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関東騒乱(後北條五代記・中巻)  作者: 田口逍遙軒
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河東一乱(中編)

 上野の平井の城は、現在の群馬県藤岡市にあった。

 山間部に開けた土地に日頃居住する平城を造り、西南部に隆起する山を要害の詰め城として金山城を配置している堅固な城であったようだ。

 当時は関東を古河公方と二分する大勢力、管領上杉氏の居城だったため城下町も発展していたとされるが、現在は住宅地として平穏な時が流れている。

 その平井の平城では朝から酒宴が開かれていた。

 特に何かの催しと言う訳ではなく、二十三歳になる上杉憲政が近臣と日がな一日過ごすための日課になっており、若い主人のこの自堕落な生活に心ある家臣は憲政を諌める事もあったようだが、諫言を嫌った憲政に遠ざけられてしまい、ますます放蕩を続ける有様だった。

 そんな平井の城へ駿河からの使者が不意に現れた。

「何処からの使者であるか」

 酒に焼けた赤ら顔の憲政が回らぬ口をようやく回して使者来着を伝えに来た近臣に聞き返していた。

「駿河の今川家からと申しておりまする」

 小姓が憲政の右手に持った酒盃に並々と白酒を注ぐと、一息に飲み干す。

「そのような遠国から何用で参ったのじゃ。まぁよい、暫し待たせておけ」

 強気な言葉は生まれつきのものだろうか。

 この酒宴が終わったのはその日の夕暮も近かった。

 この待たせ様、関東管領職の威厳を知らしめる為といえばまだ聞こえが良いが、しかしこの憲政は酒に溺れていただけに過ぎない。

 日も暮れてきた頃、家臣に再度使者来訪を告げられて思い出したようで、急ぎ使者が待つ広間へと向かう有様だった。

 ばたばたと足音も騒がしく広間に向かう憲政が広間に入ると、駿河の使者が平伏していた。

「待たせてしもうたな」

 酒の酔いが醒めた憲政は、酔っている時と性格が一変しており、酒が抜けると非常に気弱な印象を受けた。

 駿河の使者は待たされた事を気にする素振りも無く挨拶をはじめる。

「上杉憲政様に於かれましては御機嫌麗しゅう、某、駿府は今川義元様の使者を務めまする庵原忠胤にございます」

「左様か、して此の度は何用でこの平井まで参られた」

 憲政は二日酔いにでもなったのだろう、しきりに目をこすり、顔を手で覆っている。

 その様子を見た庵原、

「管領様は御顔のお色が優れぬ様にお見受け致しまする、ご尊顔を拝するのは明朝に致す方が宜しいようでございますな」

 憲政は一瞬ではあるが自らの体に具合を問うように動きを止めた。

「すまぬ、そなたの申す通り明朝に引見する故今日はそこにおる菅谷の手引きで引き取ってくれ」

 菅谷とは近頃憲政の近臣として出頭してきた者で、今日の使者引見にも憲政に侍っていた。

 憲政はそう言うと、いそいそと広間を退出してしまった。

 庵原は顔を幾分下に向け、片方の頬で含み笑いをしていた。

<これが関東の古き権威、管領家か。古き物は何れ朽ち果てるものよな>

 そして菅谷に案内されて宛がわれた屋敷に入る事になった。

 一方の扇谷上杉家でも時を同じくして駿河の使者がやって来ていた。

 此の当時、形式的には山内上杉家の被官となっていた扇谷上杉家だったが、両上杉家に付く豪族の意向もあって実質は再び別の勢力となっている。

 永正、大永以前の状態に戻っていたと言っても良いだろう。

 松山城の一角で上杉朝定が駿河の使者を引見していた。

「では今川の屋形は甲斐武田殿と手を結ぶと?しかし今川殿は既に武田殿とは同盟されておったではないか」

「つい先ごろ甲斐の武田殿は北條殿と結んだ様子にて、それを阻止せんが為の両上杉家と今川家の同盟にござる」

「ふむ、北條には代々煮え湯を飲まされ続けておる故今川殿との同盟に否やは無いが、武田殿がのう」

「なに心配には及びませぬよ、万が一武田殿との同盟が結ばれなくとも、武田殿は武蔵・上野に攻め入ること叶いますまい」

「何故にそう言いきれる」

「我が今川が南より牽制致しまする。それより」

 使者は少し間を置いた。

「それより、なんじゃ」

「武田家は朝定様の姉君が嫁いだ先故、こう申す事も憚る事にはございますが」

「構わぬ、申せ」

「ならば。武田殿は利に聡いお人故、両上杉家と今川家、武田家同盟で北條家を包み込む事に損は見出しますまい」

「はははは、成る程。利に聡い、良い事ではないか」

「ならば扇谷の管領家は今川と結ぶ。と云う事で宜しゅうございましょうか」

 この使者、扇谷の“管領家”と、本来なら山内上杉家の肩書である管領を持ち出して朝定の心をくすぐった。

「むろん管領の家としては室町の連枝たる今川家と手を結ぶ事に異存はない」

「ではこの同盟の儀、整いましたる事を駿府に戻り我が主、義元様にお伝え申しまする」

「うむ、義元殿にはよしなに」

 さっと立ち上がり朝定の前を辞する使者と入れ替わり、難波田弾正憲重が入ってきた。

 朝定の前に座した弾正、使者が遠ざかり館を出た頃合いを見図ってから朝定に話しかけた。

「御屋形様、此度はまこと良き使者が参りましたな」

 この難波田弾正、近頃は入道したため法名である『善銀ぜんぎん』を名乗り始めていた。

 その善銀、武者面の相好を崩して人懐こそうにしている。しかしその容貌はすでに老境に入った事を示す皺が深く刻まれていた。一つ一つが弾正の人生を刻んだものなのだろう。

「弾正か。これで父の遺言を果たす事が叶おうか」

「無論叶いましょう。更には朝定様のご威光で再び武蔵相模を北條より取り返し、かつての扇谷上杉家の武威を天下に示す時が参りましてございます」

「今川はそれほどのものであったのか」

 弾正は含み笑いを湛えながら、

「今川が重きを成すわけではありませぬよ」

「ならばどういう事じゃ」

「朝定様、貴方様が上杉家中興の祖となるべき人にござる」

「儂がか」

「左様にござる」

「儂にできるのか」

「『上様』は管領家、扇谷上杉の棟梁にございます」

 善銀は本来ならば公方を呼ぶ敬称をわざと朝定に付けた。

「上様か」

「はい。上様、今川家は平井の憲政殿と甲斐の武田殿に使者を使わしたようですが」

「うむ、使者はそう申したぞ」

「それでは足りませぬ」

「何が足りぬ?」

「この千載一遇の好機、隅の隅までに念を入れましょうぞ」

 朝定は思案するかのような表情でじっと善銀の顔を見た。

 何が足らぬ、と目が問うている。

「古河の足利家を動かすのでござるよ」

「公方か。しかし公方の室は北條家の出ぞ、如何様に動かす」

「御安心召されい。某、公方の奏者、梁田とは昵懇の間柄にて」

「うまく行くか?」

「お任せ頂けますならば、身命をかけて口説いてみせまする」

「左様か、では任せよう。公方家と我が扇谷と山内が纏まれば関東の全勢力が纏まることになるか」

 善銀は指を折りながら、

「関東の兵、凡そ八万騎程は集まりましょう」

 この八万騎の数を聞いた朝定は驚きの声を発して若い顔を紅潮させ始めた。

 一方の甲斐武田家でも今川家の使者がやって来ていた。

 躑躅ヶ崎の館で当主晴信とその近臣達の見守る中、今川の使者は中央に坐している。

「甲斐武田家と駿河今川家は既に縁戚となっておりますれば、何故北條殿と手を結ばれたのかと我が御屋形様は心を砕いておられまする」

 晴信は静かに使者を見ていた。

 この若い甲斐の支配者は、細面ではあるが中々に精悍な顔つきをしている。

 口髭も揃えたようで如何にも甲斐の実力者然とした風格も兼ね備えてきたようだ。

 その晴信の隣に侍る板垣駿河守信方が言葉を発さぬ晴信の代わりに使者と言葉を交わしていた。

「我が武田家は今川家と事を構えようと北條家に誼を通じた訳ではない」

「しかし駿河の河東方面の土地を北條家に奪われている昨今、今川家としてみれば心静かに見守る事などできようはずもございませぬ」

「今川家は北條家と事を構えようとお考えにござるか」

「事を構える前に、一度北條に河東一帯を我が今川に返してくれるよう使者を送る心算ではありまする」

「それで北條殿が河東を引き渡すか?」

「それがならずば、」

 ここで使者は一呼吸置き、さも重々しげに話しだした。

「古今聞き及ぶ事も無き大戦、考えておりまする」

 武田家の家臣が座る満座の席から歓声が発せられた。

「古今未曾有の大戦、でござるか。如何様なものなのか、不都合が無ければお伺いしたいものですな」

「恐れながら晴信様の先の奥方様の御実家、扇谷上杉家とその本家、山内上杉家が手を結ぶ事になりましょう。そして今川家が北條の蔓延る河東の土地に攻め込む」

「ふむ、それには我が武田がどうしても必要になったか」

 晴信がここで初めて使者に声をかけた。

「はい。武田様の動き如何で北條の動き、極まりますれば」

「北の両上杉家はその頃合いで、北條領となった河越を攻めさせる心算か」

「御明察にございます」

「ふむ」

「如何にござるか」

「我が武田家は信濃に矛先を向けたい時期ではあるが、余人ではなく縁戚である今川家の頼みじゃ。断れまいな」

 晴信は笑っていた。

「これで安心し申した。使者の御役目あい済みましてございます」

「なれば幾日か逗留してから駿河へ戻るとよい」

 颯っと立ち上がった晴信が足早に広間を出ると、それを追うように近臣達も出て行った。

 この今川の使者とのやり取りを後で人伝手に聞いた菅介が晴信に眼通りを願ったのは三日を過ぎたころだった。

 晴信に眼通りが叶った菅介、使者との経緯を晴信から聞くと開口一番、

「それはなりませぬ」

 菅介が声を荒げた。

「先日信濃攻めのために同盟を結んだ北條家を、利に転んで裏切ったとあらば近隣諸国に武田は信用ならずと知らしめる事と同義」

「しかし今川は我が姉の嫁ぎ先、同盟を断る事はできぬ」

 致し方なしと云った表情の晴信を見た菅介。

 その表情を見て晴信の心境を即座に読み取り言葉を選んだ。

「御屋形様、なれば今川との同盟を続けたまま北條殿を裏切らぬように成さねばなりませぬ」

「できるのか?」

「はい」

「如何様に成す」

「北條と今川の戦が始まり申したら、某が時期を見て調停の使者となりまする。その間我が武田家は、兵は出しても北條と刃を交わすこと、御控え下され。さすれば今川との同盟はそのままに、北條には恩を売れる事にもなりましょう」

 この北條との戦を避けるように事を動かそうとする菅介に、晴信は興味をもった。

「菅介、そのほう妙に北條家に肩入れをするようじゃな」

 顔は笑っている。

「肩入れ等はしておりませぬ」

 いや、肩入れしているさ。と菅介は思ったが、しかしそれは口憚る事だ。

「このままですと念願の信濃侵攻も夢のままに潰えるやもしれませぬぞ」

 からかい半分の晴信を見透かした菅介、晴信の野心をくすぐる事も忘れない。

「なれば如何したらよいのじゃ」

「先ほど申しました様に致してくださりませ」

「ならば北條はそちに任せる。良いように致せ」

「有難き幸せにございまする」

 菅介が礼をいう間に晴信は立ち上がりさっさと出て行ってしまった。

 これは日課である馬を駆けさせるためではあったのだが。

 そして再び上野は平井に戻ると、ようやく二日酔いも覚めた憲政が駿河の使者、庵原忠胤と対面していた。

 今川家との同盟がなったようだ。

「今川家の申し入れ、渡りに船である。小田原の京兆家、他国の凶徒を屠るには丁度良い」

 少々甲高い声の主は当年五十五歳の、当時は最早老年と云っても良い人物だった。

 名を長野業正と言い、上野は箕輪の領主である。

 実はこの今川家との同盟の提案を受け入れ、憲政に受け入れさせる事にしたのも長野業正で、この山内上杉家に古くから仕える頑固な年寄りは、この放蕩三昧な生活をおくる若い当主に渇を入れる意味もあってか、仇敵とも言えた北條家と戦うための方便として今川家の同盟策を受け入れたのだ。

 此の時の憲政は流石に酒も抜けていたようだが、少々不機嫌な面持ちで傀儡のように押し黙ったまま坐していた。

 憲政、この頑固な老人には頭が上がらない。

 先の酒宴後の使者対面の事もどこからか漏れ聞かれてしまったらしく、そのせいで延々と小言を言われていたらしい。

 始終仏頂面の憲政がどことなく可笑しくもあった。

 そして会見は続き、業正主導の元に同盟が成ったことを喜んだ庵原忠胤は早速攻め入る時期の申し合わせに持ち込んだ。

「なれば我が今川が北條領に攻め込む時に合わせ早馬を遣わします故、その時には北からの北條の押さえ、頼み入りまする」

「うむ、今川家の知らせ如何で此の方も手早く動けよう。ぬからず頼みましたぞ」

 先の宜しからぬ対面と異なり、業正が侍る憲政との対面は確約とも言える上杉家と今川家の同盟となった。

 時は天文十四年五月、今川家は山内・扇谷両上杉家と武田家を同盟国として引き入れ、対北條戦に備える事に成功した。


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