彼女に犠牲ではないものを
寝ていた。
ほどよくクーラーが効いた、図書館の勉強室で僕は目を開けた。
寝ている場合ではない。勉強をしなくてはならない。もう時間はあまりない。
背筋を伸ばし、椅子に座りなおした。そして、机に開かれた参考書とノートを見る。
やることをやらないと、僕は大学になんか行けやしない。僕はあの大学に行きたいから勉強するんだ。大学に……。
「起きた?」と僕にしか聞こえないくらいの声で、紗枝が言った。隣の机との遮りから彼女は顔を覗かせていた。
「うん」と僕もできるだけ小さな声で返事をした。周りには、多くはないが、僕たちと同じく勉強をしている人たちがいた。
僕は眠気を払うように息を大きく吐き、受験勉強に集中しようと努力した。参考書に書いてあるものを頭に入れて、それをノートにまとめようとした。だが、その試みは無駄に終わった。僕は隣の席で、僕の受験勉強に付き合っている恋人のことを考えた。
彼女には学生としての勉強は必要だが、受験のために勉強をする必要はない。彼女は地元の専門学校へ行くと決めている。だから、ここにいる必要はない。確かに僕たちは一緒にいたいとお互い思っている。だが、それでも、一人のことに付き合うのはおかしいことなのではないだろうか。
「紗枝」と僕は小声で隣に座っている少女に声をかけた。
長く伸びた黒髪がそれに反応したように揺れた。
「なに」と彼女は言った。小さく発したせいで少し潰れた声でも、可愛く聞こえるのは僕の贔屓だろうか。
「休憩しない?」
「うん。いいよ」
彼女がそう言うと、僕たちは机の上にあった全てを片づけ、鞄の中に入れた。
そして、並んでその部屋を出た。
休憩室から出て、僕たちは中庭の方に出た。そこにはベンチがあって、この時間帯、そこは日陰になっていた。屋内よりは暑かったが、誰かと会話するには適した場所だった。
僕は、自動販売機でお茶とミカンジュースを買った。先にベンチに座っていた紗枝にそれを見せると、「ありがとう」と言ってお茶を取った。
僕は彼女の隣に座った。
「どうしたの? 疲れた?」と彼女は言って、ペットボトルの蓋を開けてお茶を飲んだ。
「うん。ちょっとね」
「寝てたもんね」
「うん。寝てた」
「昨日は眠れなかったの?」
「いや、寝たんだけど」
僕はストローを容器から剥がして、飲み口に刺した。
「昨日は夢見た?」
「昨日?」と僕は言って、少し考えた。具体的なものはでてこなかったが、夢は見たような気がする。
「見たかもしれない」
「私、出てきた?」と彼女は覗きこむように、僕を見た。
「たぶんね」
「たぶん?」
「よく覚えてないよ。でも、悪い夢じゃなかったし、たぶんね」
「ふーん」と彼女は言って、もう一口お茶を飲んだ。「夜、電話した時に、私の夢が見たいって言ってたもんね」
「言ってたね」と僕は言って、少し恥ずかしくなった。夜と顔の見えない会話は怖い。なんでも言ってしまう。
中庭から、図書館内の時計を見た。四時になったところだった。
「なぁ」と僕は言って、オレンジジュースを飲もうとした。だが、飲んでしまうと次の言葉が出ないような気がしてやめた。
「なに?」
「勉強さ、辛くない?」
「勉強? 私は別に……。そっちの方が辛いんじゃない?」
「俺? うん……。まぁ、少しはそうだけど……。俺は夢のためにやってるわけだから」
「私は平気だよ。特に難しいことやってるわけじゃないし。勉強したいから勉強してるわけじゃないし」
「じゃあ、なんのため?」
「ゆう君と一緒にいるため」
その言葉は真っすぐ彼女から届けられた。そのせいか、受け取っても恥ずかしさはなかった。もし、周りに誰かがいても、僕はそれを頭か心にしっかりと収めただろう。
「でも、本当にいいの? 最後の夏休みなんだし、友達ともっと遊んだ方がいいんじゃないの?」
「遊んでるよ。電話とかメールもするし」
「でも――」
「私が一緒だと勉強できない?」
僕は黙って首を振った。
だが、僕は申し訳なかった。何かを犠牲にしてまで、僕に付き合わせるのは問題なのではないだろうか。
「勉強に付き合っていて嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ? なんで?」
「正直言うとさ」と僕は言って一呼吸置いた。「申し訳なくて」
僕は彼女の顔を見た。怒っているのではないだろうかと、僕は心配していた。
彼女は何も言わず黙って僕の左手を握った。そのせいで、僕はオレンジジュースをベンチに置くはめになった。
彼女の右耳にはピアスに穴が開いていた。一年前に開けたものだった。今日の彼女は、化粧をしていない。制服を着ている時は、彼女は決して化粧をしない。彼女の唇はいつもと同じように艶やかだった。赤く、果実の中身みたいに潤っている。彼女の右目は、左目と大きさが少し違う。ほんの少しだが、右目の方が大きい。そのわずかな差異は、僕に安心感を与えてくれる。鼻は少し低い。でも、潰れてはいない。それは、なぜか僕にパンプスを思い起こさせる。顎のラインは、手のひらで支えたくなる柔らかな線を描いていた。
彼女は僕のアクセサリーでも、芸術品でも、嗜好品でもない。彼女は彼女だ。だが、僕は彼女を手に取って、観賞して、愛でたい。例え、僕らが違う場所にいたとしても。
「私は、ここにいたいの」
僕の彼女がそう言った。
「俺もだよ。でも、俺は遠くに行くよ?」
「だから少しでも、一緒にいたいの」
そう言うと彼女は、さらに僕の手を強く握った。僕の手の甲は温かく、手のひらは冷たかった。
紫外線が空から降り注いでいる。僕らはそれを皮膚に受けている。そして、それをひしひしと感じている。
「私たちは犠牲なんて払ってないんだよ」
「そうかな?」
「そうだよ。一緒にいる。それだけでいいんじゃない?」
「そうかな……?」
本当にそうかな? 僕らは一緒にいるだけでいいんだろうか?
「俺はね、正直に言うと紗枝が我慢しているような気がしてならないんだよ」
「我慢してないよ」
「でも、そう思えて仕方がないんだよ」
「じゃあ……、どうすればいいの?」
「何もしなくていいんだよ。ただ、紗枝は『私たちは犠牲なんて払ってない』って言ったけど、少なくとも紗枝は犠牲を払っている。友達と遊びに行かずに、しなくてもいい勉強に付き合っている。だからさ、つまりさ……、俺も犠牲を払いたいんだよ」
犠牲? それは犠牲か?
「犠牲じゃないな」と僕は言った。「犠牲を払いたいんじゃないよ。もっと一緒にいたい。何の心配もなく、何の苦痛もなく、紗枝を好きでいたい」
「うん」と紗枝は言った。
僕は紗枝をもっと愛したい。彼女のために僕の全てを捨ててやりたい。はたしてそれが愛と言えるのかどうか分からないけど。
「明日は暇?」と僕は聞いた。
「うん」と紗枝は言った。
「どこかに遊びに行こう。高校生活最後の夏休みだし」
「うん」
「よかった。じゃあ、もう勉強は終わり。帰ろうか。そうだ、うちでご飯食べて行きなよ。どこに行くかも決めよう」
「うん」
僕はオレンジジュースを手放し、彼女に握られていた手を握り返した。
「冷たい」と彼女は言って笑った。
僕は大学に行くために勉強をする。でも、そのために、この夏休みを無駄にはしたくない。彼女との思い出作りを諦めたりしない。彼女に犠牲を払わせない。
僕はどうしよくもなく、彼女と離れたくない。
「受験勉強、頑張ってね」と紗枝は言った。
僕たちは手をつないで、家へと帰っていた。
「頑張るよ。大学にも行くし」
「行くし?」
「なんでもない」と僕は言って、その次の言葉をはぐらかした。
左肩に柔らかな重みを感じると、シャンプーの香りがした。