混濁
…
「それで、いつまでこうしている予定なのかな」
数時間、二人の間と、その周囲に変化はなかった。
男は黙したままで起立していた。女は、その背中を眺めていた。
ただ、それだけだった。それだけであり、まるで変化を生じさせない怠惰な時間の経過は、女を少しばかり苛立たせていた。このままでは、ストレスで頭がどうにかなってしまいそう。そんな事さえ考え始めていた。
いい加減、この現状はどうにかしなくてはならない。そう考えて、女――如月詩織はパートナーである男性、小暮陣介に向けて、そんな鬱積を含んだ言葉を投げつけた。
陣介は無言だった。
詩織は、少し苛立ちを強めた。
雨は先程から少しずつ強まっている。
「いつまでこうしているのかな」もう一度言う。今度は少し語調を強めた。
陣介は溜息を吐いた。
腕時計を見る。
ここで意識を集中させ始めてから、随分と時間が経過していた。時計の長針が一周している事に気付いた。
「一時間も経ってたのか」他人事のように陣介は呟いた。「気付かなかった」
「ええ、経っていましたともさ。その間、ずっと黙ったまんま。こっちの身にもなってよね」
「悪い」
「いつまでなの?」
「……なにがだ」
「ちょっと、まさか聞いてもいなかったの?」
「聞いてなかったって言うか、聞こえてなかったと言うか。ともかく、すまん」
「だから、いつまでこうしているのかって聞いたの」
「ああ」
「で、いつまで?」
「見つけるまで」
「はあ?」
「答えにならないか?」
「いや……うん、まあ」
詩織は、あからさまな態度で呆れる。
溜息をつき、側に立つ陣介に対して言葉を続けた。
「エルの波動を辿るにしても、あの子が力を展開させない限り、見つけ出せるとは思えないけど」
その言葉を聞き、陣介は居心地悪そうに首を掻いた。
「そういうものでしょう」詩織は追い打ちでもかけるように言う「電波だって、発射されていないと感知できない。発射されていないのは、無いのと一緒よ」
「じゃあ、他に探す手だてがあるのかよ」
「だから、それを考えるべきじゃないかって言ったんじゃない」
「いつ」
「今」
「言ってない――」少し考える。陣介には詩織の声を聞いていなかった時間がある。ひょっとしたら、彼が気付いていない時にそんな事を言っていたのかもしれない。
「――言ったか?」
聞くと、詩織は頷く。
「そういう意味も込めて、いつまでこうしてるのかって聞いたつもりだったんだけど」
「それ、言ってないだろう」
「汲み取ってよ。言葉の裏側くらい」
「無茶言うな」
そう言った後に、陣介は頭を抱える。
二人がカテドラル上層部からの命令で捜索している、佐伯エル。その彼女のものであると思われる波動を関知したという報告を受けたのは、昨晩だ。場所は、閉鎖区域に近い位置。乃木坂の近隣。
その足取りを追ってここへ来たものの、確かにそこで何かが起きた形跡こそあれ、エルの姿はどこにもなかった。
残されていたのは、何かに焼かれて黒く焦げたコンクリート材の破片や、瓦礫。
そして、何者かの微量の血液。
これは、現場に着いてすぐに採取し、カテドラルの鑑識に回した。エルの血液かもしれないが、そうでなければ、捜索の手がかりにもなる。鑑識の結果は午前中に出るだろうという事だった。
「これ、なにが起きたんだろう」詩織は辺りを見渡しながら呟くように訊ねた。
「さあ」
「まるで、雷でも落ちたみたい」
詩織は、自分の周りを眺めてみる。
雷、と言ったが、そうだとするには範囲が局地的すぎる。黒く焼かれているのは、二人が立つ路地裏の一角だけだ。自然に発生した落雷だとするには、状況はおかしい。
「力の暴走……大暴走って言った方がいいのかな、これだと」
そうだろうと、陣介は頷く。
「コントロールが出来なくなり、力が周囲にまで流出した」
陣介は意識の集中を続ける。
詩織は乱暴な動作で陣介の肩を掴んだ。
強引に肩を引き、自分に向かせる。そして、憤慨の表情で陣介を睨んだ。
「私達の力の定義を忘れたの?」
「なんだよ、急に」
虚を衝かれた陣介は、狼狽した。力の展開も思わず止まる。
何故彼女が憤慨しているのか見当のつかない彼は、数回まばたきをした。
その様が、今の詩織にとっては余計に腹立たしかったのだろう。目に見て分かる程に顔に血を昇らせ、赤くさせた。
呆けたままの陣介に詰め寄る。
「エルが外界干渉を出来ると思って言ってるの?」
「それは、まあ……なんだ」
「外界干渉は、隊長くらいしか起こせない。新人で、力を第二解放にまで上げた時点で暴走したエルに、そんな芸当が出きるとは思えない」
言っている事は、極めて正論だ。
黒焦げになったこの路地裏で起きた現象とは、詩織が言ったように外界干渉であろう事は間違いない。本来自身の身体にまでしか影響を及ぼさない力の展開。それが、範囲を広げて体外に放出されて起こる現象。
それには、かなりの練磨を要する。エルに出来るとは思えない。たとえ暴走していたとしても。
だが、目の前の光景はそれがここで起きていたと考えなければ説明が出来ないのだ。
「ちくしょう」呻くように陣介は吐き捨てた「謎ばかりだ。判らない事しか、無い」
「どうやって閉鎖区域から出たのかも、謎なんだもん。あの子、私達と閉鎖区域にいたのよ? それなのに、昨日の夜にここであの子の波動を感知。乃木坂で、だよ? 閉鎖区域の外。ありえないから」
混乱して、詩織は乱暴に頭を掻きむしった。
髪に纏わりついていた雨粒が飛ぶ。
思考の中に疑問の山が鬱蒼と積み重なる。
導き出す事の出来ない答えに、陣介も苛立ち始める。
「疑問だらけだ」言った後、言葉に少しの訂正を加える「疑問だけだ。こんなに気味の悪い状態、初めてだ」
目隠しで歩かされている気分だった。
そんな経験を終ぞ体験した事は無いのだが、きっと酷似している事だろうと、彼は考える。
「とにかく、今は佐伯を探す。で、見つけ出す」
「誰かに保護されたり、身柄を拘束されている可能性は?」
「カテドラルとしては、最悪な事態」
「可能性は、ゼロじゃないわよね。マイナスでもない」
「なんだよ、それ。何かの漫画で出てきたセリフか?」
「馬鹿言ってないの」
「お前が、らしくもなく頭良さそうな事を言うからだ」
「いいから。それも視野に入れて……」
「近隣の病院に搬送された人間の中に、佐伯らしき人間はいなかった」
そして陣介は、ゆっくりと息を吐き出した。深い溜息に似た息だった。
「探すの、やめるか」
「ええっ?」
そんな事を唐突に言われ、詩織は戸惑う。
「え。ちょ、なに言ってるのよ。頭、無事?」
「無事だよ。ついでに言えば、冗談でもない」
「でも、探すのをやめてどうするのよ」
「考える」
「考えるって、何を?」
「全部」
「全部?」
聞き返すと、陣介は全部と再び言い、頷く。
陣介は足下の黒焦げになった瓦礫や木片を払い除けると、そこに腰を下ろした。
力を長時間使っていたせいで目頭が熱をもっていた。指先で優しく揉みながら、彼は今自分達が対面している疑問を、一つ一つ口に出し始めた。
「先ずは、あいつがどうやって閉鎖区域を出たか」
詩織は腕組をして陣介の前で仁王立ちになる。
熟考の後に、彼女は仮説を語った。
「防壁が揺らいだ瞬間を見計らって……」
そこまでで、彼女は首を振った。そうではないと、自覚していた。そんな事は起こり得ないと。
「有り得ないか」詩織は呻いた。「防壁が不安定になったり揺らいだりってなったら、すぐに観測班が対応するもんね」
「それ以前の問題だ」
陣介は詩織の考察を更に訂正した。
路地裏から天を仰いでみる。
この位置からでも、閉鎖区域を包囲している防壁の頂点が見えている。
「防壁ってのは、そもそもそういう状況にならないもんだ。揺らがず、消えず、常に一定の状態を維持したまま、内側から外部への侵攻を阻止している」
「判ってるよ、言われなくたって」
詩織は些か、不貞腐れた。
防壁には常に、その内側、閉鎖区域を外界から切り取るような干渉が発生している。それによって、陣介も言ったように内側から外側へ向けられる侵攻、侵略の一切を阻止している。
その状態は、常にカテドラルによって管理されている。どんなに些細な変化であれ、異常が起きれば即座に対応をする体制が整っている。
しかし、この数日の間、防壁に異常を告げる状態は観測されなかった。防壁を無理矢理突破した、或いはそうしようとした存在はいなかったようだ。
だが、佐伯エルは現実にその防壁を越えて、閉鎖区域の外に出ている事が確認されている。
「それから考えてみようか」
陣介は、そう提案した。
「障壁の解除も無しに、どうやって出たのか」
詩織は、うーん、と顎に手を当てて考える。
「幾つかの要因が重なったとか」
「たとえば?」
「エルの力の暴走が原因で……空間の移動とか」
「暴走して、干渉現象に似た現象が発生。空間を捻じ曲げるか切り取るかして、空間から空間へ、って事か」
「そうそう。それで、閉鎖区域の中から外へ移動したとか」
「可能性の上で考えれば、まあゼロの可能性じゃない、よなあ」
だが、すぐに断言した。
「ないな」
有り得ないと、彼は言う。
実際には、その現象や原理については観測されているし、その仕組みの概要についても、解明されつつある。世界各国の研究機関が、今は量子単位ではあるが研究を進めている。
それに、彼らが使う用語にもある空間干渉という単語が示す現象も、それである。
向こう側の世界からこちら側へと通じる通り道を、空間を切り開いて作る。
どういう理由かは解明されていないが、その空間干渉は閉鎖区域の内部でしか起きないようだ。よって、防壁には空間への干渉を抑制する働きも備わっている。
「だったら、起きない。起きていたら、観測班が気付いてる。だが、そんな報告は聞いていない」
陣介は、目揉んでいた指を離した。視線は空中へと向けられる。
その表情には、諦めが滲んでいた。口元は、自嘲のような苦笑が浮かんでいる。
「結果、この疑問に対しては答えが出そうもない。だから、これ以上考えるのをやめる」
「また?」
「仕方がないだろう。考えても判らないんだから」
「だからって……」
「次」陣介は詩織の言葉尻に被せる「次の疑問だ」
「次は、何」
「犠牲者はどこに消えたか」
詩織は考える。
立っているのが嫌になり、陣介の横に座る。
濡れた座面は、座ると冷たい。雨がスカートに染み込んでくる感覚が、とても不快だった。
彼女は顔をしかめる。
「犠牲者も、防壁を抜けた」
「それはない」
陣介はすぐに一蹴した。
だが、その表情は複雑だった。
「そう思いたいが、エルの事例を考えると慎重になるよな。断言して否定が出来ない」
無意識に、陣介は溜息をついていた。何かを考えるだけで疲弊するというのは、初めての事だった。
思考が綺麗にまとまらない。だが、自分の中で言葉を繰り返し、噛みしめる。そうして、意識の中でパズルでもするように、現状の全体像を組み上げてみる。
「ここからは、俺の仮説だ」
彼はそう前置きした。
うん、と詩織は頷いた。
「あくまで仮定。推測だ。たとえば、の話で……」
何度も、確定での話ではない事を強調した上で、陣介は詩織を見た。
「12月21日の空間干渉を引き起こした何者かが、実在していたら」
その言葉に詩織は震えた。
目の前に座る彼女の表情が強張っていると気付き、陣介は、もう一度説明する。
「あくまで仮定だ」
「う、うん」
「妄想と括っても構わない。とにかく、もしもの話。いいな」
「うん。いいから続けて」
僅かに間が挟まれた。
「そいつは、防壁に干渉を引き起こす事が出来る。なにせ、実際に空間干渉でこっちの世界に侵攻してきているんだからな」
「防壁の異常が観測されていない事は、さっき言ったじゃない」
「いいから、最後まで説明をさせろ」
陣介の言葉は続く。
「巷では、連続猟奇殺人事件が専らの話題だ」
「ニュースでよくやっているやつよね」
詩織は、そのニュースの内容を思い出す。
「血ばっかりが残されているってやつ。殺人事件かどうかも判らないんじゃなかった?」
陣介は、その通りと言った。
それが事実として殺人事件であるとするのであれば、被害者の数は五名。
「最初にその事件が起きたのは、今年の初めだ。確か、三が日くらいじゃなかったか」
「そこまで覚えて――」言葉を途中で飲み込み、内容を変えた。「――陣介、ひょっとして一緒の事件だと思ってる?」
「妄想だとは、最初に言っただろう」
「だからって、そこまでくると行き過ぎている感じ。十二月二十一日に空間干渉を起こしてこちらに侵攻してきた何かが、篠竹隊長を殺害して、防壁の外に? それで、民間人を捕らえて、食べている?」
陣介は無言で頷いた。
その眼差しから、彼が冗談で言っているのではない事は明らかだ。詩織はそれに気付く。
「いいわ。陣介の推理の続きを教えて。聞いてあげるから」
陣介は、少しの間沈黙していた。
どこか、言葉を探しているように見えた。
「俺は――」沈黙の後に彼が紡いだ声は、どことなく重たかった。
「――その何かってのが、侵略者だったんじゃないかって考えている」
詩織を一瞥した。彼女は相変わらず強張った顔をしている。
侵略者。
その言葉のせいで、より強張ったようにも見える。
彼女は陣介の視線に気付いた。
「いいから、続けて」彼女は言った。「もう、何を言われてもびくつかないよ」
「……お前も言っていただろう。俺達が探していた犠牲者。あの程度のやつが空間干渉を起こしてこちらへ来られる筈がない。それと、最近観測された空間干渉は、12月21日の一回だけだって事も」
「それは、うん、確かに言ったけど」
「それじゃあ、そう仮定しよう。10年前に唯一確認された侵略者が、再びこちらの世界にやって来た。そして、その対処に向かったのが、篠竹謙重隊長と、その補佐官の秋野みづき」
「侵略者は、隊長を殺害した」
「俺達が追っている犠牲者と巷で話題の事件を起こしている奴は、その侵略者が放つ波動に侵された何かの生物なんじゃないのか?」
波動とは、カテドラルの人間だけに備わる異能が放出するものではない。それは、カテドラルの人間であれば誰もが養成機関の時代に学ばされて知っている事だった。
そして、犠牲者と呼ばれる異形の存在は二種類存在していて、二人が先程からあちら側と言っている世界からこちらの世界へ顕現した存在と、あちら側の世界の住人が放つ、こちらの世界では存在しえない波動にあてられて変異をしたこちらの世界の生物を指す存在があると言う事も、そうである。
10年前以降、確認された犠牲者は後者が多かった。よって、その名を与えられた。
犠牲者、と。
「侵略者は、今も閉鎖区域の中に存在している。そして、波動は今こうしている間にも放たれ続けていて、閉鎖区域近隣の生物に何かしらの影響を及ぼしている。そうして犠牲者は誕生した。犬でも猫でも、なんならネズミだって犠牲者になる可能性はある」
「その犠牲者が、街で人間を食べてる?」
聞くと、彼は首肯した。
「でも、どうしてそんな事を?」
雨に濡れ、額に張り付く前髪を詩織は払う。
「犠牲者は閉鎖区域の中でも外でも、散歩する事くらいしか出来ないでしょう? 空間干渉なんて無理。侵略者は、犠牲者を量産して何がしたいのかしら」
「進化したなら?」
「進化? 侵略者に?」
「いや、そうはならないだろうが、前に上層部が言っていただろう。犠牲者は捕食を繰り返す事で成長をする。歯止めなく捕食を繰り返した犠牲者は、脅威だとか、何とか」
「ああ、うん。なんとなく覚えてる」
「侵略者は、それが狙いなんじゃないか?」
「進化した犠牲者が防壁を突破できる?」
「出来なくても、それなりの役割なら与えられるだろう。……ほら、穴ってものは両方から掘った方が開通が早まるもんで……」
陣介は手振りで穴を掘る様子を真似た。
「防壁も、両側から力を使えば同じ様なもんだろう」
「侵略者は、それが狙いで……」
詩織ははっとして息を止めた。頭を振り、会話を一番始めにまで巻き戻す。
「でも、これは仮定の話。第一、エルが防壁を抜けた説明とは繋がらない」
「ああ、繋がらない。」陣介は雨を落とす空に視線を向ける「これだけだと、繋がらない」
そして立ち上がり、数歩、歩いた。
遠い昔の記憶を掘り起こすように、彼は目を細める。
雨が、その勢いを増した。肩を叩く雨粒が大きくなり始めた事を、衣服を通して感じた。
彼は空を見上げて呟く。
「あの時、閉鎖区域に居たのが、俺達三人と犠牲者だけじゃなかったら、どうなる」
「どうって……」
「もし侵略者もあの場所に居て、犠牲者を逃がす為に何かをしていたら」
詩織に、陣介の言葉以外の物音が小さくなっていく気がした。重力に従い地に跡を残す雨粒が響かせる清音も、湿度を纏った風が耳をくすぐる音さえも、今は遠くで響く幻聴のように詩織の鼓膜からは遠ざかっていくようであった。
「私達を見ていた? その……侵略者が私達を」
「犠牲者を、が正しいんだろうけど」
そして、仮説は続く。
「侵略者は空間干渉を起こして、あの犠牲者と、犠牲者と同調していたエルを閉鎖区域の外へ移動させた。これは、同調をしていたエルを犠牲者と同一存在だと誤認していたら、おかしな話じゃない」
「侵略者にとって犠牲者は、防壁を突破する為の貴重な手駒、か」
「だが、俺達はエルの暴走と、そのエルの波動を目の前にして、空間干渉に一切気付く事が出来なかった。これは、カテドラルも同じだが」
「そして、犠牲者、エル、侵略者。その凡てがどこかへ変えた……」
「だとしたら、本当に探さなきゃならないのは、佐伯の他に閉鎖区域の中と外に一匹ずついる犠牲者と、侵略者か」
「でも、そんな話を私達は――」聞いていない。
言い掛けた言葉を詩織は呑み込んだ。
聞いていないのではなく、聞かされていないのではないのだろうかと思った。
そう考えると、背筋が凍ったように震えた。
「嫌な話だ」
陣介は舌打ちをして悪態をつく。
自分の立てた仮説に、苛立ちを感じているようにも見える。
「全部が仮定だっていうのに、これなら辻褄が合う。侵略者が本当にいるんなら、な」
そして、陣介は一つの解答に辿り着く。
「カテドラルは、なんか色々と隠してるな」
…
「大丈夫?」
自分の身を案じられて、瑞希は慌てた。
地下鉄の車内で、隣に座るエルの方に視線を向けた。彼女は、相変わらず人形のように透明感があり、同時に無感情でもある瞳で瑞希を見つめていた。
地下鉄の車両に人の数は少ない。だが、どこからか紛れ込んできた雨の臭いが鼻を突き、その湿った臭いが息苦しさを感じさせている。空気だけなら、満員電車のように感じた。
彼女はいつから自分を見ていたのだろうかと、瑞希は考える。幾つか前の駅からだろうか。それとも、 この地下鉄に乗り換えてからずっと、だろうか。
そう考える程、その視線が他の方向へと動く気配はない。
瑞希は、この地下鉄に乗ってからはずっと前だけを見ていた。特に何かを思案しているというわけではないのだが、ただぼうっと、何の景色も映し出ない窓と、その向こうに唯一見える暗闇を見つめていた。
すぐ真横に座るエルの様子には、まるで気付いていなかった。
「ええと……」彼はエルの眼差しに戸惑いながら聞く「大丈夫って、何が?」
「具合が悪そうよ。電車に乗ってから」
そこまで言った後、エルは僅かな間を挟んで言葉を訂正した。
彼女は小さく首を振る。
「私が行先を言ってから、ずっとそんな顔をしているわ。それに、何も話さなくなった。それで、そんな風に思って」
「ずっと?」
エルは首肯した。
「私のせいでそんな表情をしているのなら、さすがに申し訳なく思うわ」
瑞希は、自分の意志で同行を決意した手前、無意識とは言えそんな表情をしていた事を罪悪視し、悔恨した。
――助けた相手に心配されてちゃ、ざまあない。
頭に浮かぶのは、そんな自嘲だけだった。
これ以上エルに余計な心配をかけたくない瑞希は、無理に笑顔を浮かべ、大丈夫と告げる。
だが、それは職業柄だろう。笑顔は日頃からレストランでゲストに対して向けられるそれと変わりのない、今の状況に於いては違和感を感じさせる業務的な笑顔であった。
それがエルの抱いている不安感と罪悪感を強めた。
彼女は向けられた笑顔から顔を逸らし、自分の前方向を眺めた。
「この電車まででいいわ」囁くように言う「あなたは、このまま帰って」
「いや、でも……」
「覚えていないけれど、私のせいで怪我もしているのでしょう? 腕と、肩。」
「怪我って言ったって、擦りむいたくらいだ」
「それでも血は流れた」
「それは――」
「無理に着いて来る必要は無いわ。あなたはこのまま帰って。それが、あなたの為でもあると思う」
瑞希は何かを話そうとする。
だが、言葉が思い付かない。
結局、開いた口はそのまま閉ざされる事になった。
彼は口惜しそうに、再び前を向いた。
人の少ない車両。前を向くと見えるのは窓だけだ。地下を走っている今、それは鏡のように自分達の姿を映している。
瑞希は、窓に映るエルを見つめた。
――どうすれば良い。
彼は自問する。恐らくエルの言う通りに、このまま別れて自分は自宅へ帰る事こそが、自分にとって、そしてエルにとっても不要な心配など抱かずに済む最良の行為であろうと、容易に結論付ける事が出来た。
だが、それが出来ない。
彼は、それが理解が出来なかった。
同行を申し出た事自体そうなのだが、いつでもエルと別れ、自分はそれまでと何ら変わりない日常に戻る事が出来たというのに、その好機を自らの意志で凡て無視していた。
今日は、彼にとってみれば、貴重な公休日だ。考えれば、やりたい事は沢山ある。
家の掃除をする予定だったのにしていない。洗濯物も、一週間分が放置されたままだ。
折角の休みだから、今日の昼は最近オープンしたばかりのレストランでランチ、という計画さえ思い描いていた。もし行けたのなら、食べる料理も決めていた。料理の専門誌に取り上げられていたそのレストランの売りは、内臓料理だという。ならば、そのお勧め料理を食べようと楽しみにしていた。
それがどうだ。今向かっているのは、流行を発信する渋谷や原宿でも、落ち着いた内装にゆったりとした音楽が流れるレストランでもない。
人間の住んでいない、日常から隔離された荒廃の場所。
閉鎖区域。
彼の日常に於いて、その場所は過去の惨劇の象徴でしかなく、足を向け赴くような場所ではない。
そんな場所へ行く予定など無い。いや、行こうという予定を立てる筈もない場所だ。
エルも言っている。帰って良いと。ひょっとすると、帰れという命令なのかもしれない。一緒にいると邪魔だから帰れという命令。
それに従えない自分に、瑞希は困惑している。
――どうして、この子を放っておけないんだ?
自問すれども、答えは得られない。
彼は息を吐き、身体を後ろに反らす。
「もう、歩ける?」
自分の後ろの窓に後頭部をあてながら瑞希は問うた。
その言葉はエルが投げ掛けた問い掛けに対しての返答ではなかったので、彼女は首を傾いだ。
「どうして?」
「気になったんだ。歩けるかどうか」
「……そうね」
エルは僅かに思案してから、答えた。
「正直に今の状況を話したら、あなたはこの後も私と一緒にいようとする」
そう告げる事には、躊躇いがあった。
だが、嘘をついたところで彼女の身体の様子を見てきた瑞希には、たとえどれだけ平静を装ってみても、無理に歩こうとする様は感付かれてしまう。現に、彼でなくても何かの補助無く歩けと言われれば、それが可能な距離は数メートルが限界だ。
エルは言葉の後で瑞希に頭を下げる。
「ごめんなさい。嘘でも歩けると言うべきなのよね」
「いや、構わないよ」
その後、瑞希は声を落とした。囁くようにして、質問をする。
「もう一つ聞いていいかな」
「答えられるか、分からないけど」
互いに、自らの正面にあるそれぞれの姿をぼんやりと映す窓ガラスに視線を定めたまま、どこか違和感のある対面での会話を始めた。
「体が動かないのは、昨日のあれのせい?」
「――多分」
「自分で判らないの?」
「他にも要因があって、どれが原因なのかが判らないのよ」
「他にも、って……」
「言えない」言葉を遮って言う。
「……いつになったら治る?」
彼は質問を変えた。
「判らない」
「一生そのまま、とかはないよな」
「それも判らないわ。そうかもしれないし、そうではないかもしれない」
「本当に歩けないだけ?」
「ええ。医者ではないから詳しくは判らないけれど、三半規管が麻痺しているか、機能を停止しているのだと思う」
「そう」
「私も聞きたい事が」
「何?」
「あなたは、普段からそうなの?」
「そう、って何が」
「普段から――」
言いかけて、エルは言葉を見失ってしまう。
どう言葉にしていいのかが判らず、沈黙した。
「――どう言葉にしていいのか判らないけれど」そう前置きをしてから、彼女は言った。「あなたの選択は、どこか歪だわ」
「歪?」
エルは、ええと頷く。
「普通は、私より自分の心配をするものでしょう。私の身分も、組織の事も知っている。行く先だって知っている。それなのに、あなたはまだ同行をしているわ。今でも迷っているのに、帰るべきか悩んでいるのに、それでもまだ一緒に。貴方の行動は歪よ」
「歪……歪か。そう見えるんだ、俺」
「だって、そうじゃない。状況を考えれば、関わらないように危機回避するのが普通。それなのに、あなたは――」
「途中まで一緒に行くって言い出した」
エルが続けようとしていた言葉を、瑞希は先行して言った。
言おうとしていた言葉と多少ニュアンスは違ったが、そうだ、とエルは言う。
「普段から、あなたはそうなのかしら。それを聞きたいわ」
瑞希は力なく笑う。
「聞かれると困るな。何せ、こういう状況は初めてだから」
「もっと規模を小さくさせてもいいわ。たとえば、そうね。自分優先とか他人優先とか、そんな言葉でも」
「……あぁ。そういう話になったら、まあ仕事柄かな」
「仕事?」
「そう、仕事。自分で言うと格好悪いけど、俺、いわゆる高級なフレンチレストランで働いていてね。そういうところで働いていると、自分の都合なんて、あまり考えなくなるんだよ。大事なのは、来たお客さんの都合。自分の都合を考えていたら、接客なんて出来ない」
「だから、自分を二の次にして考えているの?」
「二の次にしてるって自覚はないよ。でも、そう見えているんなら、その理由はそんな所じゃないかな」
その言葉を聞いても、エルは釈然としない面持ちだった。
その様子は、正面の窓ガラス越しに瑞希も気が付いた。
「答えになってないかな」
「ううん、私が納得できていないだけ」
エルは首を振って否定した。
「あなた、変わってるのね」
否定の後に彼女が言った言葉は、そんな多少の毒気を感じさせる言葉だった。
もっとも、本人は嫌味や、そういった類の言葉として言ったつもりではないのだろうが。
「民間人との交流はあなたが初めてだから比較対照が無いけれど、きっと今回のあなたの行為は、その凡てが少数派の行為なんでしょうね。それなら、あなた自身が極めてマイノリティな人間である事も判る」
瑞希は苦笑した。
「なんか、誉められてるのか貶されてるのか判らない」
「でも、そのお陰で私は助かっている」
窓に映ったエルが、顔の向きを変えた。横に座っている、瑞希の方を向いた。
瑞希も、それに気付いて横を向いた。
目の前に、相変わらず表情の変化が少ない顔。そのままの顔で、彼女は告白でもするように言った。
「そういう行為を私は好きよ。とても嬉しいもの」
ドキリ とした。
思いがけずして放たれた、飾りを一切含まない真っ直ぐすぎるエルの言葉は、瑞希の心を激しく揺さぶり、頬を瞬時に紅潮させる。
誰かから好きと言われるなんて、随分と体験していなかった。ましてや、こんなにも真っ直ぐに見つめられながら言われるなんて事は、ひょっとすると初めてかもしれない。
「よ、よせよ」
明らかに狼狽していた。耐えきれずに、瑞希はエルから顔を背けた。
極力平静を装い、不明瞭ながらも言葉を続ける。
「そういう言葉をそういう風に言うのって、なんか違わないか」
その言葉の意味も反応の意味も、エルには判らなかったのだろう。怪訝そうな顔をして、瑞希の言葉と反応の両方に戸惑った。
「どうして? 感謝の言葉は礼儀でしょう」
「そ、それはそうだけど、言葉が違うだろう」
エルの疑問は更に膨らんだ。
「あなたの言いたい事が判らない」
「ああ、だからさ」瑞希はじれったそうに言った。
「そういう言葉は、もっとシンプルに言うもんだろ。真っ直ぐに見つめられて言われたら、相手が男なら慌てるもんだよ。場合によっては、落ちる」
そう説明をした瑞希の前で、エルは相も変わらずの表情で首を傾ぐ。
「落ちるって、どこに?」
本当に、その言葉の意味が判らなかった。
「いや、落下の方の意味じゃなくて……惚れちゃうって意味の方」
「そういう意味があるの?」
「え?」
「辞書では見た事がないわ」
「ええと、辞書に載ってるかは知らないけど……」
「俗語かしら」
「そ、そうかもしれない」
「そういう言葉の使い方は、初めて知ったわ。ごめんなさい」
「いや、そんな。別に謝らなくても」
ははは、とどこか疲れたように笑いながら、頭を抱えた。
だが、瑞希には意外だった。
エルが目を覚ましてすぐの時は乱闘のようになり、彼女に対して警戒心を抱いていた。それが今完全に無い訳ではない。今でも心の片隅で警戒をしている。だが、少し会話を交わす度に、警戒心が解れてゆくのだ。同時に、カテドラルという、それまでは都市伝説の一部でしかなかった集団へのイメージも変わってゆく。
目の前にいるこの少女は、カテドラルの構成員である。だが、今までのやり取りだけを見たなら、佐伯エルという少女は、世間知らずな女の子にしか見えない。
勝手にイメージしていたのは、冷徹な性格や人物像。それらが、彼女を前にしていると凡て訂正されていく。
――放っておけない。
彼女を見ていると、そんな義務感を感じてしまう。
彼女が今自由に動けない状況である事も、理由としては大きい。
瑞希は深呼吸をした。そして、決めた。
「話を戻すよ。一番最初に」
瑞希は改めてエルを見た。
彼女はまだ瑞希を見ていて、彼の言葉の続きを待っていた。
「一緒に行くよ」瑞希は、そう決めた。
「迷惑だとか邪魔だとかって思わないなら、目的地に着くまでか、君が帰れと言うまでは一緒に。怪我だって、ほら、見てみろ。もう血も止まってる。昔から怪我の治りは早いんだ。だから、これについては気にしなくていい」
「でも……」
「帰れと言われたらそうするから。君も言っただろう? 俺は少し歪な性格なんだ。だから、それでいいだろ?」
その時、車両の中に車掌の業務的な声が響いた。流れたのは、二人の降りるべき駅名だ。
エルは、瑞希を見つめたまま、うんと頷いた。
…
その日は、朝から暗雲が立ち込めているような気配を感じていた。
普段は、毎朝六時にセットされた時計のアラームよりも先に目が覚め、枕元にあるその時計の針が、六時までカウントダウンする様子を眺めながら、まだ眠りの静寂に片足が浸かった状態から意識をはっきりと覚ましていくのだが、今日は珍しく、アラームの音で目が覚めた。
彼にとって、それは寝坊と等しかった。
自分の眠りが、ほんの数分長かっただけ。だが彼、卯之花宗一郎の、凡てが緻密に一分一秒が定められた日常にとって、朝の一瞬とは言え、自分が思い描いているタイムテーブル通りに進行しないという事は、彼にとっては不運であり、ストレスである。
――きっと、何か良くない事が起こる。
そう考えた要因は他にもある。
歯を磨こうとして、歯磨き粉が切れている事を忘れていた。
仕方なく、そのまま歯を磨いた
その後、棚の奥から新しい歯磨き粉が見つかった。買った事さえ忘れていた。
そして、彼の不運を決定付ける出来事が、今目の前で起きている。
「よう」
彼に声を掛けてきた男を見て、卯之花は頭の中で警鐘が鳴っていると、確かに感じた。
場所は、カテドラル内部の談話室である。
毎朝、職務の前にここで一杯のコーヒーを飲む事も卯之花のタイムテーブルに組み込まれているのだが、大きな円形のテーブルに数名分のスペースを牛耳って腰掛け、アルコール飲料なんていう朝らしからぬ飲み物を飲んでいる男に会う事は、組み込まれてはいない。
男は卯之花を見て、くつくつと笑った。
男の髪は短く、整然と、と形容するのは不向きな乱雑さで整えられている。そのせいで、年の頃は卯之花と同じ位であろうと思われたが、悪戯好きな子供に見えた。
「なんだよ、暗い顔して」
「暗い顔ではなく、不幸な顔です」
卯之花は訂正する。
「爽やかな朝のこの瞬間に、爽やかではない飲み物を飲んでいる人間に出会った。それだけである種の不幸なのに、その人間が貴方だったから、こんな顔をしているんです」
言いながら、卯之花は部屋の片隅にある自動販売機にコインを入れる。購入するのはいつもと同じ、無糖のコーヒー。
栓を開け、男から一番離れた席に腰を下ろす。
男は卯之花の座席の選定に首を傾ぐ。
「席はこんなに空いてるんだ、隣に座れよ」
卯之花は首を横に振る。
「朝から酒臭い男の隣なんて、ごめんです」
缶コーヒーを啜る。その後、部屋の中に充満したアルコールの臭いを指摘して、目の前の男に対して苦言を言った。
「一体、何時から呑んでるんですか、伊庭隊長。ひどい臭いだ」
目の前の男、カテドラルで隊長を務めている伊庭京平は、さも当然の如く受け答えをした。
「そんな、何時からなんて言われる程長い時間飲んじゃいない」少し考える「……今日になってからだ」
「今日になってから、ね」
その言葉に数度頷き、卯之花も少しだけ考えた。
目の前に散乱した、すでに飲み干されて空になった瓶の数を見て、もう一度聞く。
「それは、日付が今日になった瞬間から、ですか」
「惜しい」伊庭京平は嬉しそうに言う「3時からだ」
卯之花が時間を当てられなかった事がそれ程に嬉しかったのか、彼は顔中に歓喜の色を浮かばせた。
卯之花は、呆れ果てて言葉を失った。
相手に聞こえるように、大きな溜息をついた。
「部下二人が任務に就いているというのに、隊長がこの体たらく」
「仕方ないだろ。俺達には出動命令が下されていない。命令が出ているのは、詩織と陣介の二人だけ。残りは普段通りの業務か、待機。文句があるなら枢機卿の爺さまへどうぞ」
伊庭は手をひらひらと振った。
「待機と酒盛りは、別です」
「小さい事を気にする隊長さまで……」
――小さな事じゃない。
言いたいところだったが、伊庭をどんな言葉を用いて諭そうとも、その効果は高が知れている。
卯之花は苦言をやめ、話題を変えた。
「心配にはならないですか」
「心配?」
「ええ。任務の正確な内容は、貴方もよく知っているかと」
「あぁ、そりゃあもちろん知っている。心配だ」
「心配していなさそうに言うんですね、貴方は」
卯之花の言葉が気に食わなかったのだろう。伊庭は、それまで気楽に構えていた表情を変えた。
手に持っていた瓶を、目の前のテーブルの上に乱暴に叩き付ける。短く切られた短髪を掻き毟った。
「じゃあ、どういう言葉を言えばいい」鋭く卯之花を睨む「悲哀を込めて、声を震わせて、一言でも俺が代わってやりたかったって言えば、それでお前は満足か」
突然の叱責に、卯之花は言葉を失った。そして、狼狽した。
「いや、その。……申し訳ありません。そこまで言われるとは思っていなかった」
昨晩も、今と同じように秋野みづきに対し軽率な発言から反感を買ったばかりだと思い出す。
ここ数日の自分の運勢には、口は災いの元と書かれているに違いない。
そんな事を考え己の愚行を悔いていると、京平は口調を戻した。
椅子に体を預け、テーブルに叩き付けた瓶を手に取って口に運ぶ。
「お前の言う事の方が道理だろう。謝るな」
その後、少しだけ彼は黙した。
そして、表情は笑ったままで、一言言い放つ。
「あいつら、多分気付くぞ」
その言葉は、場の空気を一変させ、緊迫させる。
卯之花は、自分の表情が険しくなった事を感じる。
「――気付く?」卯之花は、指先で眼鏡の位置を正す「何の話ですか」
誤魔化すなんていう行為に効果などない事は、試す必要もなく明確であったが、それ以外に言葉が浮かばなかった。
伊庭は呆れの息を深々と吐き出した。
「聞くかよ。それを」
「申し訳ない。上手い言葉が思い浮かばなかったんです。まだ頭が眠っているようです」
「らしくもないな。お前がそんななんて」
「貴方がどうにか出来ないのですか?」
「どうって、なにを」
「二人を、ですよ。貴方が懸念しているような事が起きそうであれば、どうにか言いくるめて……」
「言いくるめるって、お前」苦笑が思わず漏れる「そういうのが下手くそだって事は周知だと思ってたんだけどな、俺」
彼はテーブルの上に放置したままにしていた空き瓶を集め、立ち上がった。入り口の傍らにあるゴミ箱へ向かい、捨てる。
その位置で、話した。
「陣介と詩織に何か話しをしてたな」
卯之花は、その位置からでは背中しか見えない伊庭を見やる。
「何時ですか?」
「査問会の後」
「……あぁ」
思い出した。確かに査問会の後、質疑の中心にいた二人に、卯之花は声を掛けていた。
「別に、当たり障りのない会話をしただけです」
卯之花は、交わした会話の内容を話した。
それを聞いた伊庭は、言葉の終わりに忠告をした。
「二人を誤魔化せると思うな。特に、陣介。あいつは頭の切れる奴だ。お前の何気ない一言からでもヒントを得て、真実に接近するぞ」
「それは――12月21日の空間干渉に関して、ですか? それとも……」
卯之花は、視線で伊庭を射抜く気概で、その背を睨んだ。
視線は、研ぎ澄まされた刃のように音もなく伊庭に突き刺さった。その眼差しは、本能に対して恐怖に似た感情を生じさせ、直視していなくても気付けるほどに威圧的である。
伊庭は、卯之花がそういった反応を示す事を、ある程度予測していた。
彼は卯之花に身体を向ける。
対面してから、卯之花は言葉の続きを言い放った。
「――佐伯エルの事、ですか」
伊庭は、鼻を鳴らして嘲笑をした。
のそりと歩き、椅子にではなくテーブルの上に座った。
テーブルが軋んだ。
「両方」彼はテーブルの上で言う「その中でも、知られてマズいのはどっちだ」
「……佐伯エル」
「正解。あいつの存在は、まだ世間に公表していい状況じゃない。爺さまは、なんだってこんなタイミングであいつを使おうとしたんだ。今回の一件は、実験にしか見えない。実戦に実験を持ち込んだとしか」
「ですが、その実験は成功した」
「成功だって? どこがだ」
「暴走とは言え、その能力を私達に見せた」
伊庭は、じれったく反論する。
「馬鹿を言うな。ブレーキが効かない車を開発して、それを売り物にできるか? あれは大失敗だよ。時期が早すぎたんだ。消えちまったのも、そのせいなんじゃないのか」
「だから、二人に捜索をしてもらっている」
「二人にやらせているのが間違いだって言いたいんだよ、俺は」
伊庭はテーブルを殴る。
「そう言ってるじゃないか。エルの正体は、あいつらに知られちゃまずいだろう。だったら、俺達の誰かがやるべき仕事なんだ。なのに、お前は査問会でも二人にやらせようと言って……。何を考えてるのかが、さっぱり判らない」
「他の人間に回して、かえって詮索される可能性もあった」
「自然な流れで二人に任務を継続させたって言いたいのか」
「カテドラルが下す命令としては自然でしょう」
「だからって……」
「それなら!」そこで卯之花は、初めて語調を荒げた。「万が一が起きて、篠竹隊長に続いて他の隊長まで失う事態になっても良いと言うのですか、貴方は!」
予期せぬ激怒は、伊庭をたじろがせる。彼は卯之花の気迫に気圧され、言葉を失せさせた。
卯之花は取り乱したように叫ぶ。
「我々に退路は無いんです! 侵略者に対して背を見せる事は出来ない! 貴重な戦力を欠く事も出来ない! 待てと言って待ってもらえるのなら恩の字です! ですが、そうはならない! 危機はどこにあるんですか! 遠い位置ではないでしょう! 目の前です!」
彼は暴れるような身振りで続けた。
「佐伯エルは、ようやく完成した侵略者に対抗できる手段! 彼女は何があっても失う事が出来ない! それは、私や貴方も同じです! 隊長格をこれ以上は失えない! 数は限られているんです!」
「あの二人だって、その数に含まれてる!」
「二人は隊長ではない!」より強く言った。
そして、沈黙。
しばしの間、談話室の中には卯之花の荒い呼吸だけが響いた。
彼は、荒げた感情を鎮めるように息を吸った。
両手を握り合わせ、その指先の絡まりを眺めながら静かに言う。
それは、呟きに近い声だった。
「選べと言われたら、選ばざるを得ない。どちらも得策でないなら、少しでも良案である方を」
再びの沈黙。
二人は置物のようにそのままの姿勢で硬直した。
しばらくして、沈黙に耐えかねた伊庭は頭を乱暴に掻き乱した。
「くそ」呻くように言う「どうにもならないから、腹が立つ」
彼は窓を見た。外は暗い。
今日の天候は雨。夜と錯覚する空の色は濁った色の雲で埋め尽くされていて、窓には、先程から降り始めたまだ小さな雨粒が細い軌跡を描いている。
これだけ暗いのだ。雨は、降るならば街の輪郭を霞ませる程の瀑布となるだろう。
眺めた空に舌打ちをして、伊庭は怨言を吐くように言った。
「最初の一人が消えていなけりゃ、俺達もエルなんて存在も、必要なかったってのにな……」
…
10年前に閉鎖区域が誕生して以降、東京都内の地下を走る交通網は、その様相を過去と比べると大きく変化した。
過去には六本木という駅名を掲げていた土地は消失。同じく、その名称を駅名としていた、或いはその駅に繋がっていた地下鉄主要各線、各駅は凡てが封鎖され、それに伴い都内の地下交通網は、閉鎖区域を中心にして消滅。その後は、年月と共に封鎖されなかった沿線で需要が減少し、日毎に衰退するだけの空間だった。
その衰退を抑止する為、東京都は瑞希とエルが乗車した、新都心線という名称が与えられた新たな地下鉄を開通させ、機能を失い始めた地下交通網の活性化と閉鎖区域近隣地区の復興を目指そうと計画したの だが、実際に乗車をして、開通した割に需要が極めて低かったのだなと、瑞希は実感した。
現に、あの閑散とした車両の様子。二人が降車した後、再び動き出した車両の中に人の姿は見えなかった。
そして、二人の降りた閉鎖区域に最も近い土地にある駅のホームも、同様に人がいない。無人であると認識して問題もないようだ。まだ真新しい姿のプラットホームは、車両が行き過ぎた後には一切の物音が響かない。改札を抜ける時に、ようやく駅員の姿を見付けたが、その数は一人だった。
これでは、この場から既に閉鎖区域となっているみたいだ。瑞希はそんな風に考えた。ここは既に、閉鎖区域に組み込まれている空間なのではないだろうか。そんな錯覚を抱かせる。
瑞希は不気味な程の静けさを抱えた空間に震え、極力速足で地上を目指した。
長い階段を上がり、地上へ。外は相変わらずの暗雲と、雨だった。家を出た時よりも、雨足は強まっている。
人の姿は見えない。地上も駅と変わらなかった。
無人に等しい街が、目の前にあった。
「さて、どうしようか」横に立つエルに瑞希は聞く「閉鎖区域の近くなら、どこでも良いのかな。この近くだと、えっと……乃木坂とかだけど」
周囲に人がいない為、閉鎖区域という単語は容易に口から出た。エル自身、その言葉が出ても大して気に留めた様子はない。
人がいたなら、こうも気軽に目的地の名前を口に出せはしなかった。男女で雨の日に、わざわざそんな場所へ行くと知れたら、誰からも例外なく怪しまれただろう。
エルは、瑞希の半身に縋りつくように掴まって歩いている。
長い階段が酷だったのだろう。少し息が上がっていた。
「ちょっと待って」
瑞希の足を止めさせて、彼女は瞳を閉じる。
どうしたのだろうかと瑞希は訝り、自分の傍で瞳を閉じたエルから言葉の続きが放たれるのを待った。だが、彼女から次に発せられた言葉は、目的地の指示や足を制止させた理由ではなく、呻くような悲鳴だった。
「――っ!」
悶え、身体を折り崩れ落ちそうになる。
倒れるのは、瑞希が慌てて抱き支えてくれたので免れた。だが、呼吸は荒くなっていた。汗も噴き出るように背中を湿らせている。
頭の内側と眼球が痛んだ。特に、眼球。鷲掴みにされているような感覚は、とてもではないが我慢が出来るものではなかった。
「どうした」瑞希が顔色を青くしている「大丈夫か」
「だい、じょうぶ……」
瞳を堅く閉ざしたままのエルが、苦しげな声で答えた。
彼女は意識を深く集中させた。
どうやら、まだ力を問題なく使える程に回復をしていないようだ。エルは痛みから理解した。だが、今もあの犠牲者と同調が継続しているのなら、犠牲者との感覚も共有できる筈だ。
間隔の共有が継続しているならば、今朝のように犠牲者が見ている景色がエルにも見える筈である。それを踏まえ、目的地を定めようとしていたのだが、思いの外症状は重く彼女を蝕んでいた。僅かな力の展開も出来ないとは、予想していなかった。
エルの意識の集中は続く。
痛みを、歯を食いしばり耐える。
こみ上げる吐き気を、息を止めて堪えた。
そして、それらが表情に出ないよう、努めた。
――苦悶の顔を浮かべたら、きっと自分の横にいる人間は心配をして、不要な深入りをしてしまう。この 人間は、そういう人間だ。
考えるのは、そんな事だった。
そう考えた瞬間、世界が急速に遠退いていく感覚に襲われた。
周りの音が消えてゆく。
自分の感覚も消えてゆく。
痛みも嘔吐感も消えてゆく。
瞼を閉ざしているエルの目蓋の裏に、断片的な映像が焼き付く。
目の前に見えるべき風景とは異なる景色。
寂れた風景。
荒廃とは違う。
壊れてはいない。
まだ生きている街並み。
自分の顔。
彼方に、防壁。
防壁の頂上。
死体。
閉鎖区域。
空。
血だまり。
濡れ羽色の制服。
隅の方には、オレンジ色をした鋭利な鉄塔――。
そう認識した瞬間、彼女に凡てが帰還した。
痛み。嘔吐感。音。視界。
感覚が、犠牲者から自分へと戻った。
暫く振りに瞳を開いたエルの視界が捉えたのは、彼女の容体を気遣う瑞希の不安げな表情だった。
「どうしたんだ」彼は焦った声で聞いた。
自分を支えてくれている彼の手には、強い力が込められている。その手にエルは自分の手を重ね、大丈夫だと言った。
「何ともないわ」
そんな言葉で彼の不安が解消されない事くらいは理解していたが、今は嘔吐感や不規則に乱れた呼吸、そして、それに併せて忙しなく上下する肩を落ち着かせる事を優先したかった。無理に喋ると、それこそ本当に嘔吐をしてしまいそうだった。
彼女が呼吸を整えるのに、それほど時間はかからなかった。一分ほどで、呼吸は整った。
驚きが、彼女の正直な感想だった。
同調を開始して優に半日が経過しているというのに、未だにその繋がりがこんなにも鮮明なままで継続しているとは予想していなかった。少しずつ弱まり、徐々に同調によって共有している感覚は不鮮明になるだろうとの前提だったのだが、彼女が今見た風景は、実際に自分で見ている景色と同じくらいに鮮明だった。
何か――見えた光景には不可解なものもあった、気がするが。
だが、これで犠牲者の居場所の見当は付いた。
エルは、自分の両肩に添えられていた瑞希の手を離させる。
「落ち着いたわ、もう大丈夫」
そう言われ、瑞希は慎重に彼女の肩から手を離す。
エルは、最後に一度、大きな深呼吸をした。
「東京タワー」
そう告げる。
「え?」
「防壁の向こう側に東京タワーが見えるような場所はどこ?」
そうだ。犠牲者の視界の隅に見えたのは、紛れもなく東京タワーだった。それが、防壁の向こう側に見えていた。犠牲者は、その立地のどこかに潜伏している。
だが、そんな事を知らない瑞希は、何故その場所を唐突に提示したのかに戸惑いながらも、思考の中に閉鎖区域周辺の地図を思い浮かべた。
「そうだな。えっと……いろんな場所から見れると思うけど、ここから一番近いのは……麻布十番、かな。防壁が近いし、東京タワーも目の前。あとは、虎の門とか、赤坂」
「選択肢が多いわ」
「そうは言っても……」
「東京タワーが小さく見える位置だと?」
「小さく……それでもしっかり見える場所?」
「ええ」
「それだと、赤坂は違うかな。ビルの屋上からじゃなきゃ、今は防壁のせいであまり見えないし。公園とかも見える場所かな」
「公園?」
「芝公園だよ。東京タワーと言ったらさ」
「……見えない位置」
「なら、麻布十番の方」
「近い?」
「ここから?」
「ええ」
「近いって程じゃないけど、歩いて行けば数十分」
そこまでを口にして、今のエルの状態を思い出した。
「普通に歩けば、って話」と、付け加える「タクシー、使う?」
エルは頷く。
麻布十番が犠牲者の潜んでいる場所という確証があるわけではないが、発見出来る可能性は高いだろう。
彼女が考えていたのは、小暮陣介と如月詩織との合流だった。
二人への連絡手段はない。無線は今回の任務では与えられていなかった。新人という扱いだったので、仕方がない。
携帯電話などは持っていない。それ以前に、連絡をしようにも二人の連絡先など知らない。カテドラル自体、電話で連絡が取れるような組織ではない。
なので、彼女は二人ならば自分が消えた後にどう行動するだろうかと考えた。二人だけではなく、カテドラル自体がどう動くのかを。
きっと、自分かあの犠牲者を探そうとするに違いない。
自分は――きっと見つけ出せないだろう。
そういう風に出来ているのだから。
ならば、犠牲者の方を。
彼女は、カテドラルがそう動いてくれている事に希望を託した。
そうであれば、自分も犠牲者を追跡していれば合流ができる。
確証はない。
だが、確率は高い。
「行きましょう」エルは瑞希に移動を促した。「目的地は、麻布十番」
犠牲者と接触する。それを陣介と詩織、或いはカテドラルが察知してくれれば、事態は終結するだろう。
もちろん問題点を考えていないわけではない。合流する前に自分が犠牲者に捕食され、死んでしまう可能性もある。
だが、動かなくてはならない。
エルの意志は定まった。
瑞希とは、麻生十番に着く前に、遅くても着いたその場で別れようとも決めた。
強い眼差しで、傍らの瑞希に視線を送る。
「さあ、行きましょう」
その時にエルが下した決断とは、間違い、ではなかっただろう。
だが、最良の決断ではなかった。そして、気付くべき多くの事柄を、彼女は多く見過ごしていた。
それが汚点だった。
閉鎖区域の中にいた筈の犠牲者が、何故閉鎖区域の外に存在しているのかを考えるべきだった。いや、それ以前に自分がどのようにして閉鎖区域の外に出たのかについても、考えるべきだった。
そして、同調するという現象の意味についても、そうするべきだった。
なにより、瑞希とはこの場で別れるべきだった。
…
卯之花は談話室を後にして、執務室へと向かった。
伊庭は談話室に残った。まだしばらくあそこに居座るようだった。
その事に苦言を言おうと思ったのだが、彼が深夜からその場にいたと告げていた事を思い出した。同時に、昨晩哨戒任務の前半時間を任されていたのも彼であったと思い出す。
今更に、彼の眼の下に隈がある事に気付いた。
交代時間を迎えて任務を終えた後も、寝ずに待機していたのだと知った。きっと、出撃中の陣介と詩織に関しての情報が入れば、即座に自分も対応できるように控えていたのだろう。
だからと言って酒を飲んでいる事の不謹慎さは払拭できないが、卯之花は伊庭に、少しは休めと言って、談話室を出た。
その時、伊庭が気恥かしそうにしていた事を覚えている。
談話室に入ると、彼の部下達が既に業務を始めていた。
昨日から、業務内容は佐伯エルの捜索が優先されている。それに付随して、閉鎖区域内外に対しての犠牲者の捜索。
執務室では、様々な機関、団体に対しての確認作業が行われていた。
波動を探知しようと、衛星を用いて捜索している部下の姿も見えた。
執務室の中は、様々な機材が並んでいる。壁面には大きなモニター。一見すると研究所にも見える室内には十名程の人の姿があるが、互いに会話を交わす様子は見られない。電話による確認を行っている部下の事務的な声が響いているだけで、それは簫策とした雰囲気を醸し出している。
――まるで、葬儀場だ。
卯之花は、自分のデスクに座りながら、侮蔑を込めて室内をそのように形容した。
「おはようございます、卯之花隊長」
声がして、その声の方向を向く。そこには、彼の副官である女性が立っていた、数冊のファイルを抱えている。
「おはようございます」挨拶を返す。
彼の副官は、例えるなら機械のような人間である。性格までそうであるとは言うと失礼であろうと自粛しているが、仕事に対してはそうであると認識している。
自分の几帳面な性格を棚に上げるつもりはないが、そんな彼でさえ、彼女の性格には困惑する事が多い。稀に、自分はパソコンか何かと会話をしているのではないだろうかと錯覚する事もあるほどだ。
顔は綺麗だというのに勿体ない。それが、彼の自分の副官に対しての感想である。
仕事に関しての感想は、自分の副官が彼女でよかったと感謝しているが。
彼女は彼からの挨拶の後に、腕時計を見た。
「珍しいですね。今日はいつもより遅かったです」
「そうでしたか?」
「ええ。数分ですが、いつもより少し」
「談話室で伊庭隊長と、少し」
「口論ですか」
「いや――」逡巡する「――違いますよ」
そうは言ったが、あれは明らかに口論だっただろうと思い、朝から口論していた事に対する反省と、小さなものとは言え、副官に嘘をついた事に対する悔恨から、彼は溜息をついた。
その反応を、副官は訝しんだ。
だが、彼女の性格である。表情には何の変化も起こさぬまま、手に抱えていたファイルを卯之花のデスクに置いた。
「昨日の活動記録です。例の、小暮陣介と如月詩織両名の活動報告も、簡潔にではありますが含まれています。それと、査問会の議事録。哨戒任務の結果。併せて、こちらのファイルが本日の――」
「判りました、判りました」降参するように彼は言う「確認をして、捺印。その後で枢機卿へ提出。いつも通りにやっておきますから」
「いつもと違う伝達事項もあるのですが」
おや、と彼は驚いた。だが、その驚きはすぐに緊張に変わった。
今の状況で普段と異なる事項とは、事態に関して何かがあったという意味だと、彼は捉えた。
彼は緊張の面持ちで、自分の横に立ったままでいる副官を見上げた。
「何か、ありましたか」
「羽柴隊長からの伝言です」
「羽柴、隊長から?」
聞き返すと、副官は首肯した。
羽柴流行は、カテドラルで鑑識等、調査方面を統括している隊長だ。
普段からあまり交流のない人物である。そんな相手からの伝言とは、その内容を予見できない。
「何でしょうね」
「ラボに来てほしいと」
「ラボに?」
「ええ」
伝言とは、それだけなのだろうか。そうだとするなら、身構えていた自分が馬鹿らしい。気早すぎた。そうするべきタイミングは、羽柴と対面した時だったようだ。
「その、伝言はそれだけでしょうか」
一応確認してみると、彼女は頷いた。
ふむ、と顎を揉む。しばし思案する。
羽柴は、昨日陣介と詩織が発見した佐伯エルが居たであろう乃木坂で採取したものを鑑識していた筈である。焼けた瓦礫が何故そうなったのかを調べ、少量発見された血痕が何者のものであるのかも調べていた筈だ。
それに関する情報だろうか。だが、そうだとするにはおかしいなと思った。報告する相手を間違っている。自分にではなく、枢機卿に報告するべき事柄だ。
「ひとつ、聞いて構いませんか」卯之花は、デスクに置かれたファイルを持ち上げながら聞く「羽柴隊長は、直接ここに?」
「ええ」
「その時、彼、煙草を?」
「いいえ。口には何もくわえていませんでした。目に見えないくらいに小さな煙草であったなら、話は別ですが」
「そうですか……」
彼は立ち上がる。
「少し、出ます。彼のところへ」
そう告げると、副官は判りましたと、義務的にお辞儀をした。
彼は執務室を出る。その直前に、どうしても一言だけ言っておきたくなり、副官を見る。
「冗談を言うなら、それらしい表情をして言って下さい」
そのアドバイスの意味が、彼女にはどうしても理解出来なかった。
ラボは、カテドラル庁舎の地下にある。
エレベーターでそのフロアへ移動。フロアに到着してエレベーターの扉が開くと、その向こうには消毒液に似た鼻を刺すような臭いが充満していた。
息を詰まらせ、顔をしかめる。鑑識班のフロア特有の臭いなのだろう。
他の執務室周辺と異なり鑑識班のフロアは、壁等もガラスとなっていた。
途中、何人かの鑑識班の人間とすれ違った。すれ違う時に、にこやかに挨拶をされた。
驚く、と言うよりも戸惑った。
これまで、羽柴と交流した事は殆ど無い。よって、その部下に当たる人間も同様だ。会話どころか、フロアが離れているので見かける事も少なかった。
そのせいで、彼らには勝手なイメージを抱いていた。無口で、陰鬱そうな雰囲気だ。鑑識と聞いて彼がイメージしたのは、そういう人物像だった。
だが、実際にフロアに足を踏み入れると談笑が聞こえ、ガラス張りになっているせいか、光度の面でも雰囲気の面でも、かなり明るい。それに、今のにこやかな挨拶。その笑顔の、なんと爽やかな事。
――これでは、私の部下の方が私の抱いていたイメージに合致しているではないか。
そう思い、彼はガラスに映る自分と対面する。
人の事は言えない。自分だって、表情筋が凍結しているような人間ではないか。
彼は、ガラスを鏡の代わりにして、微笑んでみた。
酷い笑顔だった。小さな子供が見たら泣く。
笑い声がした。
自分が笑われている事にはすぐに気付く。
気まずそうに声の方向を向いた。そこには、無精髭が特徴的な男が立っている。年の頃は、卯之花よりも上だろう。顔面に刻んだ皺も多い。
着衣しているのは、卯之花と同じ濡れ羽色のカテドラル規定の制服。胸元のエンブレムから、隊長格である事が判る。
「何をやってる」彼、羽柴流行はしゃがれた声で揶揄する「見蕩れてたのか、自分に」
「そんな訳ないでしょう。呼ばれたから来たんです」
「ああ、そうかい。ところで、今の光景は忘れた方がいいか? それとも言い触らした方がいいか」
「言い触らしたら、一生恨みますから」
「末代まで?」
「ええ。当然」
「それは怖い」
「貴方と話をするのは……初めてですかね」
「そうだな。就任の時に挨拶はしたが、そんな程度だ。自己紹介からしようか。羽柴流行、鑑識班の頭だ」
「卯之花宗一郎です。第二捜査班の指揮をしています」
「何だ、このやり取りは」声をあげて笑い、羽柴はついて来いと促す「俺の部屋で話そう」
促されるまま、卯之花は羽柴の後について行き、フロアの一番奥にある彼の部屋へと向かった。
多少狭いが、一人用の部屋が仕事場にある事を卯之花は羨んだ。
「物置みたいな場所だ」羨望の眼差しを受けて、羽柴はこの部屋の役割をそのように嘲る「邪魔な物をここに押し込む。物も、人も」
「そんな冗談を」
「本当さ。証拠に、俺が向こうにいない方が部下の作業が捗る。忙しい時には、ここから出るなとまで言われる始末だ」
「副官からですか?」
「全員からだ。……すまない、綺麗な椅子はないんだ。適当に座ってくれ」
案内された羽柴の仕事部屋。
その入り口で卯之花は思わず蹈鞴を踏んだ。
そう言われたものの、辺りに座れそうな場所はない。
それに、散らかっている。いや、散らかっているなんて言葉だけでは不釣り合いなくらいに。
窓が開いていて、この室内だけが換気されて消毒液のような臭いがしていないのが唯一の救い。
困っていると、物で埋め尽くされて作業をするスペースなど殆ど無い机に腰掛けた羽柴が笑った。
「言っただろう。物置。ほら、そこの機材は来月処分するやつだ。その上に座って構わない。尻が痛いなら、そこの上着を敷け。それも捨てる予定のやつだ」
その言葉に渋々従う。
「それで、私を呼んだ理由は何ですか」早々に切り出したのは、卯之花「正直に言うと、嫌な予感がしています」
「それは、どうかな」
「朗報?」
「両方だ。良くもあり、悪くもある」
「まあ、物事に側面はあって当然ですが。内容は?」
「判明した情報がふたつ。乃木坂で昨晩何が起きたのかが判った。それと、小暮陣介と如月詩織が採取した血液の成分分析も完了」
しばし考える。
「前者から聞きましょう」
羽柴は、そう言った卯之花を観察するように眺めた。そして、「懸命だ」と呟いた。
「お前の事だ。大方、話の内容が朗報ではないと予想していたんだろう」
卯之花は頷く。
「執務室へ来た時、貴方が煙草を吸っていなかったと聞いたので」
「その情報は誰から?」
「有名です。貴方は自体が深刻になればなるほど、人とは逆で煙草を吸わなくなる。普段は吸っていない時間の方が短い人なのに」
羽柴は、居心地悪そうに首を掻く。
「自覚はしていないんだけどな。俺も部下からよく言われる。直した方がいい癖なんだろうな」
「直した方がいいのは、喫煙の頻度の方でしょう。それで、昨晩なにが?」
「これを見てくれ」彼は何枚かの資料と、纏められた写真を手渡した。
写真は、現場で採取された瓦礫等。黒く焦げたものを持ち帰り、調べた結果のようだ。
資料は、その結果が書かれている。その成分。元は何であったのかの真実。何度の熱量に焼かれてそうなったのか。その熱量が何であったのかについては、断定されていない。だが、その温度は千度を超えていたと記されている。その理由は、現場で見つかったガラス片。それが融解していたのだ。ガラスの成分を調べた結果、そのガラスが溶ける温度が凡そ千度であったという事だ。
聞いていた情報を優先して考えると、その温度は随分と低いような気がした。雷が落ちた後のようだったという話を聞いていたので、その場で発生した熱量とは、それに近く何万度にもなると考えていた。
そう告げると、羽柴は報告書の温度の部分をよく見ろと言ってきた。
「千度を超えていただろうって書いているだろう。実際には、お前が言ったような温度かもしれない」
「詳しくは判っていない?」
「そう言うのは、口惜しいんだがな。なにせ、高温に晒されたにしたって、その時間が一瞬であれば、本来は溶けるような温度でも、焦げる程度で済む事もある」
「現場ではそれが起きていた?」
「いろんな奴らが言っているように、本当に落雷が発生していたらな。次の資料に、ええと――」羽柴は立ち上がり、卯之花の横へ。資料を覗き込み、次に見せる部分を探す「――これだ。ガラス片と、瓦礫の成分」
内容は難解だった。卯之花の知らない単語が多く並んでいる。
「書いている内容が判らない。説明をお願いします」
「簡潔に言うと、あそこで起きていたのが落雷ではないと証明している」
彼は、焼け方と溶け方、そして成分について説明した。
ガラスの溶け方は、表面に高温の何かが照射されて起こったものであったそうだ。焼け方も、表面のみに熱をあてたようなもの。落雷であれば形成している組織を引き裂き、対象の全体に熱量は発生するのだという。
「雷ってのは、オーブンやトースターじゃない。電子の激しい運動が起こすものだ。電子が対象を流れようとして、その対象の細胞を破壊しながら通過する際に起こる破壊と熱。表面だけが焼かれているんなら、これは雷じゃない」
「では、何が原因で?」
「震動熱。それが有力候補だな」
空気が激しく震動し、大気が摩擦によって発熱。彼は、考えられるのはそちらだろうと言う。
それによって、小規模な発光現象も起きていただろうと推測されているそうだ。自然界では自然に発生しないレベルの静電気による発光。
「空気が摩擦される事で、ここに書いてあるような温度に達する事が起こり得るのですか?」
そう聞くと、横に立つ羽柴は、起こり得ないと断言した。
「自然界じゃあ、まず起きない。だが、俺達は何者だ。それを考えろ」
「……干渉現象? あの場では、それが起きていた?」
「そうでないなら、この部屋より大きな設備を持ちださないと引き起こせない」
「佐伯エルが、それを?」
「と、考えるのが妥当。第一に、焼け方や溶け方から、そういう事が起こって高温にならない限りは有り得ない事になっているんだから」
「ですが、干渉なんて……。彼女はまだ――」
「卯之花」羽柴が言葉を遮った。
「言っただろう。俺達は何者かを考えろ。そうしたら、佐伯が何者であるのかも」
卯之花は唇を噛んだ。
「……それと、だな」
羽柴はまた卯之花が手にしている資料で、見るべき場所を指差して指示する。
彼が指差したのは、ガラス片に関する記述の部分。
その成分が書かれている。だが、やはりそこに並んでいる単語の意味が判らない。
呻いていると、羽柴が説明をした。
「普通のガラスじゃない」
「普通のガラスじゃない?」
「倍強化ガラス。厚みもかなりあっただろうな。薄いやつじゃない」彼は部屋の至る場所にある壁の代わりになっているガラスを指差す「こういうのとは違って」
「と言うと、たとえば水族館の巨大な水槽に使うような物ですか」
「或いは、高層ビルとか」
羽柴はデスクから地図を取り出してくる。
指差したのは、現場となった乃木坂路地裏の一角。
平面図でも、羽柴が何を言いたいのかが理解できる。
「見ろ。あの一帯にそんな建物はない。俺は建築学に詳しい訳じゃあないが、ああいうガラスは見上げても屋上が見えないような馬鹿高いビルに使われるもんだ。そんなガラスの破片が、あの場所に落ちていた。意味が判るか」
卯之花が考え、答えるより先に羽柴は続ける。
彼は、古い地図を取り出した。それは、まだ閉鎖区域が六本木と呼ばれていた時代の地図である。
「小暮陣介と如月詩織、それと佐伯が作戦展開していたのは、この辺りだ」
指差した位置には、六本木ヒルズと言う名称が書かれていた。
「これになら、そういうガラスを使っている。佐伯は、この位置から空間ごと飛んだんだ。乃木坂に」
「飛ばされたのかもしれない」
「どっちでも構わない。とにかく重要なのは、防壁が役に立っていなかったって事だ」
「あの日、防壁には何の異常もなかった。そういう報告ですね」
「同時に、三人が探していた犠牲者も消えたそうだな。こいつまで閉鎖区域の外かもしれないぞ」
「――連続猟奇殺人事件」ぽつりと呟く。
「なんだって?」聞こえなくて羽柴は首を傾ぐ。
卯之花は、羽柴を見て説明をした。
「ニュースで見ているでしょう。今世間を一番騒がしている事件です。ひょっとすると……」
「おい、待て待て。その事件は、今年の頭から起きていなかったか? この一件は昨日の事だぞ」
「最悪の事を考える性格なんです。もし、防壁が異常を感知しなかったのが今回だけではなかったとしたら。……いえ、そうではなく、その干渉現象。空間の移動による防壁の突破が、防壁では感知できないものであったなら、我々はこれまで犠牲者を自由に出歩かせていた事になる」
低い声色で呻く。
つられて羽柴も同じ様に呻いた。
「その情報は、すぐにでも全体に通達させた方がいいな。事実だったら、不味いなんて言葉じゃ足りないくらいに不味い事態だ」
そして羽柴は、卯之花に渡した資料を取り返した。
卯之花は、おや、と思う。話はふたつあった筈だ。まだ、一つしか話は済んでいない。それなのに、資料を奪われた。
呆けたように羽柴を見ていると、彼はここから先の話は資料としても報告書としても作成されていないと前置きした。
「幸か不幸か、この事を知っているのは、今のところ俺だけだ。他の人間に鑑識をさせなくてよかったと思っている」
「どうしたんですか」
「血痕だよ」
話の初めに、判明した事に関して告げていた羽柴の言葉を思い出す。
確かに、内容のもうひとつはそれであった。だが、資料としても報告書としても作成されていない理由が判らない。
「まず、お前の反応と意見を見て、それを考慮して枢機卿に伝えるつもりだ。一人減って11人になった隊長の中で、一番頭が切れるのはお前だと思っている。だから、お前を呼んだ」
「それは、また、物々しい会話の前置きですね」
「遺伝子解析の結果、血痕は佐伯の遺伝子情報によく似ていた」
正直、その言葉は予想外だった。
物々しく言ったかと思えば、そんな内容。それは驚く事ではない。凶報でもない。寧ろ、朗報だろう。行方が判らなくなっていたエルがあの場所にいた事の証明だ。
卯之花がそう言うと、羽柴は語調を強める。
「いいか、もう一度言うぞ」
一字一句を強調する。
「よく、似ていたんだ。一致したとは、言っていない」
思わず息が止まった。
卯之花は、飛び上がる。
驚愕から、顔が凍ったように引き攣る。
「そんな――」喉に渇きを感じる「――ありえ、ない」
「有り得ない。そう、有り得ない。だが事実だ。あの血液は、佐伯のものによく似ている。もしくは、佐伯の血液があの血液に似ている。その、どちらかだ」
羽柴は、壁にもたれて天井を仰ぎ見た。
そのまま、魘されるように囁く。
「佐伯は、今誰と一緒にいるんだ。そいつは、何者なんだ……」
開いた窓から、雨の臭いが紛れ込む。
雨音も聞こえた。その音は、起床した時よりも大きい。
雨の勢いが増していた。