ペットボトルボウリング 5
なんてことだろう。僕の目の前がくるくると回っている。頭が変になってしまったのかもしれない。だが、そんなことはたいしたことではない。問題は他にある。なんてことだ。こんなことがあっていいのだろうか? あっていいのだろう。そんな話はよく聞くし、実際に一度や二度は体験したことある。でも、出来るならば体験したくなかった。僕はこのままベンチに座っていていいのだろうか。どこかに走り出した方が、窮屈になっている心を温かくできるのではないだろうか。もしかしたら、ベンチに横になった方がいいのかもしれない。とにかく、これは凄い衝撃だ。
「おい」と聞きなれた声が聞こえた。
「おい、田島」と隣に座っていた矢野がさらに言った。「そろそろ帰らねー? 夕立とか心配なんだけど」
「いや、それどころじゃない」
「何が?」と矢野は言って、空になったペットボトルで手のひらを叩いた。「帰ろうぜ」
「いや、帰る前に聞きたい」
「なに?」
「もし、好きな人が知らない男と手をつないで歩いていたらどう思う?」
「どう思うって……。さぁ? 何かを思う暇があるのか?」
「ない……。なんだか、今すぐ家に帰って、ベッドで死ぬように眠りたい気分だ」
「とにかく帰ろうぜ。クーラーのかかった冷えた部屋で、寒いと言いながら布団をかぶるのもいいじゃん」
「むしろ、死にたい」
出席番号十番の、彼女が手を繋いでいた男は誰だろうか? 彼氏か? 彼氏か……。いや、違うかもしれない……。でも、彼氏しかないだろうなぁ。
「あ、先輩じゃないですか」と聞いたことのある声が聞こえた。
僕たちの座っていたベンチの前に茶色の自転車がとまった。相変わらず変な奴だ。
「なんだよ、後輩」と僕は中学時代、後輩だった男に言った。
「こんなところで何しているんですか?」
「友達の家に行ってきて、その帰り」と矢野が返事をした。「お前は?」
「ちょっとしたサイクリングです」
僕は自転車の前かごにビニール袋が入っているのに気がついた。開かれた口からはペットボトルらしきものがのぞいている。
「その前かごにあるやつは?」と僕は聞いた。
「これですか? これは頼まれたやつです。ペットボトルを集めている最中です」
「お前は変な奴だなぁ」
「そうですか?」
「そうだよ。お前は変な奴だよ。でも、お前でも好きな人が知らない男と手を繋いでいるところを見たら落ち込むんだろうなぁ」
「まぁ、そりゃあ」と変な奴は言った。何を言っているんだろうという顔をしている。そりゃあ、そうかもしれないな。
「好きな人が知らない男と手を繋いで歩いているところを見たんですか?」とその変な後輩は言った。
「え? 見たの?」と矢野も僕の顔を見た。
「見てないけどさ、なんかそういう想像すると悲しくなったんだよ」と僕は嘘をついた。同時にさっき見た光景が、よみがえった。ドンと音がした気がした。ダイブされたベッドはこういう気持ちなのかもしれない。いきなりで驚く。思わず叫びたくなる。
「見たらショックで、何も考えられないですよね。矢野さん」
「俺? まぁ、考えられないだろうな。茫然自失ってやつになんのかもな」
「僕なら家に帰ってゆっくり寝ますね。起きていたくないですよ」
「そうかな?」
「そうですよ。矢野さんは、どうします?」
「さぁ。よく分からん。残念ながら、そういう経験がない」
なんだとこの野郎。
「とにかく、そろそろ帰った方がいいんじゃないですか?」と後輩は矢野に向かって言った。だが、ちらりと僕を見たような気もした。
「そうなんだよ。俺も帰りたいんだけど、こいつがなかなか帰りたがらないんだよ」
「帰るよ。腹減ったし。風呂にも入りたい。眠いし、寝たい」
「じゃあ、帰ろうぜ。お前はもう帰るの?」
「僕はまだ帰らないです。ペットボトル集めないと」と後輩は前かごにあるものを指差して言った。
「じゃあ、これいる?」と矢野はペットボトルを差しだした。
「いいんですか?」
「いいに決まってるだろ。いらんよ、こんなもの」
「ありがとうございます」と後輩はそれを受け取って、ビニール袋の中に入れた。
「じゃあ、僕はもう行きますね」
「ああ、またな」と矢野は言った。
僕も手を少しあげて返事をした。
変な後輩は自転車にまたがると、ペダルを漕ぎ始めた。何メートルか進んだあと、一度、こっちを振り返って、手を振った。
「変な奴だな」と手を振り返しながら僕は言った。
「そうか?」
「そうだよ。お前も変だけど、あいつも変だ」
「お前も変だよ」
「そうか?」
「そうだよ」
「帰るか」
「そうだな」
そう言うと僕たちはベンチから立ち上がった。
今日はぐっすりと寝たい。何も考えずに、何も思い出さずに寝たい。彼女の顔がまた、浮かんだ。僕は感情が声を出そうになるのを我慢して一歩、一歩、と意識をして歩き始めた。