河東一乱(後編)
天文十四年六月。
駿府からの要請で、京から一人の僧が小田原に遣わされた。
名を道増と名乗るこの僧、天台宗聖護院門跡を務める近衛尚通の子である。
先に崇孚の考えていた小田原との和睦の使者として京から呼ばれており、形は和睦だが北條家に不利な条件を持って和睦が成立しないように言付かっていた。
そしてその通り小田原に入り氏康と会見を果たし、結果は物別れに終わらせた。
これは崇孚の計画通り。
小田原から道増が駿府に立ち寄り、事の顛末の報告を受けた崇孚、慣れない笑顔を道増に送ったとか。
そして数日に亘る酒宴を開き、愈々京に帰洛する日を迎えると、使者のそれに見合う以上の贈りものを持たせ駿府を送りだした。
「愈々ですぞ」
慣れない笑顔を続けたせいか、崇孚はしきりに顔を撫でている。
「御師様、お顔をどうされた?」
「いや、別にどうという事もありませぬ」
「左様ですか」
ちらと崇孚を見た義元だった。
「では、これから北條との戦、仕掛けますぞ」
「はい。まずは我らが富士川を越え善得寺城に入り、そこで晴信殿と落ち合うため使者を遣わしましょう。晴信殿との会見で北條との布陣を打ち合わせる事が肝要」
この善得寺城、静岡県富士見市にあった寺で、元々は管領上杉氏の建立した寺を今川家が管理下に置いており、実質崇孚が持住となっている要塞化した寺である。
こうして道増が帰洛した直後に今川家は軍事行動を起こした。
同年七月下旬に軍勢を催した義元は駿府屋形を出陣し、今川勢が富士川を越えて善得寺城に入る。
日を合わせて甲斐は躑躅ヶ崎より武田晴信が軍勢を率い、善得寺城に現れて義元との会見が実現した。
その善得寺本堂では畳が二つ用意され、その其々に義元と晴信が対面して座している。
両方数人の直臣を従えており、晴信は直垂折烏帽子姿になっていた。
「此度は今川の為に動いてくれた事、礼を言いますぞ」
晴信とは対照的に義元の姿は水干に薄化粧、殿上眉を施した公家のような姿だ。
この義元の武家とは思えぬ言葉使いと姿に晴信は少々違和感を持ったようで、品定めをするかのように眼が動いた。無論義元には気づかれぬよう慎重に。
「義兄上との手を組んでの戦、この晴信、馳せ参ぜずば武門が廃りましょう」
「これは嬉しい事を申してくれる。ならば此度は宜しゅう頼みましたぞ」
この何とも違和感がぬぐい切れぬ義元とはどのような男なのか、言葉で探りを入れてみた。
「とは言うものの」
晴信は否定とも取れる言葉を吐き様子を窺う。
「如何された?」
「我が武田は先頃北條殿と盟約を結んだ間柄にて、矢面に立つのは少々憚られる」
「なんと、晴信殿は我が今川に付いてくれたと思うておったに」
義元の表情が早くも曇りだしたのを晴信は見逃さなかった。
「晴信殿が動いてくれねばこの戦、危うい」
「ははは、何を大仰な。今川家のみでも充分に動けましょう」
「まこと、晴信殿は動かぬのか」
「動き辛き戦にござる」
益々義元の狼狽が見えたとき、今川家臣団から僧侶と思しき大柄な男が一礼して義元の近くに進み出ると、
「崇孚」と名を呼んだ義元の顔は、その僧侶を見た途端に安堵の表情に変わっていった。
よほど安心したのだろう。
「よろしいですかな」
義元は頷く。どうやら後はこの大柄な僧侶が義元の代理を務めるようだ。
「武田様、先の北條家との盟約は今川にも伝わっておりました。しかしそこを曲げて今川に付いて頂けたものと確信しております」
「如何にも左様だが、人の目もあるでな」
「ははははは」
崇孚と呼ばれた男が笑った様だが、表情が変わらない事に気がついた晴信、少々気味の悪い印象をこの僧侶に受けた。
「武田様のおっしゃる事、確かにその通りにございますな。ならば我が今川と共に行軍して頂くのみで結構にございます」
「それでよいのか」
「それ以上は望みませぬ。ましてや河東の地を界として国境を接する甲斐と駿河でございます。河東の地を北條から取り返す事ができれば、更にその後、武田様と共に北條殿の矛先をかわす事が出来れば本望」
晴信は内心驚いた。成程、今川家の背骨はこの男か。
今川家と共に行動するのみでよい等と言ってはいるが、戦に勝っても暗に武田に譲り渡す河東の領地は無いと言っているのだ。
更に河東の地を今川が手に入れると同時に武田も無償で北條の侵入を防げと言っている。
これには晴信も舌を巻いた。
「はははは、河東の地を取り戻すのみで良いとは、これは無欲でござるな」
何が無欲なものか。
「無欲こそ真の悟りとも言えましょう」
無表情なままの僧侶、無欲どころか手に入れた物は渡さじとしているではないか。
晴信は半ば呆れながら今川家と共に動く事を承諾した。
「なにとぞよしなに」
そして同年九月、今川、武田両軍が善得寺城を出陣し、蔓山氏元が守る駿東の長久保城に大挙して押し寄せてきた。
今川勢は長久保城に対陣するため陣城を築きはじめ、長期戦に備えるように見える。
頃合いを同じくして小田原の氏康の元にも今川動くの報が知らされた。
「義元が出張って来たか」
「この時期に面倒な事じゃの」
「しかも武田が一緒とは」
義元動くの報をもたらしたのは、今川勢に囲まれた長久保城からの加勢依頼の早馬である。
囲まれる前に城を抜け出して小田原に馬を走らせたと見えて具足も満足に着けていない。
合わせて小太郎も武蔵の動向を報告するために氏康の元に出仕していた折だったので、北と南から同時期に知らせがもたらされた事になる。
「しかし長久保城の手当はしておかぬとなりますまい」
そう忠告をしたのは氏康の隣に座っている叔父、幻庵宗哲だ。
通称は北條幻庵と呼ばれた箱根別当の僧侶で、家祖早雲の子である。
「はい、そこをぬかると後々河東の地侍の離反を招きます故。しかし松山の朝定が不穏な動きをしておるこの時期、如何したものか」
焦るでもなく気負うでもない鷹揚な言葉は、それを聞く人を安心させるような不思議な響きを持っている。
「それ故、面倒な事と申したのですよ」
幻庵は優しい微笑みを湛えていた。
この幻庵も僧侶特有のゆったりした言葉使いのため、この二人が会話をすると茶飲み話のようにも聞こえてくる。
「今の朝定が動きを見るに、小太郎の知らせを元にすると平井の憲政を巻き込んで旧領河越を取り返そうとしておるようじゃな」
「はい。しかし河越に籠る我が軍は佐衛門大夫(さえもんのだいぶ:北條綱成)の手勢二千程は詰めておりますが、如何したものか」
幻庵は手前に出されていた白湯を一口すすった。
「この叔父が千程を引き連れて河越に籠りましょう」
「叔父上様が河越に?」
「手勢千人程では大した力にもなれぬが、氏康殿が後ろに憂いを持たずに今川と当たるには丁度良い心付けとなりましょう」
「しかしそれでは」
「心配には及ぶまい。氏康殿が河東を落ちつけたらゆるゆると河越に参られるがよかろう」
「叔父上が河越に駆けつけて下されても三千にしかなりませぬ、両上杉の軍勢が集まれば万を超す軍勢になりましょう」
「ははは、それは大層な人数ですな。流石にその人数を相手では、三千では心元ない。されば氏康殿に手早く今川を纏めて頂き、拙僧を助けに来てもらいましょうかの」
「今川も早々と引き揚げさせてはくれますまい」
「先に同盟したはずの武田もおりますからな」
「利に敏い武田故驚きはしませぬが、しかし節操がない」
「乱世故致し方ございますまい」
「それ故少々対応が面倒にござる」
「そこは氏康殿の才覚にお任せじゃ」
「叔父上も難しき事を簡単に言われる事よ」
氏康と幻庵が二人で笑いあい、その笑いを収めた幻庵、
「ならば事は速やかに仕りましょう。これより河越に向かいまする」
「叔父上、宜しくお頼み申します」
翌日の早朝、幻庵が手勢を引き連れ河越に向かい、それを見送った氏康も小田原の兵を曲輪に集め駿河に出陣した。
そして氏康率いる北条勢が長久保城付近まで到着し、城を囲む今川勢を捕捉すると、休む間もなく軽く一当たりとばかりに騎馬隊を差し向けた。
するとそれが合図だったかのように、矛先を交える事もせずに武田勢は甲斐に引き、今川勢は善得寺城に引き上げをはじめたようだ。
このため追撃する北條勢は、善得寺城に程近い善得寺城の南、駿河湾に面する台地にある吉原城に詰める事になった。
この吉原城、現在では正確に場所が特定できていないのだとか。
推定で旧吉原市にあったらしい事と、同地の天香久山砦と同じらしいとされている。
そしてこの吉原城に布陣を終えた氏康、義元とここで対陣する事となるのだが、九月中旬に入った頃、氏康の元に武蔵からの異変を知らせる早馬が到着した。
早馬でやってきた甲冑姿の武者が足音を響かせながら氏康の眼前に現れ、どっかと座り平伏したが、なかなか報告の言葉が出ない。
「如何したのじゃ」
昼夜を分かたず馬を走らせていたのだろう、顔は埃に塗れ息も乱れていた。
ようやく息を整え終わると、
「河越の城が囲まれましてございます」
驚愕の出来事とも言える事態を報告した。
この報告を受けた氏康の脳裏に電光が走る。
「長久保城の囲みを簡単に解いたのはこの為だったか」
更に物見の報告も入り、再び武田の先発隊が現れて今川と合流した事が知らされた。
報告を聞き終わった氏康は、溜息を吐いた後に大笑いをしていた。
「これは敵わん、全軍長久保城まで退却するぞ」
未だ武田勢本体が今川と合流を果たす前に一気に北條勢は長久保城まで引き、吉原城を放棄したのは九月十六日の事だった。
北條勢が引いた事を察知した義元は、自落した吉原城を接収、そのままの勢いで長久保城近くまで寄せてこれを包囲するかの動きを見せ始めた。
その頃武蔵の河越城では、両上杉が北武蔵・下野・上野・常陸・下総の軍勢を引き連れ、凡そ六万五千騎と言われる人数を押し立てて平井を出陣した。
そして九月二十六日、河越城を囲んだ両上杉配下の将、成田・荻谷・和田・難波田・彦部・大石・藤田・白倉・上原等が郎党を引き連れて無数とも思われる旗を河越城下に押し立てた風景はまさに壮観とも言えたが、それは味方であればの話。
「ほっほっほ、佐衛門大夫(綱成)殿、これは大層な軍勢がやってまいりましたぞ」
その壮観図を河越城の望楼櫓に立つ幻庵宗哲が眺めていた。
「幻庵様、笑いごとではありますまい」
そう言ったのは幻庵の隣に立つ綱成だ。
本来ならこの人数を見れば縮みあがってしまうだろう。
しかし、どうも幻庵の言葉を聞いていると、物見遊山か世間話の様で緊張と云うものがない。
これも幻庵の徳なのであろうか。
一緒にいた綱成もこの人数を見て初めは気負ったのだが、どこか肩の力が抜けて自然体になれた気がしていた。
「さて、我らは御屋形様がこの河越に参られるまでは、しっかりと木戸を固めて城を守りましょうぞ」
綱成が幻庵を見ながらくすりと笑い、
「幻庵様がこの河越に参られたのは有難い事じゃ。場が和む」そう呟いた。
言われた幻庵も笑みを零している。
「それは褒められておるのですかな」
声を上げて笑い始めた。
「まずまず」
つられて笑顔を作った綱成、笑みを湛えたまま振り返り、居並ぶ家臣達を見やった。
「では皆々に申し置く、これよりは管領殿が関東の兵を引き連れこの河越の城を遮二無二攻め寄せるであろう。しかし城門を固くし、小田原の御屋形様が後詰に来られるまで持ちこたえるのじゃ」
城代と後詰の大将二人の、大軍に囲まれながらの余裕のある笑いは城に詰める将兵の心をどれだけ救ったことだろう。
自らが仕える御大将の胆の太さに絶対勝利を疑わない心地になったようだ。
綱成の一声の後、河越城では兵が忙しく動き回り、総構えの土塁上の土塀には北條甍の指物を並べ、遠方から望める望楼櫓には朽ち葉色の八幡の旗を掲げた。
また城の外では両上杉に引き連れられた関東の兵が所狭しと旗指物を押し立て陣幕を押し並べ、其処此処に仕寄場(簡易な掘や土塁の事)を構築していた。
そして二十六日の日も暮れ、夜空にはそよ風に靡く芒に見え隠れする月が夜空に低く昇ると、河越城外では両上杉の陣営から笛や鼓の音が鳴り響き、合戦前夜の雅なひと時が流れていた。
その河越城包囲軍から二人、下総は関宿に居る古河公方の奏者、梁田晴助の元に向かった者がいた。
上杉朝定の正使として難波田善銀、副史として小野因幡守である。
河越と関宿、馬で走れば一日でお釣りのくる距離だ。
この正副二人の使者が関宿城に到着した時は、両上杉軍が包囲した河越城攻めを始めた正にその頃だった。
「これは善銀殿、遥々関宿の地に参られるとは如何な用件でござろう」
梁田晴助、齢を重ねて当年三十九歳の、脂の乗り切った壮年と言っても良い威丈夫になっていた。在りし日の粘る笑みはそのままだったが、公方の奏者は関東八屋形を統べる人物として集大していたようだ。
ちなみに関東八屋形とは室町幕府から関東に於いて、屋形号を称する事が許された有力大名である。
下野の宇都宮氏、同那須氏、同小山氏、常陸の佐竹氏、同小田氏、同大掾氏、下総の結城氏、同千葉氏の事で、今もって北関東では大きな影響力を持っていた。
「晴助殿、愈々他国の凶徒、小田原の北條を討ち滅ぼす時が参りましたぞ」
善銀がいつもの人懐こい笑顔を見せながら開口一番、いきなり本題を切りだしたので、晴助は一瞬呆けたような顔をした。
「なんと申された?」
正にいきなりの申し出に戸惑う晴助を見た善銀、丁度今頃行われているであろう河越での事を話して聞かせた。
「我が扇谷上杉と山内上杉の管領家が手に手を取って河越の城に攻め寄せた事は御存じか」
「いや、聞いてはおらぬ。それは真でござるか」
「真にござる。丁度今頃は六万の大軍を持って攻め寄せておる最中にござる」
「そのような大戦がはじまったのか」
しかし、ふと疑問がよぎる。
「ならば小田原からの後詰が大挙して現れるのではないか」
この返事に善銀は不敵な笑いをみせた。
「今の北條は西を今川・武田に攻められて武蔵には出て来る事叶いますまい」
「北條殿は今川とも戦、しておるのか」
「我が両上杉と今川・武田の軍勢で北條を包囲しておるのでござるよ」
「なんと」
晴助もこの壮大な包囲網に中てられたのか少々茫然とした。
「これは駿府の義元殿から申し入れがあっての事なのですが、今川は天文六年頃に駿河は富士川から東、河東の土地一帯を北條に掠め取られておった様にござってな」
善銀は一呼吸置き、
「それを取り返す為とか申しておった故、今川も必死に働く事でござろう」
「そのような事があったか」
晴助は事の壮大さに暫し思考を落ちつけようとしていた。
「成程、そこでその包囲の纏めとして公方様の御旗を立てる心算でこの梁田を頼って参られたのだな」
「はははは、流石に察しが良い。その通りにござる。そしてこの戦にて北條を屠る事ができ申さば」
言葉を区切った善銀、再び人懐こい笑顔を見せながら
「鎌倉を取り返し、公方様をその鎌倉にお戻しする事もでき申す。また古き鎌倉の御所を再び興す事が出来れば当家も管領の職を守って君臣末永く社稷を守ることができると云うもの」
この言葉に晴助は心惹かれた。
このまま北條家の増長を放っておいては何れ公方も管領も併吞してしまうだろうと云う危惧は昔から持ち合わせていた事もあり、善銀の申し入れは非常に魅力的に映った。
そして即日、古河城に居る公方足利晴氏の元に、関宿の梁田晴助と武蔵河越包囲軍から上杉朝定の使者となった難波田善銀および小野因幡守が参内し、足利家の御旗を頂戴するために説得する事になった。
これには公方晴氏も心を動かされたようだ。
曾祖父成氏の時代で途切れた室町幕府の関東出先機関、鎌倉府を復興させ、鎌倉公方を自分の代で復活できると云う希望は、力を失いつつある古河公方家の復興も意味する。
これが魅力的で無いはずはない。
しかし、晴氏は即答はしなかった。
晴氏にも思うところはある。
そして古河の御所での参内を済ませた善銀と因幡守が、古河を離れて河越包囲軍に戻って行ったその直後とも云える時に、公方にとって運命の選択とも云える使者が小田原は氏康から送られてきた。
内容は河越城を囲む上杉勢の攻撃に待ったをかけさせるため、公方に働きかけてもらうための使者だった。
この両方の使者を受けた晴氏は、どちらにも即答はできず一人悩んだ。懊悩と言ってよいかもしれぬ。
しかし悩んだところでどちらも選べない事が多々あるのはいつの世でもある事。
悩む事に慣れていない晴氏はつい酒に手を伸ばしていた。
だが酒を喰らっても悩みが晴れるわけでもなく、悩んだ末に御所奥に晴氏は歩いてゆき、芳春院の居る居間へ自然に足が向かっていた。