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強いていうなら童謡のような子

 お弁当づくりには少し慣れた。いつも、母がやっていたことをするのは、苦しくも楽しいことだった。だが、今日は失敗した。予定の時間に起きられなかったせいで、計画が少し乱れた。大幅に乱れてくれたら、諦めがついたのだけれど、巻き返しができそうな気がしたから、私は急いで弁当を作った。そのせいで、私は生まれて初めて駆け込み乗車というものをした。少し恥ずかしかったが、それは大丈夫だ。問題は他のことにある。お弁当は私と父の分、両方作ったし、学校にも遅刻せずに間に合ったから、それらは問題じゃない。問題は、そう、この雨だ。私は出掛ける前に、天気予報を見るのを忘れた。

 午後の空には、黒雲が徐々に広がっていった。だが、まだ雨は降っていなかった。私は「雨よ、降るな」と祈りながら授業を受けていた。その祈りはどこかに届いたのか、学校を出てからも雨は降らなかった。だが、雨は当然のように降り始めた。私は、最初の雨粒を電車の窓で確認した。丸み帯びたそれは、私の望みを絶ち、計画の再考を促した。

 だが、朝から狂っていた計画を立て直すことはできなかった。頭を動かしても、考えを横にずらしても、事の歯車は噛みあわなかった。

 私は駅の入口で、空から降ってくる雨を見ていた。少し雨が弱まってきたら走って帰ろうと決心したのは、改札口を出て十分後だった。だが、雨は少しも弱まる気配がなかった。

「お姉さん」と聞こえた。だが、私はその「お姉さん」が私だとは思わなかった。

「お姉さん」ともう一度、それは聞こえた。

 私は、声のする方を向いた。

 私の隣にはいつの間にか男の子がいた。

「傘忘れたの?」

「そう」と私は言いながら、男の子を観察した。

 男の子の制服は中学校のものだった。一年前、私はそれをよく見ていた。だが、男の子はまだ小さく(私が少し大きすぎるというのもあるが)、小学生みたいだった。つまり、この子は中学一年生だ。少しぶかぶかの学生服を着ているのにも納得ができる。

「傘あげるよ」と男の子は言った。

「いいよ。もうちょっとしたら走って帰るから」

「風邪ひくよ」

「君も私に傘を貸したら、雨に濡れて、風邪ひくでしょ?」

「俺は風邪ひいてもいいよ。風邪ひいたら学校に行かなくていいから」

「だめだよ。学校にはちゃんと行かないと」

「お姉さんこそだめだよ。風邪ひいちゃ」

 男の子は私にぐっと傘を寄せた。だけど私はそれを受け取らなかった。

「じゃあ、迎えにきてもらうから。それでいいでしょ?」

「本当に?」と男の子は疑いの目で私を見た。

「本当に。約束する」

 私がそう言うと、男の子は小指を出した。指きりだろうか。まだまだ幼稚だな。

 私も小指を出し、彼の小指にひっかけた。

「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」と私は歌った。

「お姉さん、手が冷たいの?」と彼は言って手を握って来た。

「うわっ」

「あ、ごめん」と彼は私の手を離した。「指が冷たかったからつい」

「いや、うん。大丈夫だけど」

 彼は心配そうに私の手を見つめ、そして、駅前の道路を見た。

「……雨止みそうにないね」

 確かに、彼が言うように雨は激しく、地面を打っていた。それは流れとなり、排水溝へと落ちている。道路の陥没はいつの間にか水たまりになっていた。誰が私を迎えにきてくれるのだろうか。誰もこない。父親は仕事。母は……天国? 私はここにいて、私は家に帰る。家に帰って、おばさんとお店の番を交代する。

 あ。お店の番。おばさんが待っている。忘れていた。……今日の私は本当にどうしたんだろうか。

「お姉さん」と彼は言った。「傘」

「うん……」と私は曖昧に返事をした。帰りたいし、帰らなければならないけど、彼から傘を奪うのは嫌だった。

 沈黙が少し続いた。

「恥ずかしいけど、一緒に帰る?」と男の子の声がした。

 数秒間、私は止まった。止まらない雨の音と、建物から垂れる滴の音はなんとなく聞こえてきていた。そして、知らぬ間に、何にも染まっていない、純朴なものが私の心に入ってきた。

「やっぱあげるよ、傘」と彼は反応がないのを心配したのか、私の手に傘を当てた。

 優しい子だ。

「私は恥ずかしくないけど、大丈夫?」

「まぁ、ぎりぎり大丈夫。お姉さんだし」

「私が同級生だったら?」

「傘を無理やり渡して、逃げる」

「変な子」

「たまに言われる」と彼は言って、傘を開いた。「どこが変なのか理解しているけど、なんでそれが変なのかは分からないんだよ」

「私は好きだな。その変なところ」

 私は彼の傘を受け取って、彼と二人でその下に入った。雨の中へ、私たちは進んだ。

「俺は嫌いになるかもしれない。皆に変な奴って言われるんだよ」

「自分を嫌いになっちゃだめ。皆があなたを嫌いになっても、自分を愛さないとだめ。二人分でも、三人分でも、自分を愛さないと」と私は、母が言っていたことを思い出しながら言った。

「別に嫌われてはいないよ」と彼は言って笑った。

「あ、ごめん」

「いいよ。……そういえば、お姉さん、名前は?」

「あれ? どうしたの? もしかしてナンパ?」と私は彼をからかった。

「そうだよ。一目惚れなんだ」と彼は言った。

「そうかー。お姉さん、美人だからね」と私は驚きを隠しながら言った。

「お父さんがお母さんに初めて言った言葉だよ。でも、お姉さんは自分を好きなんだよね。ナルシストってやつなの?」

 なんて子だろう。口が達者と言えばいいんだろうか。

「まぁね。綺麗でしょ?」

「まぁね」

 雨の中を歩き始めて十分。雨が少し弱まってきた。タイミングが悪いというべきなのだが、私はそれを嘆きはしなかった。今日は、そういう日だし、雨の中を歩きだした時から、なんだか嬉しい気分になっていた。

「あそこが私のうちなんだけど」とお店の名前が大きく書かれた看板を指差して言った。

「そうなんだ」

「あと、私の名前、『葵』っていうんだけど」

「……そうなんだ」

「あなたの名前は?」

「……秘密」

「なんで? せっかく教えたのに」

「恥ずかしいから」

「えー。いいじゃん。教えてよ」

「次来たら教える」と彼は言った。

「次?」

「うん。お店」

「ああ、うん。ぜひ来て。お姉ちゃん土日暇だから、お店にいるよ」

「うん。今度来るよ」

 家に着くと、私は彼にお礼を言って別れた。彼は道を曲がる時に、手を振った。私は手を振り返した。

「あ、お帰り」と私がお店に入ると叔母さんが言った。

「ただいま。ごめん。傘忘れて、なかなか帰れなかった」

「ううん。いいけど……。どうやって帰ってきたの?」

「傘借りた」

「傘?」と言いおばさんはお茶を飲んだ。「で、その傘はどこ?」

「ああ、ついでに送ってもらったから」

「えー、誰に? もしかして彼氏?」

「ううん。ナンパされた」と私は言って、叔母さんの反応を見た。

「ナンパ! おや、まぁ」と叔母は案の定驚いていた。「で、どんな男だった?」

「うーん」と私は悩みながら、あの男の子を思い浮かべた。何と言えばいいのだろうか。簡単に説明できる、適切な言葉が思い浮かばなかった。強いて言うなら、なんと言えるだろう。そして、私は、彼の言葉を思い出した。「恥ずかしいけど、一緒に帰る?」という、思わず抱きしめたくなるあの言葉を。

「強いて言うなら……、童謡のような子かな。優しくて、純朴で、春のピクニックのような、夏休みの思い出のような、落ち葉を集めてつくった焼き芋のような、冬のこたつのような」

「……変な男だねぇ」と叔母さんは言った。

「うん。変だけど、素敵な子だった」

 変な子だけど、素敵な子だった。私は心でその言葉を繰り返してみた。

 雨。空から落ちてくる雨は、まだまだ地面で跳ね、溶け込んでいくだろう。

 私は思わず笑いそうになった。おかしいんじゃなくて、楽しかった。あの子が来たら、お菓子をたくさんやろう。私はそう決めて、着替えるために、一度部屋へと戻った。


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