青娥
取り敢えず謝って置きます。
青娥
虎は悔やみ、岩戸は閉じる
矢張り、苦々しい思い出程忘れられないものだ。逆に楽しかった思い出程、時が経つに連れてあやふやに、曖昧に成って仕舞う。最期に残って居るのは、そんな、忘れようにも忘れられなかった、辛苦い物丈なのかも知れん。
でも、最期にそんなのしか残って無かったとしたら、随分と味気の無い終りに成りそうだよな。出来る為らば、綺麗な色の思い出を見て逝きたいもんだ。…………些か気が早いか。
…………言われても、君には分からない? …………そっか。
えー、例えば、君がおれと話してる時と、独りでこの部屋に居るのだと、何方が短く感じる、時間的に? 自惚れじゃないけど、多分おれと一緒に居る時の方が短く感じるんじゃないかな? …………違うとか言われると困るんだけど。
君に取って、おれとの時間は短い訳だ、主観的にね。すると、君の今迄に、過去から続いて来て今に刻み続ける、その時間の全体から考えて、君の中のおれと言うのは随分と小さい筈だ。過去を振り返ってみて思い出すのは、君が閉じ籠るこの部屋丈なんだろう。
それは別に特別な事じゃなくて、あくまで時間的に小さいって言ってるんだ。若し、君がおれの事を少しでも想ってくれるなら、君の心の中のおれって言うのは、まぁまぁ大きいんじゃないかな? これは自惚れだけど。
…………うん、うん、恥ずかしいね。自分の墓穴を掘ってたみたいだね。
…………全く、君はこう言う時丈然やって…………、何だよ、触るなよ。触るなって。
ふん、それでだ。今からするのは後悔の話だ。おれが、何故か今に成っても悔やんでいる、そんな話。
別に…………大した事では無かった筈なんだ。只人間が一人死んだ、それ丈の事で、でもそれ丈では済まなかった。その後にも色々とやらかした、その何れ依りも、おれはその時の事を後悔している。あれだけは、“仕方が無かった”とは言えないんだ。理由を聞かれても、おれには答えられないが。 …………ん、済まない、然言う心算じゃあ無かったんだが。否々、違うって、違うから。拗ねない拗ねない。
良く有る話、良く有る悲劇。今更言っても仕方が無いが、まあ聞いてくれ。
平安の都、夜の深まった街には人影は殆ど見えず、時折見かける者は俯き、足早にその場を立ち去る。都の真中を南北に貫くだだっ広い朱雀大路も、今はがらんとしていて、辺りの静けさをひっそりとそのままに際立たせていた。
そしてそんな道を一人、少女が歩く。
紺色の着物に黒の指貫を穿き、首に巻いた赤いスカーフがゆらゆらと揺れ、いかにも和漢折衷な出で立ちで少女はふらふらと歩いている。格好もさることながら、褪せたような髪は見ようによっては白く浮き上がり、往来の中ではとても目立つだろう。誰もいない道では、少女に注目するのは、道横の溝を走る鼠や、闇に紛れて飛ぶ烏くらいだったが。
朱雀大路というのは何と道幅が70mもあるのだが、そこを少女一人だけが歩いていると、道の広さが引き立つ。日によっては、主要道路ということもあり、人通りが終夜絶えないこともままあるのだが、今夜は誰もいない為に、ただ広大とした道が宮まで続いているのは、中々の圧巻である。
「桃之夭夭、灼灼其華
之子于帰、宣其室家…………」
少女は随分と古い詩を小さく口ずさみながら、手にした尺八のような小さな笛をくるりと回す。洞簫という尺八の類のものだが、これは縦にして吹くものだ。それを手の中で回して、手持ちぶさたに、北の羅城門の方へ向かって歩いていた。
「…………桃之夭夭、其葉蓁蓁
之子于帰、宣…………」
最北端、羅城門まで来た時、少女は歌うのを止めて息を吐いた。冬の近付く今の季節、冷える夜空に息が白く昇っていく。首に巻かれたスカーフを左手で掴んで、喉の奥から唸るように、少女は誰ともなく言った。
「――――誰だ」
少し低めの、声変わりのしていない少年のような声が、大きな門の内部で反響して、静かに消えていく。月の光から遮られた闇の中を見透そうと目を細めて、少女は眼光鋭く辺りを見回す。
こんな夜更けに、応える者はいる筈がない。例えこの門に番兵が立っていて警護を勤めていたとしても、少女の誰何に応えようという者はいなかったろう。だが、少女は応えを待って、黙ったまま立ち尽くす。
「あなた、随分と古い詩を知ってるのね」
と、暗がりから返答があった。若い女の声が、からかうような声音で少女にかけられる。どこから聞こえてくるのかも定かではなく、浮いたような声は宙に消える。
…………確か、此の門には鬼が住んでいるんだったか。少女はそう思い出しながら、小さな犬歯を剥き出して威嚇するように唸った。
「己は、誰だと訊いたんだが?」
一段低くなったトーンに警戒の色を感じたのか、女の声は僅かにからかう素振りを潜めて、嘆くように呟いた。
「以前にも会ったでしょうに、これだから獣は物覚えが悪くて」
暫く、少女は首を捻って、思い付く節があったのか、手を打って頷く。
「…………あの時の仙人か」
少女は、皎月は成る程と一人納得して頷きながら、手の中でまた笛を回す。実は、彼女にはこの笛は吹けないのだが、手に入った以上捨て置くのも忍びなく、仕方もなしに持っていたのだった。
その笛を腰に差してから、皎月はとりあえず拝礼をしておく。どこに向かってすれば良いのかも判らぬが、膝を付いて適当に頭を下げて、埃を払いながら立ち上がった。敬意の欠片も無さそうな顔で、大きく欠伸をしてみせて、皎月は姿の見えない女に声をかける。
「姓名を訊いても良いだろうか?」
「武の一人娘って前にも言ったじゃない、青娥よ。気軽に青娥娘々と呼んでくれても良いですけど」
娘々、というのは、道教に於ける子宝の女神のことや、女性を敬って言う時の呼称である。ニャンニャン、という中国語独特な発音が一部日本人にはジャストミートなのであり、口にした時の何とも言えぬトキメキは中略なぜか猫娘との関係を疑う人が以下略。
どうでもいいことかもしれないが、青娥というのは本来は“綺麗な若い女性”という意味だ。なので、青娥娘々は間違っていないけど名乗り自体は間違っている…………のかどうかの真相は神主だけが分かっている。
まあ、それは兎も角。
「娘々様に逢えたとは後の自慢にも成ろうが、斯様な時間、場所ではな」
「日本に仙人が居ちゃ駄目とか言わないのよ? 私は布教の為に来ましたんだから、別に不思議は無いでしょう?」
「この国は仏教が盛んと聞いたが?」
「ああ、それはね。あの方の目論見が九割方上手く行っている証拠よ、今でも盲目的に仏教なんて信仰しているのは」
少し得意気な様子で、青娥と名乗る仙人は僅かに笑った。悪巧みが上手くいっているのを喜ぶ、子供じみた無邪気さをそこに感じ取って、皎月は軽くため息を吐いた。仙人にしては、なってないなと思ったのだ。
中国の仙人というのは、日本人の考えるような欲を捨て、節制して、霞を食べて、山に籠る、そんなものではない。穢れてはいないけど欲にはまみれ、生活には豪華絢爛贅を尽くし、霞なんかではなく毎日満開全席で、山ではなく天界に住む。ある意味では、限り無く人間らしい者が仙人になると言っていいだろう。
どことなく青娥には、もっと純度の高い人間臭さがあると、皎月は感じた。無邪気と言うより邪悪、無垢と言うより有害、どこまでも自分勝手でそれこそを良しとし、どこまでも芯強く目的へ向かう強さを持った、そんな人間の匂いを、嗅ぎ取った。
「そうねぇ、あなたで良いわ。一つ頼まれてくれないかしら?」
だからだろうか、女性がそう言うのにかなりの抵抗を感じたのは。反射的に関わらない方が良いと思い、感覚的にこいつは危険だと感じ、理性というより本能的に負ける訳にいかないと見当違いの意思を立てた。
まあ考えてみれば、皎月は他人に頼まれ事をされて断れるような性格ではなかったのだが。何だかんだと言いつつも、頼られて悪い気がしないくらいには、皎月は人が良かった。同時に全く見ず知らずの人が死にかけているのを見過ごすくらいには分もわきまえていた。
「娥い青女と、自称しかしない仙人なぞの言う事が、果たして聞けるだろうか?」
つまり姿を見せろと、そう皎月は唸る。姿も見せない輩に請け負ってやる仕事は無いと言いたいのだ。それを青娥も承知して、無造作に皎月の前に降り立った。
今までどこにいたのかは分からないが、あまりにも唐突に上から降ってきた。とん、と軽い音を立ててこともなげに、仙女は虎の前に立つ。
まず纏う空気が違う。どこまでも清涼な雰囲気は、恐らく一生地面を這いずり回る運命にある人間には到底触れることの出来ないものだ。見る人には、まず触れてはいけないと畏怖の念を抱かせる。それは皎月も例外でなく、彼女は思わずともそう感じたことに気付いて少し顔をしかめた。
青娥は、まあ本人が言う以上の美人だった。薄く青みがかかる黒髪を頭の上で丸め留めており、月影に淡く光を受けている。不思議なことに、髪を留めているのは簪ではなく鑿だ。目鼻立ちも整い、一種彫刻のようなきめ細かな肌が暗い中でもはっきりと見える。身に付けた羽衣も、地面には触れずにふわふわと揺れていた。
清楚可憐、金剛不屈、不老長寿の仙人。見かけた誰もが振り返り、その容姿に見惚れるだろう。好奇心と無邪気さに輝く瞳に射抜かれたら、心を動かさぬ者はいまい。
しかしこの話の主人公たる皎月は女の子である。しかも今のところは心にドキリとすることのない無情緒者だったので、確かに美人だと頷き黙ったっきり、顔をしかめて首のスカーフを掴んで何も言わない。風情が分からぬ訳ではないが、いかんせん感情を表に出すのが苦手なきらいが皎月にはあった。暫くして漸く、無礼を詫びる言葉を口にして、皎月は呻く。
「青蛾なのは否定しないのかしら?」
「…………己は嘘は好かないのだ」
ため息を吐くように唸ってから、腰から洞簫を抜いて青娥に渡して、頼み事とは何だと聞いた。ぶっきらぼうに渡された笛を手の中で回して出来を誉めてから、青娥は笑って言う。
「朱雀大路をずっと行くと、機嫌悪そうに荷物抱えて歩いてる人が居るから、その人を大峯山迄送って行って欲しいんです。あの人、きっと苛々してるでしょうけど、あなたみたいな人だったら直ぐ打ち解けられると思うわ」
聞けばその人に関しては、少し気にかかる事があるのだという。物騒な話題を気にかけての仙女の使いともなれば、ただの虎も出世したなぁ、と皎月は冗談交じりに思った。何かと他人に使われる事が多いのも前世の業のなすところかと納得することにしておこうとも思ったが、前身であるところの記憶は無くしているし、前世なんて知るよしも無い。
文官なのに、どうしてそんな物騒な話になるのかと少し首を傾げる。何でも、快く思わない輩が荒くれ者に銭をやって、付け狙っているらしい。そもそも本人の性格があまりよろしくはないらしい。
それを聞いた皎月はにやりと口元に笑みを浮かべて、嬉しそうにその人について詳しく語る青娥をからかって言った。
「気に掛かると言いつつも、自分では行かないのか?」
「それでも良いけど、それじゃ駄目なの。山迄行けば私はいるから、そこまでお願いしますね」
返された小さな笛を受け取ってくるりと回して腰に差して、虎は軽く笑う。
「若し中途で襲われたら如何する?」
「あら、天下の猛虎が何を言うのかしら。人間一人護れないなんて冗談は止しなさいな。…………でもそうね、あの人は物怖じしない人だけど、正体がバレて怪しまれたら私の名を出してくれて構いませんよ」
そしたらきっとついて来てくれますよ、と青娥は笑って言う。あの人と口にする度に、憚らず嬉しそうに口元を綻ばせるのを見ると、まるでお話に出てくるような展開だ。偶然出会った青娥と知り合った生員が、実はその美人は仙人で、様々な奇異に巻き込まれるというのは良く耳にする話である。
まあお話と違うのは、日本という国柄上いきなり褥で懇ろにという展開にはならないことか。あるいみ懇ろにはなるかもだが、一夫多妻が主なアジア圏においてはやはり女の人の行き場はない。大概そういうお話の結末では、仙女は仙界に帰ってしまい、男の方は嘆くのみである。
了解を返して、皎月は羅城門を北に出た。護衛して行けということなら急いだ方がいいだろうと、だだっ広い道を走り出した。
少女は朱雀大路にまた一人きりで駆け出す。あっという間に姿が小さくなっていく後ろ姿を見ながら、仙女は簪代わりの鋤に触れて、息を吐いた。
「む、彼奴か」
時間が時間なので道を歩いている人は全くいなかったが、見た目機嫌悪そうに足を踏み鳴らして歩いている人間は一人だけだったので、間違う筈もない。
どこからどう見ても苛々しているその人は、がつがつと靴をこれでもかと踏み散らし、綺麗に均された道を蹴りあげ、憤懣推して知る可しといった体で猛然と羅城門に向けて歩いていた。
「当に怒髪衝冠(怒髪冠を衝く)と言う所か」
皎月は小さく呟いて軽く息を吐いたが、その呟きはその人に聞こえていたらしく、距離があるにも関わらずぎろりと視線が返ってきた。
「仁人於弟也、不蔵怒焉、不宿怨焉(仁人は弟に於けるなり、怒りを蔵さず、怨みを宿さず)だ、如何して怒りを留めて置こうか。その様な事を言われるのは非常に不愉快だな」
体格の良いその人は、口髭を揺らして低く笑う。迫力のある笑みで少し離れた少女を見ると、指貫の袴を蹴りあげて少女の方へずんずんと歩いて来る。皎月が勢いに圧されてたじたじとしながらも、なんとか意地を張ってそこに留まっていると、その人は直ぐ目の前まで来た。直衣に立烏帽子の略装のその人は、藍がかかった黒色の瞳をきらりと輝かして、お前は誰だというように少女を睨んだ。
近くまで来ると意外と上背があって、皎月は少し怯む。鍛え上げられた体を見ると、そこそこに歳はいっているだろうにしっかりとしていて、豪快な性格の垣間見える。瞳は若々しい熱を未だ燃やしており、何者も見逃さぬ気迫があった。
目の前までやって来たその人は、上から睨めつけるように男装の少女を見る。じぃっと少女のちぐはぐな出で立ちと赤いスカーフを見つめて、にわかに口元を曲げてにぃっと笑った。
「お前、妖かしだな」
バレるの早っ、と皎月が思ったかどうかは定かではないが、落ち着きを払った様子で彼女は見上げるようにして瞳を見つめ返す。
「何故然思った?」
「只の勘だが、私の勘は外れた事が無いのだ」
自信満々にそう言われては否定する気も起きない。皎月は適当に誤魔化して、その人に、どうしてそんなに苛々しているのかと訊いてみた。すると、思い出したようにまた足下を蹴りあげて、その人は唸る。
「あの菅原の坊っちゃんが! 歳上を蔑ろにするとは実に嘆かわしい事だ」
良香の朝臣は、苦々しげに足を踏み鳴らし怒りを表す。荒々しく、落ち着かなさげにあちこちへ目を走らせ、一人気炎を吐いた。
「終いには見下した目で見てくる、遣唐使も廃止すると言うし、最早我慢が成らない! そんなに家柄が重要なのだろうか、今では鬼ですらも詩をたしなむというのに! いずれあんな奴の下で働く位なら、官の席等此方から捨ててやるわ! なぁ、然思わないかお前?」
「宜為り、科歳試に及第すれども貪賤の吏に膝を突く位為らば、一介の生員として知識を深め詩文に由りて名を成すに勝る道は有るまい」
思わず力強く同意していた。言ってしまってから、どうして自分はそんなことを口走ったのかと首を傾げた。が、どうもそんな考えに至ったかの道筋が見えない。見れば良香も目を丸くしていた。
「はぁん、どうやら大陸から来たと見える。私は都良香と言うが、名を聞いても良いか?」
「李皎月という、朝臣殿。名の有る方と見受けするが一体こんな夜半に何方へ?」
「畏まらなくても良いぞ、官は退いたんだ。否何、嫌な後輩に出世で追い抜かれてしまって、大峯山辺りに隠ろうかとも思ってなぁ」
成る程、仙人の言っていたのは確かだ、と皎月は頷いて、方向が一緒だからついて行っても良いかと聞いた。これで駄目だと言われたらどうしようかと考えつつ言うと、良香は豪快に笑ってついて行くくらいお安いさと請け負って、荷物を背負い直す。
そのまま二人で羅城門へと、他には誰もいない道を歩き出した。話してみると、文に精通していることが直ぐに分かった。
「君は科歳試に受かっているのかい?」
「先のは口が滑ったんだ、聞かないでくれ」
皎月が顔をしかめてそう辞退すると、良香はにやにやと笑いながら、さぞかし漢詩に通じてるのではとからかう。それを否定すると今度は腰に差した笛に目を止めて、吹いてくれよと言う。それも辞退すると次は服装が変だと言い出し、なにかと皎月を弄る。子供じみたその仕業に皎月は半ば呆れつつも、少し前に一緒にいた狐を思い出して諦めた。
しかし政治の話になると、当然皎月は聞き手に回るのだが、最近の治世はいかんと熱く語るのである。皎月も、全くお前の言う通りだと喝采を送り、時には意見し、終いには二人共意気投合して旧くからの友人のように気がねなく喋るようになった。
「気霽風梳新柳髪 気霽れては、風新柳の髪を梳る
氷消波洗旧苔鬚 氷消えては、波旧苔の鬚を洗ふ
…………成る程、巧いな」
「だろ? 私は喜んでそれを拝借させて貰う事にした。他に良いのも思い付かなかったし、話題性もあるからな。そしたら件の菅原道真が『羅城門の鬼が作った句を自分の物の様に得意気に発表する何て、良香は馬鹿者だな』と公然と言ったのだ」
「何だと、そんな事を言ったのか」
「然だとも。私が怒るのも無理は無いと周りも言っていたよ。然し、彼は出世丈は順調で、気付いたら私を追い越していた訳だ、私はもう何年も位は変わってないのに」
「だから山に隠る、と。当て付けか」
「当て付けさ。まあそろそろ引退時だとは考えていたし、それが凄く早まった丈だよ」
「それに付けても、件の道真公は嫌な奴たなぁ。例え会っても己は上手く遣れそうには無い」
「悪い奴では無いんだがなぁ。ものを憚らぬのがいけない、“沈黙は金為り”という言葉を知らんのだろう。彼とも二度と会う事は無いだろうが、これからは何とか上手くやって欲しいよ、いつか怨みを買うんじゃないかって心配なんだ」
「…………知己想いの好い奴だな」
「止せ、私は気に入らない事があるからと世を捨てる只の阿呆だ。隠忍自嘲して、静かに暮らそうと目論む丈の厭世家気取りだ」
「道教を信仰しているのだったか、仙人にでも成る心算か?」
「ははっ、それも楽しそうだな!」
話せば話す程、皎月はこの墨客に親しみを覚えずにはいられない。だが何故かは分からないけれども同時に、鏡を覗き込んで過去を振り返るような苦々しさも、感じていた。結末を知っている物語をもう一度聞かされているような、分岐点がどこだか判らずに彷徨い続けているような、そんな苦々しい思いを。自分の事を振り返ってもそんなことを思う理由は無いのだけど、そう感じずにはいられなかった。
良香は快活に笑って背の低い皎月の頭をぐりぐりとする。その手を払いのけて、皎月は良香の顔をじっと見た。暫く見つめてから、納得したのか一人頷く。
「…………成る程」
「お、何か分かられて仕舞ったか? 何だよ、何だよ、教えてくれよ」
「別に、大した事じゃない」
…………只、何故あの仙人がお前を気に掛けているのか分かった丈さ。皎月は心中呟き、尚もつついてくる良香の手を払った。
二人は羅城門を通り過ぎ、都から進路を取って暗い道を歩いていた。良香の持つ灯りと、半分に欠けた月以外に照らすものは無いが、虎には十分過ぎる程明るく見えた。均されている程度の道を、二つの影法師が行く。虫と風の鳴く声以外には彼女らの話し声しか聞こえるものは無く、静まりかえる草原は閑静に成りを潜めるのみだ。
特に何か気になることはない。このままいけば何事もなく彼女達は大峯山に着けるだろう。
何事も無ければ。
皎月は素より獣だ、人間ではない。しかも百獣を求める虎だ。今は人間に化けていても、聴覚嗅覚が衰えるわけではない。
だから、皎月は風の匂いを嗅いで、僅かに顔をしかめて唸った。
「……………………早いな」
「何がだ? …………って、おぉっ!?」
深い草原の、高い背に隠れていた人間が立ち上がる。気配を消して、随分前から潜んでいたのだろう。現れたのはあまりにも唐突だった。
数は十二、二人は少し離れた所にいるが、それ以外の奴らは腰の刀に手をかけてこちらを睨んでいる。
命を狙いに来た刺客だと明に暗に示したいのか、全員ぼろ布で顔を隠すという間抜け振りである。世を捨てる予定の者を襲うのに顔を隠す意味は如何程なのかと皎月は一人首を傾げる。
仙人の言っていた“気に掛かる事”の中の一人、一番体格の良い奴が一歩進み出て、目を丸くして、おー、とか声を上げている良香を睨んで唸った。
「貴様、都良香だな?」
「応、私が都良香だ! 諸君等は相手を間違えて無いから安心し給え!」
こんな手合いは無視して構わないのに大声でそう請け負って、良香はにやりと笑う。体格は良いので、きっと腕に覚えがあるのだろう。
だからこんなに多いのか、と皎月は内心納得する。人一人始末するには多すぎるとは思っていたが、成る程、十分な人数を用意した心算なのか。
先頭の男が刀を抜く。月に鈍く輝いた刃が十筋に軌跡を描き、四方から睨んでくる。睨み返して、皎月は、さてどうしようかと頭を傾げた。自分が頼まれたのは護衛だが、どの程度までが“護衛”になるだろうか。
端的に言えば、殺しても、怒られないだろうか。殺した方が良いのだろうか。
皎月の心情的には、余り殺したくはなかった。虎としての在り方を否定するわけではないが、何だか気分が悪いのだ。胸の辺りがムカついてきて、頭をぐるぐると掻き回されるような心持ちになってしまう。そうなると後は感覚を、肉を咬み骨を砕き命を喰らうその感覚を、忘れられるまでただ走り回るしかない。
自分は虎だ、その筈だ。皎月はいつも考える。虎なのに人間を食らうのを躊躇うのは、何故だろうか。理由が無いのに、嫌なのか、嫌なのか。自分がおかしいのか、自分が虎なのがいけないのか。
…………今それを考えるな。悩むのは、後で出来る。
腹を括ろうと息を飲み込んで、皎月は良香と共に一歩前に出た。何も持ってはいないが、彼女の力は張り子ではない。軽く拳を握って、小柄な体を丸めていつでも飛び出せるようにする。
「おい、私の客だ、無理するなよ!」
「心配無用、自分の身体を考えてろ」
懐から小刀を出して、良香はにやりと凄惨に笑う。本当に文人なのかと疑いたくなるほど様になった構えに、皎月は半ば呆れて息を吐いた。
刺客は一度には襲って来なかった。僅かに刀を振るタイミング、角度、スピードを調節して、必殺の間合いで良香と皎月に斬りかかる。一番刀を受けて防いでも、二番三番はどうにも出来ないと見越してのことだ。恐らく、並大抵の者ならば十回は殺せる程、しっかりと計算された攻撃だろう。
しかし相手が悪かったらしい。
体つきは華奢でもきちんと鍛えてある良香は、一番刀を振って来た男に体当たり気味に素早く突っ込む。刀を振るより先に懐に入り込まれた男は呻くが、どうにも出来ないのは目に見えており、笑顔で首を一閃した良香を怨みがましい目で睨んだ。
胴体と首が離別して暗闇に血の臭いが濃厚に漂い始める。皎月は頭を殴られるような心持ちで空気を求めて喘いだ。無意識に首に巻いたスカーフを握りしめ、揺れる視界を安定させようとする。
死体を押し退けて他の刀の間合いから逃れた良香はともあれ、無手の皎月を邪魔だとばかりに斬り捨てようと刃の行く先を変えて、他数名は足を止めずに走り寄る。
「…………ふ」
…………やる事は簡単だ、殴って黙らせれば良い。それ以外は無い、実に簡単な話だ。
漸く答えを出せた皎月は、振り下ろされた刀の腹を叩いて器用に反らすと、一人の懐に躊躇なく踏み込んだ。無防備な顎へ突き上げるような掌打を食らわせて、直ぐに離れる。
同じ要領で、一人の胸に裏拳を叩きつけ、一人のこめかみに肘鉄をぶちこみ、一人の鳩尾に正拳を突き刺し、合計四人をダウンさせて、皎月は息を吐いた。
改めて良香の方を見ると、既に五人を地に伏させて、逃げ出した六人目を見送っている所だった。数名、既に息絶えている者がいるようだが、知ったことではないと皎月は視線を切る。濃くなった血臭に、顔をしかめて軽く唸った。
と、軋むような音に目を向けると、少し離れた所にいた二人が弓を絞っている。狙いは棒立ちになっている良香だ。離れていたのは最初から弓が本命だったのか、皎月が気付いた時には弦は絞りきられており、満を持した矢は既に放たれようとしていた。
「――――良香!」
皎月は内心失念していたことを悔やみながら、声を上げる。数を数えておきながら、取りこぼしに気付かないとは。どうか避けてくれと思いながら、皎月は離れた所にいる二人の方へ走り出す。間に合わないのは分かってる、だが次矢は射たせない。
声に素早く反応した良香は身を伏せようと直衣の裾を翻したが時遅く、鋭く空を裂いた矢二本、良香の腕に突き刺さる。背後で上がった小さな悲鳴を置き去りに、皎月は弓に次の矢をつがえた二人の側まで走る。
引き倒すように頭を地面に叩き付けて昏倒したのを確認してから、皎月は手当てをしてる良香の所に戻った。一面の草原に倒れているのは十一人。一人はもう逃げてしまったようだ。
「…………大丈夫か?」
「あ、あぁ、私は大丈夫だ」
何故かキョトンとしている良香の肩を叩いて、皎月はさっさと行こうと促す。五人分の体液で染まった地面と草が赤黒く月の光を照り返してぬらりとしていた。それから目を反らすようにして、虎は人間の肩を叩いた。
血の臭いがかなり遠ざかってしまってから、漸く皎月は大きく息を吐いた。肩を落として、土と草の匂いを吸い込む。もし彼女が獣の姿だったら、耳と尻尾を揺らしただろう。
「ふぅ、彼奴等何だったんだろうなぁ、全く覚えが無いんだが」
独り言のように呟いて、良香は軽く後ろを振り返る。傷を負った腕を庇うようにして、目を細めて、口の中で何事かを呟いた。
「…………残念だったな」
「ん、何か言ったか?」
「…………否何も」
それきり互いに黙って、うって変わって静まりかえった道を歩く。先程の襲撃など関係なく、何事もなかったかのように風は吹いていた。
「むぅ」
…………扨、まるで問題無いように危機を脱した訳だが、自分の役目は一体何だったんだろう。良香の実力を鑑みるに、恐らく一人でも上手くやれただろう。と、成ると自分の役目とは良香に怪我を負わせない以上に、相手を生かすという意味に成るが、…………あの仙人はそんなこと気にしなさそうだ。
と首を傾げていた皎月は、ふと気になって、前を歩く良香に声をかけると、おもむろに聞いた。
「お前とあの仙人は、如何言う関係なんだ?」
「ぶっ、げほっ、げほっ、せ、仙人!?」
「何故噎せる」
日本に仙人は中々いない。だから、心当たりがあるとしたら、その相手は限られる。あの仙人が良香を気にかけてやるのはきっと何かしらの理由がある筈だ。
わたわたと狼狽え始めた良香を不思議そうに見て、皎月は内心聞かない方が良かったか知らんと唸った。
「否、だって、娘々様はっ」
「…………ほう」
「ち、違う、今のは無しだ! 私は青娥様の事は何も知らん!」
知らん、知らんぞー、と叫んで良香は両耳を塞ぎつつ歩調を速める。背の高さの差から一瞬離された皎月は、ちょこちょこと良香の隣まで追い付くと、困ったように袖を引っ張った。
顔を僅かに紅潮させているのが深い髭の隙間から見えていた。照れたような顔で裾を払って、苦々しげに唸る。
「抑々、貴様は何者なのか、私は未だ聞いておらん! そんな状態で此方の事を探ろう等とは――――」
「己は唐から来た妖獣で今は娘々殿の使いだ。…………話したぞ?」
「――――潔いな皎月っ!」
先は妖かしだと言われて否定したのにあっさり認めた上に特に気にしたようすも見せない皎月に、良香はため息を吐いて、片手をひらひらと振る。
「分かった、分かった。話せば良いのだろう」
半ば諦めたように拗ねたように、だけど話せるのが嬉しそうな顔で、良香は皎月の褪せた黒髪を弄りつつ呟いた。
「実は……………………私は女なんだ」
思わず無意識に、皎月がまた赤いスカーフを掴んだのは言うまでもない。
にわかに速まった鼓動を自覚しながら、皎月は納得もしていた。先に感じていた感情は、的外れな物ではなかったのだと。
「以前から、男の振りをして詩で名を立てていたんだが、中々判られないものだな。髭やら何やらを付けて、体格を良くする為に武道にも励み、服を重ねて誤魔化したりしてな」
改めて彼女を見てみると、成る程、露出を抑える為の工夫がしてある。髭は馬の毛を使って、炭で皺を書き込んでいるとのことだ。が、手や顔を見ると、壮年の男性にしてはごつごつしていない。若い手の平で皎月の頭を軽く叩いて、良香は息を吐く。
「女より、男の方が優とされる時代だ、名を成す為らばその覚悟は必然だった。後悔はしていないが、ずっと偽っていたのは、心苦しかったな」
「……………………然か」
皎月はやっとそれだけ言って、少し遠い目をする良香の表情を窺う。俯いた彼女の顔は、陰になっていて皎月からは見えなかった。
でも、とそこで前置きをして、良香は一転、先程までのようににやりと不敵に笑ってみせる。そういう何者をも歯牙にかけないような態度はあの仙人に似ているなと、皎月は思った。
「私はかなりの唐被れでな、以前より道教を信仰して、不老長寿の法とやらを求めて鍛練していた。まあ、鍛練と言っても、聞き齧りの知識では何を遣れば良いのかの区別も付かず、余り妙な事をすると周りから気違い扱いされるのでな。仙人に成る気こそ無かったが、身体を気に掛けて遣るのは当然だ。
そしてそんな某日、私は青娥様に逢ったのだ」
富士山に登ろうと決意し、その麓まで行った時に、道の横の石の上に座っているその人に声をかけられたのだと言う。退屈だから話し相手になってくれと言われ、それからの縁だと。
聡明で綺麗な仙人に心奪われた良香は、気付けば自分の身の上も何もかもを話してしまっていて、知らず涙ぐんでいたらしい。泣かないのよと宥められても、むしろ気持ちが募るばかりで。
…………此奴も己の所行で道を過つのかな。覚えずそんな風に考えてから、己の所行とは何の事かと皎月は首を捻った。思い出せる筈はないが、何かしら引っかかっていることがあった。
結局、物語の結末は同じに成るのだろうか。
「青娥様は、私の詩を褒めて下さり、私に道教を教えて下さり、私と話して下さり、私を…………」
そこで良香は暫く固まり、ふんふんと聞いていた皎月の頭をわしゃわしゃとして、何を言わせる気だね君っ、と叫んで一人で照れた。なされるがままに右に左に揺れながら、はて何の事かと皎月は首を傾げる。何で良香が照れているのかが分からない皎月なのであった。
一頻り照れて皎月をどつきまわしてから、ようやっと気が済んだのか仕切り直すように息を吐く。
「良香、という名を付けて下さったのも青娥様なんだ、言道何て名前より此方の方が似合うと言われてな」
頷いて、あの仙人は随分と良香のことを気にかけていたんだな、と皎月は思った。だからと言い自分が護衛に付く意味は無い気もするが。
「……………………それで、何で娘々様がお前に?」
「ん? んー、如何してだろうな」
実際、理由は分からない。そもそも仙人の考えることなんて、理解しようとするだけ無駄なのかもしれない。
皎月と良香はしんとした夜道を歩いて、行く手に山道が見えてきたのを認めると互いに後少しだなと言い合った。皎月は別に疲れなどしていなかったから、良香の荷物を担いで歩いていたが、いくら鍛えていても怪我を負ったままでは辛いらしい。話しながらも、良香は痛みに息を吐いた。
「己は、お前を山迄送れと言われたんだ。若しかしたら、麓で待ってるかも知れん、良かったな」
「な、何を言ってるんだね皎月、私を期待させても何も出ないぞ!」
「何も聞いてないのか?」
「私は何も聞かない、青娥様が言わない事を聞いたりはしない!」
「暴れるな、傷に障るだろうが。あの仙人に惚れてるのは十分分かったから叫ぶな」
「ほ、ほ、ほ、」
「…………おい、気でも違ったか?」
「誰が惚れてる等と罪障な私はその様な気持ちであの人と付き合っている訳では断じて無いしそんな考えを起こした事は無いとは言えないがだが然し私は常に誠実で在ろうと努力しているのでその努力は認められる可きで青娥様に惚れてる等と謂れ無く謗るのは止めて呉れ給え!」
「あぁ、可笑しく成ったのか」
「からかうなよ小人がっ」
「少なくとも貴様由りは歳上だ」
ぐだぐだと言っている内に、視界の中の山は大きくなり、誰が通ったとも知れぬ獣道が口を開けて待っていた。良香は遁世するつもりでいたので一度都の方を振り返って、息を吐く。
「どうか道真君が問題を起こして怨みを買いませんよーに!」
「…………誰に拝んでいるんだ?」
「多分本人にだな」
「成る程」
ここで、二人が完全に気を抜いていたのは言うまでもない。一人取り逃しているにも関わらず、あっさりと撃退出来てしまったので二人とも最早気になどしていなかったのだ。
命を狙われた当の良香ですら、もう襲ってはこないだろうと楽観視していた、いわんや皎月など仙人を探して目を走らせていたので、そいつが近づいてきていることには気付かなかった。
行く手の藪がざわりと揺れて、黒い影が飛び出す。手には沈み行く月の光を受けて白く光る刃。
抜き身の刀を手にしたそいつが先程逃がした刺客の一人だと気付いた直後には時既に遅く、前に立っていた良香に向かい刀は振られている。間に合う筈がないと分かっていても、皎月は直衣の頚上を掴んで引き寄せようとした。
「――――お命頂戴仕る!」
悲鳴じみた叫び声と共に振られた刃は、それでも避けようと身を捻った良香の肩口から脇腹までを深く裂いた。避ける心算が逆に深く傷を負ってしまい、声にはならない叫びが夜を割く。下手人はお世辞にも腕が良いとは言えないようだ。刃が骨に当たる鈍い音を、皎月は間近に聞いた。
良香は皎月より前を歩いていたので、はたして彼女がどんな顔をしているのかは皎月には分からなかった。ただ、宙に散った赤色の量を見て、どこか冷静に致命傷だと判断した。
十分ではないと判断したのだろう、一度袈裟に下ろした刀を反して男は、崩れかけた良香へと刃を宙に滑らせる。銀色の軌跡を描いて走るその軌跡が狙うは、違うことなく首もとだ。
が、男は続けて良香の首を刈り取ることは出来なかった。遠雷のような低い唸り声に一瞬視線を横にやると、
濃い金色の瞳が、縦長の瞳孔が、彼を睨んでいて。
重体一人と“もうすぐ死体”一つを前にして、皎月は荒く息を吐く。歯の根も合わなくなるような悪寒に耐えるようにスカーフを握り締めて一度目を固く瞑る。大丈夫、大丈夫と心の中で数度呟いてから、漸く目を開けた。
「良香っ!」
唸るように叫んで、皎月は地面に崩れ落ちた良香を助け起こす。手にべっとりと赤色が付くのも厭わずに短い旅の道連れを助け起こしたが、ぐったりとしてしまった彼女は力が入らないのか荒く息を吐くだけだ。
辛そうな顔を見て皎月は大丈夫かと聞いたが、大丈夫な訳ないのだ。内臓の殆どには直接のダメージは無いにしろ、出血は酷い。骨の無い脇腹の当たりには直接のダメージがある為に、早急に手当てをしなければいけないのは確かだろう。
「……………………はっ、何でだろう、な」
早くも焦点が合わなくなりつつある目で夜空を見上げて、良香は呻く。そこには悲しみこそ無いが、ただ当惑の色があった。
「何処で、買った怨み、なのか、分からんがせめ、て…………」
「喋るな」
側には目的地であった筈の山が無言で佇んでいる。小さな虎は、誰かを探して目を走らせたが、そこには誰の姿も認める事は出来なかった。
「おい、見ていないのか!?」
暗い森は何も応えない。くそ、と毒吐いて皎月は服を破って応急措置を施してから、体格の違う良香を背負った。潰されそうになりながらも虎の筋力でそれを支えて、山の麓に向かって歩き出した。良香はただ呻くだけで、痛いとも辛いとも言いはしなかった。
良香の為を思うなら、早くきちんとした手当てをしてやるのがいい。だが、皎月は一つ確信していることがあって、あえて山に向かって進んで行く。虎の瞳が、夜闇の中にギラギラと輝いていた。
山へ入る獣道、その脇の石の上に、ふてくされたように座っている仙人の姿を見て、反射的に皎月は理不尽とも言える怒りをぶつけた。ある意味では当然の怒り、だが自分勝手な、人間らしくもある怒りを。
「貴様、見えていたなら何故手を貸さないっ!?」
私が此処に着いたのは今先よ、と言い訳のように呟いて、仙人は虎の背負う息も絶え絶えな人間を見て、辛そうに息を吐いた。
側に来るとそっと頬に手を差して、堪えるように左手は胸元に握っていた。ため息を何度も吐いて、やりきれないわ、と小さく呟く声が聞こえて、思わず皎月は唸る。
「仙人と言うのは、神妙な力を持っているから、こんな傷治してやるのは訳無いんじゃないのか」
「…………私にだって、出来ない事はあります。他人の天命に手を出すのは、少なくとも私には無理だわ」
感情を圧し殺した声音に、ただ見ていることしか出来なかったという後悔の色を見て、皎月は口を閉ざす。自分が怒るのはお門違いだと、今更ながらに気が付いて、皎月は深く息を吐いた。
「…………済まない」
「ええ、……………………そうね」
言われて、荒く浅く呼吸を繰り返す良香を木に立てかけてやる。熱に侵されたようにぼんやりとした瞳は定まらずにふらふらと行きつ戻りつして、傍らに膝を突いた青い仙人を視界の中に収めると、嬉しそうに笑った。
「青娥様、青娥様、お久し振りですね」
青娥は良香を抱き締めて額を合わせると、付け髭やら烏帽子やらを皆取ってしまい顔を拭いてやった。するとこわい髭の下からは肌細やかで艶のある顔が見えて、成る程女だというのは確かなんだなと思わせた。しかし良香は血が青娥の服に付くと心配さえ出来ぬ有り様で、なされるがままにぼんやりとしている。
青娥は頬に軽く唇を付けて、泣きそうな顔でご免なさいねと言った。だが良香は絶えそうな息を繋いで笑って力の入らない腕で細い腕を捉えると、出来るだけ引き寄せて言う。
「何を謝る事がありますか、所詮人間為らば何時かは天命が尽きるのは道理でしょう。閻魔様こそ行いを見てくれていても、上帝の目は地上までは中々届かないものです。如何か嘆かないで下さい」
皎月は一人、きっと閻魔様だって見ていないさ、と恨めしく思い鬱々としていた。生けるものが早くに死ぬのは確かだが、何も彼女が死ななくても良いじゃないか。
同じような事を青娥も思ったのか、大粒の涙を一つ落として、耳元で何事かを囁く。それに良香は小さく顎を引いて応える。暫くそのやり取りを何度もして、仲睦まじそうに短い間ながらも懇ろに話をした。しかし、段々と良香の息が細くなるのを見て取って、青娥はなお辛そうに、良香を抱き締めるのだ。
「…………もっとあなたと一緒に居られたら良かったのですけれど」
良香はことさらそれに反応して、服の襟を掴んで青娥を引き寄せて目をなんとか合わせると、ぐっと口を引き結んだ。
「私は、貴女に出会えた丈で、十分満ち足りました、よ。それ以上を、望んだら罰が、当たります」
切れ切れにそう言って、一度青娥の手を握り返して、そのまま良香は意識を失った。まだ息絶えてはいないが、それも時間の問題で、手足は急速に冷えてきていた。
「…………分かってはいたけれど、人の命は儚いものね」
頬を撫ぜて、仙人はそう言う。皎月は苦々しく目を瞑った人間を見下ろしながら唸った。
「一応聞くが、反魂は出来ないのか?」
「お伽噺と一緒にしないで下さい。反魂まで出来るなら地上にはいないわ」
そもそもお伽噺に出てくる仙人も、天命をどうにかできるわけではないのだ。自分は死神を追い返し、修行を怠らなければ済む話だろうが、他人の命となるとそうもいかない。
でも、と青娥は続ける。
「でも、諦めないわ」
愛おしそうに、ぐったりとして恐らくもう二度とは目を開くことのない文人の、紺色にも見える髪を撫ですいて、目を細める。
「…………あの時とは違いますよね、ねぇ匡九さん。私はもうあんな思いは嫌ですもの」
小さく呟いて、青娥は決然とした顔を上げた。
おれはあの仙人を止めるべきだった。何をしようとしているのか分からなかった自分が恨めしいぜ。
蘇生出来ないと自分で言っておきながら、仙人は死んでしまった良香を僵尸にしたんだ。僵尸って何かって? ブゥードゥー教のゾンビーって奴に似てるな、要するに死体を動かすんだ。普通は勝手に成るものなんだが、道士の中にはこれを作って使う奴がいるんだと。
非常識だなんだとおれが仙人を責め立てていると、ひょっこり良香が起き上がってね。丁度死後硬直し始めてた頃合いで、腕も足も真直に伸びきって何だか出来の悪い怪談噺みたいだった。
しかも、吃驚するおれに向かって噛み付いて来やがった、幸い噛まれる前に離れたが。後で聞いたけど、噛まれたら不味かったらしい。仙人が、あんたが噛まれたらパンデミックとか言っていたから相当不味かったのだろう。
僵尸は、生来凶暴な性格の妖怪でね。起き上がった良香も何だか手の付けようの無い感じで、暴れ出す前に仙人が何やら書き付けた赤い札を額に貼って、それで漸く大人しく成ったんだ。そしたら今度は意識が朦朧としているみたいに、白痴みたいに仙人の顔を見詰め出した。あなたの名前は宮古芳香よ、と囁いて仙人は死体を抱き締めて、ぼーっとしている其奴を連れて何処かへ行ってしまった。
その後に聞いた話だが、とある山中で良香に会った奴がいるらしい。昔と変わらぬ姿ではいたが、どうにも話が噛み合わなかったので、帰って来たとの事だった。
だがおれが思うに、あれは駄目だろう。
何をしようと彼奴が死んだ事には変わり無い筈なのに、何も変わり無いように抱き締めてやる、理解は出来ない。死体なのが悪いんじゃなくて、慈しむのが悪いんじゃなくて、只純粋に生者死者両者に対する冒涜だと思うんだ。
…………もうあの二人会うことも無いだろうが。今頃何処に居るのやら。
え、そんな事寄り、何で虎なのに血が苦手なのかって? 君全然話聞いて無かったろ、興味無いからって、別に良いけど。
ん、……………………別に血が苦手な訳じゃ無いよ。血と言うか、…………生きてる事が、苦手なのかな。この星の生物達は例外無く、お互いをお互いに食い物にして、潰し合って、自分勝手に繁栄の道を目指している。考えると厭に成ってくるよ、その中に自分も含まれるのだと理解するが故に。
普段、余り気にしないようにしてはいるんだが、ふとした拍子に思い出してな、吐きそうになるんだ。“今自分が殺して食っているこの鹿は、きっと死にたくはなかったろうに”とか“昨日道端で息絶えていた浮浪者も同じ種族なのに、助けてやろうともしない人間とは残酷な生物だな”とか、思った端から自分に跳ね返ってくる。
…………考えた事無い? うーん、考えても仕方が無いから、気にしない方が良いと思うよ。特に君達とかは、さ。
うん? 自分もゾンビーみたいなものだけどって……………………あー、然だっけ? えー? でもおれ君に触れるのに特に抵抗は無いけど…………。と言うか、君がゾンビーならおれはウェアタイガーだからな?
…………でも、まあ矢張り、当人達が幸せならそれで良いんじゃないか。誰彼に言う可かる用も無いさ。
…………扨、幾分重い癖に意味無い話をして済まなかった。と、言っても、話の殆どは意味何て無い訳だが。
仙人は死体を連れて行って仕舞い、そして虎は故人と再会する。
エクストリィーム土下座ぁ! 全力謝罪、謝いにingフィンガー!
このような話を上げることをお許し下さい、今は反省してます。
まさかの妄、想、乙、誰得話乙、
要らない話が多いのは、仕様ですので悪しからず。
…………まあ、良いか、あんま気にしないことにしよう。
で、青娥様と芳香ちゃんです、いぇー。
けど書きたいものは殆ど書けてません、いぇー。
やっはー、せいよし広まれやっはー。
東方では久し振りのド嵌まりのペアです、Desire Drive(:D
…………少し落ち着くか。
でも書くことも大してない。
駄目だ、やっぱりせいよし書こう。
次回は、まあ予想通りに星メンバーです、やっはー!