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関東騒乱(後北條五代記・中巻)  作者: 田口逍遙軒
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河越夜戦(三)

 猪助の知らせを受けた小田原城内での事。

 今川と和睦を整えた氏康は、小田原の集められるだけの兵力を試算していた。

「どう集めても八千が良いところか」

 父氏綱が生前度々使った書院に大道寺盛昌、多目元忠等側近を呼び、この河越包囲戦に付いて対策を立てていたのだが、やはり一大名対関東の殆どの勢力では兵力に差がありすぎる。

「ここは先の河東の地の先例の様に、河越城から佐衛門大夫を退かせた方が宜しいのではありませぬか」

 用兵術に定評のある元忠だったが、氏康はこれを一蹴した。

「なぜにござる?」

 これは大道寺。

 元忠もあまり気の進まぬ作戦だった事もあってか、本人は沈黙していたのだが、代わりに納得のいかぬ大道寺が質問をした。

「元忠殿のお考えも理に叶うと思われますぞ。集められる軍兵の数が十倍とあっては最早戦にはなりますまい。ここは後日に恥辱を雪がれる事として兵を引くことも宜しいかと思われますが」

「うむ」

 氏康の鷹揚な言葉遣いは変わらない。

「しかしな盛昌、それは出来ぬのじゃ」

「ですから何故でござりましょう」

「河東の事じゃがな、あれはそもそもが今川の土地よ。それを取り返す事が今川の目的であった。だから武田の仲介で双方兵を引けたのじゃ」

 この時濡れ縁を渡って来た小太郎が座敷入口の濡れ縁板の間に襖を開いて座り一礼した。

「おぉ、小太郎か。そんなところに座らず中まで入るがよい」

「いえ、某はここで結構」

「お主がそこにいては寒いのじゃ、かまわぬ入れ」

 この鷹揚さは生まれついての大名故なのだろうか。

「ならば御無礼仕ります」

 そう言って小太郎は衣擦れの音を立てながら大道寺、多目の後方に控えた。

「それでな盛昌、武蔵の管領と公方の挙兵は今川とは事情が異なるのじゃ」

 話の腰を折られたふうの盛昌だったが、神妙に氏康の言葉を聞き始めた。

「朝定はそもそも相模の守護の家督、憲政は武蔵と伊豆の守護の家督、晴氏公にあっては鎌倉府の公方であったのはそちも知る所と思う」

「は、心得ております」

「ならば話は早い。その三家と敵対して一度河越を離るれば、北條組み易しと見て関東の国人豪族共々、元々自らの土地と思うておる伊豆相模まで押し寄せるであろう」

 氏康の言葉は鷹揚だが表情には影があった。

「今河越を囲んでいる人数であらば容易き事よな」

「なれば河越を引いたところで何処かの大名に仲介を頼んでみては如何」

 氏康は盛昌の顔をじっと覗き込んだ。

「如何しました」

「盛昌、その仲介、誰に頼む。関東の大名豪族は悉く公方・管領に付いておるぞ。武田か、今川か」

「越後の長尾か室町の将軍家では如何に」

「越後は内乱が続いておるわ。他国にかかずらわっておる暇はなかろう。また将軍家は既に関東に繰り出す事叶わぬ」

 盛昌が溜息を一つ吐いた。

「ならば、如何様に致すが良いか」

「小太郎、関東勢の調略は進んでおるか」

「は。今少し時がかかりまするが、予定通り進んでおりまする」

 これには盛昌だけでなく元忠も驚きを見せた。

「調略、にございまするか」

「関東勢の調略とは何処へ仕掛けておるのですか」

「目の前ばかりに気を取られる訳にも行かぬでな」

 そう言うと、関東の絵図面を脇に置いてあった文箱から取り出してみせた。

 そこには駿河から東へ行くと房総半島を含み、さらにそこから北へ奥州の手前常陸の北の端まで書き込まれ、北は信濃から加賀能登越中を越え、越後まで書かれていた。

 至る所に朱の印が施された絵図面は、小太郎の配下、風魔の手の者の作だろう。

 そこの特定の朱印を差し示しながら話を進める氏康。

「まずは大石定久。それに藤田重利(康邦)、上田朝尚、小幡憲重」

「なんと」

 名を挙げられた者たちは、両上杉家中でも名の通った一角の人物だ。これらの者たちが既に寝返るように取り付けたとは、俄かには信じがたい事だ。

「それらの者たちはまこと主家を裏切ると?」

「うむ、領地安堵と引き換えにな。それに大石には藤菊丸、藤田には乙千代丸を養子に入れる事を約束させた」

「それと」と氏康は続けた。

「公方の号令で集まった大名達には背後を脅かす者たちに使いを送っておいた」

「河越に馳せ参じた大名達の領国を、後方から脅かすと」

「さすれば河越攻めに身も入らず引き上げたくなるは道理であろ」

「これは、河越を囲んだ公方・両上杉と今川武田の包囲網には胆を潰しましたが、更にそれを上回る包囲を作られるとは。恐れ入りましてございます」

「ただ」

 氏康の顔が曇りだした。

「如何されました?」

「この調略、時がかかりすぎる。河越に籠る者共がそれまで堪えてくれるかどうか」

「手間取りまするか。小太郎、調略が整うまでには如何ほどの時が必要じゃ?」

 多目元忠が自らの後方に控える小太郎に問いかけると「年明け早々には各地に手を伸ばす事叶いましょうが、落とすとなると弥生か卯月の晦日(三月から四月末日)までは掛ろうかと」と忍として期待値の入る事の無い冷徹な計算なのか、静に答えた。

「それほどかかるか。ならば城方に知らせてやらねば士気が持つかどうか。危ういですな」

「城兵が籠城にたまりかねて打ち出す事にでもなればどうにもならぬ。あくまでも後詰が到着するまでは籠城に徹して堪えよと伝えねばならぬのだが」

 氏康は沈痛な面持ちのまま「城を囲むは八万ぞ。如何でその囲みを抜けて知らせるか」とため息交じりで言葉を吐いた。

 この書院での作戦立案は、後々評定衆にも伝えられ正式な議題として上る事になった。

 氏康は小田原城評定の間に集まった家臣達に以下の事を下問した。

 河越城に氏康本隊が後詰に到着するまで、如何に城を持たせる事ができるか。

 その後詰に赴くまでの下地を作る期間が、年明けの天文十五年の四月まではかかるだろうと云う事と、今のまま放置しておけば河越城は兵糧も乏しくなり、士気も低下して最悪は自落することもあり得る事などだ。

 氏康本隊が引き連れる事のできる兵は八千程。河越城に籠る兵は三千。足しても一万一千である。

 彼我の兵力差は凡そ十倍を超え、今既に古河公方晴氏を筆頭にして管領二家にそれらに従う関東八屋形の幾家や土豪、稼ぎ場所を求めてきた各地の一揆勢などを含めると凡そ八万六千の大兵団だった。

 この難しい舵取り、一様に沈黙を保っている評定の間では咳払いも聞こえないほどだ。

 誰からも良い案が出ないかと思われたとき、評定の間末席から不意に声が上がった。

「御屋形様、河越城へ後詰応援の知らせとその調略の仔細を知らせる役目、某が承りましょう」

 沈黙のなかでの一際鮮やかな若々しい声が響いたため、家臣全員が声のした方に振り向いた。

 氏康も評定の間末席からの声の主を見やった。

「そちは弁千代ではないか」

 福島くしま弁千代、当年十七歳になった容姿、人柄に秀でた氏康の秘蔵と言われた小姓である。

 駿河今川家臣、福島くしま正成の子で、河越城に籠る北条綱成の弟でもある。

「この事を城中に知らさねば一大事になりかねません。しかし囲む敵の多さには誰でも臆して小田原勢と見破られる事もあるかもしれませぬ、しかし」

 弁千代は膝を進めた。

「私には思うところ、ありまする。みごと敵を欺き城中に駆け込み、事態を事細かに知らせて参りましょう」

 氏康も弁千代の意気込みに何かを感じた。

「殊勝なことではあるが、もし敵に捕らえられれば生きては帰れぬぞ」

「河越の城に籠るは我が兄、佐衛門大夫でございます。余人はいざ知らず、もし私が敵に捕えられ、八つ裂きにされ骨を砕かれようとも、口を割って兄の顔に泥を塗るようなまねは致しませぬ。是非お許し下されますよう」

 弁千代はここで平伏し、氏康に許可を求めた。

「ならば弁千代、河越城への使者、許す。仔細を兄に知らせてこよ」

「有難き幸せにございます」

「人数を付ける、幾人ほしい?」

「いえ、大人数で行っては返って怪しまれます。事の成就を知らせる為に供の者一人をつけて下されば結構にございます」

「一人でか」

「いかにも」

 弁千代の顔には決死の思いが現れているようだった。

「ならばこれより河越城に向かい出立致します。御屋形様、今生の別れとなるやもしれませぬが、我が身に何事が起きようとも河越の城に小田原北條家の旗を立てて下さいまし」

 弁千代は氏康に最後の別れを述べると評定の間を辞した。

「小太郎、河越を囲む公方と管領の布陣はわかるか」

「はい、まず公方様は砂久保と呼ばれる、川越城から南に一里半ほどにある御味方諏訪右馬亮殿居城、寺尾城(埼玉県川越市寺尾)の間近の土地に陣を張られた様子。朝定殿は東明寺と呼ばれる川越城から半里ほど西にある寺院の近く、また憲政殿は川越城の西側二里半ほどの入間川の崖(埼玉県狭山市柏原:城山砦または上杉砦とも)を陣所としているようにござる」

「左様か」

 氏康は幾分思案していたが、うむ、と一言いうなり下知を始めた。

「元忠、そちを先陣とする。これより支度をして江戸城へ向かい、追って下知あるまで江戸に詰めよ。また江戸城に詰めた後、人数を揃えて弁千代に同道し河越城間際まで付き添え」

「畏まりました」

「盛昌、笠原信為と共に諏訪右馬亮の籠る寺尾城に詰め、崖の陣所に寄る憲政と砂久保に陣を張った晴氏を牽制せよ」

「畏まってござる」

「しかる後、我が下知あるまで右馬亮と共に寺尾城に籠れ」

 そう言うと、氏康はすっくと立ち上がった。

「皆々に申し置く、これより順々に小田原より軍を発行し、河越に攻め下る。下知あるまで合戦の支度、怠るでない」

 氏康の一言で居並ぶ諸将は一斉に平伏し、氏康が評定の間を去ると戦支度のために次々に自らの居城陣所に帰って行った。

 そしてまず第一陣の多目元忠の部隊が弁千代を伴い江戸城に向かったのは翌日の事。

 更にその翌日、大道寺盛昌と笠原信為が寺尾城に出発。

 氏康は岡崎城(神奈川県平塚市岡崎)、玉縄城(神奈川県鎌倉市城廻)、住吉城(神奈川県逗子市小坪)、小机城(神奈川県横浜市港北区小机)、奥沢城(東京都世田谷区奥沢)に使いを出し、本隊出陣の際には人数を出来るだけ集めて道々馳せ参じよと伝令を飛ばした。

 また、浦賀城(神奈川県横須賀市浦賀町)、三崎城(神奈川県三浦市城山町)、新井城(神奈川県三浦市三崎町)にはこの時期に付け込んで房総の里見が攻め入らぬとも限らぬ故、守りを固めよと阿波の脅威にも対応し、様々な水面下工作を施していた。

 そして十一月、多目元忠に同道されて江戸城までたどり着いた弁千代は、更に小部隊に付き添われて志村城、赤塚城を抜けた。

「多目様、御付き添いは此処までで結構にございます」

 この時弁千代は、腹巻の上に直垂を着て折烏帽子、何処の涼やかなる使者ぞと思えるいでたちだった。

 先に弁千代が語っていた思うところとはこれだったようだ。

「ここより先は大人数での行動は目立ち過ぎまする」

 ここまでは北條領だが、この先の滝の城(埼玉県所沢市)、難波田城(埼玉県富士見市)などが睥睨する両上杉領に入る事になる。

「うむ、では我らはこれより江戸城に戻り御屋形様をお待ちしてから河越に後詰に参る。弁千代、そなたの生涯の働きこの時と思い、ずいぶんと才覚を巡らして必ず入城するのだぞ」

「多目様のご厚情忝く。必ずや城内に辿り着き、小田原の秘策、伝え申します」

 多目元忠と別れた弁千代は小太郎配下の忍一人を引き連れ、そのまま足を西に向けて滝の城をすり抜け公方の陣所である砂久保と入間川の間を通って扇谷の陣所、東明寺までたどり着いた。広大な東明寺の敷地には溢れんばかりの朝定の軍勢が出入りしており、河越城に最接近している仕寄り場と言えた。

 まさに河越城を取り巻く軍勢によって飛ぶ鳥すら抜けられぬのではとも思える布陣になっている。

 ここで大きく息を吸い、高ぶる気持ちを落ち着けた弁千代は、今まで付いてきてくれた従者に別れを告げた。

「ではそなたとも此処で別れよう」

 その従者とは知らせをもたらした二曲輪猪助である。

 囲まれた河越城をその目で見、小田原に知らせることの出来た者として特に小太郎から指名されていた。

「私は棟梁(小太郎)から必ず弁千代様に付き従い、河越の事見届けよと言い使っておりますれば御懸念無用にございます」

「いや、そうではない。某がこの河越入城、上手くいっても捕えられても、御屋形様に伝えられる者がいなければ今後の陣立てに都合が悪い」

「左様にございまするか、わかり申した。ならばここでお別れにございます。弁千代様が無事河越城に入られた事を見極めてから御味方にその事、伝えまする」

「うむ、頼んだぞ。その方も達者でな」

 猪助がふと笑いを漏らした。

「忍に達者でなどと声をかけられるお武家は珍しゅうございます」

「そうか」

 互いに笑い合った弁千代と猪助。

「ならばこれにてさらばである」

 弁千代は牽いて来た馬の背に颯と跨ると、朝定の陣がある東明寺方面に馬を打たせて行った。

「流石は佐衛門大夫様の御舎弟よ。あの気負わぬ背を見るに、事をし損ずる事もあるまい」

 弁千代と別れた猪助だったが、東明寺付近までは朝定の軍勢に悟られぬ様に背後を付いて行く。

 そして半刻ほど付かず離れず付いてゆく猪助だったが、この弁千代の行動に少々疑問を持ち始めた。

<何故敵の大将の一人、扇谷殿の陣所に近づくのだろう>

 更に半刻、いよいよ弁千代が東明寺参道に入ると思われた。

<なんと、このままでは敵陣に入ってしまうぞ>

 と、その直前、朝定の軍勢の真正面に一人乗りつけ、我を見よとばかりに河越城に向けて馬を打た始めた。

<なんと!敵中から河越城に向かうとは、あのいでたちはこの為だったか!>

 猪助が弁千代の策に思いついたとき、東明寺の陣所ではざわめきが起こっていた。

「ありゃ何じゃ?」

 足軽雑兵の類は口々に騒ぎ始めた。中には物知り風の者も居るらしく、

「あの折烏帽子に直垂括り袴の姿じゃ、何処かの殿様が使いを出されたのだろ」などと訳知りで周りに説明している。

 しかしこの騒ぎが朝定をはじめ、参陣している諸将に伝わらぬ訳はない。

「何処の手の者であるか、調べよ」

 各所で声が上がり始めた。

 弁千代の今の位置から河越城まで凡そ二十町(約二キロ)程、東明寺の陣所からは二町(二百メートル)程。

 東明寺から取り調べの人数を出せば、しずしずと馬を打たせる弁千代に追いつくのは簡単な事だろう。

<これはまずいな>

 猪助は急ぎ東明寺の参道へ走り込んだ。

「公方様よりの伝令にございます!」

 この言葉は弁千代の策を理解した証拠でもあった。

<この河越を囲む軍勢の、何処かの使者と思わせて河越城に乗り込む腹だったか>

 それ故わざと遠方まで聞こえるように大声を挙げた。

 東明寺参道では朝定勢の足軽が屯しており、猪助の姿を見るなり槍を構える。

「何奴じゃ」

「公方様よりの伝令にございます、急ぎ朝定様にお目通りを」

「公方様からじゃと?」

 そう声をかけたのは足軽の後ろに控えていた組頭だろうか。

「はい、いま目の前で馬を打たせている者は公方様から河越の佐衛門大夫綱成殿への使者にございます、急ぎの事ゆえお伝えする事が遅れ申した」

「そうか、ならば儂がお知らせ申し上げよう」

「宜しくお頼み申します、某は取り急ぎ憲政様の陣までお伝えに向かいまする」

 さっと踵を返して二人がその場を二・三歩離れた時、猪助の言葉に組頭は疑問が浮かんだ。

「憲政様の陣所と申したか?」

 振り向いた組頭の視界には、既に猪助の姿はなかった。

「あやつ、これから憲政様の陣へ向かうとか言うたな。これから向かうのか?」

 憲政の陣所はこの東明寺から南西へ約二里半。河越城を囲む公方管領勢にとっては一番離れた場所にある陣所だ。組頭の疑問はもっともなことだろう。

 さて、姿を消したように見えた猪助だったが、実は東明寺東南にある足軽が詰めていた数ある掘立の小屋の一つに入っていた。

 そしていつの間にか具足姿の足軽に化けている。

 どうやら物陰で用を足していた足軽を見つけたのを幸いと、ぼんのくぼ辺りを殴りつけて気絶させ、具足を奪い取って身に付けたようだ。

<ここなら弁千代様がよう見える>

 そこは見渡す限りの葦原の中に河越城が見える絶好の位置になっている。

 周りの足軽に交じって槍の穂先を研ぎ始めた。

「しかし聞いたか」

 周りにいる足軽達の話が何とはなしに耳に入って来た。


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