酒呑童子(後編)
後編
然だなぁ、仮におれが気付けたとして、その程度で変わる結末だったのかと訊かれると少し困る。若しかしたら今悔やんでいる結末こそが最善で、おれは無意味に悩んでいたかも分からない。
でも、ま、そんなものなんだろ。逆行者でも預言者でもないおれ等に分かる筈も無いんだから。知ったか振っても仕方無いじゃないか。
だからと言い悩まない理由にもならないけどね。
「――――っ!?」
ビクッ、と反射で体が跳ねる。目が覚めた直後独特の混乱した頭で状況を確認しようとしたが、何も見えない。
視界は暗い。頭に黒い布が被せられているらしい。耳を澄ませると遠くから人の声が聴こえるが、音の感じから自分が狭めの室内にいると判断する。腕は背の方で組まれ、縄で何重にも縛られている。力が入りにくいような体勢にしてある為、引き千切るのは無理そうだ。当然と言えば当然だが、布からはあの陰陽師の匂いがした。
確認するも何も、状況は酷くシンプルだ。
「…………監禁、か。らしくも無い、己が居ては不都合なのか?」
否、と皎月は心の中で否定する。晴明は被害を減らしたいと言っていた。ならばこの所業はどちらかと言えば皎月を庇っての事だろう、決して邪険にされた訳ではあるまい。
短期間の仮契約とは言え、現在皎月は晴明の式に成っている。契約の期間はおよそ一日。その間は主人になった晴明が命令すれば何時も以上のパフォーマンスで命令を遂行する事が出来る。戦力的には皎月を使うという手はあるのだ。勿論、皎月はそんなのはごめんだったが。
「……………………彼奴等、大丈夫かなぁ」
呟いて暫く一緒にいた彼女達が心配になる。きっかけは確かに無理矢理の拉致だったが、裏表無い彼女達鬼の性格を、皎月は少なからず好いていた。
冤罪だと、主張が通るならば主張しよう。通らねば通すために主張しよう。そこまで深い付き合いではないが、萃香達がわざわざ都に行って人間を殺したりするなんてことをする訳が無いと、皎月は思っていた。
何故なら彼女達は何を置いても鬼なのだ。悪さをすれば人間に退治され、悪さをしなくても人間に退治される、鬼なのだ。例え強者を欲し芯を通しても、時代を経て人間が策を立て武装するようになり、同時に卑怯にもなり、そんな彼等を反映した鬼はいずれ潰える運命にある。
萃香達も分かっている筈だ。都に手を出せば、少なくとも今の日常は壊れてしまうのだということが。刹那主義で快楽主義、引いては懐古主義で楽観主義。妖怪は今が楽しければそれで良いのだ。
それとも、退屈な現状に満足出来なくなったのだろうか。ただ毎日遊んで暮らすだけでは、刺激が足りなくなったのだろうか。真偽は兎も角、人間は鬼退治の為に立ち上がった。なれば衝突しか有り得ない。結果何方が倒れようと、結末は悲惨なものになるだろう。
皎月は頭を軽く振って考えを払う。自分が心配してやらなきゃいけないような連中ではない。萃香達は討人にも上手く対処するだろう。寧ろ、心配した等と言えば笑われてしまうかも知れない。
だが、皎月の脳裏に思い浮かぶのは古人の都良香の顔だった。気の合った知り合いを目前で殺され、あれはもしかしたら自分の所為だったのかも知れないと、皎月はあの一件をそう考えていた。良香が死んだ事への怒りも恨みも、あの仙人にぶつけるのは確かにお門違いだ。だが自分はどうだ。目の前で良香が倒れた時、自分はもっと何かしら出来た筈だ。仙人はその場に居合わせられなかったが、自分は直ぐ近くにいたのに彼女が斬り付けられるのをみすみす見逃した訳だから。
その考え方は卑怯だと皎月も気付いていた。良香が致命傷を負った時その場に居たのに何も出来なかったから責任を感じると言うのは、詰まりイコールでその場に居合わせなければ自分の責任ではなかったという言い訳だ。自己満足かつ無責任。酷いエゴイズムだ。しかし人は誰しもそうやって自分を責めることで他の気持ちを、悲しみや哀しみや寂しさや淋しさを和らげているという一面が確かにある。自分を責めて自己嫌悪に陥っていれば、他のことを考えずに済むからだ。だから自分がその場にいなければ今度は他人の所為にして心の平穏を保とうとする。
しかし皎月はそれを卑怯だと思った。場合によって責任を負ったり下ろしたりするのは、それこそ無責任ではないだろうか、と。
無責任で在るならばそれは貫かなければならない。だが皎月は自分がそこまで冷血ではいられないのを知っている。なら背負った方が良い。背負うなら、全部均しく背負わなければ不可ない。
この時、きっと誰よりも分かっていなかったのは当の皎月だったのだろう。自分が元々何処に属していて、時折視える記憶の断片に自分が何を感じていたのか、それすらも彼女は理解していなかった、理解出来ていなかった。自分の過去などすっかり忘れた気でいたのだ。
彼女はずっと、誰よりも、何よりも、目の前で死んだ彼に縛られていると言うのに。
今更背負うも下ろすも無い。皎月、否、李徴という一人は、昔から背負うことしか出来ない奴なのだ。だから、昔話と割り切った振りをして、自分は全く関係無いような顔で、結局全てを背負っていた。暢気に、全く気にしない素振りで、時折思い返しては至極当然のように責任を感じていたのだ。
以前皎月は弟への気持ちを引きずる寺の僧に古人への執着も程々にしろと言ったが、そして自身は相手の気持ちを汲んだ上で逃げる者への支援を買って出たが、あの僧はきっと分かっていただろう。皎月が、誰よりも古人に執着し、且つ余計には背負いたくないが為に失われ行くものを留めようと動いている事を。分かってはいたが、あの時は既に事が差し迫っていた。彼女の思う全ての者への救済は、異教徒だったからではなく、ただ将来苦しむことになる者と今苦しんでいる者のどちらを優先すべきかという単純な重要度の差で、皎月には届かなかった。皎月が何時か背負い過ぎたものに押し潰されるのは確実だったとしても、彼女には手を伸ばしてやる事が出来なかった。
今この場にはそれを指摘してやれる者もいなければ、皎月が今突然に自分でそれを悟る訳も無い。皎月はただ、失われ行くものを留めようと動く丈だ。
それが例え、偽善ですらない、純度の低いエゴイズムの結果だろうと。
「“真直ぐに”が勇儀の芯なら、“諦めない”が己の芯だからな」
萃香達への心配が本当に無意味でも、万一を考えれば動くべきだろう。皎月は低く笑って、とりあえず頭を振って苦労して黒い布を落とした。視界を巡らせると見覚えのある室内だ。この前怪我をした時に割り当てられた所だろう。隣には覚えのある柄の几帳が立っていた。
試しに腕に力を込めてみるが縄はびくともしない。虎の姿に戻ることも考えたが、縄で反って猫背が死ぬような気がしたので止めておく。
ところで今は何時だろうか。長い間寝ていたらしく、時間の感覚が狂ってしまっているようだ。顔を上げると塗籠と他と続く天井は仄かに明るい。もう朝なのだろうか。
だとしたら、まずい。頼光達は近くの神社へ参ってから行くと言っていたが、一日もあれば祈願なんて十分だろう。もしかしたら、一日ではなく二日かもしれないのだし、大江山の鬼の岩屋に着く迄にどのくらいかかるかも予想できないのだし、既に機を失してしまっている可能性も十分にあった。
「先ずは、…………取り敢えずこの縄だな」
こいつをどうにかしないとどうにもならないのだが、どうにも出来ない。腕だけ縛って足は自由、と言うことはきっとそれなりの理由があるのだろうし、下手に腕の使えないまま外に出るのは危険だと判断した。だが室内に役立ちそうな物は勿論無い。
縄は暴れた程度では千切れやしないだろう。扉も鍵の上から何かしら封印がしてありそうだ。いや、壁が蹴破られることを考えて部屋ごと封印してあるかもしれないが。床板をぶち抜く…………のも想定してそうだ。では思い切り跳んで天井を突き破る…………のは無理ではないかも知れないが普通に痛そうである。
先程格好付けて何のかんのと呟いた皎月だったが、このままでは外に出ることすら叶わずじたばたしてる内に事が終わってしまうようだった。本作の一応の主人公としてそれは大変どうなのかと思われるが、それほど晴明は警戒しなきゃいけない相手なのだ。
とにもかくにも、試して見なければ仕様も無いだろう。意を決して皎月がまずは扉からだと勢い良く立ち上がり、助走を付けて扉に向かって放った跳び蹴りが、
「…………ん?」
丁度部屋に入って来た沙奈の顔面に炸裂した。
「っ!」
「うぉっ」
即座に斬り付けられた。片腕とは思えない程の速さで抜刀された剣先が腹から肩口へ逆袈裟に掠って浅く斬る。先日新しくなったばかりの赤いスカーフの端が少し切れて皎月は哀しくなった。
部屋に入ってくるなり顔面に蹴りをかまされた沙奈は残心もそこそこに剣を納めて息を吐いた。床の上で大袈裟にひっくり返っている皎月をじろりと睨んで、面倒臭そうに部屋の扉を閉める。
「…………何だお前、いきなり跳び蹴りとは良い度胸じゃんか」
「凄むな、謝るから」
普通に怖い。
「て言うか、お前何してたんだ?」
「この扉は蹴破れないかな、と思ってな」
試す前に開いたが。よく考えてみるとこれは脱走を計っている所を目撃されたのだから、この後キツい仕置きが待っているのではないのか。皎月は先程切られた所から袖ごと抜けないかと密かに確かめつつ、警戒した面持ちで沙奈の様子を窺った。
何をしに来たのだろうか。沙奈は特に何かを持ってきたわけでもなさそうだ。となると様子でも見に来たのか。
「…………なぁ、お前」
どこかぼんやりとした口調で沙奈は言う。
「此処から出して遣っても良いぞ」
「…………何?」
それはおかしい、と皎月は思う。沙奈は晴明の式の筈だ。なら命令には逆らえないし、主人の利にならない事は出来ない筈だ。
しかし沙奈はまるでなんでも無いことのように肩を竦めて見せると、心底どうでも良さそうな感じで言う。
「今回、私には何も命令されて居ないんだ。朝起きたら誰も居ないし、何か封印して有る部屋は有るし。問い詰められても知りませんでしたで通るだろ」
実際はそんな簡単な話ではないだろう。式神の制約は確固たるものだ。違反すれば手痛いしっぺ返しが待っている。
止めておけと言いかけた皎月の口が開ききる前に、更に沙奈は面倒臭そうに言った。
「お仲間を助けに行きたいんじゃないのか?」
はっとして顔を上げる。確かにそうだ、これは好機じゃないか。なにせ晴明も羅紗もいないと言う。沙奈が何を考えているのかは分からないが皎月は決めたことは通したい。ここから出れるなら、それに越したことはないのだ。
しかしそれだと式としての怠慢だと沙奈がまた折檻を食らってしまう。あまり知らない奴とは言え、些か寝覚めが悪い。
「…………一応、礼と謝辞を」
「あ?」
眉を上げた沙奈を、皎月は突き飛ばした。
つまり様子を見に不用意に封印を解いた沙奈を突き飛ばし、皎月が逃げたのだ。そういうことにしろという意味だったのだが、去り際背中越しの沙奈は酷く嫌そうな顔をしていた。
人も通らない筈の山道を、彼等は歩いていた。
山登りに際して夕暮れ時。梢を揺らす鳥の啼き声以外には聞こえるのは川の流れと風の声だけだ。しかし物寂しいと言う感じはしない。生命の活気に溢れた森は見慣れぬ闖入者を特に抵抗無く受け入れ、観察するようにじっと見ている。それは彼等に取ってどういう意味になるのだろうか。
笠を被り山伏の服装をした彼等は六人、連れ合って山を登る。無言で歩を進めてはいても、僅かずつに高まる緊張感を隠せはしない。隠す気も無いのだろう。緊張は、行き過ぎなければ良き友だ。
「…………なぁ、頼光さんよ」
不意に一人が呟いた。きょろきょろとどこか拍子抜けしたような表情で森を見渡し、息を吐く。
「何だか長閑な所じゃないか。此れではまるで俺達の方が…………」
「言うな、貞光。例え今然思っても、其れは鬼の策の内だと思おう」
「…………っは、其れは其れで寂しい考え方だな」
口を尖らした碓井貞光の隣、卜部季武は肩を竦めて軽く笑う。斜に構えたいつもの彼の態度に、頼光は呆れたような頼もしいような心持ちで見る。他の者達もいつものように頷くなり否定するなり様々な態度を取りつつ、少し緊張を解すように息を吐いた。
「鬼も此んな所に居たら心根も浄化せらるだろうになぁ。良い場所だよ、此処は」
「…………確かに然だがな貞光、お前は其んな事を言いたい訳では無いだろ? 頼光の旦那は口を差したが、オレも其れは言いたい事なんだ」
一行の先頭、季武は意気込んで貞光の肩を叩いて言う。直ぐ後ろの坂田公時はどうでも良さそうに大きな欠伸をしていた。
「はっきり口にしろよ、“此んな所を殺気立って歩いているオレ達はまるで場違いだ”ってな」
「お主は何を先から其んな事許言って居る? 乗り気で無いなら付いて来なくても良かったろうに」
「オレは思った事を言った丈だ」
苛立たし気に吐き捨てた季武を見て、貞光はわざわざ振り返って肩を竦めて見せる。季武が空気を悪くするような事を言うのもいつもの事ではあったが、これから鬼退治だというのに彼の態度はいただけない。
「此んなに長閑だと鬼退治も馬鹿馬鹿しくならぁ、茶番は俺ぁ御免だぜ。…………って言いたいんだろ? 嫌なら帰りな、意気地無し」
そう思った訳ではないだろうが公時はいつもの気怠そうな口調で季武の神経を逆撫でる。そう言えば彼が突っかかって来ると知っているからだ。
「何だと公時ぃ。もう一度言ってみろよ、鬼に逢う前に動けなくしといて遣っからよぉ」
「勢い丈の臆病者は帰れっつったんだよ」
「ぶち殺す!」
「お、やんの? 本当に元気だけは一丁前に有んのな」
言い合って互いに刀の柄に手をかけ、即座に抜刀出来る体勢で睨み合う。このままだと山のど真ん中で斬り合いになると察知し貞光が引き吊った笑顔で止めようとするが、やる気になってしまっている二人は聞く耳も持たない。
「止めろよお二人さん、俺は四人で鬼退治何て嫌だかんな」
「そ、然ですよ!」
頼光の後ろ、藤原保昌が殿を務める渡辺綱を気にしつつ、声を上げる。
「仲間内で言い合って居ても仕方無いと思います! 我々が倒す可きは先ず鬼何ですよ!」
「保昌、五月蝿い」
「坊っちゃんは引っ込んでな」
無下に扱われた保昌はショックを受けたという顔で頼光を見た。ため息を吐いて、頼光はやれやれと頭を振る。
「保昌殿の言う事が尤もだよ。季武、公時、二人共止めないか。余り騒ぐと鬼に気取られる」
「うーい」
「…………っち」
返事もそぞろに二人は前に向き直る。敬愛する頼光から言われてしまえば二人も大人しくならざるを得ない。列の前では人望の差だなと貞光が余計な事を言って、また季武に叩かれていた。
一行はまた無言で山を登る。暫くすると川のせせらぎが聞こえてきた。麓の人の話から、鬼の隠れ家は川沿いにあると聞いていたので頼光達は川辺に出た。更に登るにつれて谷が深くなる。
と、そこには水の流れの側で啜り泣く女の姿があった。女は泣きながら赤く染まった着物を洗っている。女の側には同じく赤色をした衣類が篭に入れられていて、その横にはには細長い布が置かれている。女が左手で布を動かす度に水が薄く染まり、鉄と脂の混じる酷い臭いが辺りに漂っていた。
「其処の貴女は何者でしょう、何故此の様な所で泣いて居らっしゃる?」
頼光がそう声をかけると女は泣き腫らした目を一行に向ける。僅かに赤茶けた髪は肩の辺りで無惨にも切られ、無造作に散らされている。目が合うと戸惑うように顔を伏せてしまったが、泣きながらに訴えた。
「私は花園の中納言の一人娘です。先日酒呑童子に連れ去られてしまい、以来こうして血に染まった着物を洗せられて居ます。情け無い此の身を哀れとお思い下さい」
「私は源頼光と言う。其の鬼を我々は退治しに来たのだ、安心すると良い」
頼光が優しく笑いながら頷くと、女は目をきょろきょろさせてから川上を指差して言う。
「此の谷川を上流に行った所に鬼の岩屋が有ります。入り口には手下共が見張りをして居り、目を光らせて居ます。今の時間為らばそろそろ鬼共が宴会で浮かれ騒ぐ頃。どうか機に乗じて奴等を退治して下さいませ」
「ああ、任されよう」
と言って頼光は川の上流に向けて足を踏み出し他の者も後に続いたが、一番後ろを歩いていた綱は一人、目を細めて女を見た。鋭い視線を向けられ女は恥じ入ったように俯き、
綱が予備動作無しに抜いた刃を、篭の横に置いてあった細長い布巻きで受け止めた。
「っちぃ!」
盛大な舌打ちをして女は跳びすさる。細長い布巻きから出てきたのは鞘に皹の入った太刀。よく見ると女には右腕が半ばで無く、物腰はまるで獣のようであった。女は左手で即座に刀を抜いて構える。その間綱は半ばまで抜いた刀をまた鞘に納め、左手で鞘を確りと握った。
「綱、如何したんだ!?」
どうしたのだと聞かれても綱は答えず、対面の女をじっと見ている。彼が無口な質で滅多に喋らない事を知っている頼光達は、剣の柄に手をかけつつ走り寄る。
しかし加勢に入ろうとした頼光達を、綱は片手で制した。
「…………用が有るのは己丈だろう?」
「だが綱!」
綱が喋った、とずれた驚愕に目を見開く貞光その他は置いといて、食い下がった頼光に綱は目配せして無言で構える。自分に任せろということなのだろう。それとも、これは決闘だから邪魔するなということか。どちらの意味かは頼光以外には分からなかったろう。頼光はなおも何か言いたげに口を開いたが、ぐっと引き結ぶと踵を返した。
「…………待ってるからな」
言い残し、五人は川上に向けて殆ど走るようにして歩き出す。保昌だけが後ろを何度か振り返った。日は山際に体を半ばまで埋め、斜陽の影に鋭い輝きを手に人間と鬼は対峙していた。
皎月が鬼の岩屋に到着したのは、出発から一時間も経っていないが日暮れの後。足の速さが自慢の皎月だったが、実は彼女が晴明邸を出た時点で日は傾き、既に没しようとしていたのである。
だから、彼女が着いた時には手遅れな程状況が終了していたのも仕方ないと言える。しかし皎月の名誉の為に弁解を口にするならば、それでも皎月は間に合ったのだ。何にとは、言うまでも無いだろう。
せめて間に合えたことを喜ぶべきだ。それが皎月に取って良い事かは別にして。
「あれ? 皎月さん、帰って来たんですか?」
顔の見知った門番が意外そうに呟く。門番と言っても、ただの見張りで誰を止めることもしないのだが。皎月の服が肩口から袈裟に切れているのに眉を潜め、体をまさぐって怪我の無い事を確めて、首を傾げた。
「今迄何してたかは聞きませんけど、頭領は奥に居ますよ」
中に入ると、直ぐに鬼達の笑い声が聞こえてきた。宴会場の先にはいつもと変わらぬ様子の宴が開かれている。鬼達が酒を酌み交わし笑い合い、楽しげに話している。
だがちょっと見回しただけでその人数が少ないことに気付く。いつもの半分にも満たない程の人数が、広い宴会場を広々と使い貫禄をだしていた。奥を見るが、萃香が一人いるだけで、四天王の内の三人は姿も見えない。
「んぁ? なぁんだ皎月じゃん。やほー」
「…………応」
覇気無く皎月は返事をして、盃を呑み干す萃香に視線を返す。両脇に控える鬼の真中を突っ切り萃香の前で足を止める。変わらず騒ぎながらも向けられる周りからの静かな瞳に、皎月は息を吐いた。
「理由を、訊ねても良いか?」
「にゃはは、理由だってさ。聞きたいかよ、大陸の獣」
もう既に大分酔っているのか、萃香は陽気に笑う。
「まあ強いて言えばこうするのが一番良いからだね」
来る人間の実力など分からない。だが、萃香達が逃げてしまい誰もいないのでは納得する者などいる筈がない。仮に萃香達の中の誰かの所為だとして、それを炙り出すのも一苦労だ。誰が犯人かなんて知るよしも無いが人間は此処に来るらしい。
なら、これが鬼の仕事だ。人間に退治され、罪を着せられ、悪名高く闇に消える、それが鬼の仕事だ。自分達が残って人間の相手をすれば、人間側の溜飲は下がるし噂の事件にも何かしらの決着が付くだろう。
「だから此処にゃ私しか居ないのさ。後は数合わせの物好き」
「…………良く彼奴等が承諾したな」
一人に責任を押し付けて自分は逃げるなんて、鬼である彼女達の在り方に反する。だが事実ここには勇儀も華扇もコンガラもいない。
「にゃはははっ、了解何ざする筈無いじゃんさ。私だってそんな事言われたら無視して残るよ」
萃香は笑って酒を呑む。差し出された盃を丁重に断って皎月は止せば良いのにと呟いたが、全く無視して更に盃を煽る。
「ちょいと密度を操ってね、此処から遠ざかって貰ってるのさ」
そう、萃香は密度を自在に操ることが出来るのだ。密は則ちものが萃まっていること、疎は則ちものが香がっていること。
「注目ってのは萃まるものだよね?」
彼奴等なら今頃は私の事は気にせず赤い猪でも追い掛けてるんじゃないかい? と気安く言って萃香は皎月を見る。何と応えて良いのか分からず皎月は顎を引いた。
以前に萃香が言っていた通り、鬼というのはそういうものだと割り切った態度に反感を覚えなくもない。諦めたらそれで何が変わると言うのか。言いたげな皎月に肩を竦めて、萃香は口を尖らかせる。
「私ぁ別に死ぬ気じゃあないぜい、軽く退治されてそれで終わりさ」
「…………それで済めば良いがな」
唸った皎月に、萃香は済ませるさと笑った。
頼光達は女、否、鬼の言った通りに谷川を上流へ進んで行った。無論、保昌は嘘を教えられたかも知れないと警戒していたが、果たして暫くして見えてきたのは洞窟のようにえぐられた崖にそびえる堅牢な門だった。季武は、一応道案内は正しかったんだなと鼻を鳴らした。
門の前には見上げる程大きな鬼が二人立っていた。頭からは角が生え、目はぎらぎらと光り、太い腕で一行を指差す。一人が一歩前に出て、威圧するようにじろりと彼等を見た。
「人間よ、我等が鉄の御所に如何なる用か知らぬが運が悪かったな。俺は今、随分と腹が減って居るのだ。人間を食べるのは久方振り故、其の血肉を喰らうのが待ちどうしい。さぁ覚悟しろ!」
今にも飛びかかろうとした相棒を抑えて、もう一人が言う。
「否々、先ずは用件を訊こうではないか。頭領に用が有るのであれば通さなければ為るまい」
中々良識ぶった意見に相方が心底呆れたような顔をしたが、それを無視して頼光に目を向ける。
頼光は、勿論堂々と一歩前に出、鬼としっかり目を合わせてこう言った。
「我々はお前等を退治しに来たんだ。大人しく退治されろとは言わん、此処の頭領に会わせて呉れ」
門番は互いに顔を見合わせると、やおら大爆笑した。地面が揺れているのかと錯覚する程の大声に、貞光、季武、公時、保昌は顔をしかめて耳を塞いだが、頼光だけは涼しい顔のまま鬼達を静かに見つめていた。
「人間如きが、大層法螺を吹きよる。俺等を退治するだと? 馬鹿を言え!」
「お前等にそんな事は出来まいよ。何せ非力で、その上臆病だ。然しお前、中々度胸が在るじゃないか。気に入ったぞ、頭領に会わせて遣ろう」
門番はまだにやにやと笑いながら門を開ける。頼光は物怖じせずに中に入り、遅れて他の者が続く。頼光が門を通る時に門番二人に礼を言ったので、門番二人はまた大爆笑していた。
中は暗く、所々にかけられた松明が吹き込む風に揺れる。直ぐに大きな扉に行き当たり、奥からは楽しげな歓声が聞こえてきていた。
「ヤるぞお前等、ビビってんじゃねぇぞ」
「お主は相変わらず口が悪い」
「き、緊張しますね」
「唯殺す丈だ、なんも緊張する事無ぇっつの」
口々に言う仲間達に一つ頷いて見せ、頼光は扉に手をかけた。
扉が開かれると、ざわめきは次第に収まっていった。宴会の席にやって来た闖入者を不審気に見て、鬼達は視線を交わす。部屋の奥まで二列に並んだ机の間隔は広い。
「――――――――やぁ、待ち草臥れたよ」
部屋の一番奥、一段高くなった所には鬼が座っていた。少女のような小柄な体躯に不釣り合いな程の長さの角が二本、捻れて頭から生えている。長い髪は無造作に床に散っていて、軽い口調とは裏腹に眼光は威圧感をもって頼光達を見る。大勢の鬼に囲まれ鋭い視線を向けられて尚余裕の態度を取れる者は、少なくともここには頼光以外にはいないらしく、皆思わず柄に手をかけていた。
大きな盃を片手に赤ら顔で肘掛けに凭れて笑う鬼に、頼光は奇妙な感覚を受ける。それは言葉にするなら“話が違うじゃないか”という非難であったろう。誰に対する非難かは分からない。だが頼光は確かにその時、本当にこの鬼を退治することが事件解決の最良の手なのだろうかと疑った。
しかし、それも遅すぎる。今更そんな疑問に何の意味があるというのだろう。
「まぁ、聞こえちゃ居たけどさ、一応聞いて置くのが礼かねぇ。…………あんた等、用件は?」
欠伸を隠そうともしない鬼に何を思ったのか、頼光は目を細めて低く言う。
「…………帝様からの命で、貴様等を成敗しに来た。神妙にしろ」
「良いね」
柏手一つ、盃を飲み干して鬼は大儀そうに立ち上がる。軽く体を伸ばして手を振って、にやりと悪どく笑った。
「これ以上無く明快で此方も頭が下がるよ、ごちゃごちゃしてんのは嫌いなんだ。で、ふんっ、私達を退治するだって? その意気や良し、だ。強者に挑まれて受け無い私じゃない。気の済む迄やろうじゃないさ」
どんと踏み込み、手を広げる。見た目に合わぬ老獪にして凄惨な笑みを浮かべて鬼は、ぐっと広げた手を握り込んだ。やる気になった鬼に対して人間達は各々構えて迎える。一気に高まった空気に室内は静まり返った。
一拍、
「――――っ羅ぁ!」
一番乗りとばかりに季武が斬りかかる。荒々しくも鋭い剣筋が空間に軌跡を曳いて白く光った。しかし幾ら鬼でも斬り付ければ切れるだろうと甘く考えていた人間達は、直後に驚きにその目を見開くことになった。
「なっ!?」
「はっ、何だよ鬼が炒り豆食らったような顔してさ」
季武の刀を、鬼は無造作に掴んでいた。白刃取りとは違い、刃を避け峰を掴んだまま、鬼がにぃっと笑う。
「堪えて見せろよ」
何か言おうとした季武の刀を片手でひしゃげながら、鬼は無防備な顔面に裏拳を叩き付ける。が、それは空振り、鬼は意外そうな顔をした。季武の衿を引っ張ったのは貞光だ。そのまま貞光は空振り体勢の崩れた鬼に向けて鋭く居合いで斬り付ける。タイミングをずらして逆から斬り付けながら、公時は笑った。
「先走ってやられてちゃ世話無ぇな」
が、鬼へ向かった剣撃は二つとも真上から叩き落とされ、直後に手刀が二人の首を狙う。背後から衿を掴まれ引き倒され、また空振った。二人を引き倒した季武が不服そうな顔で曲がった刀をちらりと見た。
鬼は一度強く踏み込む。踏まれそうになった公時と貞光は慌てて横に転がり立ち上がり、曲がった刀で斬りかかろうとしている季武を見て顔を見合わせた。
「曲がってても斬れるだろ!」
「確かに然かも知れんな…………、公時、試して見るか?」
「否無理だろ」
案の定、重心がずれていて振り難かったのか、季武は鬼の横の床を叩くに留まった。ばつの悪そうな顔をする鬼に盛大に舌打ちして、季武はその曲がった刀を横に無理矢理叩き付けた。
鬼は二本指を揃えて刀の側面を弾く。そのまま一歩前に出ながら勢いを殺された刀に沿って指を滑らせ、季武の胸の辺りを薙いだ。途端、着物ごと逆袈裟に身が切れ赤い飛沫が宙に散った。
「無鉄砲は死に繋がるよ」
「余計な、お世話だ!」
腕を交差させてガードしたが、鬼の放った前蹴りは季武を易々と吹き飛ばした。壁に当たって呻く季武を見て周囲の鬼共が湧く。保昌が小走りで駆け寄り、傷の具合を見ていた。
手を叩き喝采する鬼を静かに睨み、頼光は柄に手をかけ重心を前に移動させる。筋肉は弛緩し、軽く見えるその姿勢はしかし、妙な緊張感を伴う。
本来、剣術というものには太刀筋は違えども斬り方は三つしかない。則ち、袈裟か、逆袈裟か、真っ二つか。後世になるとそれでも細かい技は発達するが、西洋の剣と違い日本刀は、特に太刀は突きやその他がし難い構造になっているのだ。何せ湾曲型の片刃剣にしては長く、重い。取り回しが難しいのは当たり前である。そんな訳だから刀を振り下ろすより速く懐に入り込まれたらばなす術は無い。だが無論、彼等もそこはわきまえている。
真実、剣術というのは速いものではない。空手の踏み込みの方がスピードとしては速いかもしれない。剣術は速くはない、ただ洗練されている。刀を振り上げ、振り下ろす。この短く単純な作業をどこまで最適化出来るか、純粋な剣術とはこの一点に集約される。最適化し、無心になり、一撃に全てをかける。二撃目は本来なら無い。日本の剣術とはそういうものだ。
そして同時に、一撃必殺ほど鬼に効くものはない。鬼は極力攻撃を正面から受けようとするからだ。
ぐっ、と体を少しずつ緊張させ、鋭くこちらをみる頼光に気付いたのか、鬼は軽く笑った。何と無く、分かりきったような笑い方だった。
皎月は部屋の隅でこれを観戦していた。先に萃香から、お前は部外者だから手は出すなと言われてはいた。言ってみれば皎月はその邪魔をする為に来たのだが、しかし手出し無用と言われてしまうとどうにも出来ない。今一割って入れるような空気でもない。なのでぼーっと眺めていたのだが、どうも長くなりそうだったので少し外に出てきた。時折散る血の臭いと色に当てられたのも、少しあるが。
新しい空気を吸って息を吐く。鬼は己の本分に正直だ。レベルの高い戦闘に萃香が嵌まってしまうのも無理は無い。最初に言っていた程々の加減も忘れているのは明白だった。
先程までの熱気の所為か少しくらくらする頭を抱えて、一体自分が此処に来る意味はあったのだろうかと悩む。勇儀達は此処にはいないと言うし、萃香も周りの鬼達も今の状況を楽しんでいるし、正直自分がやって来てもやれる事は無かった。
「だがなぁ、…………うん?」
虎の聴覚が異音を捉えた。いや、異音というなら岩屋の方から聞こえてくる戦闘音と歓声がそうだし、恐らく虎でないただの人間でも聞こえたろう。
何せ真後ろからなのだから。
「っ!?」
がんっと衝撃と共に視界が揺れる。後ろから殴られたのだと理解して、呻く。後頭部を狙い上から振り下ろされた刀の鞘が、からんと横に落ちた。
「然だよ、彼奴何てもう如何でも良いんだ。如何でも良いんだよ。彼れは只の切っ掛けに過ぎ無い。其の筈何だ」
どこか箍の外れたような口調に、皎月は本能的に危険を感じ取る。膝を付きそうになるのを堪えて身を翻し、戦闘体勢を整える。幸い、角度は良かったようだ。意識がとぶ程じゃあない。
地に手を付いて、難とか睨んだ正面、赤い鬼は抜き身の刀を持ったまま頭をがしがしと掻く。
「あー糞何でお前何だよ何でお前丈何だよ晴明の糞野郎とか羅紗の糞野郎とかは如何したよ居無ぇのかよ可笑しいだろ可笑しいよな私が彼れ丈頑張ったのに来てねぇのかよ彼奴等本当に死ねば良いのに死ねば良いのに」
蘇芳の長上下、腰には脇差しの鞘だけが残されており片手に持った太刀が細い月の光を受けて微かに光る。赤茶けた髪は無造作に肩の辺りで切られ、髪の間からは二本の角が覗く。
隠されない瞳はぎらぎらと光り、目の下の隈が際立ち、一層幽鬼じみていた。右腕は半ばで無く、片手に握る太刀が体格に見合わず不釣り合いに見えた。
「まぁ、良いんだがな、取り敢えずはお前が殺せれば」
殺気。対面の沙奈は変に無表情だ。目だけが夜の満ちる谷の闇の中炯々と輝きを放っている。背の毛がざわりと逆撫でされるような鈍い殺気に、皎月は息を飲んで、溜めて、吐いた。
「身に、覚えが無いんだが」
あの時の良香もこんな感じだったのだろうかと頭の隅で思う。理不尽に攻撃された彼女もまた、自分の知らない所で何らかの恨みを買ったのだろうか。
ずきずきと痛む後頭部の傷がどれ程のものなのかは皎月には分からない。動けない程ではないが頭の傷往々にしては出血が酷いので速く手当てしたいのだが、現状それは無理だろう。
「別に、多分、お前は悪く無いよ。唯、其の暢気な面見てると苛ついて仕方無いから、ぶち殺そうと思った丈」
「理不尽だな、尽く理が無い」
言いつつも皎月は機を伺う。流石に太刀を持った相手に突っ込むのは無謀だろう。だが相手はやる気だし、都合よく助けが入る訳もない。
ここで、皎月は討人の人数が足りない事に気付いても良かった。先日間近に顔を見ているのだから、一人足りないと気付けた筈だった。実際、晴明が皎月を一緒に連れていったのはそういう意味合いもあったのだろう。気付いていたら、皎月はそちらに気を回しただろう。だから、何が変わるのかは分からないが。
無論、皎月は気付かない。ただぐっと体に力を軽く込めて、覚悟した。
「違うと良いんだが、都で色々して居たのはお前か?」
「だったら、如何する?」
別に、と軽く唸る。
「自分の式も十分に制御出来ない様じゃ、天下の陰陽師も大した事無いなと思った丈、だ!」
言葉と共に飛びかかる。地面を蹴っての特効。恐らく普段はやらないような、一番無謀な方法を取った。沙奈はにやりと口元だけで笑って、片手とは思えないほど正確に、皎月の右腕を狙う。
こいつならすぐには殺さず痛め付けようとするだろうと予想していたので、空中で軽く身を捻って白刃躱した。片手しか使えない沙奈は直ぐに斬り返しが出来ない。沙奈の肩を爪で捉え、引き倒す。体格的には少し無理があったが、なんとか倒して拳を握り、沙奈の胸元に向けて降り下ろした。
「ぐ」
胸骨を強打された沙奈は呻いて左手で皎月を退けようと腐心する。が、太刀を持ったままではそれもままならない。皎月は手を払って沙奈の頭を両手で掴むと一度手前に持ち上げて、勢い良く地面に叩き付けた。
がしゃりと河辺の石に音を立て、沙奈は歯を食い縛る。今の一撃で気絶してくれれば話は速かっただろうが、沙奈はにやりと口元を歪めて獰猛に笑う。皎月が嫌な予感に跳び退こうとした、それが悪かった。そのまま無理にでも追撃を加えておけば良かったものの、戦い慣れしていない皎月はその判断を誤った。
「臆病者が、其んなに他人を殴るのが怖いかよ」
がっ、と胸ぐらを掴まれ、力任せに地面に叩き付けられる。片腕と言えど鬼の本気だ。皎月は目をちかちかさせて慌てて体勢を立て直そうとするが沙奈は手を離さない。
「顔や明確な急所ですら狙えないのかよ。お前、嘗めてんのか?」
一度浮かせて、今度は頭が下になるようにして叩き付ける。異音が骨伝導で伝わり、鈍く鈍化した痛みが皎月を責める。また軽く浮かせられる。力が強くて手を引き剥がせられない。赤く染まりだした視界に、流石に身の危険を感じた皎月は沙奈の腕に思いっきり噛み付いた。
ぶつりと牙が肌に突き刺さる。鬼の肌は固いと言うが虎の牙は刺さった。口内に溢れる鉄錆と噎せ返るような動物の臭いに吐き気を催しながらも、皎月は骨に当たるまで顎を噛み締め、引き千切った。
そこで皎月は、何故自分が血や肉が苦手になっていたのかを思い知った。火を通せば少しはましになるが、生が駄目な理由。虎の癖に中々血が嫌いな理由。
簡単だ。目の前で死んでいった何人か、もしかするとそれは最初の一人だけだったかも知れないが、彼等を重ねてしまうからだ。
今自分が口にしているのは誰かの命だという強迫観念が、虎でありながら彼女を戒める。思い出させられたものは脳裏で嗤って嫌なイメージを投げかけて、瞼の裏に錆び付いた色を落とす。星と同じで皎月もまた、自意識の無かった昔のように、ただの虎ではいられないのだ。
それは“彼女等が死んだのは自分の所為だ”という自責の念がそうするのか、はたまた単に皎月のメンタルが弱いのか。分からないが口内に満ちる液体を吐き出してえずきつつ、首のスカーフを片手で掴む皎月は酷く弱々しく見えた。
沙奈はその隙を逃さない。一本しかない左腕は食い千切られ最早まともには動かないが、鬼の意地は一度手放した太刀を拾い上げさせる。沙奈は踞る皎月を一度見ると、目を細めた。
脇差しは、あの男の手を木に縫い付けるのに使った。
流石に勘が鋭いらしく変化は見破られてしまったが、基より自分は変化は苦手なのだ。バレようが構いはしない。とりあえず右腕の仇討ちをしようと思い戦った結果、刀をへし折り両手を木に縫い付けることに成功した。本当は右腕を斬り落としてやろうと思っていたのだが、その状態でも激しく反撃してきたので、諦めた。
実際、彼女にとって綱はそこまで優先順位の高く無いことだった。何故なら、確かに右腕を斬り落とされた借りはあるが、別に恨んではいなかったからだ。恨むのは筋違いだとも、考えていた。
あの暗い雨の日、行く宛も無くなんとなく羅生門に上った。それから悪事を重ね鬼に成り下がって尚、あの時の判断は間違ってはいなかったと思う。悪党になるより他は、野垂れ死ぬしかなかったのだから。元より自分は人斬りの剣客だったのだ。それと鬼と、果たして何が変わろう。
そして鬚切を携えた綱が門へ登って来るまでそうして悪事を重ね続けた。どのくらい時間が立っていたのかは知らない。綱は殆ど口をきかなかったが、後に人の間で自分が鬼として噂されているのを聞いて、漸く自分が化け物になっていたことに気付いた。気付いた時には既に右腕は無くなっていた。
腕を斬り落とされたからか、それとも自らを鬼だと自覚したからか、それからはまるで心の一部を落としてしまったかのようにやる気を失った。やる気を失い何もしなくなると、今度は色々と考え出す。それは下らない、詰まらない、後悔や未練や羨望であった。
陰陽師がお前の腕を返してやってもいいぞと言いに来て彼の式神になってからも別にやる気は出ず、命令を淡々とこなして行く日々が続いた。
皎月が羅紗に担がれて来たのはそんな日々の途中だった。
良く、覚えていた。以前門の前で見かけてから、何度か皎月は門をくぐっている。その度に目についた。不思議と皎月は他の妖獣とは違い、一際自由そうに見えたからだ。それは動物的な本能に身を任せた自由ではなく、意志のある自由だ。気付いたら鬼という存在に縛られていた彼女からしたら、それはとても眩しく、酷く理不尽なものに見えた。
自分はこんなにも惨めに生きているというのに、何故皎月はあんなにも自由でいられるのだろうか。何故自分にはあんな風に生きる道がなかったのだろうか。何故ただの獣ごときがあんな眼をしているのだろうか。何故、何故、何故。
羨望、いやこれはただの嫉妬だ。羨ましいどころか嫉ましい。望ましいどころか妬ましい。最初こそはただ憧れたものが、段々と黒くなる。狂おしいほど求めたものを手にした奴が目の前にいる。それを容認出来る程、彼女の心には余裕が無かった。
だがそこまで、狂おしいまでに許せなくなったのは、何が原因だったのだろうか。きっかけは、恐らくやはり右腕を失ったことだったのだろう。心の一部を腕と共に落としてしまったのなら、その分狭まるのは道理だ。そして一番の敗因は、姿の見えない緑眼の怪物に睨まれ、二度目の膝をついたことだろう。自分はその昔に羅生門に上った時と何も変わらない、何一つ変わっていなかった。
自分は弱い奴だと、理解していた。力はあっても、自分はどうしようも無く弱いのだと。だから、強い奴は死んでしまえばいいと思った。
嫉妬に狂わされた結果、沙奈が選んだ解決方法は力で捩じ伏せ全てを台無しにしてやることだった。目下の相手は皎月と自分の主人、そして悩みなど無さそうに毎日騒いでる同族共だ。
取り敢えず彼女達を殺せば自分の気は晴れるのだろうと、そう信じた。でなければこんな馬鹿なことするものか。勝算もない、意味もない、分かりきってる、それでも。
自分が深い、深すぎる穴に落ちてしまった事に気付いていても、掘る手を止められぬのは道理。這い上がるという選択肢すら、彼女達は持たないのだから。
鬼は不安定になってしまった左手で太刀をなんとか担ぎなおして、正面に踞る虎を見下ろした。虎は己の首に巻いた赤いスカーフを、まるですがり付くように握り締め、荒い息を吐いている。その瞳は感情の波に揺れ、酷く憔悴しているように見えた。
かしゃりと柄が立てた音に反応してか、彼女は顔を上げた。それから目の前に立つ鬼を認識して、はっと気を締める。鋭く睨んだその瞳はまだ揺れていたが、それでも最早脆くはなかった。
「だからさぁ―――」
苛立たし気に、沙奈は呻く。
「―――お前は何で其んな眼が出来るんだよ!」
遠心力で降り下ろす。反応の遅れた虎を袈裟に狙って、切っ先が光を連れて弧を描き、
「返すぞ」
どんっ、と視界が揺れた。
「……………………っぁ?」
腹に巨大な熱を感じて沙奈が見下ろすと、腹には何か細長い物が刺さっているようだった。柄に見覚えがある。良く見ればそれは沙奈の脇差しだった。だが脇差しはあの男、綱の手を縫い付けるのに使った筈だ。
傍に立つ男は脇差しの柄を離さない。静かな瞳で沙奈を見ると、小さく息を吐いた。あちこちに傷を負い、手には服の切れ端を巻いている。沙奈の右脇腹に刺した脇差しを抜く為に一度押し込んでから、刃先に力を込めつつ勢い良く引き抜く。ぶつりと異音を吐いた刃を振って血を払い、男は拾った鞘に刃を収めた。
何故という言葉は飲み込む、行動が先だ。沙奈は歯を噛んで、衝撃で見当違いの方へ向かった刀を引き戻す。ただ、目の前のムカつくこいつをぶち殺す。やることは実に簡単だ、虚を突かれて火の消えた黒い闘志に再着火した。傷口を押さえることすら、沙奈はしない。
ムカつく奴は殺す。
生きるのなんて二の次で良い。
「はっ、」
荒く息を吐いた。悪態を吐いている暇は無いと思ったから残りは無理に飲み下す。足元に踞る虎は現状を把握出来ないのか目を見開いている。一瞬、こいつを優先してやろうかとも思ったが、流石に直ぐ前に迫る殺気に目は瞑れない。
身体を少し前に倒した男を警戒しつつ、まだ柄を握っている男の腕を思い切り蹴り飛ばす。がきゃっと骨のずれる嫌な音が鳴る。右利きの剣士である男に取っては致命傷だろう。そもそも左手で刀を繰る沙奈はやり難い相手の筈だ。
だが、この程度で諦める男ではないことは、先に何度か剣を交えた沙奈には分かっていた。こいつは命ある限り生きるのを諦めようとはしない。黙らしたいのなら、殺すのが手っ取り早いのだろう。
蹴り上げた足を踏み込みざま、左手で握った太刀を男の首へ走らせる。虎に食い千切られた傷口からはだらだらと血が滝のように迸っている。感覚も今では酷く鈍い。指先に至っては存在が目視でしか確認出来ないような有り様だ。それでも柄を離さず、遠心力で振った。
男は、駄目になってしまった右手の事など気にせず、左手だけで刀を抜いた。鞘を脇に挟んで真っ直ぐに抜く。逆手で抜いたそれを、手首を返すことで斬りつける。
驚いたことには、男の動作には一切の迷いが無く、また滑らかで素早かったことだ。多少ぎこちなくはあるが狙いは正確、一体日々どんな訓練を積んでいるやら。
ここから先は速度だけが頼りになる。両者とも万全ではない腕で、体で、相手を殺そうと欲し、
同時に沙奈は勝利を確信した。
初動はこちらが早かった。男の動きは確かに正確で滑らかだが、速さは利き手に劣る。更に勢い押し断つ心算の沙奈とは違い、手首を返しているだけの男は丁寧に引き切る必要がある。それらを総合すると、沙奈の刃の方が先に相手を食らうのは明白だった。
半ば確定した結末ににやりと凄惨に嗤い、沙奈は腕に更に力を込め、
男の首に届いた刃は、しかしそれだけだった。
「………………………………は?」
刃は男に触れて、そこで止まる。一寸も先には進まない。かと言い引くことも押すことも叶わない。
見れば、男の首には一寸程の人形の白紙が張り付いていた。叩き付けられた刀の勢いを全て吸収して、薄い白紙の人形は男の首と刀の間、不気味に風に揺れた。
瞬間、理解した。
「あっの、くそ陰陽師ぃい!!」
次の瞬間、男の静謐な瞳に反射した刃の閃く輝きが目に入った。
突然横合いから飛び出して来た男、渡辺綱が短い攻防の末に鬼の首を跳ね飛ばすのを、皎月は茫然と見ていることしか出来なかった。見上げていることしか出来なかった。殴られた後頭部が痛くて、世界が遠かった。
何が起こったのかは正確なことは判らない。だが綱の首と鬼の刀の間に挟まれた白紙には見覚えがあった。確か、晴明に連れられて行った時だ。何の為なのかあの時は分からなかったが、成る程、この為か。
その紙も、真二つに裂けて地面に落ちる。力を失った術式は赤色に捕らえられ川へと流れていった。
足元に急速に広がって行く赤色に、喉の奥でひきつった声が出た。首を斬り落としたのだからそれも当然だ。当然のことではあるが、その赤に皎月の意識は一瞬染まる。己の速い心拍数を自覚して、低く呻いた。
首を斬り落とされた傷口からは残る鼓動に合わせて赤色が噴出している。体格に見合う量の噴水が河川敷の石に吸い込まれ辺りを染める。血溜まりなどは出来ない。自然の中で死ぬものはただ粛々と自然に溶けるだけだ。
噎せかえるナマモノの臭いに呼吸もままならない。酷い気分をなんとかしようと、先に自分を襲った鬼の肢体は死体になったのだと割り切る事に努める。姿態は既に死に亡くなった。跡に残るのは大きな肉塊と獣の脂と失われていく熱、あとは少しだけ感じる鉄錆びの歪みだけ。
皎月の目前を皎い影がちらつく。視界は赤暗いのにぐるぐると回り、忘れている筈の何かを、思い出しそうになる。赤色は何時も皎を連れて皎月を視る。窺うような仕草で何か思い出さないかと皎月に伺う。思い出せないのかと、不満そうに、安心したように、皎月に訊く。
止めてくれ、そう無意識のうちに呻いた。止めてくれ、己はその記憶を知らない。思い出したくもない、思い出せない方が幸福だと、察しているから。ぐっと歯を噛んで、感覚を振り切ろうと頭を振った。
無言の儘、綱は皎月を見下ろしていた。静かな瞳に皎月は息を吐いて、自重するように笑った。
「如何した人間。己も殺すか?」
呻くように訊いた皎月を剣客は鋭さを保った侭の瞳で見下ろしている。噛み付くような言葉にも、顔色を変えずただ静かに見ているだけだ。
「否、及ばん」
それだけ呟いて、綱は視点を転じる。それには及ばないと、そんな必要は無いと。まるで無視するような態度であったが、どことなく疲れた様な声音に悲しげな感情を嗅ぎ取り、皎月はただ黙って下を向いた。
彼は鬼の岩屋の開かない扉を見詰めていた。門番である鬼が二人、中からの音に聞き耳を立てつつ深刻そうに、茶化して笑っていた。所詮、鬼にとってこんな事は良くある事なのだ。故に彼等は最期まで笑い続けるのだろう。門番を見る綱の目は、羨ましそうにも見えた。
皎月が目を向けた時、どん、と一際大きな音が聞こえた。地を揺らす程の衝撃が岩屋を揺らす。綱は目を細めて、岩屋の方を見た。皎月の視界では、黒い霧が散っていくのが見えていた。
門番二人は計って鉄扉を開け放した。中から蜘蛛の子を散らすように鬼共が飛び出してくる。後ろも振り返らずに逃げていく彼等は口々に、頭領がやられた、俺達は終いだと、喚きながら走り去っていく。しかし、その表情は決して暗いものではなく、悔いは無いと今にも笑い出しそうであった。実際、幾人かは笑みを隠そうともしていない。彼等にとって、今日のこの時間は強敵たる人間が誠実に、そのままに立ち向かって来てくれた、記念すべき日であった。
対して、勝った筈の人間は酷く憔悴した様子で、鬼達の一番最後によろめくようにして出て来た。一様に満身創痍で、何人かは重い体を引き摺るようにしてさえいた。激戦を伺わせる怪我が痛々しく見える。
両者の対比は、ある意味残酷なものだったろう。去り行く者達に比べて人間は深い傷を負っていた。
「っ綱! 無事だったか!」
息を吐いて、先日見かけた好青年然とした男がこんな時でもいつもの仏頂面を崩さない男に駆け寄る。綱は動かない右腕をぷらぷらさせていたが、心配そうな顔に心配するなと一言呟いた。
彼等はその職務を全うした。人間達の知恵と力で、悪鬼は退治せられた。帝への報告を済ませたら、彼等にとっての騒動は一段落するのだろう。
それは人間達の都合だ。残された者の事など、考えてはいない。
皎月は背後の砂利を踏み締める音に振り向いて、次いで目を丸くした。そこには、呆然と立ち竦む桃色の髪の鬼。隙間から顔を出している二本角、鋭かった瞳は光を失ったように弱く、中途半端に開かれた口からは何の言葉も溢れない。見上げた鬼は、何も言わなかった。
「か、 華扇?」
何故此処に居る? そう尋ねる皎月の声は震えている。怪我の所為ではない、信じられなかっただけだ。萃香が能力を止めたのか? それとも華扇だけ通したのか? やられたから能力が止まったのか? 萃香はやられたのか? 疑問に答える者はいない。答えられる者もいない。
鬼の、変に感情の抜け落ちたような表情に、それも当然かと思う。噛み締められた歯の隙間から、絞るような声が聞こえた。
「虎の子、萃香は?」
冷えた声。感情は無かったが、何を抑えているのかは分かった。皎月は息を飲み込んで、吐く。
「華扇、萃香は、恐らく……」
「…………そう」
言い淀んでいると、華扇は諦めたように目を閉じた。
「萃香は、分かっていたのかしら」
この話の結末を。妥協点としての、鬼の討伐を。
萃香は許容したのだろうか。したのだろう。以前言っていた、"鬼の仕事"を、唯こなしただけなのだろう。どんな考えがあって許容出来たのか、それは皎月には分からない。彼女は飽くまでも、鬼ではなく、部外者でしかないからだ。
「何方にせよ、私は許さない」
残された鬼は去り行く人間達を憎悪の込もった目で睨んでいた。虎は何も言えず、ただ隣に座り込んだまま、人間達を見送った。
「……何にせよ、己は復蚊帳の外だったな」
何も出来やしなかった、と自嘲するように呟いた。それから俯いたまま動かなくなってしまった華扇を横目に、閑散とした谷を見回した。鬼達が開け放しで出ていった扉が傾いで、ぎぃと音立てながら風に揺れている。誰もいなくなった岩屋は酷く寂しげだった。
自分は蚊帳の外だったと皎月は言った。果たしてそうだろうか。彼女が何をしたかではなく、彼女が何を成そうとしたかを見ていた者だっていた筈だ。
そう、例えば緑眼の妖怪が彼女を狙っているように、例えば嫉妬に狂わされた鬼が彼女を睨んでいたように、
例えば、彼のように。
「――――よぉ、虎の子」
完全に気を抜いた瞬間に声をかけられ、思わず皎月は身を翻して地に手をつく。だが先程殴られた箇所が再度痛みを訴え、その動きを鈍らせた。
瞬間、体勢を低くした皎月の上に誰かが乗る。腕と肩を掴まれ地面に押し付けられ、身動きの一切が取れなくなる。苦労して顔を上げると白い紙面をした大柄な男が見ている。
「羅紗、か…………!」
「えっと、大丈夫ですか? 怪我は?」
気遣うような質問には答えず、目の前に立つ黒衣の男を睨め上げる。相変わらず余裕のある表情で構えて、陰陽師は皎月を見下ろしていた。
「安心しな、お前が今回蚊帳の外だったのは俺の所為だから」
眼を凝らすが表情が読めない。感情のこもらない声音は一層気味悪くすらあり、皎月は言い知れぬ恐怖を圧し殺すように歯を噛む。
「だから、何も成せなかったと悔やむな。なあ?」
そっと抜け出るように皎月の髪の隙間から紙が滑り落ちた。人形をした薄いそれは目を見張る皎月の前をひらりと舞って、陰陽師の手元まで行き着くと、そこで風に千々に千切れた。
瞬間身体が異様に重くなったように思えた。ずしりと、今始めて疲労を自覚したように、水底に沈んでしまったかのように、重い。指先を動かす動作すら、今は酷く鈍い。それが半ば無理矢理に憑けられていた式が外れたからだとはすぐに分かった。だがそんなことはどうでもいい、とばかりに皎月は陰陽師を更に強く睨み付け、鈍い口を開く。
「おいっ…………、お前は知ってたんじゃないのか?」
「知ってたって、何をだ?」
「惚けるな、今回の騒動も、全ては…………お前の式の所為だろう!」
その式の死体はいつの間にか消えていた。陰陽師が回収したのだろうか。赤色がどす黒い染みを残し、べったりと死を色濃くしている。皎月はそれに一瞬気を取られて陰陽師の洩らした息に気付けなかった。陰陽師は変わらぬ無表情で地に這わされている虎を見詰める。先に一瞬見せた感情は、最早欠片も無い。
「間違うなよ、俺は言った筈だぜ」
『皆が欲して居るのは事件が解決した、と言う事実だ。其処には犯人も死傷者も不要、後に為ればどうせ好き勝手に物語られるのだから、実際何が如何為ろうとも、大局としては変わらねぇよ。…………だから、結局は変わりようが無ぇんだ。が、被害は出来るだけ抑えて置こうと思う。元々は俺の不始末が因だし、其れを他人に押し付ける訳にも行かないからな』
「犠牲は出来る限り減らした。今夜は俺の式が一人死んだ、ただそれだけだ。そうだろう?」
「それだけ、だと?」
怒りを込めた低い声は皎月のものではない。隣に力無く座り込んでしまっていた華扇が、低く、低く唸る。短い言葉に込められた感情は酷く重く、息を吐く度に皎月は苦しくなっていくような気がした。重い、と心から感じた。
「勝手にやって来て、蹂躙しておいて、それだけだと!?」
「それだけ、だよ。今夜の犠牲はそれだけだ。殺された者は二度とは帰らんし、俺の不始末の責任も変わらん」
じゃりと華扇の手が地面を掴む。先程何とか飲み込んだばかりの黒を吐き出す。睨み付けた視線は濃い憎悪と薄い悲哀に満ちていて、対する陰陽師はそれでも裕々としていた。
「――――鬼よ、何故死に急ぐ?」
「質問の、意味が分からない。何が言いたい貴様」
突然投げ掛けられた問いに、華扇は目に見えて狼狽した。死に、急ぐ。彼等は生き急げてすらいないというのに。悠々と自適に、泰然と自若に生きる彼等は、何を気にすることもない筈なのに。
陰陽師は黒い無表情でもって華扇を見下ろす。全く感情の見えないその顔に、怖気を感じた。鬼は、恐怖した。
「お前は違うのか? まだ、諦めていないのか?」
理由は分からないが、彼の言葉に悪寒のような寒気を感じて皎月は息を吐く。萃香の浮かべた諦め交じりの笑みが、思い起こされた。
「それとも、お前は判っていないのか?」
「煩い、何を分かった様な口を…………!」
反論は悲鳴だった。薄々、華扇も感づいていたろう。最早どうしようもない、どうすることも出来ないのだと。彼が、疎密の鬼が、何を憂いて、何を諦めていたのかを。
「…………一寸失礼しますよ」
突然、羅紗の大きな手が皎月の首をがっしりと掴む。絞め落とそうとしていることは分かったが抵抗しようにも体に力が入らない。動かした手も目的を忘れて地に落ちる。
「ぁ…………く、そ…………」
急速に暗くなる視界、もがくことすら叶わない。息を吐いて、皎月は諦めて意識を手放す。完全に落ちる間際、皎月は陰陽師の低い声を聞いた。
「幻想は、失われ行く。人間に産み出されたお前達は、人間に忘れられ消え逝くんだ。それは、決して遠い未来じゃ無ぇ。…………消えたく無ければ足掻けよ、幻想共」
そこから先は、皎月は知らない事だ。彼女達の、否、彼女の悪足掻きを見ていたのは、当事者たる彼を除いては恐らく月と星と、彼女だけだったろう。
鬼の騒動が収まり、都の雰囲気も大分落ち着いた。だが暗さは如何せん拭いきれず、全体がどんよりとした雰囲気に覆われていた。都を荒らしていた鬼は源頼光率いる討伐隊により退治され、平和が戻ってきた。これは人間の勝利だ、その筈だった。
しかし、確かに多くの原因の一つは起こってしまった。最早取り返しはつかない。それを分かっているのは、ほんの少数であった。
彼女も彼女も、分かっていない者の一人だったろう。
渡辺綱は一人、都の中心部に向けて歩いていた。行き先は一条大宮。先の鬼との戦いで受けた傷など全く気にする素振りも無く、彼は馬の手綱を繰って無言で歩を進める。その腰には、太刀と脇差しが一対帯びられている。
一条の端に足を踏み入れた時、堀川に架かる橋の前に一人の女性が佇んでいるのを認めた。まだ若い、見目よい女性だ。肌は雪の様に白く、紅梅の打衣を着て少し、困ったような顔で静かに立っていた。綱を見かけると申し訳なさそうに眼を伏せる。
「…………済みません、五条迄……」
女性が言い終わる前に、綱は馬から下りて目で乗れと言いたげに目を細めた。無言の内に促す。女性は一言二言礼を述べて、感謝の意を伝えながら馬に乗った。この時間のこんな場所を、女性の一人歩きは危険だろう。だが、何故五条まで行く用があるのだろうか。
綱は訝し気な様子も見せずに、手綱を取ると先導して歩きだす。女性は緑色の眼を妖しく輝かせて、ちらりと綱を流し見る。綱はそれすら気にしない様子で流し、淡々とした様子で歩を進め、堀川に架かる橋に足を踏み入れた。
一条、戻り橋。様々な謂れのあるこの橋の、戻るという名の由来は――――
「ねぇ、パルスィ」
水面に映る影に幻が重なった。
「貴女は何をしているのかしら?」
疑問というよりは、確認。問いかけというよりは、威圧。
短い二本の角は人影を歪に歪め、風にたなびく桃色の髪の奥に隠れる瞳は憎悪と敵意を秘めて静かに輝いていた。その姿は正しく鬼のものだ。
「…………別に、何も」
澄まして応える声もまた、どこか暗い感情を含んでいた。
「只、私は獲物が掛かるのを待ち伏せていた丈よ」
「あら、そうなの? 奇遇と歓迎すべきか間の悪いと詰るべきか、迷うわ」
「迷う? 安心すればいいわ、私の用事はこの男である必要性は全く無いから」
橋の上で鬼が二匹、陰惨に嗤う。獲物たる人間は、只目を細めて彼女達を見ているだけだ。
まるで、彼女達にはそうする権利と認めているように。
「そう、ならば勝手にするわよ、真犯人さん?」
「――――あぁ、全く、妬ましいわね」
忌々し気に鼻を鳴らして、橋姫は桃色の鬼を睨んだ。何て事無いように鬼は涼しい顔で、ただ目の前の敵を見据えているだけだ。
高まる殺気に馬が嘶く。綱は無言で、張り詰めた空気に腰の得物を左手で支える。怪我はとうに完治している。馬上に佇む鬼を静かな目で捉え、ちんっと軽い音と共に鯉口を切った。彼の愛刀、鬚切は月明かりを受けて輝き、白い刀身に敵を映した。
「私は、幻想を追いやった人間達を絶対に許しはしない!」
夜に怒号が響いた。
都より離れた山中、ここからならば都を一望出来た。見下ろした街並みは区画整備された整然としたものだ。手本にした長安には規模こそ劣るが、その雅さは勝るとも劣らない。
「…………嫉妬は、全ての感情の根元に成り得る。逆も又然り、全ての感情は嫉妬に繋がる」
ぽつりと、声が生まれた。山の中腹、月明かりも届かない森の中、紫の女性は歌うように呟く。虫の声と木々のざわめきの中、声は響かない。
「体の一部を喪い、感情の一部を喪った鬼にも其れは変わらず、気力を亡くした筈の彼女は思い出した負の感情を如何とも出来ず、自滅した」
誰にでもなく、女性は言う。
「彼女為らば、何如なるのか知ら?」
風に揺られて長い髪が靡く。女性は変わらない様子で目を細めて、静かに息を吐いた。言葉の意味は分からない。分かる筈も無い。
辺りには黒い霧が不自然な動きでもって蠢いている。虫の大群が一斉に動く様な、ばらばらなのに統一感のある動き。何を言うでもなく音を立てるでもなく、霧はざわめく。息を吐いて、女性は呟く。
「…………其れで、独り切りの百万鬼夜行、貴女は一体何処に行こうと言うのか知ら?」
「べっつにー」
声が応えた。意思を持つ霧が一ヶ所に集まった位置に表れたのは、体に身合わぬほど大きな二本の捻れ角の少女。口元に浮かべた斜に構えたような笑みはいつもに比べて、疲れたような陰りが見える。
「何処に行こうと言う当ても無いのだよ。私には目的地なんて無い。人間に追いやられた私達は、最早何処にも、行けない」
悲観するように諦めるように嘲るように彼女は言って肩を竦めた。
「…………って言うか、あんた、誰よ?」
「其の質問に意味は有る?」
「無いね、分かってるよ。唯、私は一寸聞いておこうと思った丈さ、――――――――人間さん?」
一拍。
「…………誰が、人間よ」
「あれ? 間違えたかな? そらぁ失敬失敬」
何故萃香はそんなことを言ったのだろうか。にやにやと笑いつつ、小さな鬼は煙に巻くように手を振った。忘れていいと示しつつも、思わず返した女性の声に含まれた感情を、見透かしたように。
「……………………それで?」
息を吐いて萃香は女性を見やる。それに応えるように女性は、遠くを睨んで独り言のように言った。
「来て欲しい場所が在るの」
「それは私に? それとも私達に?」
「無論、幻想に」
それからぽつぽつと自分の考えを、思惑を述べた。荒唐無稽かつ意味深長で、怪しげな話を。ただの人間などに言っても、馬鹿らしいと一蹴されるであろう、話を。
「…………良いね、面白そうな夢物語だ。真偽も実現性も如何でも良い事」
鬼は両手を広げてくるりと回り、にやりと陰惨に嗤ってみせる。
「あんたの狙いは全く分からないがね、愉快気だ、一つ遊ぼうじゃないか。その戯言、乗ってあげよう」
対して、紫の妖怪は浮かない顔で呟いた。
「…………私はただ、いつか探した幻想の為に……」
…………扨、長い話はこれで終わりだ。幾分予想出来る結末、だったんじゃないかい? 与えた弱点を使わずに堂々と迎え討った彼等は称賛に値するね。本来であれば、彼女達は人間に退治される為にあんなに弱点を背負ったんだからね。何方にせよ、鬼である彼女達に最終的な勝利は用意されていない。それでも、最期に笑っていれば、彼女達の勝ちなんだ。何も、難しい話じゃないだろう?
ん? 結局誰が悪かったのかって? 然だな…………先ず都で悪さをしていたのは、萃香達じゃない。抑々が保守的な奴等だったから、それは有り得ない。で、俺は矢張りあの式神だと思うんだ。理由は分からない、無くした腕の為かも知れないし、主人に不満があったのかも知れない。おれには分からないよ。知る由も無い。本人にも聞けなかったし、主人であるところの陰陽師は教えて呉れなかったしね。
ねぇ、君は、何を思ったのかな? 遠い異国の同類の話を聞いて、何か思う所は無かったのかな? …………否、失敬。言っちゃあ悪いかも知れないけども、君は酷く世間知らずだ。個人的に気になるんだよ、君が何を思ったのか。
……………………成る程、君らしいね。……ん? 適当言うなだって? 全く、何年君といると思ってるんだよ。お見通しさ。ま、それ位なら、多分おれじゃなくても分かるとは思うけどね。
あの後意識を失ったおれが気が付くと、何処か山奥で、怪我には丁寧に手当てがしてあった。気を失っている間に、移動させられたらしい。熟々余計な事をしてくれる陰陽師だなと思いつつ、おれはまた都を目指して彷徨く事にした。道中またあの鎌鼬やらに会ってね、先のが長かったから今度は短くいこう。
どうもお久し振りです、トラです。
新生活が意外と慌ただしく、気付いたら残り少しの所で四ヶ月程放置していました、実に済みません。
これからも書ける時間が限られてきてしまうかと思われ、随分と更新速度が落ちてしまうかと思いますが、途中で投げ出したりはしないので、気長に待ってくれると嬉しいなぁ、と思います。
全部書きたいのを少し我慢して、途中で止めておきました。何か感じていただければ幸いです。
13/11/30
ミスと細々としたところを修正。




