表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
関東騒乱(後北條五代記・中巻)  作者: 田口逍遙軒
10/50

花倉の乱

 天文三年、この年は戦国史に深く刻まれた出来事があった。

 尾張の那古野城で吉法師と呼ばれる子が生まれたのだ。

 後の織田信長である。

 また北條氏康は二十歳となり、武田信玄は十四歳、上杉謙信は五歳、明智光秀は七歳。

 豊臣秀吉と徳川家康はまだ生まれてはいないが、戦国の雄達が揃いだした時期でもあった。

 そして上総では、真里谷武田信保(恕鑑)が小弓の義明の勘気を被ったまま没していた。

 真里谷武田家はこの時信隆が家督を継いだが弟の信応と家中が二分し、御家騒動がはじまる事となる。

 氏綱が小太郎に指示した真里谷武田家内紛の調略の効果が表れ、先ごろ氏綱の割った大井戸茶碗の様に二つに割れた様だ。

「恕鑑殿が身罷り申したとの知らせが小太郎より参りました」

 弱冠を迎えた氏康は、今年から北條家の諜報方を父から任されていた。

「知らせがきたか」

「はい。しかし此の度の報告は手の者を持って知らせ、自らは引き続き真里谷と小弓、里見の中で動くとの事でございました」

「左様か」

 氏綱と氏康親子は共を数人引き連れて城下の農地などを見て回っていた。

 耕作している農民からみれば、まさか御本城様親子がふらふら出歩くとは思ってもいないので気軽なものである。

 何処かの地頭様が騎馬で参られた程度に軽く会釈をするだけで田仕事に精を出していた。

 六月は植え付けた稲を雑草から守る為に家族総出で田の草を引き抜く。

 それだけではない。

 作付初期の水はとても重要だ。しかし川から引いた用水路に流れる水は限りがある。そのため用水路近くの田は問題ないのだが、遠く離れた田にはあまり水が届かない事もある。

 これはその田の小作人にとっては死活問題でもあった。

 このため早朝誰も起きていないときに田に向かい、水路近くの田に引き入れている溝を泥で埋めて自らの田に水を引き入れる。

 しばらくして水路近くの田の小作人がやってくると、自らの田に水を引き入れる水路に泥が詰まって水が流れていない事を見つける。

 そして何も無かったかのように泥をかき分け自らの田に水を引き入れた。

 これは現在でもあることなのだが、これが気心の知れた知人の間で有れば何と言うことはないのだが、村対村になると当時は一揆勢(武装集団)が現れる。

 話が拗れると村同士の諍いが起こることもあるため、これを未然に防ぐために各農村農地を見まわり、その地の地頭の話以外にも百姓達から話を聞く事もあった。

「今年も無事に作付が終わった様にございますな」

 氏康は青々と稲が揃った広大な水田を見ていた。

 小田原城に帰城すると再び小太郎からの急使が来ている事を知らされた。

 氏康は小姓をやって使者に書院の庭先に来るよう案内させ、自らは父と共に書院に向うと、二人が書院に着いた時には既に使者は庭先に来ていた様だ。

 書院の濡れ縁に続く座敷に座り、小姓が障子を開くと、庭先に小兵な男が座っていた。

 余程急いでいたのだろう着衣が埃にまみれ鬢を解れさせている。

「その方が小太郎の使者か、遠路苦労であった」

 男は氏康のこの言葉に驚いた風の顔をし、

「某ごとき者に苦労などと言葉を頂けるとは」

 深々と首を垂れた。

「御本城様に御目通りして頂くだけでも恐れ多い事なのに、某は果報者にございます」

 氏康は優しく微笑む。

「うむ、して小太郎からの急な使いとは如何様な事だ?」

「は、真里谷が事にございます」

「武田か。恕鑑殿が身罷った知らせは受けたぞ」

「はい、恕鑑殿健在の折、その子信隆殿を支援すべく動きましてございます。そしてその通り武田家の家督を信隆殿が継ぐ事になったのですが」

「うむ」

「小弓の公方様からの横槍が入り、恕鑑殿の嫡男、信応殿が挙兵して家督を奪われました」

「そうか。しかし家督の奪い合いなどは珍しいことでもあるまい」

「はい、しかしこの信応殿挙兵には小弓様の他に里見義堯殿も支援したとの事でございます」

「なんだと!」

 これは古河公方、北條、里見実堯・義堯に対する小弓公方、真里谷武田、里見義豊の勢力が入れ換わり、里見が小弓、真里谷側に動いた事を示すものだった。

 再び里見と北條が敵対する事となったようだ。

「どういう事だ」

 ここで氏綱が口を開いた。

「氏康、これは有りうる事じゃ」

「しかし義堯は我が北條の援軍を得て里見本家を家督したのでございまするぞ」

「そこだ、わからぬか?」

 父の言葉に暫し瞑目する。

 幾ばくかの時が過ぎたとき、ふと思い当る事があった。

「なるほど。左様にございまするか」

「わかったか」

「はい、分かりましてございまする。義堯は評判を気にしておりまするな」

「良く分かった。その通りじゃ」

 この親子の会話に付いていけなくなった使者はぼんやりと親子の会話を聞いていた。

「本家義豊を先ごろの敵だった我が北條から援軍を得て自刃させたのが気になるようでございますな」

「そうじゃ。そして自らを里見の正当な後継者とするために小弓と手を組み、我が北條と手を切ったのだ」

「それが此度の武田家の小弓公方へのお味方と云う動きに繋がりましたか」

「これよりは信隆を支援して武田勢を我が方に取り込まねばならぬな」

 氏康はぼんやりした表情の使者を見た。

「そなた、これより小太郎の元に戻り、信隆を支援せよと伝えよ。また信隆が放逐されるような事あらば我が北條を頼るように口説くよう小太郎に伝えるのだ」

 使者は深々と首を垂れると、すぐさま上総の小太郎の元に去って行った。


 話は変わるが、この時期小田原の町では外郎ういろうなる商人がやってきていた。

 薬屋だったようで、様々な合わせ薬を売っていたらしい。

 なかでも透頂香とうちんこうなる痰の妙薬を不老長寿の薬だと称して氏綱にも献上していた。

 これを氏綱は非常に気に入り、城下に屋敷を作らせて住まわせたとか。

 これが今日伝わる「ういろう」になったようだ。

 また、北條家の家臣の中でも和歌を詠む事が流行り出した。

 これは早雲殿廿一箇条の十五にある『可学歌道事』が基になっているのかもしれない。

 曰く「歌道なき人は無手に賤しき事也。学ぶべし。常の出言に慎み有るべし。一言にて人の胸中しらるる者也」

 これは相州兵乱記にも記載されており、松田孫太郎、佐藤四郎兵衛、高橋将監、笠原能登守、鈴木兵庫助等若集が集まって『武勇の家に生まれては本よりも本望なれども、我らが生涯、合戦だけに過ごして詩歌に心を寄せる事も無く空しく時を過ごすのも勿体ない』と言って京から和歌の名人を呼んで嗜んだらしい。


 幾つか歌も残っている。

「滝水に映ろふ影もしげり行く 松に契りて咲ける藤波」横井神介

「袖ふれし春や昔の花の香も 忘るばかりに咲ける藤波」朝倉右京


 そして年が明け、天文四年になると古河公方足利高基の嫡男、晴氏の元に梁田高助の娘が正室に入った。

 梁田高助は北條家との軋轢も当然起こることも考えてはいたが、古河公方家の跡取りである晴氏と娘を嫁がせる事により自らの指導力を強化して梁田一族の被官化を進め、更には公方家の家臣団筆頭としての後ろ盾、および領主としての地位を固める事が目的だった。

「北條殿は何と言って来ましょうな」

 うすら笑いを浮かべたのは倅晴助だ。

「何と申して来ようとも我が梁田家は古くから古河足利家へ娘を嫁がせるが家法。こればかりは北條殿も分かってくれよう」

「ただで北條殿が納得するでしょうか」

 親子の間を秋の風が心地よく吹き抜けた。

 関宿城の周りを囲む水郷地域からの風は、夏の間に焼き付けられた土地の熱を吹き払って気だるさを一掃して行くようだ。

「何が言いたい」

「今まで北條家と公方家は縁戚と言うだけで何も取り決め等はしておりませなんだ」

「それ以上何か必要と申すのか」

「古河足利家奏者として北條家との同盟を成立させては如何に」

 高助の顔が疑問の表情に変わった。

「何故に今更同盟などと」

「北條殿には我が梁田家が公方家奏者の家柄で有る事を知らしめ、更に公方家と同盟をさせることで古河足利家の臣下として利用するのです」

「左様に上手く行くかどうか」

 城内に流れる清々しい秋風とは対照的な晴助のうすら笑いがひどく粘っこい。

「先ごろ北條殿は安房の里見家の内紛に手を貸しておりましたな」

 高助は返事を返さず、ただ晴助を見ながら頷いた。

「実堯殿が義豊殿に討たれたあと義堯殿に加勢して義豊殿を討ち果たしておりまするぞ」

「討ってはおるまい、義豊殿は自刃したのじゃ」

 晴助は、はははと笑い、

「同じ事にござる」

 声を落として父をじっと見つめた。

「そのため小弓の義明様は北條を敵と見做したとか聞き及びます」

「それで?小弓との関係が我ら古河公方家と北條家と、利益が合ったと申すのか」

「如何にも」

 高助はこのとき、晴助に畏怖を抱きはじめた。

「我等と小弓、真里谷武田は敵にござる。北條も小弓と武田を敵に回し申した」

「しかし真里谷は二つに分かれておるが」

「そこは北條殿のお気持ち一つでございましょう。小弓、真里谷、そうそう、里見の義堯殿も北條を見限ったとか」

 これには高助も唸り声をあげてしまった。

「まずはやってみねば分かりますまい」

「そこまで調べておるならばそなたに任せる、良きようにやってみよ」

「お任せ頂け、有り難き仕合わせにございまする」

 下総の関宿城で梁田親子が対北條への対策を模索している頃、時を粗同じくして扇谷の朝興が北條領の大磯、平塚、一宮、小和田等に大挙して現れ村々に放火乱暴を働いた。

 これはすぐさま北條勢が鎮圧部隊を繰り出して朝興を敗退させる事ができたが、先年からのあまり頻繁な朝興の相模進入に最早目を瞑る事が出来なくなってきた。

 里見の鎌倉攻めの後ろで糸を引いていた事実もあって、今の小弓の義明・真里谷武田信応・里見義堯も朝興によって連合成立も考えられる。

 これは実現すれば脅威だ。

 その対応に急遽家臣達を集めた小田原城評定の間では、氏康が近頃決めた評定衆が集まって合議制の評定の最中だった。

 この合議制の評定とは当時としては非常に珍しく、正確な表現とは異なるが民主的とも言える会議の場である。

 そこには氏綱も氏康も、玉縄城から呼び出された綱成もそこにいた。

「父上、扇谷の朝興、こそこそと働きまわり叩けば逃げ去る鼠のような輩でございますな」

「こう何度も村を焼かれたのでは百姓達に迷惑がかかる、これは愈々上杉退治をせねばならぬ時が参ったようじゃ」

「江戸から朝興の本拠河越までは目と鼻の先、兵を江戸城に入れて朝興退治の用意を致しましょう」

 これは遠山綱景だ。江戸城二の曲輪詰めの直景の嫡男である。父直景は近頃体調を崩したようで、もっぱら江戸表の事はこの綱景と江戸城本曲輪詰めの富永政直の子、直勝が取り仕切っていた。

「したが里見の義堯勢は如何いたしまするか?真里谷信応に走ったとあらばいつぞやの様に鎌倉まで押し寄せてくるのでは」石巻家貞の心配は里見水軍のようだ。

「家貞の心配も分からんではないが、しばらくの間は出てくる事叶うまい」

「何故でございますか?」

「義堯は本家より家督を奪った事は明白。よって里見の家中も未だ義堯を総出で奉り上げるまでは纏まりきっておるまい」

「なるほど、さらに真里谷の後押しを始めておりまするな」と、これは松田盛秀。

「盛秀か、そちは如何様に考える」

「某も朝興牽制の為の河越攻めには賛成にござる」

「今の里見ならばこちらが無理押しをしなければ鎌倉を水軍で抑えるだけで動く事叶いますまい」

「康英(清水)も左様に思うか」

「はい、今なら河越攻め、楽に押し入る事叶いましょう」

「父上、まずは朝興が本拠河越を攻め、北條侮りがたしとの思いを抱かせましょうぞ」

「うむ、では三両日中に河越を攻める。皆々戦支度の後に法螺の音を合図とし小田原城へ参集せよ。しかる後江戸城に詰める事とする」

 氏綱の言葉で北條軍が河越攻めを決定した。

 小田原城評定の間では評定衆が我先に城を走りだして自領に戻り、自領の石高に合わせて決められた具足、指し物、槍の数、引き連れる人数、馬の数などを揃え、腰兵糧などを用意する。

 また噂を聞きつけた近在の百姓達でも、手柄を立て立身出世を願う者は我こそはと思い小田原城下に集まる者もかなりの数がいたようだ。

 そこで本来なら徴集兵へ貸し出される官給の槍、打ち刀、胴具足等を別途貸し与えられた。

 軍事行動には手先となって働く足軽は幾ら居ても足りる事は無いため、自ら率先して北條軍に集まる百姓達は非常に有り難い存在だった。

 そして河越遠征軍の陣容が整うと、北條軍は大挙して武州河越に押し寄せて行く事になる。

 ひたひたと河越城を囲む北條軍の黒ずくめの威容は扇谷の朝興を委縮させる事に充分な威力を持っていた様だ。

 不意を突かれて囲まれた朝興は打ち出す事も無くひたすら河越城に籠城していた。

 ただしこの北條勢の軍事行動は扇谷の朝興を牽制する事が目的だったため北條方が力押しする事は無かった。

 河越城下を北條の夥しい軍勢で取り囲み朝興の心胆を寒からしめる事で以後北條領に攻めいる事を考えさせない様にする武威行動である。

 そして扇谷の河越城を囲んで二月が過ぎ、既に木枯らしが吹き始める冬の始まりの頃になってから、北條家の武威を示すには充分との判断をしたのか、河越の囲みを解いて小田原へ引き上げる事になる。

 北條勢が小田原へ引き上げてから十月に入ると、氏綱の後を追うように古河公方足利高基が没したとの知らせを持った早馬が到着した。

「公方様が身罷られたか」

 何を思うのか、氏綱は知らせを受けてから暫し、望楼矢倉から相模湾を眺めていた。

 そしてふと口をついてでた詠いは感傷でもあったか。


思へば此世は常の住処に非ず

草葉に置く白露 水に宿る月より猶あやし

金谷に花を献じ栄華は先立て 

    無情の風に誘わるる


 今年で齢五十を迎えていた氏綱、当時としては人生の日暮れの頃にあたる。

 公方高基の死に自らに残された日々が最早多くない事を知らされた。


南楼の月を弄ぶ輩も

    月に先だって 有為の雲に隠れり


「御屋形様、如何されましたか」

 近くに侍る松田盛秀が不安げに氏綱の背中を見ていた。

「うむ、別にどうという事はない」

 くるりと盛秀に振り返ると、

「江戸詰めの遠山綱景が適任か」

そう盛秀に伝えた。

「弔問の使者でございますな」

「副使に富永政直を付けよう。政直なら若き綱景の良い補佐役となろう」

「遠山であれば只今小田原に登城しておりまする故呼んで参りましょう」

 盛秀はすっと立ち上がり、衣擦れの音を立てて望楼矢倉の急な階段を器用に降りて行った。

 氏綱は再び相模湾を眺め、引いては返す細波を飽きもせず見ていた。

 この後、遠山綱景が古河の御所に弔問に赴くことになり、古河足利家は正式に晴氏が継ぐ事になる。

 そして古河足利家は成氏から数えて四代目、足利晴氏の時代となった。

 その頃の河越城では。

 朝興が難波田憲重等重臣を相手に酒宴を開いていた。

 北條軍を籠城戦にて撃退した事の祝い酒だ。

 しかし事実を知る重臣達は良い顔をしていない。

 太田資頼などは馬鹿馬鹿しいと吐き捨て岩付城に帰ってしまった。

 居並ぶ重臣達のなかで難波田憲重が進み出て朝興の前に座ると、

「どうした弾正」

 朝興の酒に酔った声が響いた。

「御屋形様、このような時に酒宴など以ての外ですぞ」

「何が以ての外じゃ、現に北條は小田原に跳散したではないか」

 気に入りの小姓を侍らせ、頻繁に酒盃へと朱漆塗りの銚子から白酒しろきを注がせている。

「そちも呑め、北條を追い払った祝いじゃ」

 侍っていた小姓に、弾正にすすめよと朱塗りの大盃おおさかずきを扇で指す。

 小姓も心得たもので「弾正様、頂戴なされませ」と大盃を手渡そうとするが、

「いらぬ」

憲重の一喝で小姓は驚き、引きさがって平伏してしまった。

「跳散したのではございませぬ、脅しは充分と考えて兵を引いたのでござる」

「脅しじゃと」

 朝興は興醒めしたような面持ちで憲重を見た。

「そなたは我が武勇を認めぬと申すのか」

 酒盃を持つ手が小刻みに震えはじめ、みるみる顔色も変って来た。

「何を言っておられるのです」

「もうよい、そちの面など見とうもない。居城へ帰るが良い」

「御屋形様」

 朝興はぷいと横を向いてしまい、その横顔は最早憲重と話す事は無いと言っているようだ。

 その後は憲重が何を言っても返事をする事もなく酒盃を舐めていた。

「やむを得ませぬ、今日の所は退散致しまする。しかし御屋形様、北條にはゆめゆめ御油断召されませぬよう」

 深々と平伏し、朝興の前を辞して居城難波田城に帰る事になった。

 河越城から詰めの兵と家臣を引き連れて城への道すがら、声をかけてきたのは倅隼人正だ。

「朝興の御屋形様は如何なされたのでございましょう」

 この隼人正も父憲重と共に酒宴の席に着いていた。

「分からん、二ケ月もの間籠城した事への憂さ晴らしであれば良いのだが」

「しかし父上程の重臣を皆が見ている前で罵倒する等と・・」

 隼人正が言い終わる前に憲重が遮った。

「いや、その事は良いのだ。儂も忘れる故そなたも口に出す事を憚るように」

「何故にございます」

「ここで儂が御屋形様を見限ったとでも噂が流れれば北條の思うつぼになろう、迂闊な事は口に登らせるものではないぞ」

「なるほど。最もにございます。されど此度の戦、何故引く北條に追い打ちをかけなんだのでございましょうか」

「それは儂も分からん。ただ、御屋形様の戦には癖がある」

「北條勢が引き際に、家臣達がいまぞ攻め立てよと騒ぎ立てたのですが、御屋形様の下知が無い故攻め寄せるのも憚られ、家臣の勢いを止めるのに苦労致しました」

「御屋形様にはお考えがあったと思いたい」

「朝興様の御武辺、地に落ちたのでございましょうか」

 憲重は深く溜息を吐いた。

「されど我らは扇谷の家臣、上杉家には先祖重来の御恩がある。御屋形様にもしもの事あらば身を投げうってでも御奉公するが我らの務めぞ」

 難波田親子が居城に戻ったのは雪のちらつき始めた季節、天文四年も押し迫った師走だった。

 年が明けて天文五年正月、駿府の当主氏輝が正月の歌会始めとして冷泉為和れいぜいためかずと共に小田原にやって来た。

 この冷泉為和は小田原家にも滞在したことがあり、当時から北條家の家臣達はこの歌人に師事している。そして北條家を去ってからは今川家に赴いたようで、今は駿府で暮らしを立てていた様だ。

 新年を寿ぐ歌会は小田原城内で盛大に行われた。

 今川家には臣下の礼を執る北條家での歌会。

 氏輝は氏綱・氏康を始め、詠の上手を集めた歌壇で始終上機嫌で造詠に耽り飽く事がなかった。

「幾日も逗留して皆々と詩歌に没頭したいものだ」

 逗留予定の日数が尽きかけた頃、ふと氏輝が言葉を漏らした。

「甲斐の武田家とも和睦が成ったいま、今川家を脅かす者はおりますまい。幾日でも御逗留下されませ」

 氏輝の下座にいる氏綱が相好を崩して氏輝に逗留延長を切り出した。

 この今川家と武田家の確執は長く、北條家も今川家と共に頻繁に甲斐の国に軍を送っていた。しかし氏輝の代になり和平路線を執る駿河今川家と甲斐武田家とは一時的に和睦をしていたのだが、先年の天文四年、突如として武田信虎が駿河と甲斐国境に軍勢を催して今川家と対峙した。

 この合戦には北條家は今川家の合力として軍を発行していたが、今川家がやや押された形で合戦が終了し、かりそめの和睦を整えたところだった。

「いやいや、武田殿とは和睦を為すことができ東は北條殿が居られる故、さして気にする事もないが西の三河の松平が騒ぎを起こしておっての」

「松平ですと」

「うむ、あまりの一揆勢の多さに少々くたびれた」

 氏輝の顔は心底疲れている様な表情だった。

 元々病弱な体質もあったのだろう、父氏親の跡を継いでからは四方に軍を推し進めるといった軍事的な行動は殆ど執っておらず、このため三河方面では守勢にあって一揆勢に至る所で押し込められているとの噂も流れていた。

 数日後、氏輝が冷泉為和を連れて駿府へ戻って行った。

 このとき氏綱へ見せた表情は、直後に降りかかる自らの運命を感じ取ったものだったのだろうか。駿府へと戻った氏輝が、三月とも経たないうちに突如として死んだ。

「なんだと、氏輝殿が身罷っただと?」

 至急の使者が駿府今川家から馬を走らせて、つい先ごろ共に歌を読んだ従兄の子である氏輝が二十一歳の若さで死んだ事をつぶさに伝えてきた。

「弟の彦五郎様も身罷った由にござます」

 今川家からの急使が伝える所によると、兄弟が揃って同日に死んだようだ。

「何があったのだ」

「御屋形様の死に顔を見られた重臣の方の言によらば、なにか苦しまれたかのような御顔だったとか漏れ聞こえておりまする」

「彦五郎殿はなぜ死んだ」

「弟君も寝所で息絶えていたとの事でございます。こちらも安らかな御顔ではなかったとか」

「毒か」

「詳しい事はわかりませぬ」

「相分かった、して今川家は今誰が切り盛りをしておる」

「寿桂尼様にございまする」

「寿桂尼様なら間違いはあるまい。使者の役目、苦労であった。駿府へ戻らばこの氏綱、今川家への助力は惜しまぬと伝えてくれ」

「御助力有り難き事にございます。主人に代わりまして御礼申し上げまする」

 今川家からの急使が駿府に戻ってから直ぐに、氏康から密偵の報告が上がって来た。

 この時も枯山水を庭の景色としてあつらえた書院が選ばれた。

 氏綱、氏康、小太郎の三人が話をするときに良く使われた屋敷なのだが、部屋から庭の大石や立木など人が隠れる事ができる所からは適度に離れており声は聞こえない。

 さらに枯山水様の玉砂利は歩くときに音が出る。このため容易に近づく事もできないので、流石に他家の間者などが入り込める隙がなく密談には最適な造りと言えるだろう。

 氏康が書院に亘る為に座敷を渡り、濡れ縁を踏み鳴らしながら書院の間の襖を開けると、そこには奥で端坐しながら庭を眺める父氏綱の姿があった。

「父上、既に御渡りでございましたか」

 氏綱は息子に向き直り、静かな佇まいを見せる庭から名残惜しげに視線をはずした。

「うむ、少々庭などを眺めておった」

「何時見ても良き加減の庭でございますな」

「室町の義政様から更に工夫を加えられたと聞いておるが、中々雅なものではある」

「ときに父上」

 氏康が庭から目を離し、父に向かいながら密偵のもたらした情報を切り出した。

「すでに氏輝様ご他界の報は御聞き及びでございましょう」

「うむ」

「氏輝様の死の真相はいまだ闇の中でございまするが、先年氏輝様の御弟君で善徳寺に入れられてから京に上られていた梅岳承芳ばいがくしょうほう殿と申す方が駿府に戻っておられます」

「梅丘承芳?聞かぬな」

「四つの時に仏門に出されておられたとか。ついこの間までは京におられたようなので名を聞かぬは致し方ござらぬかと」

「して、後継ぎはその方に決まったと申すのか」

「いえ、実は氏輝様がご他界されてから今川家では、既に不穏な動きが出ておるようにございます」

「家督騒動が今川家にも起ると?」

「はい。正にそのようにございます」

 氏綱は溜息をついた。

「今川家も割れるか」

「梅岳承芳様の他に御兄弟は、やはり僧籍に入られた玄広恵探げんこうえたん様と言われる兄上が居られますが・・」

 氏康はここで言葉を切った。

 これに意味を感じ取った氏綱は、側室の子かとの思いが過る。この時期には掃いて捨てる程良くある家督相続権争いの種だった。

「妾腹の子か」

「はい。しかし妾腹といえど出が重臣福島くしま氏の出とか」

「ますます面倒な事じゃ」

 閑話休題になるが、この今川家重臣の福島氏、一説には北條綱成の父、福島正成とも言われているが定かではない。その説によるとこの騒動で福島正成が討たれたとされている。

 この福島氏が正成とは別人としてもおそらくは血族ではあっただろう。

「今はまだ静かではありますが、梅丘承芳様は寿桂尼様のお腹の子故、福島氏の伸長を快く思わぬ重臣達が祀り上げる事はほぼ間違いありますまい」

「筋から言えば寿桂尼様のお腹の子が家督するが筋よな」

「はい、その為か切れ者と評判の高い梅岳承芳様のお付きの僧に太原崇孚と言う者がおるのですが、近頃はこの者を重く用いられておるとか」

 太原崇孚たいげんそうふ、または雪斎せっさいとも呼ばれる人物で、元は九英承菊きゅうえいしょうぎくと名乗る臨済宗の僧侶だった。 父を庵原政盛、母を興津正信の娘に持つ今川家譜代の重臣の家柄にあった者だ。

 元々駿河の善徳寺で修行をしていたようだが、学識を深める為に京都五山の建仁寺で修業をしているところを氏輝の父、氏親に見出され、子の芳菊丸の教育係になって欲しいと頼み込まれたとされている。

 そしてこの芳菊丸が建仁寺の常庵龍宗によって得度され「承芳」と改めた。

 その後幾度か修行の為に寺を移り、京の妙心寺に入った辺りで道号「梅岳」を受けたようだ。

 天文四年になり駿河に戻ってから善徳寺へ入り、翌年の今年、氏輝が死去して俄かに相続権が渡って来た所だった。

 この年、武蔵国岩付では太田資頼が没していた。

 既に岩付太田家は、資頼の嫡男、資時(別名:資顕)が天文二年に家督を継いでいたので波風は起こらなかったようだ。

 そして弟の太田資正を元服させている。後の太田三楽斎だ。

 また北條綱成にも子が生まれた。後の北條氏繁である。

 玉縄北條氏にも後継ぎができた時期だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ