熱
知らない町に来てみたのはいいものの、心の中は永遠にこのままのような気がしている。今、ここにいるのは自分だが、本当の自分は過去に生きているに違いない。
僕はジーンズのポケットから煙草とライターを取りだした。
知らない町の知らない公園にある、休憩所で煙草を吸うことになると、僕は一度でも想像したことがあっただろうか。
夏の風物詩である蝉は、抑揚のあるリズムで鳴いていた。リズム感のあるオスがメスにちやほやされるのだろうか。それとも、彼らのアピールポイントは違うところにあるのだろうか。まぁ、人間である僕には、そんなことを知ってもどうにもならない。蝉がよってきても困るし、蝉のように僕が鳴き出したら、周りも困る。
蒸し暑い夏が僕は苦手だった。太陽が南にある時間帯には、僕は何もできない。何もしたくない。何も考えたくない。
この休憩所の上には、藤なのか、他の植物なのか、日差しを遮ってくれるものがあった。これがなかったら、僕はここに座り続けることができないだろう。
僕は煙草を口にくわえ、安物のライターで火をつけた。
僕は愛煙家ではない。これは偽りの行為だ。僕は決して肺に煙をいれなかった。僕には煙を楽しんでいた時期というものがあっただろうか。初めての喫煙から、徐々に惰性で吸うようになり、半年前にはそれさえやめた。周りの人間は、よく禁煙できたな、と言っていたが、僕には容易いことだった。だが、それなりの苦しみは味わった。例えるならば、飲料を全てオレンジジュースにするようなものだ。ベクトルは違うが、地味に辛い。
でも、僕は完全に煙草をやめたわけじゃない。あの禁煙の苦しみを、たまに思い出したくなるのだ。
やはり、僕は過去に生きているのかもしれない。自分が重い。重すぎると言ってもいい。今まで生きてきた、その事実は自身の背中に圧し掛かる。
「お前」と男のしゃがれ声がした。横を見ると、そこには老人が立っていた。
「お前は、俺の若い頃にそっくりだ」と老人は言った。彼の手にはビニール袋が握られていた。
「僕ですか?」と答えながら、僕は煙草の灰を携帯灰皿に落とした。
「ああ。お前は、なんか大事なものを失くしとる」
「大事なものですか?」
「ああ、大事なものだ」
僕はその言葉のせいで、鳩尾のあたりが狭まるのを感じだ。大事なものに、僕は心あたりがあった。六年も前のことだ。だが、失くしたとは思っていない。
「どうでしょうね」と僕は言った。
「失くしてみてどうだ?」と老人は言った。
僕はその言葉に少しむっとしたが、平静を装った。だが、彼の思う通りにはなりなくなかった。僕は彼の問いを無視することにした。
「じゃあ、お爺ちゃんも大事なものを失くしたんですね?」
「ああ、失くしたよ」と老人は言って、首にかけていたタオルで頭を拭った。
彼はそう言うと、テーブル越しに腰かけた。僕は気まずくなり、彼に対し体を斜めにした。
彼は、ビニール袋から新聞を取りだした。新聞は地方のものだった。僕は煙草の火を消し、携帯灰皿に捨てた。片肘をたて、頬杖をついた。公園の中心には円状の花壇があった。そこでは背の高いヒマワリが咲いていた。
大事なもの。ヒマワリ。蝉。新聞。太陽。夏。大事なもの。大事なもの。
僕の頭はだんだんと回転しなくなっていった。それは暑さのせいでもあり、老人の言葉のせいでもあり、僕の過去のせいでもあった。
「僕は、もう二十三なんです」と僕は言った。
老人は少し動いたが、何も言わなかった。
「僕は六年前に戻りたいんです。六年前は辛くも素晴らしいものでした。高校生の僕には年上の彼女がいたんです。出会ったのは夕方の公園で、季節は秋でした。彼女は一人でお酒を飲んでいたんです。公園のベンチに座りながら。僕は反対側にあるベンチに座って、雑誌を読んでいました。そうすると、どこからかサラリーマンが現れて、彼女をナンパし始めたんです。最初は、ただの会話かと思ってました。でも、飲みなおさないかと、その男は言いだして、彼女を誘っていました。僕はそれをちらちらと見ていました。すると、彼女と目が合ったんです。僕がなんとなく立ち上がると、彼女は、僕を指差して『弟が一緒なんで』と言いました。僕は驚きながらも、彼女に合わせて、そこから離れました。駅の改札口に着くと、僕は何としてでも、彼女の連絡先を知りたいと思いました。でも、勇気というものはなかなか出てこないものなんですね。僕は黙って、何も言わず、電光掲示板と彼女の顔を繰り返し見ていました。すると彼女が言ったんです。『時間があるなら、家に来ない?』って。もちろん、僕は行きました」
「名前は?」と老人は言った。
「奈緒子です。……その後、奈緒子さんは僕にお酒を勧めてきました。僕は未成年だったけど、飲むことにしました。次第に酔っぱらってきて、気付いた時には、ベッドの中でした。上着とズボンを脱がされていて、頭はがんがんと鳴っていました。隣には奈緒子さんが寝ていました。彼女の足先が冷たかったのをよく覚えています。でも、その冷たさは暖かくもあたったんです。氷のような感じではなくて、なんと言えばいんでしょう……。とりあえず、僕たちは抱き合って寝ました……。次の日に、僕は電話番号とメールアドレスを聞きました。奈緒子さんはきちんと教えてくれました」
僕は唾を飲んだ。
「それから、僕たちは付き合い始めました。僕の家は父と兄しかいなくて、放任主義だったんで、奈緒子さんの家にはよく泊まりに行きました。といっても、彼女の仕事がない土日だけですけど。でも、つまり……色々と、もう、それはなくなったんです」
急に体が重くなった気がした。前頭葉のあたりに妙な力が入っていた。
奈緒子さんは、そのあと、本社に異動した。それが彼女の希望だったし、それで僕はよかったと思う。でも、問題はそのあとだ。これは言い訳だが、彼女の仕事が忙しくなると僕たちの連絡回数はぐんと減った。僕は彼女のことが好きだったし、彼女も僕を好きだったと思う。でも、それは減った。
そして、ある日のこと。それは、たしか僕が高校を卒業する頃だった。奈緒子さんからか細い声で電話がかかってきた。どうやら風邪をひいたらしかった。仕事も結構忙しいと言っていた。だから、僕は彼女を精いっぱい励ました。僕も色々と考えていた。彼女とまた過ごすために、都内の大学受験をして、そこに受かっていた。だから僕は「もう少し待っていてください。絶対にそっちに行きます」と言った。でも、それが間違いだった。奈緒子さんは、今すぐに誰かが必要だったのだ。
僕は彼女の風邪が治るのを待った。でも、治っただろうと思い、電話しても、その番号はもう彼女のものではなくなっていた。メールアドレスも使えなかった。いつのまにか僕は、彼女とは違う世界に移動してしまっていた。
「人生は戦争だ」と老人は新聞越しに言った。「だが、戦争を人生にしてはいかん」
僕は何も言わなかった。僕は戦争のために、今まで生きてきたといっても過言ではない。元の世界に戻るにはどうしたらいいか悩んでもいた。
「俺は親友を亡くし、嫁を亡くし、子供も亡くした。その時の感情は抑えられん。相手を殺したい、神を殺したい、自分を殺したい。まさに戦争だ。だが、それは人生の一部分でしかないと俺は思っている。今の今までそれが癒えることはない。でも、せめて抱えて生きろ。過去に引っぱられるな」
老人はそう言うと、新聞を閉じ、ビニール袋を持って、少し離れた休憩所へと歩いていった。
僕は、老人の言いたいことを噛みしめた。何度も頭の中で租借した。でも、僕は、どうしても戦争の中で生きたかった。過去に行けるのなら、今すぐにでも行きたかった。奈緒子さんを抱きしめて、どうにかしたかった。六年経っても、それは消えない。時間は何も消し去ってくれない。色は褪せても、いまだに記憶の面影が僕を苦しめ、幸せにする。
公園の駐車場に停めていた車に乗り込むと、携帯電話が鳴りだした。僕は、ドアを開けっ放しにして、電話を取った。
「もしもし」
車の中は、苦しみの熱でいっぱいだ。
「うん」
外からは威勢のいい熱が押し寄せる。
「分かってるよ。明日のことはちゃんと覚えてるよ」
汗が滲み出てくる。
「うん。じゃあ、また明日ね」
僕は電話を切ると、ドアを閉め、エンジンをかけた。
明日が過去に繋がることはあるのだろうかと思いながら、僕はゆっくりと車を発進させた。