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関東騒乱(後北條五代記・中巻)  作者: 田口逍遙軒
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春松院

 義明討ち死にの報を受けた里見義堯は、相模台から移っていた国府台を引き払い安房の自領に引き上げをはじめた。

「これで暫くは北條の目を真里谷と小弓に向ける事ができるか」

 既に義堯の脳裏には、義明無き後の上総の空白地を攻略する絵図面が出来上がっていたようだ。

 一方、小弓の義明を討ち取った氏康は、本陣陣幕中央に父氏綱を据えて首実検を済ませると再び軍を動かし、同行させた武田信隆を一軍の将として小弓の御所まで寄せさせた。

 勝ちに乗った勢いで北條軍はこれを鎧袖一触に攻め落とし、更に武田信応が引きあげた真里谷城をも囲む。

 この相模台で行われた合戦の前に氏康が仕組んだ調略によって真里谷武田家の結束は弱まっていたようで、其々の思惑の中、北條勢の先陣として現れた前家督、武田信隆を目の当たりにした時に武田家は崩れた。

 そして真里谷城を落とすと信応を追放し、信隆を城主として返り咲かせる事に成功する。

 義明の一族は、嫡男義純は此の度の合戦で討ち死にしたが、弟頼純は一時期里見義堯の庇護の元にあったようだ。

 長女青岳尼は鎌倉の太平寺に尼として預けられた。

 この一連の作業を終わらせた氏康・氏綱親子は小田原に戻った。

 そしてこの戦勝祝いとして鶴岡八幡宮を改築しようと考えたようである。

 この鶴岡八幡宮、元々は源頼朝公が建立したそうだ。以降、将軍家の尊敬が厚く関東の一大霊場として威を放っていたが、いつの間にか戦乱に巻き込まれて行き伽藍は朽ち果て修築もされずに放置されていた。

「しかし何故鶴岡八幡宮の修繕をされるのですか?」

 氏康と氏綱は数人の共周りを引き連れて鎌倉の朽ち果てた古い神社に詣でていた。

「儂はな、常日頃この鶴岡八幡宮を信仰しておった。そして先の小弓との戦にも願をかけていたのじゃ」

「左様でございましたか」

「この八幡宮、今は朽ち果て昔を偲ばせるよすがもないが、古くは源頼義公が、京の石清水八幡宮を由比ヶ浜に祀り給うたものじゃ。そしてその後、頼朝公が治承の年に源氏再興の祈願を基に此の地に遷されたのが始まり」

「その後頼朝公は幕府を興された」

「左様。此度は武運長久の為、それと国府台の勝ち戦の礼と言ったところじゃ。この社は戦勝祈願の社でもある故な」

「ならば某もお礼詣でを致しましょう」

 親子二人は揃って朽ちた社に入って行った。

 この日、詣でを済ませた親子は鶴岡八幡宮を見まわり大凡の見当を付けると、暫くして人足達が大挙して訪れる事になる。

 大旦那となった氏綱、自らが再建の工事現場を見まわり人足達に声を掛け、みるみる修繕されて行った。

 神宮寺、若宮、弁財天の社、白幡明神、鐘楼、総門、玉垣、石橋、百八十間の廊下まで金銀を散りばめて修復したと相州兵乱記に記録されている。

 そしてこの鶴岡八幡宮の修繕が終わってから後の天文七年、頃合いも良と見た氏綱は嫡子氏康に家督を譲った。

 先の国府台合戦での采配や調略を見て北條家を任せられると思ったのだろう。

 この年から数年は平穏な時が流れた。

 同年、氏康とその正室瑞渓院との間に嫡男松千代丸、後年の氏政が誕生し、翌々年には三男藤菊丸、後年の氏照、続いて翌年の天文十七年には四男の乙千代丸、氏邦が生まれた。

 また北條家としては特筆すべき出来事、古河公方晴氏と芳春院との間に子が出来た。

 名を梅千代王丸と言った。

 これで古河公方家と北條家の繋がりが更に強固になったと言えよう。

 これに安心したのか、氏綱が不意に病に臥してしまう。

 病の進行は思いの外早く、病気平癒の為の祈祷を持っても各地から取り寄せた霊薬を施しても一向に症状の改善が見られない。

 そんな中でも各地の情勢は刻一刻と移り変わって行く。

 甲斐の武田信虎が信濃へ侵攻、諏訪頼重と村上義清との連合を成立させ、小県へ侵攻し、海野氏を敗走させた。此の中に後年北條氏の運命を左右する真田昌幸の父、幸隆も居たが、この合戦で主家海野氏が没落したため自らは箕輪城主、長野業正を頼って上野に落ちのびている。

 更に真里谷武田家の当主になった信隆も笹子城に籠る同族、武田信茂を討った事により内紛が発生し、里見氏と結んだ信応との争いも激化し、里見氏と北條氏の介入を招いていた。

 そして小田原城の御殿一角では、氏康が各地の事象を氏綱の枕頭に座り語りかける様に伝えていた。

 やせ細り、つい先年までの凛とした面影も消え入りかけた父氏綱を見ながら氏康は何を思うのだろうか。

「父上、早う病を癒して下され。甲斐の武田に思いもかけぬ動きがありましたぞ」

 氏綱は寝ているのだろうか、目を瞑ったままだ。

「信虎殿が信濃の小県から凱旋し、そのまま駿府の婿殿、義元に会う為に駿河に赴いたところ、倅の晴信が甲斐駿河の境に兵を置いて父を追放したとの事でございます」

 父は小さく息をしていた。

 北條家を纏め上げ、父早雲の後を継いで伊豆相模から武蔵の一部に領国を広げ、北條家を古河の公方と縁者にまでした父も、今は静かに終焉の刻を迎えようとしているのだろうか。

「父上」

 氏康は声をかけた。

 何か、今声をかけなければ直ぐにでも父が浄土に向かってしまうのではないかとの思いが強かった。

 声をかけても何も答えてくれない父を見て不意に涙が零れ落ちた。

「上総の真里谷も内紛が出来しました。これを期に上総へも我が北條は侵攻致しますぞ。早う病を癒されてまた共に上総へ参りましょう」

 涙を拭った氏康が再び父に目を向けると、氏綱が目を開いていた。

「父上!気がつかれましたか」

 嬉しさに笑顔になるが目には涙を溜めたままの倅を見た氏綱、

「何を泣いておる、北條家当主がその様な事では家を纏める事などできぬぞ」

 そう言いながら父は落ちくぼんだ目で笑顔を作っていた。

「左様でござりますな、これはお恥ずかしい所をお見せし申した」

 氏康は懐紙を使って涙を拭いた。

「氏康、安房の里見には気を付けよ。あれはあれで中々強か(したたか)」

「はい、気を抜かずに見て参りましょう」

「それとな、甲斐の事」

 父はここで大きく、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 長く言葉をつなぐのが苦しかったのだろう。

「晴信とは和睦するがよい」

「何故にございまするか」

「甲斐武田と駿河今川、是が纏まっては些かきつい」

 氏康は破顔した。

「誠、きつうございましょうなぁ」

 親子二人の含み笑いが聞こえた。

「是に纏まられては管領殿が五月蠅くなる」

「憲政殿と朝定殿ですか。確かに河越城を我が方に盗られた朝定殿は心中穏やかではありますまい」

「それと、晴氏様」

 父はつい先日、娘芳春院との間に子を生した古河公方の名を出した。

「晴氏様が如何なされました」

「梁田と晴氏、こちらも気を抜くでないぞ。しかしそちは万事我より優れておる生まれ。心配する程でもなかろうがの」

 ここで笑顔になった父は、再び大きく息をすると、少々疲れたと言い目を瞑った。

 僅かな時であったが父と言葉を交わして氏康は心が休まるのを感じていた。

「では今より下がりまする。ごゆっくりお休み下され」

 そして氏康が枕頭を立ちあがった時に異変は訪れた。

 父の息が急に荒くなり、そして一つ、大きく息を吸い込むと、間もなく静寂が辺りを包んだ。

「父上?」

 父は、子の問いかけに答えることは無かった。


 天文十年七月十九日、北條氏綱享年五十五歳。


 優れた政治家として後年称賛された北條家二代目が浄土に渡って行った。

 亡骸は父宗瑞の眠る小田原は湯本の早雲寺で煙と為し、戒名を春松院快翁活公居士と為して早雲寺境内の春松院に葬られた。

 しかし今は、その春松院は残ってはいない。

 秀吉の小田原攻めの折り、早雲寺の大伽藍諸共全て灰燼に帰したため、今もって氏綱の葬られた墓所の位置は不明となってしまった。

 そしてこの氏綱の戒名になった春松院快翁活公居士には北條家の不思議な因果が込められている。

 春松院の文字を別けてみると、『三人の日をまつ』となるのだ。

 氏綱から三人目、小田原北條氏最後の当主、氏直までを指した戒名に何か意味を感じてしまうのは考え過ぎだろうか。

 他にも氏綱は死の二か月前であるが、氏康に五カ条の訓戒を認めていた。

 原文を書くには行が足りないので掻い摘んで紹介しよう。


一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。

一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。

一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。

一、倹約に勤めて重視すべし。

一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。

 これを氏康は永年守ったとの事だ。

 また、古河の公方晴氏からの弔いの使者も小田原に下向して来ると、先の国府台合戦での小弓公方義明を討ち取った功績により関東管領職に任命するとの沙汰が降りた。

 これは上野平井に山内上杉憲政がある為に、形ばかりの関東管領職拝領だった。

 更に月日は流れ、天文十一年には玉縄城の為昌が没した。この為昌の死にあって氏康は、その為昌の死後に北條綱成を為昌の養子となして玉縄城主に据える。

 この年から福島くしま氏系の玉縄北條氏が誕生する事になる。

 そして翌年の天文十二年、種子島に合戦の一大変革をもたらした鉄砲が伝来した。


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