三つの乱
天文五年も五月に入り、今川家の家督騒動が大きな騒ぎになり始めた。
寿桂尼は自らの子の為、太原崇孚は自分の弟子の為に梅岳承芳を現俗させて室町の将軍足利義晴から義の偏諱を賜り「義元」と名乗らせ、室町将軍家の威光を利用して次の今川家家督は義元であると内外に宣伝した。
これに対して福島氏は義元擁立に反対して自らの血筋である玄広恵探の擁立の為に奔走していた。
「寿桂尼さま」
駿府屋形で今川家の実権を握っている尼に言葉をかけたのは、現俗して義元と名乗り始めた梅岳承芳の師である太原崇孚だ。
「このままでは今川家が割れて甲斐武田家に駿河が蹂躙されるのは目に見えておりまするぞ」
この僧侶、上背があり、大男とも言える。その風貌は岩を削ったような無骨な骨相をしているが、目は切れ長で鋭く、相手を射抜くかのような眼光を湛えていた。
異相である。
「それは分かっておる、されど越前めは臣下の分限を越えて自らの血を今川宗家に入れようとしておるではないか。厄介な」
「災い転じて福と為せば宜しいのでは」
崇孚、表情が変わらない。何処かに表情を忘れて来てしまったかのようだ。
「転じられるのか」
「まずは福島越前殿の屋敷に寿桂尼様自ら訪れて、此度の義元様御家督を説得してみては如何か」
「そのような所に赴けば、わらわが人質になるか殺されてしまうではなか」
「それはございますまい。されど説得が成るか成らぬかは分かりませぬ」
「何故にわらわが殺されぬと言いきれる」
「勘、でございます」
このいい加減とも取れる言葉に寿桂尼はついカッとなってこの異相の僧侶を睨んだ。
「そちはわらわを愚弄するか?」
「はははは、そう睨まないで下され。拙僧が仏の功力で尼御前様をお守り致しましょう」
「仏の功力と?」
「左様にございます」
崇孚はそう言って十句観音経を唱えた。
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法相縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心
此の経は何度も唱えるだけで利益が得られると言われている。
「経で仏の功力を得られれば良いが、仏等に頼っては今川家が潰れる」
「これは仏に仕える尼法師とも思えぬ言葉にございますな」
崇孚は口では笑っているが、どうにも表情が変わらない。
寿桂尼は崇孚の腹が読めなかった。
「崇孚、わらわは回りくどい事は好かぬ。考えがあるなら申してみよ」
「福島越前殿も今川宗家の寿桂尼様を手にかけても駿河は騒ぎが大きくなるばかりなのは分かっておりましょう。玄広恵探殿が今川家を御家督されても家が割れておっては甲斐や三河からの兵を押し返す事叶いませぬ」
「それがわらわを殺さぬ理由か」
「事を穏便に済ますも兵に頼るも、主殺しをしては国が治まりますまい」
寿桂尼は暫く崇孚の目を見ていた。
「崇孚の申す事も尤もじゃな。ならばわらわが少しばかり骨を折ろう」
崇孚の考えは他にあったようだが、特に言葉にはしなかった。
それからの寿桂尼は五月二四日に福島越前の屋敷に訪れる事になった。
先触れの使者も出して福島の屋敷に着いたときには、武者達が集まり屋敷を物々しく警護していた。
どうやら寿桂尼と一緒に宗家の兵がやってくる事を警戒していたようだ。
これを見た寿桂尼、少々不謹慎とは思ったがふと笑いを漏らしてしまった。
ここに来る前に崇孚に投げかけた自らが殺されるという杞憂は、反対に福島越前が持っていたようだ。
殺されると思っていたのはわらわではなく越前だったか。との思いが寿桂尼の腹を座らせた。
無数の武者に警護された越前屋敷に堂々と入って行くと、警備の武者が案内をはじめ客間通される。
そこには少々緊張した面持ちの福島越前が着座しており、ぎこちないながらも寿桂尼を自らに相対して着座を進めた。
数刻、寿桂尼がどう福島越前を説得したのか、資料は全く残ってはいない。
崇孚の言葉通り寿桂尼は無事越前屋敷から駿府屋形に戻ったが、どうやら福島越前には説得が通じなかった様だ。
結果として寿桂尼の説得を期に、翌日恵探・福島越前方は久能山で挙兵に踏み切り駿府屋形を急襲する挙に出た。
寿桂尼を生かして帰したが、結果的に玄広恵探は福島越前の力を借りて異母弟義元に刃を向ける事に踏み切ったようだ。
これが崇孚が言った「災い転じて福と為す」の始まりだった。
寿桂尼が福島屋敷で行った説得は、義元擁立のために間違いはない。その為福島側では、この説得に応じる素振りを見せ、義元側に油断を誘っておけば兵を集める時間の無い義元を圧倒できると踏んでいたようだ。
久能山から駿府屋形までは直線距離で五里ほど。足を拵えた兵が大挙して押し寄せるなら一日の距離である。不意を突かれれば一溜りも無い。
しかし、それを未だ知らぬはずの義元側なのだが、寿桂尼が福島屋敷から駿府屋形に戻った時には駿府屋形内には夥しい数の兵が屯していた。
御殿の奥に上がった寿桂尼が義元の元に越前説得の様子を話に行くと、義元の隣には異相の僧も侍っている。
寿桂尼は義元の前に着座するなり「義元殿、この物々しい兵はどうしたのじゃ」そう声を上げた。
第一声が駐屯している兵に疑問を持った事だった。
このときの寿桂尼、まだ福島越前挙兵の報を知らない。そもそもまだ挙兵したとの報が駿府屋形にはもたらされていない。
「母上、よう御無事に御戻り下された」
義元が心底安心した顔で母を迎えた。
「御母堂様、福島の説得の、まずは執着にございます」
異形の僧が寿桂尼に向かって深々と平伏する。
「崇孚、この兵はそちの手配か」
「母上、これは某が御師様に勧められて手配してございます。母上が越前屋敷に赴いたあと必ず戦になると言われましてな」
義元が説明をするが、結局は崇孚の手配である事を裏付けたに過ぎない。
「義元殿が手配か。して崇孚殿、いかなることか」
「法悦にございます」
「法悦と?」
「左様にございます」
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
これは開経偈と言われ、読経する前に唱える偈である。
この異形の僧はこれより自らが語る言葉を読経する経典になぞらえたのであろうか。
「経などは良い、何故法悦なのじゃ」
「全ては仏の意のままにございます」
「どう言う事じゃ」
「福島越前、おそらく寿桂尼様の説得によって挙兵致します」
寿桂尼は雷光に打たれたかの様な衝撃が体を走ったのを感じた。
しかし動揺を悟られぬよう静かに呼吸を整え、異形の僧を睨めつける。
「越前めは挙兵したとの知らせがあるのか」
極力動揺を表わさないよう声を出したが、どことなくぎこちない。
「未だ挙兵の知らせは受けておりません。しかし間もなく知らせが入りましょう」
「崇孚、そちはそれを知っておってわらわを越前屋敷に向かわせたのか」
寿桂尼の顔に赤みが増してくるが、対する崇孚、やはり表情が変わらない。
岩に鑿で削りつけたかのような表情だ。
「寿桂尼様、この今川家の家督争い、越前を説得した所で何れは再び争いの種となりましょう。よって寿桂尼様に義元様御擁立のための説得の使者となって頂きました」
「わらわの説得が失敗すると踏んでおったのか」
「家臣が主家を凌ごうとする家は長く持ちませぬ」
「そちはわらわを説得に赴かせる事で、越前にわざと挙兵を早まらせたのか」
「家督相続を争いの種にしている間に甲斐や三河から攻め込まれては民が迷惑いたします」
寿桂尼は自分が道具にされた怒りもあったが、溜息を一つ吐いたのみで怒りを納めた。
この崇孚の言うとおりだ。
徒に駿河の内戦を長引かせると外敵が入り込み、駿河を切り取ってしまう事は目に見えていた。
「崇孚、そなたが言ったわらわが無事に戻るとの意味、今こそ分かった」
「なによりでございます」
「どういう事にござるか?」
義元が問う。
「わらわが無事に戻れば福島越前に害意無しと思うであろう、その為わらわを無事に帰すと崇孚は読んでおったのじゃ。こちらを油断させるためじゃな」
「なるほど」
「して崇孚、是より如何する」
「既に小田原の北條様の所に援軍の使いを向かわせております」
「手回しの良い事じゃ」
「物見の知らせも夜になれば届くでしょう」
「ならばそれまでは見張り方の兵を除き休ませる事じゃな」
異形の僧は最後まで表情を変える事が無かった。
そして夜半、福島越前と玄広恵探の兵が動き出したとの知らせが駿府屋形に入った。
崇孚の読み通りに福島越前の兵が駿府屋形を急襲するとの報を受けた義元は、屋形の門を堅く閉ざし、後詰の援軍北條軍を待つ事にした。
明け方になると馬蹄の音や馬の嘶く声、兵の怒号などが彼方此方から聞こえる様になり、卯の刻(約5時)には駿府屋形を軍兵が取り囲んでいた。
それから四半時も過ぎた頃になると、駿府屋形を取り囲んだ福島越前の兵達が鬨の声を上げて総攻めが始まった。
堅牢な門を破ろうと掛矢や丸太などを使って木門を打ち壊し始め、城壁の至る所に火矢を放ってきたが、防御の為の陣を張っていた義元側の兵に全て阻止されている。
義元側では、福島勢の急襲を予期していた為兵の動きも素早く、不意を突いた筈の福島勢の動きに全て対応して行った。
福島勢がこの予想とは違う城方の動きに困惑し始めた頃。
どこから漏れたのか、北條が後詰に来たと騒ぎ立った部隊がいたため攻め手の攻撃が彼方此方で止んで行った。
崇孚が雇っていた甲賀の乱破を放ち、後方撹乱を狙ったのだろう。
この敵方の一瞬の崩れを逃さず崇孚の助言を得た義元の号令で駿府屋形の追手門を開き、義元勢が勢いをなくした福島勢に襲い掛る。
打って出た義元勢の猛烈な鬨の声が天地に木霊し、馬の蹄、軍兵の轟く足音で地面が揺れた。
騎馬軍団が正面の歩卒を槍にかけて行き、錐の先の様に福島勢に捩り込み、追う者と追われる者が逆転して阿鼻の巷と化す。
挟みうちの憂いを持った兵達に正面からの難敵を引き受ける気概は霧散している。
刀槍を打ちあう音も疎らに、寄せ手だった福島越前軍が総崩れになり敗走を始めた。
これを義元勢は追い立て切立て、勢いに乗って追いに追いまくって行く。
散々に切立てられた福島勢は方上城(現焼津市)と花倉城(現藤枝市)の二城に退却して行き、なんとかここに籠り義元勢の勢いを止める事が出来た。
その後はこの二城が籠城の地となったようだ。
そして数日後、この玄広恵探側に与する輩も遠江方面で出て来てはいたが、崇孚の流した噂では無く本物の北條方の援軍が駿府屋形に到着。
六月十日には義元側の将、岡部親綱が方上城に攻め寄せ落城させた。
その後、方上城寄せ手の岡部親綱の手勢を糾合し今川・北條の総勢で花倉城に押し寄せると、最早兵力の差は歴然としていた。
力押しで城の二の曲輪まで落とした所で乱の主魁・玄広恵探は花倉城を落ちて行った。
しかし既に周りは義元の手勢で埋め尽くされていた為に、瀬戸谷にある普門寺というところまで辿り着いたが、もはや勢力を盛り返す事は叶わなかった。
玄広恵探、享年二十歳、普門寺で自刃。
ここに『花倉の乱』と言われた今川義元家督騒動は幕を下ろすことになる。
しかし。
富士川以東の領主達がこの花倉の乱で浮き彫りにされた今川家の脆さに衝撃を受けたようだ。
現在の今川家では国が纏まらないと思ったのか河東郡最大の領主、葛山氏を頭として北條家に保護を求めて来た。
近隣はおりしも先年駿河今川領に攻め込んだ武田家である。当然今川家内紛につけ込み攻め入って来る事は予想できるので国境の領主としては自家保存の為、至極当然の行動だったろう。
また葛山氏広は北條家初代早雲の三男で葛山氏に養子に入った血筋だ。北條家とは同族と言って良い。
しかしこの領主達の北條家に靡いた動きを見た今川家はどう動くか。
河東の領主達を北條家が保護する行為は今川家との同盟にどう影響するのか、北條家にとって薄氷を踏む思いとなるだろう。
更にこの時期、河東の知らせと共に、武蔵は河越からの調者からの急使もやって来た。
扇谷の朝興が死んだとの知らせだった。
後継ぎは五郎朝定と言い、今年十三歳になる。
人柄は詳しくは分からなかったが、些か短慮に過ぎるとの噂のある人物だ。
「また朝興殿の御遺言にて武州は深大寺なるところの古き要害を修築して北條に当たれと難波田弾正に命じたとの事にございます」
急使が伝えた朝興最後の言葉だったようである。念の入った事だ。
この知らせを受けた氏康は、大広間に評定衆を参集させ、父氏綱同席の元評定を開いた。
「皆に知らせておかねばならぬ事が出来した、まずは駿河の河東の事。更には武蔵の扇谷上杉の事」
この評定に呼ばれた主な家臣は石巻、山角、垪和、内藤、大道寺、松田、富永、清水、多目、遠山、伊勢氏等である。
「まずは河東の事。駿河は富士川より東、河東一帯の国人領主等が我ら北條に保護を頼みに参った。この土地は本来我が家祖、早雲公よりの領地であったものだ。よってこの河東の土地を北條が保護する事に異存は無いのだが、同盟国の今川家が治めていた土地故今後の同盟関係がどうなるか先行きが分からない。それと武蔵の扇谷上杉家の事。当主朝興が死に、家督に十三歳の五郎朝定なるものが就いたとの事。この二つを皆々に諮りたい」
水を打った様に静まり返った評定の間だったが、まず河東に近い領地を持つ富永が口火を切った。
「河東の最大の領主といえば葛山氏広様ではありますまいか。この御方は御屋形様の御弟君であられる故、屋台骨がぐらつき始めた今川家に任せず、当北條家にて保護されるが宜しかろうと存ずる」
「いやいや、まて」
そう言ったのは江戸城代となっていた遠山だ。
「富永殿、富永殿も武蔵の江戸詰めになっておるなら分かろう、もしも今川家と戦にでもなったら、江戸が手薄になり申そう」
「しかし扇谷上杉家と甲斐武田家は同盟を結んでおるぞ、放って置いても河東一帯は武田家に蹂躙されかねん」
「うかうかして手をこまねいておればこちらが前後から挟み撃ちされてしまうという事ですかな」
清水康英が防衛論を唱えた。
「では清水殿は河東を我らが今川に代わって抑えることに賛同されるのですな」
「多目殿か、多目殿はどうお考えか」
「儂が思うに、今川家は今御家騒動が治まったばかりではあるが、義元殿に代替わりしておる故、今まで敵対しておった武田と手を組む恐れもあるかと存ずる」
「武田と今川が手を結ぶと」
多目の発言に氏綱が反応した。
「無いと考える事はできまいな」
「これは御屋形様」
「今まで僧籍におった義元じゃ。武田家に恨みは持っておるまい」
「しかし長年今川家と武田家は争いあった間柄」
「義元にその気はあっても軍師の扱いを受けておるという太原崇孚なる僧には遠慮があろうか」
「しかし」
「北條を頼って来た者を追い返す事は、たとえ親族で無くとも取る道ではあるまい」
「今川家と敵対致しますか」
「まずは義元に河東の領主の現状を伝えて一時預かると伝える。今川の領地を掠める為ではないと伝えておこう」
「それで納得するでしょうか」
「今は納得するしかあるまい」
氏康が次の議題に入った。
「では武蔵は扇谷上杉にどう対処するか」
「扇谷上杉は今直ぐには動く事叶うまいと思われます。よって江戸城に兵を詰め置き河越の押さえと為せば宜しいかと」
山角は、武蔵は押さえの方針を押した。
「いや、武蔵は力で押し込む事とする」
「御屋形様」
これには大道寺が氏綱に賛同した。
「これは扇谷の上杉を抑え込む千載一遇の好機でございますな。五郎朝定の若さ、愈々上杉家の衰退が見えて来たようにございます」
その大道寺の言葉の後に、氏綱からの扇谷への対策が下知された。
「遠山、富永、江戸城に河越攻めの兵を整えよ。駿河の事が一通り済んだところで上杉攻めに移る」
この評定で北條家は、駿河・武蔵への二方面作戦をたてた。
それから数刻後、小田原城評定の間での評定を終えた氏康は、瑞渓院の居室を訪ねて行った。この氏康の正室、瑞渓院の実名は不明である。その為この物語では法名である瑞渓院を採る事にしよう。
奥までの渡り廊下の両脇には夏の日差しが差し込み、庭木が青々と茂っている様は相模を囲む政治不安とは無縁の、美しい姿を見せてくれる。
しかしその風景を見ても治まらぬ一抹の不安が氏康の心にはあった。
正室瑞渓院と交わした約束。
『今川家と共に栄える』
これが氏康を瑞渓院の居室に足を向けた理由だった。
居室に近付いて行くと笑い声が聞こえる。おそらく瑞渓院が嫁いで来る時に今川家から付いて来た侍女と何かを話しているのだろう。
足音を立てながら居室に近付き、からりと障子を開くと瑞渓院と侍女が平伏して迎えていた。
「殿、如何なされました」
瑞渓院は優しく微笑ながら氏康を迎え侍女を奥へ下がらせた。
侍女が部屋を出るまで待って瑞渓院に声をかける氏康。第一声を少々悩んだようだ。
「儂はそなたとの約束を守れぬ様になってしまうかも知れぬ」
「いかがされたのです?」
「駿河の河東一帯の豪族達が北條家を頼って参ったのだ」
暫しの沈黙があった。
「今川家と事を構えると言われるのですね」
氏康の苦虫を噛み潰したような顔に瑞渓院は寂しげに微笑んだ。
「私が北條家に嫁いだときから何れはこの様な日が参る事は覚悟しておりました。私も武家の女、実家恋しやと憐々とは致しませぬ」
「今すぐにどうと言う事は無いが、すまぬ」
「そのような言葉は無用でございます。私は既に北條家の人間、誰憚る事なく殿の行く道を進んで下されませ。何れは京へ御上りあそばすのでございましょう」
「そうであったな」
「そう言えば河東には葛山様がおいでではありませなんだか」
「よう存じておるな」
瑞渓院はほほほと笑い、
「私も北條家の人間と申し上げましたのに」
「あ、これはそうだった」
氏康の顔がほころんだ。
「早雲様の御子であられる氏広様から頼られては致し方ありますまい」
氏康は儚げな頬笑みを浮かべた。
北條家がこの二方面作戦を立ちあげた頃には、この河東郡の領主達が相模北條家に保護を求めた事は駿府の屋形のみならず、駿河の国中に知れ渡っていた。
此の事で駿河では再び騒ぎが起こりはじめ、取り纏め役の重臣である関口、瀬名、朝比奈、岡部の各氏を使って各地の騒ぎをなんとか抑えている状況になっていた。
この緊急の事態に対応すべく駿府屋形の広間では義元と重臣達が顔を突き合わせて喧々諤々の騒ぎになっているのだが、しかし騒ぐだけ騒いではいるが未だに何も決まらない。
そこに足音も静かに崇孚が広間の廊下を渡って来た。
「これは御師様、お早いお着きでござるな」
重臣達との会議の中、義元が崇孚に目をやり言葉をかける。
この事態打開のために、自らの師である宗孚も会議に呼んでいたのだ。
義元をちらりと見てから広間の入口で崇孚が一礼し、座敷に上がって来た。
「義元様、河東一群の事、聞き及びましたぞ」
義元の前にふわりと着座する。大男の割には静かな所作だ。
この異相の僧が参上すると、先ほどまで騒々しいまでの論争をしていた各将も押し黙る。
一種異様な雰囲気を醸し出している為だろう。
「御師様、流石にお早い。河東の一群の手当てをどうするか皆で話し合っていた所です。丁度よい、御師様には何か妙案がありませぬか」
義元と共に駿府に戻って来た崇孚は、今では義元の軍師としての立場を備えていたため、他の今川家臣からも一目置かれはじめたようだ。しかし中にはどのような案を出してくるか底意地悪く見ている者もいるようだが。
しばし義元と重臣達は、崇孚の口から出てくる妙案を待った。
崇孚、相変わらず表情がない。
特に意見も出ないかと思われたとき、
「河東方面は暫く北條殿に預けては如何ですかな」
一瞬だが座がざわついた。
「何故でござろう」
義元もこの異相の僧侶には全幅の信頼を置いてはいたが、少なからず疑問を持った。
何もせずに北條に我が領地を差し出そうと云うのだろうか。
「今川はやっと義元様の元に一つになりかけたばかり、駿河に力のない今、河東の反乱を静めて遠江・三河方面と甲斐・相模の勢力と挟まれるよりは、力を温存し領内を鎮撫するが宜しかろうと存じます」
それは言われずとも分かっている。
「しかし河東を北條に盗られてしまう」
「河東は元々興国寺の城と共に先々代の氏親様が北條殿の家祖、早雲殿に与えた土地だったはず。それに河東の地は甲斐と隣り合わせです。甲斐武田と相模北條の両雄に合い食みあってもらうとしましょう」
「遠江・三河方面が落ち着いてから河東を手なずけようとてか」
「河東最大の領主は葛山氏広にございますな。これは早雲殿の忘れ形見」
無理に軍事力で鎮圧すればより北條に走りやすくなると言いたいのだろう。
「事を急いてはし損ずるか」
「氏広殿も若くはございますまい、そう急がれずとも」
この葛山氏広、氏綱の弟で今年五十歳。子がなく、同族の葛山貞氏から一子を貰い受けて現在は十七歳になる養子を氏元と名乗らせていた。
「なれど、仏に仕える御師様がそのような武家の考えを持つとは」
義元の顔は笑っていた。
「我智力如是 慧光照無量」
「これも仏の功力ですかな」
「いかにも」
崇孚、表情が変わらないがこの子弟の間には気持ちが通じているようだった。
「しかしただ河東を北條方に蹂躙されては儂の顔が立たぬ」
「甲斐武田と同盟を結ぶのです。そして形ばかりの戦を仕掛ける」
この言葉に義元を含めた居並ぶ重臣達はざわめいた。
「武田と同盟するのか」
「信虎殿は駿河・相模に兵を差し向けておられるが、第一の目的は信濃にあるようにございます。また武蔵の扇谷上杉家とも同盟を結んでおられる。ここで我が今川と同盟を結ぶは信虎殿にとっても好都合でございましょう」
「しかし甲斐武田家と我が今川は、北條殿と共に鬩ぎ合う間柄。北條殿がどう動くか」
「河東一群を支配下に置かれた。と宣伝すればよろしかろう」
「我が領地を北條殿に奪われたとするのか」
「左様にございます。さすれば北條殿の本意では無いにせよ河東郡は甲斐武田との緩衝地になり遠江・三河がある程度治まるまでは時を稼ぐ事叶いましょう」
表情の変わらない崇孚の言葉に、義元を始めとした重臣達も言葉を失ってしまった。
この僧侶、恐ろしい事を思い付くものだ。
「信虎殿には定恵院と言われる御息女がおられます。義元様の正室として迎え入れられれば信虎殿は喜んで同盟を結ばれるでしょう。この武田家との橋渡し、御下知あらば拙僧が承りましょう」
翌天文六年二月、今川家と北條家の共同の敵であった甲斐武田家、信虎の息女定恵院を義元の正室として駿河に迎え入れ、北條家に断らずに甲斐・駿河同盟を結んだ。