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ペットボトルボウリング 6

 道路があっという間に、より青黒くなっていった。携帯電話を見ると、時刻は四時半を少し過ぎたところだった。午後六時には閉める、この田舎にしかないコンビニとも言える、日用品や駄菓子を売っているこのお店で、私は今日も店番をしている。

 昨日に続いての夕立。太陽は隠れておらず、地面や建物は光っている。雨に濡れて、それはさらに光る。

「綺麗だな」と私は口に出した。私しかいない、お店の中のどこかへ、その声は吸いこまれていった。

私は雨が好きだ。理由は二つ。一つは子供の頃、母と店番をしていた記憶が蘇るから。もう一つは、優しい人がやってくるから。

 そう思っているところに、さっそく理由の一つがやってきた。彼は、雨に濡れながら茶色のフレームが特徴的な自転車を店先にとめた。なぜか前かごにはビニールに入ったペットボトルがある。

短くしていた髪は、だいぶ伸びてきていた。そろそろ切り時かもしれない。白い味気のないTシャツは、お洒落とは言い難いが、素朴な感じがして私は好きだ。田舎のここには似合っていると思う。

 扉が開いて、彼が中に入ってくる。

「雨が降ってきたよ。夕立かな?」と彼は言った。

「たぶんね」と私は言って、タオルを取りに、奥に繋がっている家の方へと戻った。別にいいよ、と聞こえたような気がしたが、私はそれを無視した。

 戻ってくると、彼はレジの前で、ビニール袋を持って立っていた。

「はい」とタオルを渡した。

「ありがとう」と彼は言って、床にペットボトルを置いて、髪を拭き始めた。

「拭いてあげようか?」

「いいよ」

「遠慮しなくてもいいのに」

「自分で出来ることは、自分でやるよ」

「……ところで、そのペットボトルは何?」

「これ? これは、弟に頼まれたやつ」

「なんで?」

「夏休みの工作に使うって言ってた。何を作るのかは分からないけど」と彼は言って、レジ台にタオルを置いた。「タオルありがとう」

「どういたしまして。とりあえず、こっちきなよ」と私は彼をレジの内側に招いた。

「ちょっと待って。なんか飲み物貰う」

 彼は飲料水が入っているショーケースの前に行くと、微炭酸の飲料水を手に取って戻って来た。

「はい」とペットボトルを台に置いた。

「あげる」

「いや、いいよ。買うよ」と財布を出して言った。

「あげる」

「買う」

「あげる」

「どうして?」と彼は言って、出していた財布をポケットにもどした。

「そうしたい気分だから」

「変な気分だ」

「でも、嫌な気分ではないでしょ?」

「まぁ、そうだね」

 そう言うと、彼は内側に周って来て、私の隣にあった椅子へと座った。

「随分と身長伸びたね」と私は、タオルで彼の髪を軽く拭きながら言った。

「そう? 分かんないや」と言いながら、彼は私に髪を拭かせてくれた。雨が少しずつタオルに吸いこまれていく。タオルはしっとりと、さわり心地のいい感触になっていた。

「今、何センチ?」

「うーん……。たぶん百七五センチと少し」

「もう追い越されちゃったな」

「そうだね。でも、追い越すのに三年もかかった」

「三年しかかかってないよ」

「母親は一年で追い越したよ。葵さんは背が高いから、一苦労だよ」

「苦労なんてしてないのにね」と私は言って、Tシャツを拭き始めた。

「成長痛はけっこう辛いんだよ」

「もう忘れちゃったな」

「俺も忘れたいよ」

 あらかた拭き終わると、私はタオルを台に置いた。彼は私から貰った飲料水を飲み始めた。大きくなったな、と私は本当に思った。身長もそうだが、体つきも変わった。声も変わった。あの頃の彼と同じ人物だとは誰が思うだろうか。だが、変わらないものもある。そこは私が一番好きなところだ。でも、それが誰にも分かるものなのかどうか分からない。気付かない人もいるだろう。そういう人は、彼がどんな人なのか分からないだろう。はっきり言って私は、彼を全面的に信用している。もう疑うことができない。それは、盲目とも言えるのかもしれないが、他人がそう言ったとしても私は気にしない。目を瞑っても、私には見えるものがある。

 彼は台に突っ伏して、外を見始めた。彼の後頭部には、もう雨粒の一つもない。

 外はまだ雨だった。そろそろ止んでもいい頃だが、強くなったり弱くなったりしている雨模様の先は見えない。でも、不安はない。

 こういう時、いつも思い出すのは三年前だ。母親が亡くなって、一か月経ったあとの、七月上旬。高校からの帰り、私が駅で雨が止むのを待っていた日のこと。

 私は隣に座っている彼の手を取り、しげしげと見た。彼はそれに何も言わず、黙って外を見ていた。

 彼の右手にある指は、男の子の指。決して、美しいとは言えない。すらりと伸びてはいないし、太い骨が厚い皮膚に覆われている。私が小人になったら、もしかしたらそれは山か、岩かに見えるかもしれない。でも、そこには安心感がある。親指の付け根にある金星丘はぼってりとした肉をつけている。そこから緩やかに、反対側に下り、月丘で少し、盛りかえす。モンゴルには行ったことがないが、もしかしたらそこにある景色に似ているのかもしれない。私は、そこを親指で撫でた。それに連れられて、皮が少し動く。細波がそこに立つ。

 私は、女性の手というのが少し苦手だ。美しいが、どこか狡猾さがあるような気がして、信用できない。ただ、母の手は好きだ。あれだけは特別だ。

 母の愛しみを持った手の温度が、目頭に蘇ってきた。

 彼は崩していた体を持ち上げ、外を見るのをやめた。かわりに私の手を見て、触り始めた。

「くすぐったい」と私が言うと、彼は少し強くさわり始めた。

 彼は私の小指をぐりぐりと動かし、指紋を確かめるように親指でなぞった。次に薬指、そして中指というように、それは移動した。だが、その動作は確認をするためではなかった。それは猫を撫でるようなものだった。私は、それを何度も経験していた。そして、私はそれが好きだった。気を許した動物のように、私は手の腹を彼に預け続けた。

 雨の道路を、一台でも車が通っただろうか。通ったとしたならば、私はそれに気がつかなかった。

 彼は、私の手を撫でるのをやめて、手の甲を支えた。いつの間にか私の手は温かくなっていた。そこで、私は初めて、私の手が冷たかったのかもしれないということに気がついた。

「そういえばさ。先輩が、好きな人が知らない男と手を繋いでいるのを見たって言ってたんだけど」と彼は私の目を見て言った。

「うん」と私は反応して、彼の目を見返した。

「そういうのって辛いだろうね」

「そうだね。天と地がひっくりかえるかもね」

 雨はほとんど止んでいた。夏の太陽の力で、雨は空へと戻っていくだろう。

 私は、彼が誰か、他の女の子と手を繋いでいるシーンを想像してみた。私を支えているこの手が、他の誰かを抱きしめていた。私は、その手を奪い返そうとする。だが、思いとどまる。年下の男を奪おうとする無様な私。やはり、嫉妬らしきものがそこにはあった。彼の温かさが他の誰かのものになるのが嫌だった。だが、私はそれ以上に彼の幸せを望んだ。私は黙って、それを見続け、後ろを向いて歩いていくに決まっている。そうあってほしい。

 私の手にまた力が込められた。いつの間には私は、彼の目から視線を外して、自分の手を見ていた。

「まぁ、なんだろう……」と彼は言って、空いている手で、私のもう一方の手を握った。「冷え性の人は葵さんしか知らないや」


 雨が完全に止んでしまうと、彼は自転車に乗って、家へと帰った。私は、彼の背中が見えなくなるまで、店先でその姿を追っていた。私は、彼を信頼している。彼は私が考えている優しさの象徴だ。私はいつまでも待てるし、彼はいつでも私の手を温めてくれるだろう。あの雨の日、彼に出会ったことを、私は全てのものに感謝する。


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