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関東騒乱(後北條五代記・中巻)  作者: 田口逍遙軒
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平井落城

 長く越後に続いていた混乱が収束に向かっていた。

 まずは越後の内乱を説明しなければならないので、少々長くなるが付き合って頂きたい。

 越後は上杉房能ふさよしが永正四年に景虎の父、長尾為景に攻められ自刃したことから内乱が始まった。しかし為景は、後の関東管領上杉顕定を討ち取るのだが越後一国を平定することができなかった。いや、これによって越後国中の土豪国人が蜂起し、越後内乱を拡大したと云える。

 為景は越後守護職に上杉定実をつけて傀儡とすると、それから暫くは内乱も燻っていた状態だった。

 そのような中、天文十一年に長尾為景が没しその家督を長尾晴景が継ぐことになった。

 為景が死去した同年、越後守護上杉定実が幼名を時宗丸(伊達実元)と云った伊達稙宗たねむねの三男を婿養子に迎えたことが切っ掛けで再び大きな内乱が始まった。

 その内乱を鎮めようとした守護代長尾晴景だったが、国内を鎮める器量を持ち合わせていなかったようで、天文十三年に守護代晴景の弟、景虎が謀反を鎮圧する事に成功するまで約二年間、越後の内乱は続いた。

 このとき景虎十五歳。後年栃尾城の戦いと言われた合戦なのだが、それが景虎にとって初陣となった。

 この偉業を見た越後の国人領主達は、兄晴景は頼むべき人に非ず、弟景虎こそ頼うだる人とすべしと考え、景虎擁立の動きを始めてしまった。これも内乱の一つなのだが、国内を治める事が出来ずに無為に日を過ごしたツケが晴景に回って来たと言って良いだろう。

 景虎初陣から一年後の天文十四年に入ると、黒田秀忠が謀反を起こし春日山城まで攻め込まれる事件がおこり、景虎の兄である長尾景康が討たれた。

 これに動く事が出来なかった兄晴景に代わり、守護識上杉定実から総大将として討伐を命じられた景虎は見事に秀忠を降伏させる事に成功するのだが、黒田秀忠は翌年の天文十五年に再び兵をあげた。

 これを景虎は二度とは許さず黒田秀忠を討ち滅ぼした。

 結果、この景虎をこそ祭り上げるべきと国人の半数が景虎を擁立、兄晴景の守護代退陣の要求が活発化して行った。

 この時から晴景、景虎の仲は目に見える程に険悪化する事になる。

 これにより晴景には長尾政景、黒川清実が付き、景虎には直江実綱、中条藤資、本庄実乃、長尾景信、高梨政頼等が付く事になった。まさに越後国内は一触即発の状態になっていったのだ。

 これを憂えた上杉定実が急ぎ両者の調停に手を砕き、説得を繰り返す事によって兄晴景が折れると、両者はようやく矛先を治める事になる。

 この調停の条件にあった、景虎を兄晴景の養子とすると云う一文から、景虎は守護代長尾家の家督を相続する運びとなった。

 さらに時は流れ、天文十九年十二月三十日、越後守護職上杉定実が後継ぎを残さず死去した。守護不在は越後国内の内乱を助長する恐れがある。このため急ぎ室町将軍足利義輝に使者を出し、景虎が越後国主の地位になる事を認めさせる事に成功。

 このとき景虎十九歳、越後国主、守護職長尾景虎の誕生である。

 その後天文二十年までにこれ程荒れていた越後の内乱の平定を、長尾景虎は僅か二十二歳の若さで成し遂げていた。

 越後に住む龍が世に出た瞬間であった。



 さて一方の管領上杉家であるが、天文二十年までには管領上杉家の家臣が分離し、上杉家に残留する者と北條家へと離反して行くものの旗色が鮮明になったのは先の通りである。

 同じくこの年から北條・武田・上杉の三つ巴の戦乱が始まる事になる。

 その年は年末晦日から正月にかけて暗雲が空に張り付き、河越にも雪が降りしきり辺り一面を白銀が覆う程の悪天候が続いている。昨晩から武蔵野一面に降りしきる雪をひたすら吸い続けた地面は既に凍結し、雪を重ね続けた関東平野では珍しく膝近くまでの降雪を見た。

 その雪に埋もれた河越城では、評定の間に重臣達が集まり武蔵の御嶽城(現埼玉県児玉郡神川町渡瀬)に籠る上杉方の安保氏を討つべく軍議が重ねられていた。

 この安保氏、本性を多治比氏と言われ、家祖を安保実光とする武蔵は賀美郡安保郷(現埼玉県児玉郡神川町)に本貫を持った武蔵七党の一、丹党を構成する一族である。

「小太郎、賀美郡の安保全隆だが、我が方に靡く気配はあるか」

 同地の調略方を任せられている風魔一党ではあったが、流石に上杉氏の本拠に近い阿保郷では思うように調略が進んでいなかった。

「全隆の籠る御嶽城は憲政殿の居城平井の城に近く、憲政の肝煎りの城となっておりまする故、我が方に靡かせるのは至難かと思われまする」

「左様か」

 小太郎の言葉が終わると、同席していた北條綱成が御嶽城の縄張りの説明をはじめた。綱成は河越城在城のときに、武蔵の各城の縄張りを調べた経験があった。

「賀美郡の御嶽城、これを抜けばそこより北に二里程にある管領憲政殿の平井の城は裸同然になり申す。その御嶽城は左程大きな縄張りとも云えぬ城、一気に攻め寄さば苦も無く攻め落とす事が出来申す」

「やはり力攻めになるか」

 氏康は御嶽城の力攻めに一抹の不安を覚えていた。

 衰えたりとはいえ、関東に根を張る管領上杉家を滅ぼす事は、古河公方の保護者という名目と河越の戦で公方を惑わした大逆人を討つとしての大義名分を打ち立てても、広く関東の豪族達には受け入れ難いものがあるものだ。

 幾許かの沈黙が訪れた。

「御屋形様、如何された?」

「いや、なんでもない。続けよ」

「まず御嶽城は北西から南東に伸びた山の峰と、その中央から西南に伸びた峰を曲輪とした三方に伸びる峰を持った城にございまする。その峰を幾つかの堀で切り離して各曲輪としておりますが、左程人数を詰める事が出来る城にはござらぬ故、その山肌の急峻さを克服できれば容易く落とす事が出来ると思われまする」

 ただ、と続けた綱成。

「この御嶽城の後詰が平井の城からやって来た場合は城とその側面からの二方向から攻められる事になるので、一隊を城に、もう一隊を神流川に向かわせ憲政の後詰に当たらせる事が肝要かと」

 綱成の御嶽城攻略の方策を聞いてもまだ渋い顔を見せる氏康を見た幻庵が、御屋形様、と呑気な雰囲気の声をかけた。

「叔父上」

「難しい顔をされておられまするが、管領家の対応をお考えでございますかな」

 降りしきる雪の中での陰鬱な評定の間も、幻庵の声を聞くと不思議と和む。

「左様にござる。この舵取りは難しゅうございまする」

「ほっほっほっほ」

 相変わらず間の延びた笑いに、評定の場からはつられた笑い声まで出すものが居た。しかし今回は柔和な顔に似合わず続いて辛辣とも云える言葉を吐いた。これは愈々管領家を滅ぼす刻が来た事を氏康に覚悟させる為だったのだろう。

柔和な顔をきりりと引き締めた幻庵、「御屋形様は御心が優しゅうございまする」と言うと再び柔和な顔に戻った。

「左様でござろうか」

「御嶽城は左程大きな縄張りを持たぬ城のようにございます。しかしこの城、憲政にとっては平井を守るための盾にございましょう。したが見方を変えれば喉元に突きつけられた刃にもなりましょう」

「うむ、故にここを自落させられれば平井の憲政とも戦わずに落とす事が出来まいかと考慮しておるのです」

 幻庵は大きく頷いた。

「管領殿を無傷で手の内に入れる事ができれば関東計略がやり安かろうと存じます。しかし安保全隆は北條に与するを良しとせず城に籠りおるのです。これは憲政殿の意を酌んだものにございましょう。故にここを攻め始めれば平井の憲政も出て来ることになりましょう。また管領家である上杉家が室町の仕組みの上では臣下である北條の家に降伏する訳にも参らぬでしょうなぁ」

 しばし言葉を途切らせた幻庵だったが、一言断言の言葉を吐いた。

「古き権威は討たれる事が宿命」

 この幻庵の一言で氏康の意は決した。調略に寄って降伏させられぬのであれば一挙に屠る以外手は無い。

 幾許かの逡巡の後、氏康の口が開いた。

「叔父上、よくぞ後押しをしてくれた。この氏康、最早管領家への調略は必要無しと決しましたぞ」

「ただ」と幻庵はこの戦の危うさも解いた。

「管領の家を滅ぼすと云う事は、その後が大事ですぞ。この戦が成ったら即座に古河の晴氏様から梅千代王丸様へと公方家の家督を譲られるよう手配をする事が肝要」

 氏康は河越の戦の後に、古河の公方晴氏と芳春院の間に生まれていた梅千代王丸、後の足利義氏を小田原に庇護していた。

 これが予想を超えて早めに働きそうだ。

 河越夜戦から既に実力を持たなくなった足利晴氏は北條家の圧力に屈している。これをさらに傀儡とするために梅千代王丸を小田原に引き取り頃合いを見て公方に据える考えであったのだが、なるほど今が丁度よい頃合である。

「うむ、流石は叔父上じゃ。御嶽城へ攻め入ると同時に古河へ早速の使者を使わせましょう」

「なれば今より兵を整え、阿保に息を吐かせぬ程に御嶽城に攻め寄せる事が肝要」

 この評定を終えると、雪の降りしきる中を河越から松山、花園、天神山の各城を行軍し、その道々の城から兵を糾合。御嶽城に到着する頃には北條軍の総勢は二万に近く膨れ上がっていた。

 元上杉方だった三田氏、藤田氏、大石氏、那波氏、小幡氏、赤井氏等の地元勢とも云える人数が味方先鋒と成ったためでもある。

 このうちの藤田氏は昨年氏康の四男、乙千代丸(おとちよまる:氏邦)を養子として迎えていた。

 正月も半ばになり愈々御嶽城攻めが開始されると、北條方は総勢を二手に分け、御嶽城に充てる一隊とは別に平井からの後詰に充てる一隊を神流川に差し向け、憲政勢の後詰を神流川に押しとどめる軍勢とした。

 これで憲政の後詰の心配をする事無く攻城勢は御嶽城を攻め登る事が出来、次第々々に曲輪を切り取って行ったのだが、この北條勢寄せるの報を受けた憲政勢が急遽御嶽城後詰に現れた人数は予想以上に多かった。

 長野信濃守、曽我兵庫介、金井小源太、安中越前守、白倉、沼田、厩橋、新田、佐野、足利、渋川、大胡、山上、後閑、長根と云われる諸将が管領憲政勢に加わっていたとされる。

 この軍勢が神流川押さえの一隊に猛攻を加えはじめると、意外な程の憲政勢の勢いに押され始める事となった。

 地の利が憲政勢にあったのだろう。

 遭遇戦から数刻経った頃、敵陣と切り結んでいた綱成が気付いた時には、既に味方は数町も押されており、中には勝手に落ちる者までいる始末。

「者共汚し!これしきで逃げだすとは北條の名折れ!返せ返せ!」

 父綱成の叫びを聞いた善九郎康成(氏繁)が手勢を率い、嵩にかかって寄せて来た憲政勢を切り崩しはじめた。このときの康成十九歳、父黄八幡佐衛門の血を見事に受け継いでいたようだ。

 そしてこの状況を見た氏康は、温存していた幻庵宗哲の一隊と北條伊賀守綱房(福島弁千代)の一隊を差し向けるのだが、両軍の均衡が破れない状況に焦りをみせた。

「藤田と大石の一隊を以て左右から突かせよ!」

 二手に分かれ憲政勢を挟むように展開して行く藤田と大石の手勢が広がりきる前に綱成、康成親子の手勢が押され始め、幻庵宗哲の手勢も支え切るのが難しくなり始めた。

 数で押されている。

「綱成親子を討たせるな!馬引け!」

 氏康本隊が愈々投入されようとしたとき、ようやく藤田と大石の手勢が左右に展開を済ませることができ、憲政勢にどっと押し寄せて行った。

 これにより管領憲政勢は攻勢が一転。支える事が難しくなり、総崩れとなった。

 我先に平井の詰城に退却して行く憲政勢を見た氏康は、珍しく頭に血がのぼっていたのか追撃の命令を下した。

「城攻めの兵を残し全軍を纏めよ!これより追い打ちする」

 敵の崩れを好機とし、氏康は神流川押さえの一隊をすぐさま纏め上げて平井の詰城に寄せたまでは良かったのだが、自軍の手負いも多く、全軍を投入していたので全ての兵が疲れていた事を考えていなかった。

 そんな中、氏康本陣まで走り寄って来た者がいた。

「御屋形様」

「叔父上、どうされた」

 本陣に騎馬で近寄って来た者は僧衣の武者、幻庵宗哲だった。

 颯っと馬を下りるとそのまま氏康に近づき一礼し、「この戦、ここまでにございましょう」とにこやかに語りかけた。

「最早兵も疲れ切っておりまする、ここは一度兵を退く事が肝要にございますぞ」

「叔父上」

 この幻庵の提案に自らの頭に血が上っていた事を悟った氏康。詰城平井金山城を見ながら大きく息を吐いた。

「ははは、この氏康、危うく自らを見失うところでした。この戦、ここまでにございますな」

「左様、今日より暫くすれば憲政は自滅致します」

「はい、今はこれで充分にございました」

 この後、北條勢はあっさり小田原まで陣を退きあげた。

 しかしこれは憲政を油断させる一手であり、再び北條勢に窮地に立たされた事による管領の権威を失墜させ、寄子とも云える上野下野の大名豪族達を憲政に付いても利無しと思わせるための時間稼ぎの策でもあった。

 そして傷も癒えた七月、再び小田原から軍勢を催し電光石火御嶽城を包囲すると、正月には相当数集まったはずの上野下野の豪族地侍達は粗集まらなくなっていた。これは思惑通りである。

 いまだ傷が癒えて無かった事と、北條に敵するに利非ずと考えた者が多かったのだ。

 憲政の後詰も期待出来なくなった安保全隆の詰める御嶽城は、天文二十一年まで包囲されたところで降伏開城し氏康の軍門に下る。

 これによって平井の城は裸城となり、憲政の敗北は決定的となった。

 その平井の詰め城で落ち着き無く歩き回っている者が居た。

「上原兵庫は居らぬか」

 奇声を発したのはその城の主人、上杉憲政だった。

「御屋形様、如何されました?」

 標高の一番高い一の曲輪物見矢倉に居た憲政の元に三田五郎佐衛門がやって来た。

 どうやら憲政の奇声に呼ばれた訳ではなさそうだ。脂汗をかき顔色も真っ青になっている。

 しかし憲政はそれに気付かない様だ。

「おぉ五郎佐衛門(三田)か、兵庫を見なんだか?」

「いえ、見ておりませぬ。」

「ならばそちで良い、御嶽城が落ちたとは真か?」

「はい、昨夜半、城主安保全隆が降伏開城し、北條勢が城を受け取ったとの事にございます」

「なんと、真であったか。この様な時に兵庫は何をしておるのだ」

 憲政は地団太を踏むように落ち着きなく動いている。

「御屋形様、既に上原兵庫殿は城には居られませぬ」

 この言葉にぱっと顔を輝かせた憲政、「されば早速北條勢に向かい手勢を繰り出したのか?」と上原兵庫の活躍に期待をした。

 これに呆れながら答えた五郎佐衛門。

「上原兵庫殿は既に城を抜けだし逐電し申した」

 五郎佐衛門の言葉の意味を理解できなかったのか、憲政は阿呆のように口を開いたまま固まっている。

「御屋形様の頼りにされていた上原のみならず、菅野大膳も出奔しておりますぞ」

 目だけをきょろきょろと動かす憲政を尻目に、それだけにはあらずと続けた五郎佐衛門。

「箕輪の長野業正殿、それに安中長繁殿が離反、他にも馬回りの衆も既に城を落ちておりまする。最早城に残っておるのはそれがしと曽我祐俊、本庄宮内少輔のみにござる」

「長野の爺が離反したと?」

 聞こえぬ程のか細い声を出した。

「では五郎佐衛門、そちの手勢を持って城を固めよ。この詰め城ならば一年や二年は持ち堪えよう」

「何を言っておられます、今この城に残るは僅か五百程の人数にございまする。一年持たせる等とてもの事にございます」

 憲政は小刻みに震えだし、そしてすがる様に五郎佐衛門の腕を掴み、「なれば如何にすれば良い?」と最早自らの頭では目の前の状況を処理しきれぬようになっていた。

「この城を落ちて何処かの者に庇護を受けるが宜しいかと。まずは足利の長尾殿か横瀬成繁殿に使者を送ります故、返事が来るまでは暫し籠城にて辛抱して下され」

「さ、左様か。ならば早速に使者を送れ。しかし北條の軍勢はその間に攻め寄せる事は無いのか」

「それは分かり申さぬ。攻め寄さば押し返すまで」

 しかしこの使者が向かった足利長尾氏は、その領地を北條方が押さえており憲政を受け入れる余裕がなかった。また太田金山城の横瀬成繁は先ごろ北條に靡いた那波氏と赤井氏に挟まれ、こちらも憲政を受け入れる状況にない。

 結局は北條勢に城を囲まれたまま三月に入ると、ひっそりと城を抜け出た憲政、まずは上野の北部の土豪を頼り落ちて行った。

 平井城が落城してからは、先の長野業正、金井小源太以外にも、続々と北條方に靡く豪族国人達が続いた。


 さて、平井攻めが落ち着いてすぐ、小田原から古河の城に使者が到着していた。

 河越の戦の後は関宿城に居る奏者梁田氏を通す事無く、直接北條家の使者が公方に目通りが出来るようになっていた。

 これは敗者としての公方の北條家に対する立場の低下と、梁田氏の北條家への家臣化が急速に行われようとしていた事に由来する出来事でもある。

 古河城謁見の間では御簾の奥に座る公方晴氏を見据えている氏康の使者がいた。

 その使者とは古河公方家の一族の出である禅僧で、芳春院と義氏の奏者となっていた瑞雲院(後の芳春院)周興である。

 河越の戦の後に氏康から特に認められて北條家と公方家との橋渡しとなっていた。

「上様にあられましてはご機嫌麗しく」

 禅僧上がりの坊主である周興、黒衣を纏い晴氏の前で恭しく平伏していた。

 もちろん晴氏は、この周興が芳春院の奏者の立場から、北條家との窓口となり始めた事も知っているため、今日のこの使いとしての周興を快くは思わない。

 むしろ北條家の権威を後ろ盾にし始めた事もあって晴氏にしてみれば目の上の瘤のような存在になりつつあった。

「機嫌など麗しゅうは無いわ。本日は何用で参ったのじゃ」

 この周興、細面だが顔になかなかの癖が有る。特徴のある顔の他にも笑い方が面白い。掠れた様な息の抜き方で笑うのだ。目つきも目じりが下がり隈の様なものも生まれつきあるようで、いつも上目使いで人を見る様な雰囲気があった。

「これはこれは。今日は北條殿の使いでこの周興、お目通り願いましてございますぞ」

「そのような事はわかっておる。しかし儂に目通りするには中務大輔(梁田晴助)の奏上が必要じゃ。中務はどこに居るのか」

 ここで周興は掠れた笑い声を発した。これは不快な笑いではなく、どことなく聞くものの笑いを誘う様な響きを持っている。

「上様、今更何を言われておられるのです。中務殿は関宿の城にて謹慎中にございましょう」

 晴氏はこの言葉が癇に障ったかのように鼻を鳴らした。

「上様、既に古河足利家に力は無くなり申した。最早公方の名の元に北條家に弓引く者はこの関東にはおりませぬ。なればここは暫く大人しくなされたが良かろうと存じますが」

「して、氏康はどの様な事を申してきたのじゃ」

 垂れた目をちらりと晴氏に向けると、「此の度の北條殿の注文はきつうございますぞ」と覚悟を決めさせるかのように言葉を吐いた。

「まず氏康殿は、先ごろ古河公方家の御仇である管領山内上杉憲政を追い落とし、関東における禍根を討ち払いました。まことに目出度き事にございます。これに対して公方様より感状を賜りたい事が一つ」

「感状じゃと」

 晴氏にしてみればただの当て付けであるが、これを氏康に下賜する事によって正式に公方家からの管領追討になるのだ。

「更に、この様な書状も届いております故、どうぞご披見下されたく」

 周興が差し出した書状は先の河越での戦の折、何故に上杉家の味方となり北條家の河越城を攻められたのかと云った内容の『公方様御振舞無其曲奉存候(公方様の御振舞いは曲がった事が無いと存じ奉り候)~』から始まる辛辣な文章で晴氏の行動を責めていた。

 その書状を晴氏が読み終わるまで微動だにしない周興に対して、晴氏は読み進めるうちに顔色が青ざめ手の震えが大きくなっていった。

「周興、我が足利家は最早北條家の風下に立たねばならぬのか」

「時勢にございます」

「口惜しいぞ、我が足利の家に対してこれ程の物言いをする氏康。河越での油断さえ無ければ」

 ぎりぎりと歯を鳴らす晴氏に周興は、「まだございます」と晴氏に最後通牒とも云える致命的な伝言を言い放った。

「北條殿は上様の嫡男、藤氏様をご廃嫡なされ、梅千代王丸様を公方家の家督とされる事、今一つは晴氏様は公方をご退位遊ばされますようにとの事にございました。御覚悟なされませ」

 この事に衝撃を受けた晴氏は、御簾の奥でがくりと肩を落とし、呆然自失となった。

「北條殿がこれ程事を急ぐのは今月(三月)二十一日、ご長男新九郎様が病没されたからにございましょう。北條家としては期待していた後継ぎを十六歳で失ってしまった為に関東の仕置きを急がれておるのでございます」

 周興はそこまで晴氏に伝えると、深く平伏した後、そっと御簾の前から立ち去って行った。

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