砥石崩れ(一)
佐久攻略志賀城攻めから年が明けた天文十七年二月、村上義清は自らの属将であった笠原清繁を晴信に討たれたことから武田への敵対色を鮮明にさせ、武田領となった佐久と領地を接する小県郡を守るために兵を砥石(戸石)城に詰め、自らは葛尾城に入った。
この動きを察知した武田方も、これ幸いとばかりに兵五千を率いて北信濃に進軍。諏訪衆、群内衆を率いて小県郡南部に侵攻が始まる事になった。
「晴信は今どの辺りまで来ておるか」
そう蔓尾城の広間で左右に声をかけた村上義清の目の前には楯板が敷かれ、その上には絵図面が広げられていた。
「武田勢は大門峠を越えて既に小県に入ったようにござる。千曲川まで行けばもう目と鼻の先まで来ているかも知れませぬ」
「そうか」
佐久郡と小県郡が描かれている絵図面中央に一本描かれていた千曲川を見ていた義清、木を削って造られた駒を手に絵図面の上に書き込まれた各城や谷、千曲川の河原などの開かれた場所にひたすら動かし続けていたが、暫くするとふむと一言納得したかのような声を出した。
「兵を纏めよ。今より岩鼻まで兵を進めて産川を挟み武田勢と対陣する。目指すは上田原じゃ」
産川とは千曲川の支流で上田盆地を流れる川である。その河川域に上田原と云う場所があった。
千曲川に合流する地点から北に蔓尾城、北東に砥石城、松尾城があり武田方の長窪城は南に位置している。
この長窪城を足掛かりに武田勢が攻め寄せて来ると義清は晴信の腹を読んだ。
「我が本陣を上田原に置けば晴信も出て来よう」
「志賀城の仇は討たねばなりませぬ。此度は晴信に目に物を見せてやりましょうぞ」
とこれは屋代義綱。
「うむ、しかし晴信の事だ、手を変え品を変え、小癪な動きをするかも知れぬ。今より更に物見の数を増やして晴信の動きを探らせよ」
この後間を開ける事無く村上勢は蔓尾城から出陣、二月十日には上田平に到着した。
陣を敷いてから暫くすると、放っていた物見が続々と知らせをもたらしてきた。義清が予想した通りに武田勢は村上本陣を押さえるべくこの産川を目指して北上中との事だった。
しかしどう言う訳か武田勢の動きは鈍く、このままの行軍だと産川に着陣するのは十四日辺りになるのではないかとの報告が多数を占めていた。
(晴信め、この日数の稼ぎ方は何か裏があるのか)
この武田勢の行軍の遅さは、晴信とその家臣達の不和にあったのだが義清は知る由もない。
晴信は生まれて此の方負けを知らぬ大将であったため慢心をおこし、家臣の諫言にも耳を貸さないままに先の志賀城攻めを行っていた。
そこで行われた残虐とも言える行為は、武田の家臣達の中から信用に足る御屋形ではないとの意見も出始めたために重臣の板垣信方、甘利虎泰などが諫めていたのがもとである。
そして二月十四日。物見の報告の通り、武田勢は産川の南側に着陣、手ぐすね引いて待ち構えていた村上勢と対峙の時を迎えた。
村上勢凡そ五千、対する武田勢は凡そ八千。
武田勢は板垣信方を先陣に甘利虎泰、小山田信有、初鹿野源五郎が続き、晴信本陣には工藤祐長(内藤昌豊)、馬場信房を置く。
一方村上勢は屋代義綱、基綱親子、児島権兵衛、雨宮正利等百戦練磨の猛将が先陣を受け持ち押し出す下知を待っている。
寸暇の睨み合いから一転、武田勢の陣取る産川の南岸から押し太鼓が滔々と鳴り響くと、両陣営から鬨の声も高らかに奥信濃の空に響き渡り村上、武田両雄の合戦が幕を開けた。
産川の浅瀬を、水を激しく蹴りあげながら槍の穂先を揃えて討ちかかって来る板垣勢、村上勢の屋代基綱の兵と衝突し、力押しに押して来る。
屋代基綱勢は槍衾を敷いて板垣勢の突進を食い止めるのがやっとのようだ。
「あの三日月の旗印は板垣信方だな、流石に強い」
義清は小高い本陣から合戦場である上田原を見下ろし、戦況を見ている目は何処か楽しげだ。自軍の動きと武田勢の動きが手に取るように見える絶好の位置だったので碁や将棋を打っている感覚だったのだろう。
しかし愈々屋代勢が押され始めると熱くなったのか、義清は床几を立ちあがった。
馬手(めて:右手)に軍配を握りしめると、屋代の救援に児島権兵衛を差し向けよと下知するが、武田勢も戦には手慣れたもので、児島が救援に到着する頃には初鹿野源五郎の一隊が寄せて来ていた。
「晴信め、なかなかやりおるわ」
義清は苦笑いをしながら追加の一手を差し向けた。
「板垣勢は東ががら空きじゃ。栗田の一隊を東から打ち掛からせて側面より崩せ」
伝令が颯と走り、栗田寛安の騎馬隊を差し向ける。
怒号と鬨の声、信濃の台地を踏み鳴らす馬蹄の音が入り乱れ、一大合戦が繰り広げられた。
開戦から一刻程も過ぎた頃、戦況も均衡状態だったのだが、次第に数に任せた武田勢の猛攻に村上勢はじりじりと押されはじめた。
(このままではじり貧になり押し切られるやもしれぬ)
戦況が芳しくないと見た義清、ここで秘蔵の一計を実行する事にした。
「屋代、児島、栗田を退かせよ。全軍蔓尾城まで引き上げじゃ」
これに驚いたのは義清の旗本達だった。
「何故今退却をなされるのです」
「今退かば武田勢は嵩にかかって切り掛かって参りますぞ」
口々に退却を諫めるのだが義清はそれを片手で制すると、考えあっての事、心配は無用。そう言って自ら率先して退却を始めた。
「殿はそのまま屋代、児島、栗田に任せる。また物見として幾人かこの地に忍ばせておけ」
そう言い残し、義清が退却してからは打ち崩されたように全軍上田原から引き上げていった。
村上勢が引き上げたあとの上田原には打ち捨てられた骸が累々と重なりあい、両軍の激戦を物語っていた。
その光景を見た板垣信方は、武田勢の勝ちを確信して自らの兵を纏めて勝鬨をあげさせると、その勝鬨を聞いた晴信は全軍に合戦の終了を宣言。ここに上田原合戦は終了したかに見えた。
村上勢が取って返すことも無論あるので諸将は自らの兵には陣を解かせずに、数人の馬回りを引き連れて其々が祝勝の言上をする為に本陣に向かいはじめ、本陣に到着すると陣幕を潜った者から順次晴信に祝勝の挨拶を述べていった。。
一人ひとりが晴信の前に進み出て祝勝の言葉を述べ終わると、役の軽重に別れて床几に着座してゆき、参戦した諸将が全員集まったところで晴信からの言葉を賜って帰国の途につくのが通例であった。
しかし今日は、既に皆が集まっているにも拘らず、何故か何時まで経っても板垣信方のみが現れなかった。
「板垣はどうした」
不思議に思った晴信が、左に侍る甘利虎泰に聞いてみた。
「そういえば未だ姿を見ませんな、何処で道草を食っておるやら」
晴信の言葉に甘利虎泰が軽口で返してからすぐに使い番を呼んだ。
「板垣殿を呼んで参れ。御屋形様がしびれを切らして待っておるぞと伝えれば板垣殿の事じゃ、飛んで参るであろう」
そう言って人数を送りだしたのだが、詳しくは甘利も知らなかった様だ。
晴信の股肱の臣と言われた板垣信方である。ある意味晴信よりも家臣団には信用があるとも言えるほどで、この時は皆が直にやって来るであろうと考えていた。
寒空の中とはいえ戦に勝を治めた軍勢である。吐く息も白く撒き散らしながら大声で語り合う姿はどことなく誇らしげであった。
陣幕中にも時々寒風が吹きこむが、誰ひとり寒さを口にする者が居ないほどの熱気が漂っていた。
そして暫く後。板垣を呼びに行った使い番が戻って来ると、思いもかけない報告をもたらす事になった。
「板垣信方様、上田原の地で首実験をされておりまする」
この報告で武田の陣幕内は先ほどのは熱気が掻き消されたかのように騒然とし、居合わせた諸将は全員が晴信を見やった。
戦勝側で首実験をする事ができるのはその軍の大将のみである。これをその配下が行うということは越権行為に他ならない。
この場合は晴信を信方が蔑にしている行為になるのだ。
「何と申した、爺が首実験をしておるじゃと、戯けを申すな」
晴信は使い番の報告に我を忘れて声を荒げていた。
「間違いございませぬ、上田原に陣幕を広げられ、討ち取った敵の首級一つ一つを見ておられました」
「御屋形様、これは分限を越えた行いにございます、急ぎ板垣殿を呼び寄せ真意を確かめましょうぞ」
小山田信有の言葉ももどかしい。
「わかっておる!その方板垣の元に参り呼び戻して来よ」
晴信はそう叫んでいた。
晴信に一礼して踵を返した小山田は、供周りの武者を数騎従えて上田原に向かって馬を走らせた。
人が命数を使い果たす時は、常日頃とは少し異なる行動をする事が多々あると昔から言われているが、此の時の板垣信方もそれだったのだろうか。
板垣の真意がわからぬままに小山田が本陣から数町走り出たその時、上田原方面から思わぬ鬨の声が立ち上った。
「何事ぞ!」
向かう先をじっと凝らして見る小山田の目には、板垣の陣幕を土埃が包み始め、時ならぬ春の風が埃を舞い上げ嵐がやって来たかにも見える。
小山田の背中に冷たい汗が流れ落ちたとき、春の嵐の埃の隙間に、黒地白抜きの丸に上の旗印が津波の様に押し寄せてくる姿が見えた。
「これは、村上勢が取って返したか!」
村上勢の地鳴りを伴った進軍に馬も怯え、小山田の乗馬が棹立ちになりあわや落馬しそうになるが辛うじて堪えると、後は呆然と板垣信方の陣幕が蹂躙されて行くのを眺めるしかできなかった。
この驚愕の喧騒は武田本陣にも届いており、村上勢の巻き返しである事を真っ先に気付いた晴信は戦慄した。
配下の将が自ら指揮する軍勢から離れて本陣に集まっているのである。これではいくら兵が居ようとも打ち掛かられては持ちこたえられるはずもない。
「皆持ち場に戻れ!まずは思い思いに村上勢に当たるのじゃ」
最早目前と云える位置まで村上義清の騎馬勢が寄せている。
この様な不意を突かれた白兵戦では如何に戦上手の晴信と言えど手の打ちようがなかった。
板垣信方の陣近くに居た小山田信有も急ぎ自らの陣に戻り、兵を引き連れて村上勢に向かって行くのだが、その頃の板垣の陣では、まさか村上勢が巻き返して来るとは夢にも思わなかったようで、首実験中の不意打ちで大混乱に陥ってしまった。
先ほどまでの最前線だったこの地には馬防ぎの柵もなく、掘一筋もない。
村上勢の急襲で陣幕も絡め取られてしまい陣幕の内だった所は丸見えになって行った。
村上勢としては狙う敵の姿がなんの障害も無く晒されているのである。これほど楽な索敵は無かったであろう。
しかし攻められる板垣勢としては最早ここにじっと居座っている訳にはいかなくなった。
「馬引け!」
叫ぶ板垣信方だったが、既に村上勢の蹂躙は間近に迫っている。
左右の臣も村上勢と槍で打ちあい、陣幕を支えていた丸太が絡められた陣幕ごと引き倒される程に接近を許していたのだ。
信方に馬を引けるほど余裕のある近習は存在しなかった。
「是非に及ばずか」
一言そう吐いた信方、むんずと太刀を掴み近くの木に繋がれていた馬に自ら近づいてその馬に乗ろうとした。
そのとき、この人物に気付いた村上勢の数騎が駆け寄ると、無言のままいきなり槍を繰り出した。
板垣を見知った村上の将がいた事は、討たれた板垣にとっても幸運だったかもしれない。
槍の穂先が幾筋か信方の体に吸い込まれた直後、勝ち名乗りが上がっていた。
「板垣駿河守信方、討ち取った!」
天文十七年二月十四日、板垣信方は六十歳を一期に信濃の地で果てた。
信方討ち取りの声が響くと村上勢からは割れんばかりの鬨が上がり、武田勢本陣への猛攻が始まる。
馬蹄を轟かせた村上勢の騎馬隊千余騎、槍衾を敷いて寄せて来る足軽四千余人が台地を踏み轟かせて晴信の陣を侵食して行く姿は地滑りが起きたようだ。
武田勢ではようやく指揮官が自部隊に戻り、村上勢に当たれるようになった時には、既に村上義清は騎馬兵を数十騎引き連れ、晴信の本陣を突いていた。
「晴信!佐久の恨み思い知れ」
馬上槍を繰り出し床几に座ったままの晴信を串刺そうとする義清。
太刀を抜き放ち、義清の槍を凌ぐ晴信。
しかし義清の槍の方が幾分か有利だったようだ。
晴信は浅手とはいえ腕と足に傷を負い、床几から打ち崩された。
「覚悟!」
義清が言い放ち、喉輪に向かい槍を繰り出したとき、馬場信房と工藤佑長(内藤昌豊)が槍を扱いて走り寄りその槍を自らの槍と合わせて払いのけ、一尺の差で晴信の窮地を救う事ができた。
寸での所で晴信を討ち漏らした義清の周りは、晴信との一騎打ちを補佐するために付いて来た供周りも粗方討ち取られており、馬上の義清のみとなっている。
既に単騎となった義清を討とうと、咆哮をあげながら槍を繰り出した馬場信房。
正面から義清に打ちかかると、弓手(ゆんで:左)の方向に回った工藤佑長も義清の隙を見て槍を繰り出し、挟み打ちで交互に槍を突いて来くる。
自らの不利を悟った義清は馬首を巡らせた。
「晴信、この場は退くが必ず己の首を取りに参るぞ!覚悟しておけ!」
そう言い放つと、一気に武田本陣を走り抜けて退き上げて行った。
義清が去った晴信本陣は崩された近臣・供周りの将兵が集まり今更ながら晴信を守るために周りを固めはじめたようだ。
小姓が晴信の傍に駆け寄り床几を用意すると晴信はそれに腰掛けた。
混乱をきたした戦況を改めて見まわしてから一つ大きく息を吸い込み、冷静になろうと努めたのだが、一歩間違えれば討ち取られる危機だった晴信の体は小刻みに震えている。
「義清め」
晴信がこれ程冷静さを欠いた合戦は初めてだった。
必死に堪えて冷静になろうとしていたのだが、気付かぬうちにいつしか歯をぎりぎりと鳴らし憤怒の形相になっている。やはりどこか冷静さを保ちえなかった。
「小山田信有と甘利虎泰の兵を村上義清の追討に差し向けよ!」
治まらぬ怒りから出た晴信の下知で三十騎二百人、四十騎三百人といった具合に村上勢の追撃を開始したのだが、しかしこれも村上義清の策の内だった。
義清本隊が自らの陣営に走り込むと、それを追っていた小山田と甘利の部隊を左右から取り囲むように伏せてあった騎馬隊が姿を現し、押し包むように寄せて来た。
予め包み討ちをする心算で伏兵を置いていたのだ。
人数も一挙に殲滅するつもりなのか二百騎を超えた騎馬の大部隊であり、更に小山田と甘利の後方から武田勢本隊と遮るように足軽兵がどっと現れ退路を遮断した。
甘利虎泰は前方の義清を見据えていたため後方が遮断された事に気付かない。
味方後方から聞こえてきた、御味方が包まれておりまするとの悲痛な声で自らの置かれた状況を理解したようだった。
「しまった!これは罠だったか!」
甘利はその場で輪乗りして周囲を確認したが、既に幾重にも囲まれており是を抜ける事は至難の業である事を悟った。
「こと此処に至っては已む無し、死に花を咲かせようぞ」
そう一言叫んで周囲を取り囲んだ村上勢と切り結んだ。
一方甘利の後方にいた小山田信有は、甘利勢のほんの少し後方にいた為に村上勢の騎馬隊に囲まれる寸前、馬首を巡らして虎口を脱する事が出来た。
進行方向をぐるりと一回りして元の位置を見ると、村上勢に押し包まれた甘利勢が退く事も進む事も出来ずに十重二十重に敵勢に取り巻かれている所が見える。
「これはいかん、虎泰殿が囲まれた!」
味方が目の前で包み討ちにされ、みるみる数を減らしている。
「者共、虎泰殿を討たすな!かかれかかれ!」
手勢を叱咤して甘利勢との間に入り込んだ村上の足軽勢に打ちかかっていった。
また晴信本陣からは初鹿野源五郎の一隊も応援に駆け付け激闘数刻。
この村上勢の不意打ちで、武田勢は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守等の重臣が討ち取られ、約七百余人が討たれていた。また村上勢でも屋代基綱、雨宮正利、小島権兵衛が討たれており、凡そ三百人が討たれたようだ。
両陣営から引き金が打ち鳴らされると両軍が颯っと左右に別れ、その両軍の間には夥しい数の骸が重なっていた。
重臣を数多く討たれた両陣営はどちらにも既に追撃する余力は無く、村上勢は直ぐに蔓尾城に引き上げて行ったが、晴信は武田は未だ戦を続ける余力があるぞと見せつける為にその場で二十日間陣を構えていたと記録が残っている。
この戦、武田晴信が生涯で初めて敗戦の経験をした合戦となった。
常勝無敗だった武田軍の惨敗を見た佐久、小県、筑摩の在地土豪達や諏訪西方衆が不穏な動きを始めたのは言うまでも無い。
晴信の股肱の臣が多く討ち取られたこの合戦を見て、村上義清を頼むべしと考えたのは当然の成り行きだっただろう。
この日を境に反武田同盟が結ばれる事になった。




