死にかけの兵士が、泣いている少女と出逢って
「うぅ、う、う……」
瓦礫の山の頂点で、少女が声を殺して泣いていた。
ぽたり、ぱたり、と砕けたコンクリートに染みが出来る。僅かな時間で乾いて消えてしまうが、それで彼女の悲しみまでもが消える訳じゃない。
と、薄暗い、かろうじて夜ではないと分かるような曇り空の向こうから、ようやっと届いていた光が陰る。
同時に、彼女がこぼした涙の染みに、未だ乾かない幾つも幾つも幾つもの涙の染みの一つに、重なる雫が。
ぽたり。
その色は。
紅。
「ようようお嬢ちゃん! 何泣いてんだい、そりゃまあここは戦場だし周りは死体だらけだし家なんかもそこらじゅうで壊れてるから泣くネタには困らないけどな。だけどそれでお嬢ちゃんが泣かなきゃならないわけでも無いわけだし、出来ることなら泣かないで笑ったほうが人生楽しいぜなんて無茶なことを言ってみたけど、まぁでも意外と無茶でも無理でも無いんだぜ。ほら、俺笑ってるだろ!」
少女が無気力に見上げた先に居たのは、兵士だ。笑っている。
本来は、昨日までなら、全力で逃げなければならない相手だったろう。だが、今となっては、もう。
「はっはっはっは!」
笑っている。
戦場では、笑顔を見ない訳ではない。けれどその笑顔は、疲れきった自嘲の笑みか、気が狂う直前の罵声と共にある笑みばかりだ。
笑っている。戦場でこんな風にカラカラと笑うのは、どんな人間なのか。
今更逃げる気も無く、興味が沸くでも無かったが、少女はただ惰性で見上げた。
「いや~お嬢ちゃん、運が良いね! いや、運が良いのは俺かな、俺だよな。お嬢ちゃん、顔見たら意外と美人さんだしな、はっは!」
ぽたり。
少女の視界に、紅が尾を引く。
目の前の男から滴るそれは、間違いなく血液だ。
滴り落ちるというか、流れ落ちている。これが一人の血液なら致死量かもしれない。実際、軍服の至るところが破けていて、大ケガをしているように見える。
だが、戦場で笑うこの男が狂人では無いと誰が言える? もしかすると、ついさっき近くで少女と同じ年頃の娘を犯して殺してバラした後かもしれない。この少女は、デザートなのかもしれないじゃないか。
それでも少女は、無気力に見上げるだけ。
「いやいや、美人さんだからどうとか言う訳じゃないけどね。だってほら、顔分かんないけど近寄ってきたしね。それでお嬢ちゃんが美人だったのはラッキーだけど、それは大事じゃなくてさ、ほら、下から見て女の子が泣いてるなと思ったから上がってきただけでね。あ、もしかしてお兄さんのこと疑ってる?」
少女は、何も応えない。
「いやいや、疑う必要は無いってば! いくら俺が昨日までキミの家族だとか友達とか彼氏とかを殺してた、憎い敵国の兵士だとしても、戦争はもう終わったんだから。あ、念のため行っておくけど、俺は一応、この町に来てからはまだ一人も殺して無いからね。参加する前に戦争が終わってさぁ。それでまぁ僥倖って言うか、それでも自分の責任っていうかを感じて街中を巡回してたら地雷踏んじゃって……いや~、参った!」
ぽたり、ぱたり。
たぱた、たたた。
それは昨日まで聞こえていた、人を殺せるなんて信じられないような軽い連続音、それに似たリズムで響く。
「だからな、お嬢ちゃん安心だ! お兄さんホントに、この瓦礫の山登るだけで死んじゃいそうなケガ人だから、お嬢ちゃんにあんなことやそんなことなんてしないから。ホント、マジで。神に誓って!」
「おにい、さん……?」
「ありゃ、お兄さんじゃないってか! 痛いとこ突くなぁ。確かにその通り、おじさんですよ。おっちゃんと言っても良い。むしろ、おいちゃん、かもしれないな!」
ようやっと帰ってきた言葉に、中年の細身の兵士は勢いづく。
「で、お嬢ちゃん、おいちゃんになんで泣いてるのか話してごらんよ。そりゃあ誰かが死んだとかならなんとも出来ないけど、もしお腹が空いてるならちょっとだけ……ほら、不味いけど軍用のレーションもあるし。もしこの瓦礫の山がお嬢ちゃんの元家で住む場所が無くなっちゃったなら、そうだな、死ぬ前に一筆書いてあげるから、それ持ってウチの基地に行けば多分ちょっとくらいは」
「お、にい、さん」
「え、なになに、どうしたの!」
「おに……い、さん……」
ぽたり、ぱたり。
兵士の登場で止まっていた少女の涙が、再び溢れ出す。キーワードに触れたらしい。
少女の反応に気を良くしていた兵士の勢いが、一気に萎む。
「お、おに、い。おにい……さん、っ」
「……」
ぽたり、ぱたり。
ぱたり、ぽたり。
二つの水音が、重なり、響く。
ぴちゃり。ぺちゃり。
「おに、ひ、う、ううう。おにい、さん……!」
「……あ~、え~っと」
左目をしばたかせる兵士。額から垂れた血が、目に入っている。
――少女の姿も、既に赤く見えているかもしれない。
そんなことには構わず、困った男は体中を探る。血だらけの、体中を。
「え~、う~と、あった!」
何かを取り出す男。ポケットから取り出したものとは別に、さっき言ったものだろうパック入りの携帯食が転げ落ちる。
ぼとり。
「ねぇ、キミ。ほら、これ、甘いよ」
キャンディ。小さな小さな、一つきりのキャンディ。
何故それが一つだけ軍服のポケットに入っているのかは男にしか分からないが、何にせよそこらじゅうが切れて血に染まっている中で、運良く無事だったキャンディ。
それを。
「はい、どうぞ」
「う、う……」
未だ泣いている少女の右手を取り、キャンディを載せる。
「甘いのは良いよね。頭が癒される感じがする。頭がおかしくなりそうな時でも、そのキャンディを舐めながらなんとかかんとかやってきた。でもやっぱり、そうじゃない。苦しみを紛らわす為じゃなくてさ、ほら、笑顔になる為にあるんだと思うからさ」
キャンディを握らせ、その手を優しく、両手で包み込む。
少女は気付いただろう。小さな震えと、体温の無さに。
「舐めてくれ。あ、いや、もちろん舐めてるところを見たいとかいう変態っぽいことじゃなくてさ、今日じゃなくても良いし明日でも明後日でも良い。やっぱり今日だって良いんだけど、笑顔になりたいときに舐めてくれよ。どうか、頼むから」
ぽたり、ぱたり。
握った手の甲に、赤が散る。一つ、二つ、三つ。四つ、五つ。六つ。
見上げる少女を、男は見ていない。ただただ、赤が増えていくのを、何かを思いながら見つめる。
男は見ていないが。少女は、そんな男を、何かを思いながら見つめる。
熱が、通う。
そこには、熱以外のものが通っているとは限らない。男が何を思おうと少女はそれでも苦しんでいるし、少女が何を感じようと男はただただ死んでいくだろう。通っているのかもしれないし、通じているのかもしれないが。
それでもきっと、通じていないのだろう。確かに通う、体温以外は。
「そうだ」
名残惜しげに、男は少女の手を離す。
少女の手に、冷やりとした空気が触れる。
「あ~、そう……っ、だな。そうだよな。おいちゃんこれから、基地に帰るわ! 考えてみたらレディの前で死ぬのって失礼だもんな。いやいや、お嬢ちゃんに俺の死まで背負わせちゃいかんよな。危ない危ない、はっはっは!」
少女が茫洋と見つめる先で、フラフラと身体を揺らしながら語る男。
苦しそうに。けれども笑顔は崩さずに。
「ねぇキミ、もし良ければだけど、後でウチの基地においで! チームの連中に言っておくから、来たら良くしてくれると思う。良い奴らばかりだよ。戦争なんてものがなければ、みんな良い奴さ。そりゃ嫌いな奴も居るけど、それでも戦争じゃなければ人を殺したりなんて出来ない奴らだ。みんな、みんなそうだ」
ぽたり、ぱたり。
男は瓦礫の山を降り始める。一歩踏みしめるごとに、血が垂れる。
「大丈夫。おいちゃんの血を追ってくれば基地までたどり着くから。なんつうか、レッドカーペットみたいなもんだよな。ゆっくりと女優さんが歩いてきて、手を振りながら、みんな大歓迎!」
崩れる足場を、来たときよりもふら付く足取りで降りていく。
「お嬢ちゃん、女優さんみたいに美人さんだから、きっと絵になるぞう? ……そうだ!」
山の麓で、がばっと振り返る。
血が。半円を描いて飛び散る。少女は、それを目で追った。
男は、それこそ舞台俳優か何かのように、大仰な振りを付けて言う。
「お嬢ちゃん、女優になりなよ! なれるよ、きっと! 負けるな、こんな、戦争なんてものに! 女優じゃなくても良いけど、なんでも良いけど、笑ってくれよ。あんな悲しい顔するなよ! 泣かないで、笑ってくれ。無茶言ってるかもしれないけど、お願いだ、一生のお願いだ。命をかけて、この途切れかけたちゃちな命だけど、全部かけてのお願いだ」
男は言った。満面の笑みを浮かべて。
「いつか、思いっきり笑ってくれ!」
……ぽたり、ぱたり。
「……」
「……じゃあね」
男は、去っていく。血の跡を残しながら。「いててて」などと呟きながら。力を振り絞って。
「……」
本当に、男の命はあと僅かだろう。もしかすると、少女に関わらなければ、真っ直ぐに基地に帰れば、生き残る確率も幾らかは増したのかもしれない。しれないが……男は、それを選ばなかった。
男は泣いていた少女に声を掛けたのだ。恐らくは、命を掛けて。
「……」
もしかすると基地にたどり着く前に倒れるかもしれない。
けれど、きっと男はたどり着くのだろう。生き残るためじゃなく、少女が来ることを願って。
分厚い曇り空の下、少女は佇む。
「……」
ぎゅうっと、貰った物を握り締める。キャンディと、そして。
右手の甲を冷たい風がなぞる。血の抜けた、体温の薄い男の手のひらだったが、それでも風に比べれば随分とマシだったようだ。
するりと、左手でその温もりを撫でる。少女は、何を、思うのか。
最近、周りに元気の無い人や疲れている人や凹んでいる人が、なんとなく多くて。
負けんなよと。キツくてもそれでも、人に優しくあれよと。
伝えたくて、勢いで書きました。