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関東騒乱(後北條五代記・中巻)  作者: 田口逍遙軒
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三つの乱(後半)

「今川家では義元の正室として武田家から嫁を迎えるとの事になりましてございまする」

 知らせを受けた氏綱は愕然としながらも、さもありなんとの思いも思考の奥に漂っていた。

「そうか、して、輿入れは何時になる?」

「詳しい事は未だ決まってはおらぬ様にございます」

「まだ決まってはおらぬか」

 少々安堵したかのような表情を見せた氏綱だったが、安穏とはしていられない。直ぐに手を打つ事を忘れなかった。

 まずは義元に甲斐武田との同盟を思い止まる様に使者を送ったのだが。

 しかし、この始めの使者は成果を上げるどころか、義元と合う事も叶わずに引き返さざるを得なかった。

 気長に攻めるように氏綱は幾度か使者を送り続け、なんとか今川・武田同盟の不成就の為の手を尽くしてみたのだが、結果は何れも上手く行かずに今川家に対する不信感だけが募って行く事になった。

 幾度目かの使者も目通りも許されずに戻って来た時、流石の氏綱も、これは力づくでのやり取りになるやもしれぬ。そう思わざるを得なかった。

 事ここに至っては今川家との戦も止むを得ぬだろう。

 そう思いめぐらせ、氏綱は風魔衆の棟梁、小太郎を呼び出す事にした。

 本来諜報方を任せている氏康に、この仕事は任せるべきなのだろうが、氏康の正室は今川氏であるため、自らが取り仕切る事にした。

 経緯はどうあれ、今川家と対立を始めてしまった自らに責任を感じた行為であったのだろう。

 時は天文六年二月、武田信虎の娘、定恵院が輿入れの行列を組んで甲斐の国から駿河の国へ行くとの情報を掴んだ。

 これを最後の好機と捕え、小太郎達風魔衆を差し送る事になったが、しかしこの妨害作戦も武田側の忍に察知され失敗に終わった。

 そして今川家が武田家と同盟を結び、武田信虎の娘、定恵院を義元の正室に迎えた時、小田原で氏綱は苦渋の決断をした。

「駿河今川家と甲斐武田家の同盟は、駿河今川家と相模北條家の同盟破綻となるのは明白。最早是非に及ばず。河東一郡は北條の領地と為す。また、甲斐武田に靡いた今川家とは敵となった」

 そう小田原城評定の間で氏綱は家臣一同に宣言した。

「遠江の堀越と井伊に使者を送れ。この二つの勢力は三河に近く今川家の支配は完全に及んでいない。北條が対今川の旗色を明確にすれば後ろは三河、自らが挟み撃ちにあう事を嫌ってこちらに靡く」

 氏綱は的確に状況を判断していった。

「河東方面は葛山氏広に一任致し、武田に当たらせる。我らは二手に分かれて一隊は葛山勢の後詰となり、本隊は今川と当たる」

 小田原城内は一気に喧騒に湧いた。

 今までの共闘路線を一方的に破談させられた北條の意地が掛っているとも云えるこの戦、今川・武田同盟は北條にとっては、有ってはならない事態であった。

 しかしこうなっては河東一群を甲斐武田家との緩衝地帯とする為に、葛山氏広を筆頭にその土地の地頭や国人領主達を保護するという名目で軍を発行しなければならない。

 そして河東一帯の国人領主等の参集もあり、二月下旬に駿河へ侵攻した北條軍は、あっと云う間に河東全域を占領してしまった。

 義元も北條方の侵攻を察知しており、これに形ばかりの迎撃の軍を派遣したが、端から本気で戦うつもりなど毛頭ないため鎧袖一触に屠られてゆく。

 さらに駿河の西側、遠江方面からの堀越氏・井伊氏の蜂起が起り、挟み撃ちの様相を呈した。

 ここで甲斐の信虎からの援軍が河東に入り北條軍と激戦を繰り広げたが、本気で戦っているのは北條対武田のみ。義元は長引く戦を嫌ってさっさと軍を引き揚げてしまった。

 この戦、主たる将が引きあげてしまっては話にならない。

 信虎も切の良い所で軍を引き揚げ甲斐に去って行き、結局河東一帯は北條方の手に落ちる事になった。

 これが『河東一乱』と云われた今川・北條の合戦である。

 天文六年に起った河東一乱を後世、第一次河東一乱とも言い慣わす。

 この駿河今川家との合戦が終わり、河東一帯もかりそめにも平和が訪れた。そして間もなく武蔵侵攻が開始される事になった。

 天文六年七月、氏綱は愈々河越攻めの為に軍を組織し、小田原城に参集させる。その数凡そ七千。事前情報で掴んでいた多摩郡は立河原にほど近い深大寺城に待ち構える難波田弾正勢を迂回して江戸城から河越城に侵攻する作戦を整えたとき、これと粗時を同じくして上総真里谷に動きが起った。

 真里谷武田家で信応と信隆の家督争いが激化したようだ。

 武田信隆は峰上城と造海城、天神台城を拠点にしていたが、小弓の義明に支持され里見義堯の援軍を頼んだ弟、武田信応の勢力がこの三城を攻めて合戦が始まった。

 合戦の始まりから里見義堯が信応に付いたために信隆側は不利になっていた。

 この事態打開の為、合戦の始まりと同時に信隆は、北條の援軍を期待して小田原に使者を送る事とした。

 上総から陸路、小田原に向けて出発した馬上の使者は、一気に駆け抜け夜明けまでには小田原に到着していた。

「真里谷の武田信隆の使いにござる。火急の用件にて使者としてまかり越しました」

 氏綱は丁度評定の間で氏康も同席して家臣達と河越攻めの詰めの評議をしていた所だった。

「真里谷信隆の使者と?すぐに通せ」

 小姓が真里谷の使者を呼びに向かって暫くすると、具足の小札こざねが擦れ合う音を響かせながら、使者が評定の間に案内されて開け放たれた襖の前までやってきた。

「火急の御目通り、恭悦にございまする」

 片膝を付いて軍陣の挨拶をする使者が顔を上げると、目の下には隈を造り顔色は土気色だった。眠ってもおらぬのだろう、充血した眼が疲労を物語っている。

「真里谷信隆殿の使者、如何様な用件か」

 受けたのは松田盛秀だ。

「昨日、我が主信隆様は弟信応の軍勢とそれに内応した里見義堯の軍勢に攻められ、峰山城に籠りおる次第にて、北條様の援軍を差し向けられたくお願いの儀に参上した次第」

「なんと、御兄弟で合戦になっておるのか」

「はい、信応殿には小弓の公方様が付いておられ、里見義堯殿も信応殿に付かれました。こうなっては信隆様単独での合戦は不利。何とぞ北條様のご加勢をお願いしたく」

 使者と対面した氏綱は河越遠征軍を組織している最中とはいえ、北條に友好的な信隆を捨て置く事は出来ないために満足では無いながらも軍勢を割き、上総に送り込む事とした。

「使者の口上相分かった。信隆殿の援軍しっかと承る。されど我が北條家は今、武蔵は河越攻めの為に軍を江戸表に向かわせている所。よって全軍を上げてのご加勢は叶わぬ故、心して信応勢に当たられたい」

「おぉ、ご加勢賜れるか、有り難い。真、有り難い」

「したがそなた、見た目にも疲れが尋常にあらずじゃな。加勢の使者は我が方で差し送る故、この小田原で暫し疲れを癒されては如何か」

「いえ、この嬉しき知らせを早々と上総に持ち帰り、御屋形信隆様に伝えとうござる」

「左様か、そなたの様な忠臣を北條家にも欲しい位じゃ」

「そのような御言葉まで頂けるとは、冥利にございます」

「ならば急ぎ立ち返り、我が北條勢を峰山城でお待ち頂きたいと伝えてくれ」

「では是にてご免仕る。峰山城でお待ち致しておりまする」

「そなた、僅かの日取りで小田原まで駆けて来たのであろう、馬を呉れてやる故持って行け」

「北條様のご厚情、忝く」

 深々と一礼すると、颯っと踵を返して再び小札の音を鳴らしながら真里谷の使者は去って行った。

 その使者が評定の間から見えなくなった頃、入れ替わりに小太郎が入って来た。

 使者が離れた事を確認してから入って来たのだろう。

「御屋形様、真里谷信隆はこの戦、持ちますまいぞ」

 上総から帰っていた小太郎は冷静に真里谷武田の内紛を信隆の負けと判断していたようだ。

 氏綱はちらりと小太郎に一瞥をくれた。

「左様か、それほどまでに信応と里見の勢いはあるのか」

「はい、小弓の義明の後ろ盾があるせいで上総の豪族達が挙って信応方に付いている事もありますが、一族の真里谷全方(先代恕鑑の弟)なども信応を支持しておる様子」

 この小太郎、つい先日まで上総の信隆の近くに居り、様々な地下工作を重ねていた為真里谷武田家の内部事情に詳しくなっていた。

 元々信隆は好北條方だったのだが、近頃ではこれが確固たるものとなっているのは一重にこの小太郎の調略の賜物とも言える。

 しかし真里谷武田家の中では恕鑑の嫡男で先代の方針を踏襲する弟信応に心を寄せる家臣が多く、先の里見内紛の時に義堯を造海城に匿い恕鑑とは別行動を取った信隆に付くものは少ないようだ。

 ましてや今回は、匿ってやった義堯にまで見放された信隆である。

「されど今、信隆を見捨てる事はできぬぞ」

「無論にございまする。今は危うくとも後の為に救うは良い事かと」

「信隆は庶兄と言えど家督じゃ。それを追い落とす信応は謀反人。今は小弓が付いておる故家督となる事もできようが、何れ小弓は潰さねばならぬ。その時こそは信隆が役に立とう」

「いかにも。ここで上総武田家を味方に引き入れれば里見の押さえにもなりましょう」

「ならば軍勢のうち幾らかを割いて上総は峰山城に向かわせよう。盛秀」

 名を呼ばれた松田盛秀、返事をして氏綱の前に進み出た。

「軍奉行に命じて割り振りの人数を整え次第上総に向かわせよ」

「畏まりました」

 この後北條軍は江戸表に向かう軍勢と上総方面に向かう軍勢を二手に分けて進発させた。

 上総後詰として大藤信基らを峰山城に発行させ、氏綱自らは江戸城へ向かい、井浪、橋本、多目、荒川、松田、清水、朝倉、石巻等を率いて七千の兵と共に出馬して行った。

 上総に向かった北條勢は峰上城到着後、信隆の指示により天神台城に入る事になる。

 信隆の籠る峰上城、信隆の子、信政の籠る造海城、北條後詰の大藤信基の籠る天神台城が主戦場になったようだ。

 そして天文六年五月、小弓の公方義明の御旗を中央に、真里谷信応と全方が軍勢を押し立て峰上城を取り巻いた。また里見義堯の軍勢には造海城攻めを命じている。これは先に造海城に匿われた義堯が城の縄張りを見知っていると判断したためだろう。

 各城を取り囲んだ城方の旗指し物が風に靡き乱立する。

 払暁のまだ薄暗い中、満を持して陣太鼓が鳴り響いた。

 それを合図に一斉に鬨の声が上がり、旗指し物が動き出す。

 城方から見たその光景は地面が動き出したかのように見えた。

 堀際まで近づいた寄せ手に向かい、城方が矢の雨を降らせたのが合戦の始まりだった。

 矢を射る弓兵が手応えを感じると矢叫びを上げた。

 寄せ手の先方がこの矢に射倒され始めると、後続が堀を遮二無二に押し渡り、土塁を駆け登って来る。弓兵が土塁上の板塀の上から矢を射こみ、攻め手が怯んだ所に馬出しから槍を隆々としごいた足軽がどっと押し出し攻め手を押し返す。

 城方が矢の雨を降らせる中、寄せ手の足音も轟に鳴り響く。

 城方の矢叫び、刀槍の打ちあう音が木霊しあう修羅界が現出したようだ。

 攻守相食みあいながらも城攻めから凡そ三刻余、数で勝った信応、全方、義明連合軍が北の大橋に繋がる堀切を渡りきった。その頃には西の曲輪も信応方の手に落ちたようで、主曲輪に繋がる土橋は寄せ手の兵で充満していた。

 こうなっては最早防ぐ事は叶わない。信隆は南の搦め手側から落ち、子の信政の籠る造海城に向かって走った。

 しかしこの時、造海城も大手口には攻め手の里見義堯勢が犇めいていた為に城南側の江戸湾から城に入り、無事信政と再会した信隆だったが、峰上城を落とした信応・全方・義明勢が造海城に迫って来るのは時間の問題だ。

信隆が造海城に入っても暫くは里見の攻撃は無かったが、おそらく信応勢を待っての総攻めを画策しているのかと思われた矢先、峰上城が落ちたとの知らせが入った。

 これでいよいよ造海城にも寄せ手が掛って来るかと思われた時、里見義堯からの使者が現れた。

 降伏開城の急使だった。

 既に勢力をこの造海城と援軍北條軍の籠る天神台城の二城に押し込まれた信隆は、最早是までと思いを定たようだ。

 まだやれると倅信政は勢いづいたが衆寡敵せず。降伏開城を受け入れる事になった。

 此の後は里見義堯を取成しとして信応、全方、義明方と北條方の和睦を為して城を明け渡し、信隆は鎌倉へ去って行く事になる。

 これが『上州錯乱』と云われた真里谷武田氏の家督騒動だった。


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