持ちあげた。自らに繋がりのある所を持ちあげられると悪い気はしない。高助も上機嫌で杯を重ね、宴も佳境に入って行った。
そして資頼が江戸の状況を高助に話し始めた。
「某の伯父にあたる江戸の資高殿は先の北條殿の江戸攻めの折、北條殿の調略に乗せられて寄せ手に与したのですが、今の江戸の城代は富永とか申す者が入っておる様子」
「漏れ聞く話によると資高殿が江戸城主に納まる約束だったとか」
憲重が相の手を入れた。
「いかにも。正しく北條殿に体よく騙されたようなものにござる。その後岩付の我が城までも北條殿に落とされた申した」
それはお気の毒とは言ったが、高助は次に資頼が何を言い出すのか気になった。
「本来ならば我が岩付太田家は江戸太田家を恨むのが理なのじゃが、資高殿から隙あらば北條を見限りたいとの知らせが届いておるため恨みきれぬのも実情」
「高助殿」
名を呼ばれた高助が資頼を見ると、意外にも酒に呑まれた風の目をしていない事に気が付いた。
「如何された」
「今日この古河の地に弾正殿と参ったのは祝賀参内もあるが、本来の事を話そう」
急に居住いを正して高助に向き直った。
「梁田殿、北條殿の縁戚となった古河公方家の奏者と知っての上でのお願いにござる。我が太田家に力をお貸し下され」
高助殿から梁田殿に呼び方を変えた。
「どういう事にござる」
難波田憲重も資頼の援護をする。
「高助殿、儂もここ数年来の北條家の動きには我慢ならぬものを抱えておったが、公方家との縁組がなされ、更には山内上杉家の棟梁に公方家の血が入り申した。これでは武蔵の東を盗られた山内の被官となった扇谷家の立つ瀬がないのじゃ」
「ここ数年来の北條家の武蔵浸食は、行く行くは公方家、両上杉家を併呑しようとの心底見えまして御座いまするぞ」
これは北條家を裏切れとの使者だったか。しかし未だ小弓の義明は古河に対して出兵を繰り返している。海を隔てた相模から上総・安房方面に兵を出せる北條と、今ここで手を切るのは避けたい。
「それは大事よな。その大事ゆえ即答は出来かねるのぅ」
高助が出した答えだった。
少々落胆したかのように目を畳に向けた資頼だったが、すぐに顔をあげ高助を見た。
「まず今すぐとは行きますまい。しかし何れ北條殿は公方家の脅威となりましょう。その時は手に手を取り合うて行きましょうぞ」
「その時はこの難波田憲重も力をお貸し致しましょう」
この時の三人の酒宴は数年後に歴史を刻む事になる。