砥石崩れ(二)
天文十九年七月十日、諏訪西方衆らは信濃守護、小笠原長時と結び反武田同盟を作り上げていた。初夏もそろそろ真夏の勢いを持ち始めた頃である。
甲斐府中に於いてこれを知る事となった晴信は、反武田同盟が兵を挙げる前に自らが急ぎ兵を集め、躑躅ヶ崎館から出陣して小笠原長時らとの対決姿勢を現した。
この武田方の素早い動きに対して諏訪西方衆と結んだ小笠原勢も急ぎ兵を興し、塩尻峠に陣を敷いたのだが、しかしこの小笠原の動きを知った晴信は何を思ったのか、躑躅ヶ崎館を出たものの甲斐から出る事もなく行軍を止めてしまっていた。
八日を過ぎた十八日になっても甲斐の国から出る素振りを見せる事は無かった。
「晴信め、我らに恐れをなして二の足を踏んでおるようじゃな」
とは小笠原長時である。
塩尻峠に張った陣中で諏訪西方衆と共に軍議の席を設けていた長時は、信濃守護職という古い権威に生まれついた為か、敵対勢力を過小評価する癖があった。
「我らの人数に恐れをなしたのでございましょう」
「この峠を押さえてしまえば武田方に攻め入る隙はありますまい、最早この戦、勝ったも同然にござる」
長時の近従達も世を正確に見抜いている者も少なく、諏訪西方衆も晴信憎しで長時に同調した軍議となっていた。
一方、動きを見せぬ風の晴信だったが七月十八日の早朝、突然出陣のふれを出すと密かに軍を進め、十九日までに上原城に入城した。
この武田軍の密かな行軍は小笠原勢に漏れる事無く未だ武田は甲斐の国にあると信じていた小笠原勢は油断しきっていた状態であった。
どうやら晴信はこの油断を待っていたようだ。
同日、上原城から武田勢が出陣、武田信繁が先陣となり塩尻峠に攻め込んだ。
まさか武田勢が目と鼻の先に布陣していたなどとは夢にも思わなかった小笠原勢は混乱を極め、五千の兵の内千余名が討ち死にしたと伝えられている。
武田の蹂躙を恐れた小笠原長時の林城が自落。長時本人も何処かへと落ちた。
これにより信濃の約半分を制した事になった晴信、二年前の上田原合戦の雪辱を晴らすべく村上義清の出城であった小県郡にある砥石城に軍を進めた。
ちょうどこの時、義清は北信濃の高梨政頼とそれが籠る中野小館で対陣している最中だったので、この隙をついての砥石侵攻でもあった。
砥石城とは現長野県上田市上野にある山城である。元々は真田氏が築城したとされている城(砦)なのだが、天文十年に真田氏がこの地を追われてからは村上氏の持ち城となっていた。
筆者が訪れたときの感想であるが、尾根上に築かれたそれは足場が非常に悪く、急峻であり登るのに骨が折れた思いがある。
また本城を中心にして砥石、米山、枡形の四つの要害をもった連廓式のこの山城は、砦の作られた尾根以外は全て崖になっており、尾根自体も非常に狭い。
おそらくこの尾根道にも所々に矢倉や武者溜まりの様なものも作られていたであろうことを考えるとかなり堅固な山城だったろうと思われる。
さて、晴信が上田原の雪辱を晴らすために向かった砥石城であるが、実はこの城に籠る人数は、天文十六年に晴信によって虐殺された志賀城の残党であった。晴信が攻めて来た事を知った砥石城側では、義清がいなくとも士気は又と無いほどに高い。
米山城、砥石城、本城、枡形城と、全ての尾根道の一角に作られた武者溜まりや、砦の各矢倉、曲輪に陣取るその残党達が、寄せる武田を手ぐすね引いて待っている状態なのだ。
雪辱を晴らすのはどちらであろうか。
「晴信め、此度は志賀の恨みを晴らさせてもらうぞ」
「儂は娘を武田に取られた。どうやら黒川金山の鉱夫達の慰みものになっておるらしい」
「儂もじゃ」
そう言う城兵達の悲しみは晴信に対する敵対心の高ぶりに現れている。
武田勢が攻め寄せるなら何が何でも晴信の首だけは取ると云った意気込みが熱気となって伝わってくるほどだ。
八月二十四日、それを知らぬ晴信は今井藤佐衛門と安田式部少輔を砥石城近辺に使わして城の作り、兵の規模などを検分させ、翌日には大井信常、横田高松、原虎胤を再度派遣し砥石城を検分させている。
晴信も先の雪辱を晴らすために敵状視察を充分すぎる程に繰り返したのだろう。
二十七日、晴信は軍勢を詰めていた長久保城を進発、二十八日には屋降に着陣した。
「義清は高梨政頼との戦に手を離す事叶いますまい。この期に一挙に砥石の砦を落とさば小県での義清の勢力は駆逐されるのは必定。我ら武田の勢力を小県全域に伸ばす好機にござる」
そう言うのは屋降の陣中で晴信の近くに座る飯富虎昌だった。
「いや、義清を甘く見る事はならぬ。いまだ中野小館で進退極まっておるとはいえ、自らの領地を捨て去るほど愚かではあるまい。心せねばな」
この言葉を裏付けるように晴信は、屋降に陣幕を設えた後にも砥石城の物見を決行し、三度目は自らが検分するという周到さを見せた。
九月三日、屋降の陣内では愈々砥石攻めの評定がはじまり、飯富虎昌、香坂(高坂)昌信、工藤佑長(内藤昌豊)、山県昌景、秋山信友、武田信繁、武田信廉等が集まった。
「これより軍議を始める。各々思う事あらば申してみよ」
晴信の横にいた武田信廉が、まずは砥石の人数と断りを入れていた。
「大井や横田の物見の通り、城に籠る兵は五百人程で間違いござるまい」
この信廉は、武田信虎の三男(五男)で後年逍遙軒信綱と号し、兄武田晴信の影武者を務めたと言われる人物である。
「我が方は七千。数の上では勝ってはおりますが」
語尾を濁した信廉に続いて信繁が続けた。
「砥石の城は難攻の要害にございます。力攻めを致さば城方に痛手を喰らいましょう」
この信繁も晴信の弟で、武田信虎の次男(四男)である。典厩信繁として知られる人物である。左馬介の官途を称していたが、この官途の唐名を典厩と呼んだので左典厩とも呼ばれていた。
「何、城が如何に要害であろうともそれを知り尽くした者がおれば些かも問題になりますまい」
「飯富殿、まさか源太佐衛門殿(真田幸綱(幸隆))の事を言うておられるのか?」
「無論じゃ。上田原の合戦では板垣信方殿の脇備として戦に出られておった真田殿であらばその雪辱を晴らさねば収まりが着きますまい。それに砥石の城は元々真田殿の持ち城、これは心強い事ではござらんか」
大声をあげて笑う飯富虎昌を静かに見ていた一条信竜。
「ならば源太佐衛門を呼び城の弱き所を教えてもらうか」
そう言うと近くに居た小姓に幸綱を呼ぶように命じた。
この一条信竜は武田信虎の九男である。晴信、信繁、信廉とは腹の違う兄弟だ。甲斐源氏一条家の名跡を継いで武田の姓から一条を名乗るようになった。
「この砥石の砦を早急に落とさねば村上勢がいつやって参るやもしれぬ。少々の力攻めは已むをえまい」
短期決戦を主張するのは飯富虎昌だけではなかったが、秋山信友は村上勢の来着を恐れているようだ。
「この山城に時をかけ過ぎると村上勢に挟み撃ちにされましょう、一挙に屠る事が肝要」
「したが力攻めでどれほど我が方が痛手を受けるかわからぬぞ」
「典厩殿、ここで手をこまねいておっては義清の思う壷にございましょう」
信繁は秋山信友の言葉に腕を組んだ。
「菅介(山本勘介)はどう思う」
末席に座る菅介に振ってみた。
菅介は並居ぶ武田重臣の評定の末席に座り、評定などどこ吹く風とばかりに素知らぬ風を装っていた。
この菅介、近頃は晴信の近くに控え、様々な軍略兵法の指南をしている等の噂がぽつぽつと出ていたが、その実は如何なものか。典厩信繁も菅介の実力を測りかねていた折りなので、菅介であれば砥石をどう攻略するのかその腹を見てみたかった。
自らに話が振られるまではそっぽを向いていた菅介だったが、信繁に話を振られると、それがしでござるか?と顔を向けた。
「菅介の意見を聞きたい」
信繁は優しげな表情で菅介に話を進めさせていた。
「それがし如きの若輩の意見故、お気に召さずば笑い捨てにして下されますよう」
刀傷だらけの顔で笑って見せた菅介の言葉は、意外に謙虚のように見えたのだがその後の台詞が振るっていた。
「この戦、万に一つも武田に勝機はござりますまい」
そう平然と言ってのけたのだ。
「何と申した!」
飯富虎昌が怒鳴り声を上げて床几から立ちあがったが、それを軽く手で押さえた晴信、ちらりと虎昌を見ながらもそう思う所を申してみよと菅介の考えを述べさせた。
床几に座ったまま控える菅介だったが、御屋形様のご所望とあらばと言いながら晴信の正面に歩き出てひざまづいた。
「この戦、我が手の者に探らせたところ城に籠るは志賀城の残党との事、要害の城に籠るこの難敵は如何に数を揃えようとも甲斐武田に叶う相手とはならぬでしょう」
飯富虎昌は床几を蹴倒して立ちあがった。
「菅介ずれに戦の何がわかる!志賀城の残党などは武田の敵の数には入らぬわ!何を思い余っての雑言か。控えおれ」
菅介はすぐさま平伏した。
「これは大言を吐き申しましたようにございます。平にご容赦下されたく」
「言うに事欠いて何たる雑言、菅介!許せぬ事もあるぞ」
そういきり立つ虎昌を制して信繁が菅介に問うてみた。
「菅介、そなたの言葉面白い、何故にそう思う」
畏まる風を装う菅介、小さい体をさらに縮ませる演技をした。
「いえ、これ以上は申し上げますまい。虎昌様の覚えが悪くなっては『やつがれ』の立つ瀬が無うなります故」
腹の中ではぺろりと舌でも出しているのだろう。そう言いながらもどこか余裕があるような雰囲気だった。
これを聞き咎めた虎昌だったが信繁の手前、苦虫を噛み潰したような顔をして我慢したようだ。
「菅介、儂もそちの考えを聞いてみたい」
この言葉に驚いた虎昌、まさか晴信からも菅介の考えを聞きたいとの言葉が出るとは思わなかった。
「御屋形様のご所望とあらば申さねばなりますまい」
チッと口を鳴らしたのは虎昌のようだ。
「菅介、儂の所望では語れんか」
笑いながら信繁が菅介に戯れた。
「まずまず」
菅介の顔はにこやかになっていた。
「信繁様にも晴信様にも合わせて言上仕ります。お聞き届け頂けましょうや」
信廉が場の雰囲気を戻そうとしたのか大きく声をあげて笑うと香坂、工藤、秋山もそれを察したのか一斉に笑い始めたが、虎昌のみが能面癋見の如く顰めた顔をしていた。
改めて晴信の前で座りなおした菅介、地べたに胡坐をかき、両手をつき顔を晴信に向けると、流暢に思う所を吐き出した。
「まず」
そう切り出した声は存外に通る声である。
「先ほども申し上げた通り志賀城の残党が砥石の砦に籠っておりまする。無論砥石の砦も要害には違いござらんが砦の要害などは古今落ちぬ試しがござりませぬ」
「ほう」とは晴信だ。
信繁は「面白い」と続けた。
「そこに籠る人数の結束次第で城は掘り一重で金城鉄壁となり申す。これは御屋形様、甲斐は躑躅ヶ崎の御館と同じでございましょう」
晴信の顔はやや曇ったかに見えた。
「人は城、人は石垣にございます」
晴信は溜息を吐いた。菅介に志賀城の虐殺劇を咎められたようにも聞こえたのだろう。
「菅介、今の事、儂の耳には痛く響いたぞ」
菅介は笑いもせずに晴信に目を合わせじっと見つめた。
「左様にございましょう。しかし先の戦で最も痛く心に傷を負ったのは志賀の者達。砥石の人数にございます」
「ならばその方、この戦どうすれば良いと考える」
「どの様にされましょうとも佐久は武田には従わぬでしょう」
「何をしても勝てぬか?」
「唯一。神速を持って砥石を攻め砦の四方から一挙に攻め寄せればあるいは」
菅介が後の言葉を置いた時、秋の風が信州の山々に流れ、一陣の風が草木を靡かせはじめた。
「猶予は一月有るかどうかにございましょう。それまでに落とす事叶わずば、信濃の者共がまたぞろ動き出すやも知れませぬ」
菅介の言葉が終わるか終らぬうちに真田幸綱が陣幕の外までやって来たのか、幸綱が来た事を告げる小姓が陣幕の外から声をかけてきた。
中からの返事を待つ事も無く「お呼びでございましょうか」と幸綱も会釈をしながら悪びれもせず陣幕中に入り込んで来た。
その幸綱を見た虎昌が自らの出番とばかりに手を上げて呼び寄せた。
「源太佐衛門殿、よう参られた」
先ほどまでの『べしみ』面が『翁』の面に変わっていた。
幸綱が虎昌の面前で片膝を付くと、それももどかしそうに虎昌は問いかけた。
「これより砥石の砦を攻める軍議をしておったのじゃが、この砦はそもそもは源太佐衛門殿のもの。故にこの砦に詳しいそなたにこの砦の攻めやすき所を教えてもらおうと呼んだのだが、どうじゃ?この砦、何処から攻めるが最も良い?」
一瞬渋い顔をした幸綱だったが、勤めて表情を明るく振舞うと、「砥石の城に死角はござらぬ」とにこりと微笑んだ。
この答えに呆気にとられた虎昌。
「そのようなはずはあるまい。死角無き城なぞ聞いた事もないわ」
少々怒気を含んではいたが、幸綱もにこやかにほほ笑んだままだった。
「虎昌様のお気に召さぬは致し方ありませぬが、少なき人数で籠っても落ちぬように縄張りしてござる。落ちぶれたりとはいえ小県の一領主だった真田にも築城の意地がござるのよ」
この言葉で虎昌は敗北した。
築城主に向かってその城の弱き所を教えよとは愚弄するにも程があると云うものである。信繁もそのやり取りを見て苦笑するしかなかった。
一方の晴信、菅介の目を暫し見つめた後、徐に陣幕に居た諸将に下知を下した。
「儂の考えと菅介の考えは同じだったようじゃ。戦は神速を以て由とするは古からの理。海津の清野を調略した後に攻め寄せる事にする。先手は横田高松じゃ。押して押して錐込み、見事これを落としてみよ」
名指しされた横田高松は一番槍の栄誉を受けると勇躍して陣を去って行った。
続く諸将も一斉に陣幕を離れて自らの持ち場に戻り、晴信の下知を待つ事になる。
(この城攻め、上手く行かぬであろうな)とは菅介の独り言。
「さて、儂も持ち場に向かうとするか」
足軽の一隊を任されていた菅介も最後に陣幕を出でて持ち場に戻って行った。
そして九日の午の刻、晴信の元に清野氏調略の報がもたらされると、その日の酉の刻から武田勢は全軍を以て砥石の砦に押し寄せる事になった。
全軍で砥石の砦を取り囲むと横田高松が本陣に居る晴信に先陣となって城攻めを始める事を報告し、そのまま城攻めが始まった。
武田本陣の目の前で横田高松の一隊が砥石の砦の崖に取り付き、遮二無二崖を登り始める。
この砥石の砦の崖は、土の肌が顕わになっており非常に滑りやすい特徴があった。
いかに濡らした草鞋が滑りにくいとはいえ、濡れて粘土になった土には歯が立たぬ事もある。更には砥石の名の通りに砥石状の頁石が重なっており、一度滑落すれば岩に身を削られてしまうだろう。
攻城の兵は二、三歩登る毎に足元を確かめて、手には根が粘らない草を僅かに掴んで体を持ち上げるのだが、重い具足を着けての崖登りだ。どれ程の骨折りだったろうか。
砦の崖上ではこれを見た足軽が、足軽組頭の下知の元に足元不如意の武田勢に瓦石を投げつけて来る。
只でさえ両手両足が塞がっている武田の兵にこれを防ぐ余裕など無く、石に当たった者から次々に崖を滑落して行った。それでも崖に残っていた武田兵に降りかかった次なる災難は煮えたぎった湯だ。直接体に降りかかれば大火傷は免れないが、崖の頂上から中腹まで落ちて来た頃には温くなっている。しかし砦方の目的はそれでは無かった。
土の崖での水分は、只でさえ滑りやすい足元を更に油を撒いたようにするのだ。
最早武田勢には崖からの攻略は不可能になったのだが、横田高松は晴信の見ている目の前での醜態に我を忘れたのだろう。登れもしない滑る崖に取り付き必死に登ろうとしてもがいている。
「高松に退くように伝えよ」
本陣から見ていた晴信が見かねたのか横田高松に退却の下知をした。
方や湯を浴びせて来た砦方の兵は、それでも登って来ようとしていた高松勢に矢を射かけ始めた。
その矢が高松の左右を登る近従に吸い込まれて行き、喉輪に射込まれた者は背側から首を守るはずの錣を内側から跳ね上げられるほどに矢を射込まれ、腹を射られた者は高所からの勢いのある矢の為に具足の胴を難なくすぽりと通される。
左右の両名とも声を出す事も叶わずに翻筋斗打って崖下に転落して行くのを見送るしかなかった。
「くっ、この様に足元が滑る崖では如何ともしがたい」
思うように攻め上げる事ができない高松が悔しさに歯をぎりぎりと鳴らしたとき、晴信からの退き鐘が鳴り響いてきた。
急調子に打ち鳴らされる退き鐘を聞いた横田勢が退却を始めると、それを見た砥石の兵が横田勢を嘲弄し出した。
これは嘲弄、罵倒された攻め手が再び攻め登るように仕向けて更に痛手を加える常套手段でもあるのだが、気の短い足軽等の雑兵にはかなり効くようだ。
崖を上っていた兵を纏めるために組頭が退却の命令を出し、大多数の兵が崖を下って行ったのだが、嘲弄に惑わされた一部の足軽達が退却の下知を聞こえぬものとして更に登って行こうとしていた。
「戯け共が、何故敵の策だと気付かんのか」
高松が足元を滑らせながら崖を下り、自らよりも上に居る足軽兵を見ていた。
滑る足元が定まらず、粘らぬ根の草を手に持ちじわじわと下って行く高松の脇を、土の間から顔を覗かせる砥石状の石に身を削られながら滑落して行く者が幾人か過ぎ去って行った。
嘲弄に頭に血が上っていた足軽兵だ。
結局は崖を登りきれるはずも無く、砦方の策に見事に乗ってやっただけで無駄に命を散らせてしまっていた。
「戯け共め」
そういう高松の顔は悲しげでもあった。
横田備中守高松の退却を自軍の陣幕中から見た晴信、床几にすわり悠然と構えている風ではあるが、どこか焦りが滲み出ているようにも見える。
「源太佐衛門の言った通りであるな。中々に手ごわい砦だ」
溜息を吐き軍扇を持つ手が心の苛々を現わすように忙しなく動いていたが、その直後それに気がついたように手を止め、左右に余裕を見せる為か笑って見せた。
「しかしまだほんの手始め、今日は日も暮れよう故このまま砦を囲み明朝より総攻めを始める」
武田勢が砦を囲んだまま夜の帳が下り、晩秋へと移り変わりをみせる冷えた風がゆるゆると流れ始めると、夜空には冴え冴えと星が張り付いていた。
明けて十日。
この日も攻め口を変えて城攻めを決行するが、砦の南側にある松代街道からの攻め口は内小屋と呼ばれる曲輪の土塁に阻まれており、その東側の一角は足軽達が寝起きする寝小屋が立ち並ぶ梯廓状(ていかくじょう:段曲輪とも)の曲輪となっていたため守りが堅く、直接は攻め寄せる事ができない。
また東には神川の流れが天然の堀となり、寝小屋からは切り落としの堀も穿たれているので此処からも攻める事が出来なかった。
砥石の砦とその西側にある米山の砦の間の緩やかな崖が唯一の攻め口なのだが、是が昨日の横山高松勢が散々に叩かれた所である。
ここを落とせば米山と砥石の砦を分断できるので武田としては是非にも落としたい所でもあるため、此処に押さえの一隊を残してから武田の本隊は追手口となる内小屋に軍勢を差し向けて正攻法を試みる事になった。
先手は飯富虎昌の一隊。
まずは武田の弓勢が内小屋南の土塁に取り付く城方に向かい矢を放つ。
しかしその矢は土塁に吸い込まれるか、其の上に築かれた木塀に突き刺さるのみで一向に城方には損害を与える事が出来ない。
一方の砦方の放つ矢は正確に武田の兵を射抜いて行く。
砦方の一斉射で味方が彼方此方で射倒されて行く様を見た虎昌は既に頭に血が上りはじめていた。
「不甲斐ない者共め、儂が血路を開いてくれよう!付いて参れ」
そう怒号を発して槍を扱いた飯富虎昌が、郎党を引き連れて押し出して行く。
これに負けじと、先手の弓勢を退かせ、槍を扱いた足軽勢を引き連れた武田の各隊も猛攻を開始した。
大挙して押し寄せた武田勢を避ける為、土塁上に居た砦方は一斉に内小屋曲輪に退き、そこに籠り再び矢の応戦となる。
「押せ押せ!この様な小城力押しで攻め崩せ!」
虎昌の怒号は止まらない。数を頼んでのこの勢で内小屋の梯廓状曲輪を次々と落として行った。
だが。
これは砦方の策だった。武田勢は見事に是に嵌ってしまった。
内小屋曲輪から順々に退いて行った砦方は、本城の東に築かれている梯廓式の水の手曲輪下の馬出し状の窪地に武田勢を引き込む心算だったのだ。
この一角のみが纏まった兵を留め置く事が出来る広さを持っていた。
力押しで順々に曲輪を落として行った武田勢は最早後戻りをする等と云った細かい芸は出来ない。
一挙に進んだ武田勢は内小屋曲輪から追手道に続く馬出し状の窪地に鮨詰めになり始め、前後どちらにも進む事が出来なくなってきた。
追手の門に続く追手道は非常に細いのだ。敵が大挙して侵入する事を拒む構造になっているのが通常なので、人が二人は並んで進めない。
しかもその追手道は砦方から丸見えになる作りを持っているため、追手の矢倉門からだけではなく、その周りを囲む曲輪からも一斉に攻撃が出来る作りになっているのが何処にでもある戦国の山城(砦)である。
この武田軍の退引きならない状況を見た砥石勢から本城の方角、武田勢からすれば頭上から戦慄の声が発せられた。
「放て!」
窪地に嵌り込んでいた武田勢が顔を上げて見たものは、その窪地を三方から取り囲んでいる水の手曲輪からの弓勢だった。
強弓から放たれる矢は空気を切り裂き、奇妙な音を立てて飛ぶ。
身動きの取れない武田勢は面白いように射倒され、進むも退くも儘ならぬ内に殆どを討ち取られてしまった。
辛うじて将の討ち死には無かったものの、武田勢は総崩れとなり二日目も手酷い痛手を被った。
本陣に戻って来た諸将は皆押し黙り、連日の惨敗の苦みを味わっている。
「皆、よう無事に戻って参った。まずは休め」
床几に座っている晴信も、この異様なまでの砦方の粘りに舌を巻き始めたところでもある。とにかく兵を多く失った将を労い休ませる事が先決だ。
「明朝もう一度攻め寄せる。それまで砥石方の不意打ちを警戒して物見を多く出して置くように」
それと、と云い、「菅介と信繁は此処に残れ。他の物は其々の持ち場で明日に備えよ」そう一人晴信が下知し終わると諸将は静かに陣幕を去って行った。
一人ひとり将が陣幕を抜けて行き、残った菅介と左隣に座る信繁。
三人になったところを見届けた晴信が菅介に声をかけた。
「菅介、この砦、固いな」
晴信の正直な感想だったろう。
菅介は末席の床几に腰掛けたまま、如何にも固とうございまする。とそう言った。
「思った通りか?」
表情を変えない菅介だったが、言葉は晴信の予想とは違っていた。
「予想以上の堅固さにございまする。この菅介もまさかここまでの堅城とは思いもよりませんでした」
「そうか」
肩を落とした晴信を見た菅介、ちと真田殿をお呼び頂けませぬか、と言いだした。
「そなた、虎昌のように砦の弱き所を聞き出そうとでも言うのか?」
菅介は信繁の言葉に苦笑いしていた。
「さにあらず、この砦を落とす為の方策を真田殿と話したいのでござるよ」
そう含みを置いた。
「御屋形様、この戦はちと逸りすぎたのではございますまいか」
「どういう事だ?」
「それがしも初めは早急に攻め寄せれば砦を落とせるかも知れぬと踏んでおったのですが、御屋形様も申された通りこの砥石城、思う以上に固うござる」
「佐久の人数が籠っておる故な」
晴信は自嘲の微笑みで菅介に返した。
「はい、正しく人の恨みとは恐ろしゅうございます。一重の塁が鉄壁になり申した。しかしそれは武田が力で寄せたからでもありましょう」
「力で押さずに攻める、と。」
菅介と晴信の会話で、菅介の攻城の真意を質すように信繁が問いかけた。
「菅介はこの砥石の砦を戦以外で落とす方策を思いついたと申すか?」
信繁の菅介への問いに晴信も興味を持ったのかじっと見つめている。
「確かではございませぬが、真田殿であればもしかすれば」
三人がそれぞれを見つめていた。
暫しの時が流れ、屋降の陣に冬の始まりの風が流れ始め、陣幕を弄っている。
「そうか、菅介の勘定では幾日有ればここを落とせると考える?」
「一年程かと」
この答えに晴信は溜息を吐いていた。
「一年か」
「一年は見ねばなりますまい」
「しかし儂はまだこの砥石攻め、諦めてはおらぬ。ここまで武田勢が苦しめられたとあっては配下に押さえた信濃の土豪達が、小笠原共のように蜂起するかも知れぬでな」
「しかしそれでは武田の兵を損耗するばかりかと」
「菅介、その方はその方で出来る事を考えよ。この、兵を以ての砥石攻め、儂に指図する事許さぬ」
晴信は菅介の言葉が少々癇に障ったようだが、一つの保険として採用する事を暗に決めたようで、すぐさま小姓を一人呼び、真田幸綱を呼んでいる。
幸綱がやって来た陣幕内では、菅介を主導として砥石攻略の方策を夜遅くまでかけて練り上げていたようだ。これが後年真田幸綱の勇名を馳せる基となるのだがそれは後のお話。
さてその最中に一人、陣幕を訪れた者がいた。小山田信有である。
明朝の砦攻めを自らに承りたいとの事だったのだが、何か策でもあったのだろうか。
晴信はこれを許し、翌日の虎の刻(午前四時ごろ)、小山田信有が一番手となった。
しかしこの時も完膚なきまでに城方に打ち崩され、信有の家臣が多数討ち死にしている。
そしてこれより九月二十日になるまで城攻めは続くのだが、武田勢は一方的に討たれるのみで捗捗しい戦果を上げる事が出来ずにいた。
そんな中で晴信が最も恐れていた知らせがもたらされた。
『村上義清が高梨政頼と和睦し、兵を纏めて寺尾の城を攻めておるとの知らせが参りました』
この知らせを聞いた晴信は、「未だ寺尾の城を攻めておるのであれば今少し時があろう。砥石の砦を攻め続けよ」と晴信らしからぬ判断の遅さを見せた。
これには信繁も原虎胤も、菅介も即時退却を進めたのだが何故か頑として聞き入れなかった。上田原合戦でも惨敗し、この砥石の城攻めでも惨敗すれば自らを納得させられなかったのだろう。
そして十月一日、晴信が撤退を決意した時には義清は寺尾の城からこの砥石に向かい、最早目と鼻の先に迫っていたため、甲府に退却を始めていた武田軍は村上勢に追いつかれ散々に打崩されてしまった。
先手として勇名を馳せていた横田高松が殿を受け持つと云った異例の事態になる程に武田軍は崩れ、ここで横田備中守高松は六十四歳を一期に露と消えた。
この時の武田の兵力は七千人と言われ、村上の兵力は二千五百人だったと言われている。
しかしこの追撃戦で討たれた総数は武田で千二百人。村上勢は皆無であった。
晴信生涯の大惨敗がこの時期続いた事は、今後の慎重な行軍行動に影響を与えた事は言うまでも無いだろう。
結局は砥石の砦も盗れず、退却戦で大惨敗を喫してしまった晴信のこの一連の合戦を、後年砥石崩れと云ったのである。




