趨勢
これと言った会話が交わされる事は、それ以降無かった。
突如として知らされた事実を受け入れる事は容易ではなく、陣介も詩織も、ただ黙するしか出来なかった。
隊長の殉職。それは、信じ難い事実だ。
二人は隊長の力量を知っている。自分達には遠く及ばぬ力量と認識している。
いや、隊長であるかないか以前に信じ難い事もある。彼らのような適合者が死ぬなど、考えられない事だ。
だが、卯之花は確かにそう言った。聞き間違いなどではなく、確実に篠竹兼重という隊長は死んだのだと言った。
彼はその後、空いた隊長の籍は早急に埋める予定ではあるのだが、何分にも急な事態。殉職した篠竹兼重のパートナーだった人物の心情を考慮して、今も籍は空席のままなのだと教えてくれた。
尚、次期隊長の候補となっているのが、そのパートナーらしい。だからこそ、体制の変更には慎重になるのだろう。
しかし、それが理由で二人が黙している訳ではない。二人が言葉を発さないのは、他が理由だ。
「ねえ」と、詩織。
「どうして聞かなかったの」
「何を」
陣介が問うと、詩織が憤慨した口調で言った。「誤魔化さないで」
その言葉が、佐伯エルの捜索の準備をしていた陣介の手を止めた。
言わんとしている事は理解していた。
「俺達が発見した犠牲者が本当の捜索対象じゃなかった、って事か」
「だってそうでしょう。あの程度の犠牲者が、干渉現象を引き起こし、こちら側に来られる筈がないもの」
「だろうな」
「干渉現象を起こした本当の捜索対象は、まだ別にいる」
その言葉を聞いた陣介は、決して広いとは言えない自室の座り心地の悪いソファーに腰を下ろす詩織に、言葉を返す。
「その、本当の捜索対象と隊長を殺した相手が同一だと考えるのは、些か極端じゃないか」
「それ、は」
自分が言わんとしていた事を、陣介に見透かされ、更には先にその言葉を言われ、詩織は頭に思い浮かべていた言葉の全てを失ってしまう。
唇を噛み締め、足下に視線を落とした。
「でも」と、直前までの口調とは異なる、か細い声色で返す「最近観測した干渉現象は、12月21日の一回だけ。それ以前には観測されていないのよ?」
「まあ、そうだけど」
「だったら――!」
彼女が何か言おうとしたのを、陣介はそれを遮るように手を上げ、言葉を制した。
「そうだったとしても、今の捜索対象はエルだ。仮定でしかない、その対象に遭遇する事もないだろ」
「分からないの?」
詩織は口調を荒げ、僅かに怒りを含んだ調子で陣介に詰め寄る。
「怖いのよ」
ただ、その一言の悲鳴を伝える。
その声は震えていた。
「怖い、怖いのよ。今までも、沢山の任務に就いてきた。でも、ただの可能性でしか存在していない筈の、その何かが怖い。隊長を殺せるだけの存在が、今、こちら側にいるという事が怖くて仕方がない」
詩織は、肩を震わせる。両の手で自らの肩を抱き、その震えを沈めようとするが、自分自身何故こんなにも恐怖心を抱いているのかも分からない状態で、その震えが治まるはずもなかった。
「今は」と、陣介。詩織の様子を察知してか、極力穏やかな口調を意識して、言葉を選んだ。
「エルの捜索を第一に考えよう。今回の干渉現象の発生源が、隊長を殺害した相手と同一だとしても、エルの捜索と直接的な繋がりがある訳じゃあない」
「でも」
言いかけた言葉は、陣介の次の言葉に遮られる。
「じゃあ、エルを放置できるか。あいつは新人だ。実戦経験もないのに、今一人孤立した状態にある。目の前であいつの能力の波動を感じ、それを覚えている俺達があいつを探しに行かないで、誰があいつを見つけ出せるんだ」
詩織は、反論の余地の無い陣介の言葉に、沈黙する外に為す術が無かった。
「恐怖心を抱くのは分かる。こういった事実を聞いた後だ。だけど、その恐怖を、今の俺達の任務に結び付けるな。まだ、そうと決まった訳じゃないだろう」
沈黙する詩織に陣介は歩み寄ると、そっとその肩に手を置く。恐怖に凝り固まった彼女の体にそっと触れると、最後にこう語り掛けた。
「大丈夫。もしもの時は、俺が守ってやるさ」
いつもであれば、その言葉に彼女の心の重責は解き放たれていたであろう。
だが、今回ばかりはたとえどんな言葉で諭されたとしても、心の内に根深く根付いた恐怖の種を取り除く事が出来ない。
隊長を殺した何かを、自分達は追う事になった。
それは、至上の恐怖であった。
…
「久々じゃないか」
その言葉を瑞希は否定しない。事実として、この店に足を向けるのは知人である彼が店を開店させて以来だ。オープニングレセプションで来店して以来の店は、少しくたびれたように瑞希には写る。
「ご無沙汰してす」
無人の店内のカウンター席に座りながら瑞希は戸惑う。
予想はしていた。だが、ここまで無人とまでは予想していなかった。
店内に客の姿は無い。あるのは彼と主人である知人の姿だけだ。カウンターを挟んで一対一。知った相手とはいえ、さすがに気まずさは隠せない。
「本当に、暇そうですね」
言うと、知人である彼は言葉に苦笑を混じらせる。
「言ったじゃないか。閉鎖区域のせいで商売あがったりだ」
「予想はしていたんですが、まさか客が自分だけとは思いませんでしたよ」
「客が居る事の方が、最近の売り上げとしては驚きさ」
瑞希は複雑な表情をする。笑うべき、なのだろうが、どうも笑い難い話題だ。
「やっぱり、人は来ませんか」
「まあ、そうだな。早い時間なら来なくもないんだけどさ」店主の彼は、口寂しさから煙草を取り出し、その先端に火を灯した。
「このくらいの時間だと、この辺りは無人だよ。客なんて、期待したって来やしない」
カウンターを対面しての会話。席に着席した瑞希に、店主である彼は何か一杯、サービスしようと言った。
「確か、ジンが好物だったか」
その言葉に瑞希は吹き出す。
「や、それは誰か別の人じゃないですかね。俺が愛飲しているのは、もっぱらバーボンですが」
「あれ、そうだっけか」
「そうですよ。やだなあ、忘れちゃったんですか」
「悪い悪い。暇すぎて記憶がどうにかなっちまったらしい」
店主の彼は、照れ笑いしながらバーカウンターからロックグラスを取り出す。
慣れた手つきで氷をグラスに落とし、グラスをよく冷やしながら聞く「ロックで、いいんだよな」
「もちろん」
瑞希はバーボンのロックが出来上がるまでを鑑賞する。
彼はこの時間が好きだ。グラスをよく冷やし、そこにリカーを注ぎ、一杯が完成するまでの短い時間。それを堪能するのが、彼は好きだった。
まして、この店主は嘗て瑞希の今の職場でシニアバーテンダーをしていた人物。ともなれば、指先の動きにさえ気を魅かれるものだ。
そして差し出された一杯は、山崎の十八年。瑞希にとって、垂涎の一杯だ。
「いいんですか」彼は目の前に置かれた珠玉の盃に焦る「俺の財布は今、かなり薄いですよ。一応聞きますが、奢りですか?」
「馬鹿言え」
店主が口元の煙草を揺らした。
「半値だ」
それでも、瑞希にとっては嬉しい一杯である。飲もうと持ち上げるグラスが氷とぶつかり、カランと鳴く。その音さえ美味だ。
琥珀色の液体を僅かに口に含む。口中に溢れる、香ばしい樽による熟成の香りが鼻まで突き抜ける。
四肢を解す様な得も言われぬ香りに酔いしれている瑞希に向けて、店主の彼は訊ねた。
「そっちは、どうだい」
どう、と言われても、即座に言葉を返せない。瑞希は少し思考を巡らせてから、こう言った。
「ここと、変わりませんよ」
その言葉に店主は笑う。「やっぱりか」
「まあ、こんな状況下じゃあ、この辺りはどこも変わりありませんからね」
「閉鎖区域のせいで、どっちも商売あがったりか」
「ですね」瑞希は思い出したように付け加える「俺が今の時間ここに座っている事も、その影響と思ってもらって構いませんから」
店主はグラスを磨きながら問う。
「今日は休みじゃなかったのか。こんな時間に来たから、てっきりそうなんだと思ってた」
「客も閉鎖区域を考えて早く帰ったんです。……いや、気にしたのは例の事件かな」
「事件?」
「ほら、最近ニュースでも取り上げられてる例の失踪事件」
「ああ、警察さんもお手上げらしいな」
彼は煙草に溜まった灰を灰皿に叩き落とす。
「滅多に来なくなったが、うちの常連さんに警察関係の人が居てな。事件がニュースでも取り上げられるようになるちょっと前、……ええと、タイミング的に最初の内だな。ちょいと教えてくれたんだ」
瑞希は酒を堪能する手を無意識に止める。グラスをカウンターに戻しながら訊ねた。
「事件の情報を?」
「情報と言ったって、特ダネみたいなもんじゃないぞ。なんでもな、その事件は調べれば調べるだけ、現実から遠退いて行くんだとさ」
その常連であった人物は捜査本部に配属され、日々失踪者の情報をどんな細かなものでさえ見逃さないよう、見落とさないよう調べ回っていたらしい。行方不明者は出ていないか。捜索願は出ていないか。どんな些細な事にも、彼は飛びついていたらしい。
併せて、血痕だけが残された現場の検証にも立ち会った。それは、何度か行ったそうだ。
この部分の情報は、瑞希が今朝方インターネットのトピックスで見た内容と変わらない。あったものは、ただ夥しいまでの血痕だけ。それ以外、肉片も骨片も、一欠片でさえ残されていなかったと。
だが、映像の無いトピックスでは得られぬ情報がそこに加えられる。
それは、観測者の視点だ。
その常連は、何度かの現場検証で同じ感想を抱いたそうだ。
「まるで獣の食事の後みたいだった、ってさ」
店主は短くなった煙草を最後に深く吸い込み、先端を灰皿に押しつける。
「獣?」その表現に、瑞希は背を震わせて聞き返す「ライオンとか、トラとか?」
その例に、店主は首を横に振る。
「いくら百獣の王だって、人間一人は食い切れないだろう。そっち界隈にも大食いなんて文化があれば別なんだろうが、……常連の刑事さんはね、酔ってこう言ったよ。この事件の犯人は、それより大きな獣――ああ、そこまでくりゃあ、もう獣じゃなくてバケモノ、なんだろうけど、そういった人外の何かが犯人だって」
「それ」瑞希は思い出してグラスを持ち上げる「空想か妄想、ですよね」
妙に会話を畏怖しだした彼は、身体が強張っている事を自覚する。
「だが、時に現実は空想か妄想でなくちゃあ説明が出来ない時もあるもんだ」店主は瞳を細め、思い出す様に例を挙げる「十年前の六本木崩壊だって、そうじゃないのか?」
その原因は今になっても尚、判明の糸口さえ掴めていない。
「最近じゃあ時代遅れの話題で、酒の席でさえ話されなくなっちまったが、あれはどうして起きた。どうして六本木だけだった。それに、なんだっけか、例の組織」
思い出せない店主に、瑞希が告げる「カテドラル」
「そう、それ。そのカテドラルが何者かも判っていない。何だったのかをきっちり説明しようとすると、そこには絶対的に空想や妄想が必要になってくる。
……いいかい、相澤。俺は心理学者でも哲学者でもないから難しい事は言えないが、世界ってモノはひどく曖昧なモノなんじゃないかって思っている。世界はここにある。だが、俺が見て感じている世界ってモノは、所詮俺が見ている範囲だけの物凄く狭く小さなモノなんだ。お前が見ている世界とはまるで別物だ。さっき会話に出たな。俺は、お前と会話をするまでお前が今日は休みだと思っていた。つまり、俺が見て感じている世界の中で、お前はそうだったんだ。お前の世界とは違うお前が、俺の世界に居た。
こう言うのを、ウィグナーの友人って言うらしいな。人は世界のほんの僅かな欠片しか見れていない。だから、世界がどんな形をしているのかは、結局誰にも理解が出来ない。その証拠に、俺の世界とお前の世界は、さっきまでまるで違う形をしていた。ふたつが接合されたのは、今し方だ。だから、俺達が見れていない、この無限に重なった世界のどこかには、そういったモノが紛れている可能性だってある。それは、確かめもせずに否定しちゃあならないんだ。なにせ、まだ誰も見ていないだけなんだから」
彼の言葉の終わりに、瑞希の手の中で溶けた氷が傾きグラスをカランと鳴かせる。
短い沈黙が辺りに蔓延る。心地悪い静けさだ。
やがて、耐え兼ねた瑞希が諭すように言う。
「オオヤマさん」一口、グラスの酒を含み苦言を呈する。
「そういう高説垂れ流すようなキャラ、似合わないです」
瑞希の正直な感想に、店主は少しの沈黙を挟み笑うしかなかった。
「そりゃあ、そうだな。自覚してる。だがな、気をつけろ。俺だって前は信じてなかったさ。だが、昨日の晩で考えが変わった」
不意に店主の瞳が真剣な色に変わる。
「昨日の夜な、聞いたんだよ」
「聞いた? 何を」
「獣みたいな、声」
ぞわり と、瑞希は震えた。
まるで怪談話でも聞かされている気分だった。
「獣って……」
「いいから、最後まで聞け。確か、日付が変わってちょっとしたくらいだったかな。店の中に居ても気付くくらいの音だった。閉鎖区域の方から爆発音みたいな音と、ライオンの咆哮を何倍にもした様な音が聞こえたんだ」
昨日、と聞かされて一番に思い出すのはやはりトピックスの内容だ。
昨晩未明に、また事件は起きたんだったか。血痕だけが残されると言う、奇妙な事件。
「だから、俺も刑事さんの話が少しずつ空想や妄想じゃないんじゃないかって思い始めている。なにせ、この耳で確かに聞いちまったんだからな。獣のうなり声を」
「御馳走様」と言って、瑞希は店を後にした。
その後は他愛もない愚痴ばかりの会話に惜しむらくは花を咲かせたが、愛飲しているバーボンを二杯胃袋に注ぎ込んだ彼は思いの外上機嫌で店を後に出来た。それこそ、妙な会話の内容を忘れているくらいの上機嫌で。
外はバーに入る前と変わらず、驚くほどの静けさを保っていた。人の気配も、人が生活している証の喧騒もここでは無縁と感じる。
唯一の音と言えば、冷たすぎる風くらいなもの。
肩をすり抜けていく冷風に身を震わせた瑞希は、ボタンを外したままのジャケットの釦をしめる。気休め程度でも、前を閉じれば多少の寒さは凌げるだろう。
時計に目を向けると、終電を気にした方がよかろう時間だった。随分と長居していたと痛感するのは、今この瞬間。
瑞希の足は、六本木通りを渋谷へ向かう。早歩きで直進すれば、気にした終電時間の少し前には渋谷に着けるだろう。間に合わなければ、仕方ない。どうせ翌日は休みだ。財布が薄い訳でもないし、一泊して帰ってもいい。
渋谷は今も昔も繁華した都だ。宿泊施設には困らない。ホテルが駄目でも、漫画喫茶や何かはある。最悪は、そこで寝られればそれでいい。
自宅の寝慣れたベットが最上ではある事は確かだが。
彼は早足で歩いた。
無人の六本木通り。周囲に人の気配は無い。通る車も無い。
今この瞬間、ここには彼と世界しか存在していなかった。
瑞希の足が止まったのは、それからしばらくと経たない内の事。
何か、物音がしたと感じて立ち止まったのだが、耳を澄ませど周囲に荒ぶ冷たい風の音の他、何の物音も聞こないのは先程から変わらない。
――気のせい、かな。
怪訝に思いつつも、瑞希は再び足を動かす。
人の声のようにも聞こえたが、今となっては何の音も耳には届いてこない。彼が動かなければ周囲は無音だ。
気のせいだったのだろう。そう言い聞かせて歩を再開させたのだが、再び足を止める。今度は何かの音が聞こえたからではなく、自分の意志で足を止めた。
どうにも、気になって仕方が無かった。
耳の錯覚かもしれない。第一、こんな閉鎖区域のすぐ近くで、こんな時間だ。人がいる事自体が稀だ。現に、店を出てから今まで、誰ともすれ違わなかった。
そんな状況だと言うのに、瑞希の耳には先程の物音が、やはり人の声であったように思えてならない。
歩いて来た道を振り返る。
閉鎖区域が、彼を威圧するように聳えている。
周囲の建物よりも高い頂の防壁が、空の領土を侵食していた。空の半分が覆い隠されている。
思わず、瑞希の心が竦む。
なぜ調べようと、その音の元を探そうとしたのか。その理由は判らない。
幼い子供がお化け屋敷に入りたがる、興味本位の類であったのかもしれない。怖い物見たさの、奇特な行為と言ってしまえばそれまでの話だっただろう。
だが、気になって仕方がなかった。確かめたかったのだ。
耳の錯覚であったとしても、ただの物音を彼が聞き間違ったのだとしても、彼にはそう聞こえたのだから。
助けて。
そんな、助けを呼ぶ声に。
思考の中に、麻美や店主と話した事件の事が浮かばなかったわけではない。寧ろ、一番に思い浮かべた事がそれであった。
閉鎖区域の近く。場所のみを考えれば、有り得ない話ではない。
一瞬、瑞希は思考の中で、自らが地面に横たわり屍と化していく様を想像してしまう。
そんな不吉な想像を払拭するように頭を振ると、瑞希は今居る位置から一番近い路地に入り込む。路地の先は暗く、暗闇に飲み込まれるように長く伸びている。その果ての方に、人の気配は感じられない。
世界は静かすぎた。
自分自身の足音しか響かない静寂が、こんなにも恐怖である事を初めて感じた。
足を踏み入れたこの道を、彼は知らない。それより先は未踏の地だ。踏み入れた事さえ無い。
店主の言葉を拝借するなら、これより先は彼にとって未知の世界、と言う事になる。終ぞ彼が見る事の無かった世界。
瑞希は狭い路地の中、脇にある建物の中を覗き込む。
酷く荒れ果てた内部だった。人の姿どころか、人が生活をしていた気配を感じる事さえ困難だ。
西麻布付近の六本木通りから一本逸れた路地裏とは、大概がこうだ。放棄されて大分経った廃墟しかない。
この辺りには、ホームレスさえ住まない。ならば、人などやはり居ないのではないだろうか。声だと感じたのも、気のせいか錯覚だったのだろう。
瑞希はそう考える。そもそも、それを聞いた場所から路地を入ったこの場所は、距離で大分離れている。確かに周囲が静かであったとしても、そんなに離れた位置から放たれた、助けて、という声が彼の元まで届く筈もない。
――気のせいだ。気のせいだったんだ。
言い聞かせるようにその言葉を思い浮かべると、瑞希は、改めて帰り道まで戻ろうとする。
その時だった。
それは、あまりに小さい声だった。
虫の羽音のように、僅かな風にさえも掻き消されてしまいそうなその声は、今度こそ錯覚ではなく、確かに瑞希の耳に届く。
――助けて
体を震わせる。
痙攣するように震えた瑞希は、すぐさま周囲を見渡す。だが、人の姿はない。気配もない。その場にあるのは、彼一人だけだ。
そうであれば、鈴を鳴らしたようにか細い今の声は、どこから発せられたのか。
その疑問を抱いた直後、瑞希はその声が鼓膜に届いた音ではなかった事に気付く。
違和感はあった。あまりに鮮明に聞こえすぎていたのだ。まるで、耳に口付する距離でささめかれたかのような声だった。そうでないなら、頭の中に直接響いたかのような。
――まさか。
理解が出来なかった。マンガやアニメの世界ではあるまいし、そんな一種テレパシーのような事が自分の身に起こりえるとは、予想だにしていなかった。しかし、今確実に彼の元に届く助けを求める小さな声を説明するには、そう考える他なかった。
「どこだ……」
瑞希の足は、路地の更に奥へと向かう。不思議と、先程まで胸をかじっていた恐怖心は無くなっていた。
吸い寄せられるように導かれるように、前へ進む。
どこへ向かっているのかは見当が付いていない。何せ知らない道だ。月明かりも届かない暗い路地裏は、散乱した瓦礫や投棄されたゴミによって、普通に歩く事さえも困難だが、瑞希は迷う事もなくその道を進み続けた。
何かを踏み砕き、何かを蹴り飛ばしながら歩く未知の道。やがて彼の周囲には灯りが無くなり、濁った色の暗闇を手探りで進んだ。
そして、視界は突如として開ける。
廃墟となった建築物の隙間に出来た、広い空き地。彼が辿り着いたのは、そんな場所だった。
歩いて来た道のように、あちらこちらに瓦礫が散乱している。ビルの解体現場みたいだと、彼は感じる。そこを歩けと言われたら、彼は間違いなく無理だと返すだろう。そこは、人が歩くような場所ではなかった。どこに足を置いても、必ず何かが崩れてしまいそうな荒廃だ。
だが、瑞希には自分が来るべき場所がここである事を理解していた。理由は判らないが、そう感じた。
誰の姿もない場所。そう思えた。
それまで薄い雲に隠されていた月が一瞬だけその姿を現し、柔らかな光で周囲を照らす。
夢現のような明るさの中で、彼は見た。
空き地の中心に、跪き祈るような姿勢で空を見上げる少女が居た。
彼は思わず息を止めた。
月明かりに照らされた少女は、まるでこの世のものではないかのように美しい。
「なあ」
彼は呼び掛ける。だが瑞希に気付いていないのか、その少女は微動だにしない。置物の様に跪いているだけで呼び掛けに答える様子もなく、その姿は彫刻のように見えてくる。銀色をした月光に染められた今であれば尚更、それは人間に思えなくなってしまう。
――そんな、まさか。
瑞希は、その少女へと歩み寄る。足を置いた瓦礫は、やはり彼の重さに耐えきれず崩落する。違う足場を探そうとするも、安全な足の踏み場は見つからない。
「くそ」
やむなく彼は、邪魔な瓦礫を蹴り飛ばし、強引に少女を目指した。
「おい」瑞希は声を張り上げる「お前だよ。聞こえないのか」
だが、そうしても少女は置物のようにそこにあるだけで無反応なままだ。
傍らに辿り着き、彼が目の前に立っても、彼女は夜陰へ向けて祈祷をしたまま動かない。まばたきさえしていない。
その浮世離れした造形に、彼はたじろぐ。
まるで人形だ。人を巧みに模して作った人形。絹を梳ったような髪に、硝子玉を詰めたような双眸。肌はさながら真珠の色。
少女は、あまりに美しすぎた。だが、美しすぎた。美しすぎて、そこに生者の色を見る事が出来ない。
瑞希は困惑する。こんな風貌だ。これが事実人形でしたという顛末も否定は出来ない。
だから、彼は確かめる為にもう一度だけ口を開いた。
「おい」
そして、少女の肩に手を触れようとした時だ。
ばちん と、瑞希の手は何かに弾かれて跳ねる。静電気に似た音だったが、その衝撃はそんな軽いものではなかった。今のは、思い切り突き飛ばされたかのような強さだった。
瑞希は、じんと痛む手のひらを抱く。そして、少女の肩と自分の手に青白い火花が走っている事に気付く。
火花は蛇のようにうねり、ちりちりと鳴いている。
「何、だよ……これ」
問うた後、瑞希は鼓動を高鳴らせた。
彼を見ていた。彼は見つめられていた。
その少女は無表情のまま、その瞳で瑞希を見ていた。
「いや」
予想外にも、声を発したのは少女が先だった。
小さな声だった。感情というものを欠いた様な声だと瑞希は感じる。
しかし、その声は皮膚に染み込んでくるような響きをしていた。人の声が綺麗だと、彼は初めて感じた。
だが、その直後、少女は顔を歪ませる。両手で頭を掻き乱し、声を悲鳴に変えた。
「いやだ!」
その悲鳴は断末魔に近い。
同時に、瑞希が見た青白い火花が暴れる。先程よりも大きな火花は最早稲光のようで、夜陰を切り裂きながら疾駆する。
「いやだ! 死にたくない! 殺さないでっ!」
彼女が叫ぶ度に、彼女の身から放たれる稲光は瓦礫を焼き、粉砕する。
その一つが、瑞希の左肩を突き抜ける。
感じるのは激痛。呼吸が止まり、嘔吐しそうになる。肩から先が無くなってしまったのかと錯覚するような痛みは、全身の毛穴からぬめる汗を吹き出させた。あまりの痛みに悲鳴さえ出ない。漏れるのは、苦悶の呻き声だけだった。
肩に触れると、まだそこから先はきちんと残されていた。だが、痺れていて感覚というものが無い。服は焦げ、異臭と共に煙を上げている。
「ち、く、しょうっ……!」
瑞希は、なぜ自分がそうしたのか判らない。だが、そうすべきなんだろうと考えながら、そうした。
痛みに顔を歪ませながらも、稲光が体を貫こうとも、彼が選択したのは前進だった。
――何故、こんな事を俺がしているんだ。
瑞希は今が判らない。自分が何故こんな状況に巻き込まれているのかが判らない。確かに、自分の意志でここまで来たのだが、そこから先の今が理解出来ない。
どうして、自分は自分の意思でこうしているのか。
どうして、自分は少女へ向かっているのか。
それが、どうしても判らない。
歩けど歩かねども稲光は彼を射抜き、そこに耐え難い痛みだけを残して行き過ぎていく。
「聞こえないのかよ、お前っ!」
瑞希の声は、瓦礫が粉砕される音に掻き消される。
彼は進む。それを妨げるように、少女の周囲で青白い閃光は暴れる。
「この……っ」
そしてようやく、瑞希の手は錯乱する少女の肩を掴む。
細く、強く握れば折れそうな華奢な肩を瑞希はしっかりと掴み、自分に引き寄せた。
「聞けよ!」彼は叫ぶ「俺の声が聞こえないのか! 聞けよ、俺の声を!」
少女の動きが止まる。
同時に、周囲を走り続けていた閃光も、徐々に鎮まりを見せ始める。
それを確認し、瑞希は続ける。
「お前が呼んだんだろ! 俺を! 助けてくれって!」
瑞希は、少女から反応があろうとは思っていなかったが、その予想は良い意味で裏切られ、少女の唇からは彼の声に反応する言葉が漏れた。
「呼んだ……私、が」
「そうだよ!」 瑞希は少女の肩を乱暴に揺する「助けてって、あれはお前の声だったんだろ! お前は助けてほしかったんだろ! だから俺を呼んでいたんじゃないのかよ!」
少女は、相変わらず感情をどこかに置き忘れた表情のままで呟く。
「私が、呼んだ……」
そして、少女の瞳に一筋の涙が流れた。
その後の声はあまりに小さく、目の前に立つ瑞希の元に届くのがやっとと言える程に、力のないものだった。
彼女は、目の前の瑞希に懇願するように言う。
「……助けて」
直後、少女は紐の切れた人形のように崩れる。瑞希は慌ててその身体を抱き止めるが、全身に走る痛みのせいで力が入らない。少女の身体と共に地に倒れ、瓦礫と共に滑落する。
その前から身体には激痛が走っていた彼は、転がり落ちた事に関しては痛みを感じなかった。事実、滑落と言っても階段を踏み外した程度だ。さほどの大事でもない。
だが、瑞希ははっとする。はっとして、少女の安否を見る。彼女の事を、一瞬だけ忘れていた。
彼の腕の中にいる少女の姿は、今となっては先程の現実離れした現象の一連を引き起こしていたとは思えない程、穏やかな表情で瞳を閉じていた。死んだ、訳ではないようだ。胸が呼吸の音に合わせて上下している。
どうやら、眠っているらしい。
それを確認して、瑞希は安堵した。本心から、良かったと思っていた。
だが、一体この後どうすれば良いのか。直後に浮上する問題は、それだ。
「病院、かな。いや、警察か?」
今行くべきであろう行き先はその二箇所しか思い付かないが、すぐに頭を振る。
「病院でも警察でも、この状況をどう説明しろって言うんだよ……」
今自分が置かれた理解し難いこの状況に頭を抱えていると、彼の瞳は視界の隅に何かを見つける。
少女の纏っている服。暗闇の中では周囲の色と同化してしまいそうな、カラスの濡れ羽色をした制服らしき上着の左胸に、金色のエンブレムがある。
瑞希は瞳を細めて、それを見る。
暗がりの中では、その全てまでをはっきりと確認は出来ない。だが、下部に書かれた文字の綴りはしっかり確認が出来た。
ばくん と、心拍は跳ねる。
「嘘だろ」
自分の目の前に並んだ文字に、疑念を抱かずにはいられない。信じられなかった、受け入れられなかった。だが、見間違いでも錯覚でもなく、そこには確かにそう記されている。
Cathedral。
程無くして、空は雨を降らし始める。
…
卯之花宗一郎は極力優しく扉を叩いた。
返事があるかどうかが不安であったが、彼の予想を裏切り、中からは比較的明るい声が返ってくる。
「どうぞ」
まさか、そんな声色と思っていなかった彼は戸惑う。戸惑いながら、訊ねる。
「卯之花です」何者かを語った後で、それだけでは言葉が足りていない事に気がつき、付け加える「入っても、いいでしょうか」
中からの声が苦笑する。
「どうぞ、って言ったじゃない」
扉に手を掛ける事を一瞬躊躇したが、ドアを叩いておきながら立ち去るのも失礼だろうと、さながら意を決したようにドアを開けた。
中に入り、その部屋の住人の姿を見るなり、彼は誰が見ても判る程に驚いた顔をした。
「なによ、その顔」
室内の彼女に先に表情を指摘され、彼は不本意にも言葉を失う。
頬を掻きながら、言葉を思い浮かべる。
「あ、いや。……驚いたんです。髪を切られたんですね」
「まあね、元々長い髪は邪魔だと思っていたから」と、彼女は肩で揃った髪をふわりと掻き上げた。
「似合ってるかな」
「え? ああ、ええ」
「なによ、その返事。それに最初の表情」
不服そうに言う彼女に、卯之花は慌てて説明をする。
「長い髪だったから、驚いたんですよ。秋野さん」少し言葉を思案して「綺麗な髪だったのに」とも付け加える。
世辞であろう事は分かっていたが、言われて秋野皐月は頬が綻ぶ。
ふふ、と息を吐くように笑む。
「口が巧いのね。そうやって女の子も口説くの?」
「冗談を。恋愛は不得手な分野です」
「私の部下にも、卯之花君のファンがいるのよ」
「まさか」
卯之花は目を丸くして驚く。その変化を楽しむ秋野は、意地悪く続ける。
「卯之花君、来るもの拒まなければ女の子には困らないタイプなんだよ。知ってた?」
「からかわないで下さい」
「本当の事、なんだけどな」
そう言って、部屋の隅に置かれた薄紅色のベッドに腰を下ろすと、秋野は卯之花を詮索するように眺めた。
「で、今日は何の用? また同じ話をしに来たの?」
「えぇ、まあ」
ずばり言われて、卯之花は戸惑う。
「どうしてあなたが勧誘に来るのかしら」秋野は憤慨したように腕を組む「卯之花君は、人事部って訳じゃあないでしょう。枢機卿が来るべきだと思うわ」
「そう言わないで。あの人も、何かと忙しいんです」
卯之花は困ったように笑う。
「それに、私は元来、後方支援に徹していますからね。こういった事も、ある種の後方支援ですよ」
「事務と後方支援を混同してる」
「そうかもしれません」
眼鏡を揺らしながら笑う卯之花を見ながら、秋野はその視線を鋭く磨ぎ、言葉を放つ。
「隊長にはならない」刃物、みたいな声だった「前にも言ったように、ね」
卯之花の動きが止まる。話題を先行され、些か顔が強張る。
言葉を探るも、今、彼女の心を揺さぶれる様な言葉は浮かばず、結果、彼としては不本意極まりない率直な言葉で訴えかける。
「隊長の後任は、補佐役というのが定例ですから」
「過去の習わしなんかで、私の待遇を決めないで!」
秋野の声が荒くなる。滅多に見せる事のない、感情を露わにした口調に驚いたのは、卯之花以上に、彼女自身だった。
彼女は気まずそうに視線を泳がせてから、最終的に俯く。
「……ごめんなさい。言葉を荒げて」
「いえ。私自身、言葉に繊細さを欠いたようで」
彼は眼鏡を指先で持ち上げながら、謝罪する。
「失礼をしました」
「でも、それが私の本心」
秋野は卯之花の言葉尻に被せてそう言った。有無を許さぬ言葉だった。
だが、どこか寒々しい。それに、痛々しい。
「私なんかに隊長の重責は務まらないわ。兼重のように、優秀な隊長にはなれない」
「ですが、貴方は誰もが認める、優秀な補佐官だった」
「補佐官は、所詮補佐官。隊長じゃない。私は、彼になれない」
「……貴方が、篠竹 兼重になる必要はないんじゃないですか」
その言葉は秋野の心の逆鱗に触れたのか、彼女は鋭い眼差しで卯之花を睨む。
その鋭さは感じるが、卯之花に自らの言葉を否定するつもりはない。突き刺さる視線を、その身に受け入れる。
「貴方は、良くも悪くも貴方でしかない。比較対照に第三者を挙げていては、いつまで経っても後任は見つからない」
「でも、下の人間が認めないわ」
「下の人間の推薦があっての事、なんですが」
二人が言う下の人間だけでなく、彼も周囲の同格の人間も、彼女に対しての評価は同じだった。
「充分に隊長として職務は務まるだろうという判断は、組織の全員が抱いています。貴女は、貴女なりに隊長としての責務をこなせば良いんじゃないですか。篠竹兼重と同じ事をする必要は――」
「でも私は兼重を守れなかった!」
言葉は、途中で掻き消される。
悲鳴にも聞こえる彼女の声に、卯之花は小さく震える。
秋野は、自らの肩を自分の両腕で抱き締め、その身体の震えを必死に止めようとする。
彼女は今、12月21日の事を思い出していた。唇を噛み締め、視線を落とし、言葉を閉ざした。
必死に止めようとしている身体が震えている。
そんな秋野の代わりに、卯之花が続ける。
「守れなかった事を悔いているのなら、そうすれば良いでしょう。だが、その籍を埋められる人間は、貴女しかいない事を理解して下さい」
秋野は、沈黙を保ったまま。その瞳に、彼女の優しさと強い意志の存在を合わせて宿した普段の色は無い。そもそも、彼女がこんなにも感情を剥き出しにして何かを言う姿さえ、過去には一度も見た事が無い。
――やはり、篠竹前隊長の死は彼女にとって相当な心理的ダメージだったか。
卯之花は痛感する。
二人が任務上でのパートナー以上の関係であった事は周知である。卯之花は、今の秋野にとって自分の言葉には不適切な言い回しがあったであろうかと悔恨する。
――どうすれば、よいか。
戸惑っていると、秋野は泣いた。こぼれた涙が頬を伝って落ちた。
「本当に、愛していた」
ようやく絞り出したその声は震えている。俯いた表情には悲愴の色が浮かんでいる。
「愛していた。兼重を、誰よりも。声も、肌の温もりも、煙草の匂いも、全部覚えてる」
卯之花は口を閉ざしたまま、ぽつりぽつりと言葉を吐き出す秋野を見守る。
「身体に悪いから吸うのをやめてって何度言っても、あの人聞いてくれなかった。それだけじゃない。何だってそうだった。あの人、私の言う事なんてきちんと聞いてくれた試しがない」
自嘲するように、秋野が笑う。だが、嗚咽に負けて上手く笑えない。
視界が歪む。自分が泣いている事に気付くのは、この時だった。
「あの時もそう。私がもっと万全の状態で任務にあたろうと言ったのに、聞いてくれなかった。他の隊の協力を得るべきだった。あの時、私がもっと強くあの人に言っていればこんな事にはならなかった。それなのに――!」
「自責せねばならないのは、私です」卯之花は言葉を遮る「あの予兆を察知したのは私ですから。注意深く観測していれば、もっと最善の判断が出来た」
卯之花は、深く頭を下げて懺悔するように謝る。
「申し訳無い」
「やめて」
その言葉さえ拒んだ。涙を拭い、低い声で言う。
「謝罪の言葉なんて聞きたくない。誰が悪かったとか、誰の責任だとか話していても兼重は帰ってこない。……判ってる。私がこんな状態でいたところで、何も変わらないし、何も始まらない。兼重なら、きっとこんな状況を望んだりはしない。自分の死を乗り越えて、私が隊長になる事を望むんだろうって、判ってる」
そして、僅かな間。
「……でも、無理」
秋野は顔を上げ、縋るように卯之花を見上げる。
「いつでも兼重を探してしまう。いつでも、兼重の気配を探ってしまう。どこかにいるんじゃないかって。私にとって兼重は、数ヶ月経って、その死を乗り越えられるような存在じゃないの。だから、私には無理。無理なのよ、卯之花君」
そして部屋の中には、その場の空気を重たくさせる嗚咽だけが響いた。暫く、どちらも言葉を紡ごうとしなかった。
数分が経った頃。状況を変えたのは、意を決して放たれた卯之花は口を開く。
「小暮陣介と如月詩織の両名が、先日新人を連れて閉鎖区域の調査に向かいました。二人とも、そろそろ気付くでしょうね。いろいろな事に。特に、小暮陣介。彼は頭が切れるから」
秋野は応えない。だが、聞いている事を確認して、言葉は続けられる。
「新人はその時に、犠牲者に捕食された人間と同調したまま暴走し、失踪。二人は現在、その新人捜索の任務にあたっています」
「だから、何。私には」
――関係無い。
そう言おうとした言葉は、卯之花が先に口にした言葉によって掻き消される。
「佐伯エルです」
涙で濡れた顔であっても判る程、秋野の顔に驚愕の色が浮かぶ。その様子を確認してから、卯之花は一度小さな溜息を挟み、ポケットから何かを取り出した。
今はまだ、それを大事に握っておく。
「枢機卿は、事を急いでいる。判るでしょう」
「佐伯エルを……? 早すぎるわ。まだ安定していないでしょう」
「だから暴走し、消滅した」
「焦ったしっぺ返しよ」
「だが、まだ生きている」
卯之花は一度眼鏡を外し、取り出したハンカチでレンズを拭く。
「佐伯エルは、早急に回収しなければならない。もし私達よりも先に向こうにその存在が知られてしまったら、彼女は消されてしまう。そうなってしまっては、私達が築いてきた礎は、また10年前に巻き戻される窮境。それは、何としても阻止しなくては」
卯之花は静かに歩きだし、秋野が座るベッドの反対側に置かれた机の上に、先程ポケットから出した物を置いた。
それは、小さな階級章。秋野はそれを良く知っていた。隊長のみが着ける事を許された、階級章だ。
「相手の動向を探る為にも、その相手の波動を目の前で感じた貴女の協力が必要なんです。小暮君と如月君にはエルを、私達は、本当の捜索対象を探さなくてはいけない。12月21日にこちらへ顕現した、あの侵略者を」
秋野は、机の上に置かれた階級章を見つめたまま、それまでと同じように沈黙を返す。
卯之花は、溜息を間に挟んだ後、最後にこう告げた。
「それは、貴方に預けておきます。不要であれば返して下さい。どう使うのも、貴方の自由です」
卯之花が部屋を出た後も、秋野はそれを見つめたまま動こうとはしなかった。
動く事が、出来なかった。
…
彼女が目を覚ました時、その視界に映り込んだのは、彼女にとって見慣れない天井だった。
自分の置かれた状況を理解する事に苦しむ。何が起きたのかが思い出せない。確か、小暮陣介と如月詩織と共に任務に就いていた筈だが、そこから先が思い出せない。
身を起こした彼女は、頭を抱えながら自分の周囲を確認する。
寝かされていたのは厚くはない敷布団。それが敷かれているここは、そう広くはない。ワンルームのマンションの一室だろう。外に降る雨の音が耳障りに響いていた。
今が何時であるかが気になり時計を探すが、見つからなかった。だが、まだ朝の早い時間であろう事が推測出来る。雨天とは言え、空気が静謐だ。こんな空気は朝にしか流れていない。
頭が痛む。
彼女、佐伯エルは、自分に掛けられた布団をどかしながら上半身を起こすと、着ていた筈の上着が脱がされ、薄手のブラウス一枚で寝ていた事に気付く。
裸であるわけではないが、羞恥心が生まれた。彼女は布団で上半身を隠し、改めて自分の置かれた状況を考える。
室内には、人の生活の気配があった。自分の寝かされた布団の横に、小さなテーブル。そこには、飲み終えて空になったビールの缶が置かれている。
彼女が着ていた制服の上着は、その横に綺麗に畳まれて置かれていた。
少しだけ安堵した。
安堵すると、自分以外の気配を感じた。
聞こえたのは、小さな寝息。気配は彼女の背後。寝ている状態であれば、枕元の付近からだ。
晴れていれば、朝の光を射し込ませる筈の窓の手前で、壁に背を預けて眠る人間の姿があった。
男だ。まずそれは判った。だが、それ以上が判らない。
この部屋はこの男の物なのだろうとは思うが、では何故自分がそこに居て、寝かされていたのか。空白になってしまった記憶が、彼女を混乱させた。
落ち着こう。そうだ、まずは落ち着かなくては。そう考えて瞼を閉じた瞬間だった。
あくまで無意識に閉じた瞳に、瞼が作り出す暗闇ではなく、自分の知らない風景が映し出される。
荒れ果てた街並み。
――閉鎖区域。
はっとして瞼を開く。知らぬ間に息が上がっていた。
室内に響く彼女の吐息。エルは空白であった記憶の間に何が起きたのかを思い出した。
「同調をしたまま、暴走をしてしまったんだ」
そして、同時に判明もする。
「まだ、繋がってる……」
今見えた光景が、犠牲者のものである事を理解し、エルは、自分自身の意識とは無関係に、力が継続されている事を知った。
――どうすれば同調を解除できる? 力を使えば……。
彼女は同調を切ろうと試みるが、直後を襲う激しい頭痛に小さな悲鳴を漏らし、頭を抱えた。尋常ではない痛みだ。脳を直接握られ、揺さぶられる様な痛みは、とても耐えられない。
「力が……使えない?」喘ぐように呟く「暴走した影響?」
立ち上がろうとするも、立ち方を忘れてしまったこのように自力で起き上がる事さえ出来ない。自分の四肢が自分のものではなくなってしまったかのようだ。そこに感覚が残っていない。
「そんな。どうすれば……」
焦慮する彼女の意識を、窓際に眠る男の口から漏れた小さな声が攫う。
声、と呼ぶには、それは少し違うものか。寝言だ。座ったままなんて無理な姿勢での睡眠をしているから、少しばかり苦しげな声が唇から洩れたのだろう。
だが、まだ目を覚ましてはいない。部屋の中には、エルの発する僅かな衣擦れの音と男の寝息以外には何一つ響かない。
エルは布団から這い出て、男の元へ歩み寄る。這う、くらいならどうにか出来た。
エルがすぐ近くまで寄っても、男は目を覚ます気配はない。恐る恐る、彼女は男の顔に手を伸ばし、表情を隠していた前髪を払う。
男の年齢は分からないが、青年、と形容する事が適当な程だろうか。微かな煙草の匂いが、彼女の鼻孔を擽った。
そうしていると、うっかりとエルの手は男の頬に触れてしまう。男は声を漏らし、その身体を動かした。
エルは身体を強張らせ、手を戻す。
男の目が、眩しそうにゆっくりと開く。そして、目の前にいるエルの視線と、目覚めたばかりの男の視線が絡まる。
「あ……」
数分前のエル同様、状況を理解出来ない男は、ただ一言、言葉と呼ぶには程遠い言葉を目覚めたばかりで上手く動かない口から発した。
多分、だが、お早うと言おうとしたのだろう。だが、エルはそれを待たずに動いた。
壁にもたれていた彼の襟首を掴み、強引に引き寄せる。そして床に叩き付けるように押し倒すと、自分はその上に乗る。
「あなたは誰」
自由に動かぬ身体で必死に拘束する彼女は、男の服を強く引く。喉を絞められた彼は、雑音みたいな声で呻いた。
「言いなさい。名前は。身分は」
「そん、なの、あるかよ……っ」
掠れる声に、彼女は自分が強く拘束しすぎていただろうかと自覚し、男の服を掴む力を少しだけ緩める。
絞められていた首に帰ってくる隙間。男は慌てて深く息を吸い込むと、飛び跳ねるように起き上った。
エルはバランスを失う。踏ん張ろうとするも、相変わらず手足に感覚が無い。二人の立場は逆転し、彼女は男に押し倒されてしまった。
「……っく」
背中を強く打ち、彼女は苦痛の声を漏らす。肩が男に掴まれた。
見上げると、男がこちらを睨んでいる。押し退けようにも、ただでさえ身体に自由の無い状況。更には男女と言う体格差。力では、この状況を再び逆転させる事が出来そうもない。
だが、彼女は思い出す。
――拳銃を携帯していた筈だ。
押し倒された体勢のまま腰に手を回す。革のホルダーと、そこに収められた冷たい拳銃のグリップ。
それが、そこに無かった。
「そんな」
エルは思わず声を漏らす。
そうだ。冷静に考えれば、上着が脱がされていたのだからそちらの方も外されていて当然だ。
「銃は、外した」彼は優しい口調で言った「だけど、腰にあんなものがあったら寝難いだろうって思ったからだ。君をどうこうしようって魂胆からじゃない」
「あなたは誰」
「こっちが聞きたい。君は何なんだ」
「私には守秘義務があります。身分の一切は公言しない」
「ふざけんな!」
彼女の言葉に、男は激昂する「助けてやった男にその言葉かよ! ありがとうの言葉もなしで首を絞めるって、何様だよ、お前!」
エルは言葉と共に息を止めた。
「助けた……?」
「そうだよ! 覚えてないのか。西麻布の路地裏!」
エルは必死に記憶を逆行する。だが、やはり閉鎖区域で力を暴走させて以降、今に至るまでの記憶を思い出す事がどうやっても叶わない。
思い出そうとすると、またしても頭の中を握られたような激痛に襲われ、悲鳴を上げる。
「あ――!」
あまりに苦しげな声に、男は慌ててエルの上から退いた。
「ごめ……」謝罪をしようとして、彼はエルの様子が普通でない事に気付く。
背を仰け反らせて喘ぐ彼女は、明らかにおかしい。苦しみ方が尋常ではない。
「おい」彼はエルの肩を握る「どうした。大丈夫か。なあ!」
荒い息を繰り返すエル。やがて痛みは鎮まるが、痛みが噴き出させた汗は衣服を肌に張り付かせている。
深呼吸するように慎重に息をする彼女は、朧気な眼差しで男を眺めた。
「なにが、あったの」
「だから、それはこっちが聞きたい。雷みたいな光がばちばちだ。ありゃあ、なんだ」
「何の事」
「それも覚えてないのか」
「思い出せない」混乱した口調でエルは訴えた。「私には今、記憶の欠落がある。その間に何があったのかが思い出せない。あなたは、その間に立ち会っていたのでしょう。教えて。何が起きていたの」
「だから、判らないって言ってるじゃないか」
焦れったそうに言う彼は、彼女の肩から手を離す。そして、何かに気付いて顔を背けた。
エルには彼がどうしたのか判らない。だが、どこか見てはならないモノでも見てしまった、みたいな表情で顔を背けたという事は判る。だからこそ、彼女は混乱する。
「なに」
エルは必死に呼吸を整えようとしながら訊ねる「どうかしたの」
「服」
彼は、短い言葉で言った。
「中が見えてる。ボタン、締めたら」
指摘され、彼女は一連のやり取りの間に自身のワイシャツの釦の殆どが外れていた事に気が付く。はだけた服の隙間から覗いているのは、真珠のような色をした肌と、まだ小さな胸を覆う下着の白色。
慌てて胸の開きを閉じる。頬が熱くなっているのが判った。
「言っておくけど、何もしてないから」
言い訳でもするように男が言う。
「銃と同じ。寝苦しいとまずいだろうって上着は脱がしたけど、それ以上の、その、なんて言うか、いかがわしい事とかはしてない」
「そう」
なるべく平静を装って返事をすると、男は意を決したように言った。
「相澤瑞希」
「え」その言葉があまりに唐突だったので、エルにはそれが固有名詞に聞こえなかった。
「なんて?」
「おい、普通自己紹介を聞き返したりしないだろう」
「聞き取れなかったのよ」
「相澤瑞希。さっき、何者だって聞いただろ。だから答えた。相澤瑞希、25歳。表参道のレストランで働いてる。君が聞いたような、言うべき身分なんて無い」
「そう」
さして興味も無さげな返答に、彼、瑞希は呆れる。
「君は」
「守秘義務よ」
「名前もか」
「……名前、くらいなら」
「じゃあ言ってくれよ。それがせめてもの礼儀だろう」
エルは逡巡した後に囁くように言った。
「佐伯、エル」
「エル?」
聞き返され、彼女は首肯する。
へえ、と頷き、彼は笑った。
「変わった名前だけど、良い名前だ」
「言えるのは名前だけ。それ以上は聞かないで。詮索もしないで。いいわね」
「――カテドラル」
男から漏れたその単語にエルは震え、驚愕の顔を瑞希へと向ける。だが、その好意が仇となった。結果、その行為こそが瑞希の発した単語の裏に隠された、瑞希が最も知りたかった質問の回答となってしまった。
「その反応」彼は、どこか悔やむような顔をする「本物なんだ」
「どうして。どこでその名前を」
言いかけて、エルは脱がされた自分の上着に目を向ける。正規の制服であるあの上着には、エンブレムが付いていた筈だ。
しまったと、彼女は唇を噛む。
「上着に書いてあった。まさか、本物とは思わなかったけど」
エルは、沈黙する他なかった。この状況下で、一体どんな言葉を言えばよいのかが、彼女の頭にはない。
そんなエルの状況を救ったのも瑞希の言葉だった。
「言えないんだろ」
「え」
「カテドラルの事とか、君自身の事とか。結局は言えないんだろ。だったら言わなくていい」
「ごめんなさい」
「謝る必要は、ないんじゃないかな」
「……ごめんなさい」
瑞希は吹き出すように笑う「謝ってばかりだな」
だが、すぐに鋭い眼差しで質問を続けた。
「答えられるなら答えてくれ。君がカテドラルに関係ある人間だとして、カテドラルの人間は皆あんな超能力を持ってるのか」
「超能力……?」
「辺り一面壊し放題。君の身体から雷が出ていた。君にその時の記憶が無くても、それが普通なのかそうじゃないかは判るだろ。カテドラルってのは、超能力者の集まり?」
「……そうね」
初めこそ否定しようとしたが、今の言葉を聞く限り、能力を暴走させた現場に居合わせたであろう瑞希に対しては、どんな言葉を並べたところで、誤魔化す事が出来ないだろうと痛感するエルは、正直に認めた。
「カテドラルに所属する為に必要な資格。でも、超能力じゃない」
「超能力じゃない?」
うんと頷き、エルは頼む。
「それ以上は聞かないで。聞かない方が、あなたの為でもあるから」
それ以降、エルは自分の肩を抱き締めるように座ったまま口を閉ざした。室内には、窓の外からの降りしきる雨の音だけが二人を包むように響き続けた。
――何かを話さなくてはならないのだろうか。
沈黙に耐えられそうもなく、エルはそんな事を考えるが、では一体何を話せばよいと言うのか。カテドラルの規定に於いて、部外者には基本的に一切の情報を教える事が許されていない。それ以前に、接触すら禁じられている。今こうして瑞希と話をし、彼の口から出たカテドラルという言葉に対し、弁解の余地がなかったからとは言え返答したエルの行為は、明らかな服務規程違反だ。その上で、一体二人の間にどういった会話を望めばよいのかが、エルには見当が判らない。
「できれば」
彼女が絞り出した言葉は、囁く程の小さな声。
「私と会った事、カテドラルの事。すべてを忘れて。忘れるなんて無理だと判る。だけど、それもあなたの為。詮索は駄目。探究心も抱いてはならないわ」
エルは、すぐ近くから彼女に視線を向け続けている瑞希を見て、申し訳なさから遅ればせて謝辞を告げる「助けてくれた事には、感謝しているけど」
「……いや、まぁ。そういう感じに言われるんだろうとは予想してたけどさ」
頭が混乱しているのか、瑞希は自分の頭を掻き、立ち上がる。
何をされる訳でもない事は分かっていたが、エルは立ち上がった瑞希に対して、体を僅かに動かし距離をとった。
「そう言われたんじゃあ、そうしなきゃいけないんだろ」
「ごめんなさい」
「また謝るし。それ、口癖?」
「自覚はしていない」
「帰るのか?」
「……多分」
「多分?」
首肯してから、エルは自分の膝に顔を埋める。瑞希には分からないように、もう一度力を展開しようと試みる。
だが、結果は先程と変わらない。頭に激痛が走り、彼女は悲鳴を上げた。
瑞希が、慌ててエルに駆け寄る。
「どうした」
「大丈夫」来るな、とでも言うように声を大きくする「何でもないから」
「何でもないわけあるか。さっきもそうだ。どこか怪我しているのか」
「そうじゃない」
やはり自分は今、力が使えない。力の暴走が原因なのか、犠牲者と無意識下で同調を続けている事が原因なのかが判らないが、自分に備わっていた力の一切を失ってしまった事を痛感する。
「なんてこと」
悲観するように呟いた彼女は、自分の肩に触れている瑞希の手のひらに気付く。彼女を気遣い、すぐ側に座り安否を探るように、エルの顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か」
その親身な視線が彼女には耐えられない。押し倒し、首を絞めた相手にそんな視線を向けるなんて、彼女には考えられなかった。
罪悪感のような感情に苛まれるエルは、瑞希から顔を背けた。
「有難う。もう大丈夫だから」
「どこか怪我してるんだろ。病院、行くか」
「行っても意味がない」
「……そう、なんだ」
瑞希はそう言って、エルの横に座り直し、その顔を見つめる。
「どうして、多分なんだ。帰れない理由でもあるのか」
エルは沈黙する。その沈黙から、瑞希はその意味を悟る。
「言えないのか」
頷くエル。
「もう、行くのか」
「ええ」立ち上がろうとして、エルは体が巧く動かない事に、その時初めて気が付いた。立ち眩みのように体がよろけ、倒れそうになるのを、とっさに瑞希が抱きとめる。
何故、体が動かないのかは、すぐに原因が分かった。力を使い過ぎた結果、体の各箇所を渡る神経がきちんと機能せず、エルの意識に従わなくなっているのだ。
「言わんこっちゃない。あんなSF映画みたいな事やった後だ、すぐに動ける筈ないだろ」
「私、何をしたの」
「体中から雷みたいなのを出しまくってた。相当痛かった」
「そう、じゃあ、これはそのせいね」
エルは、抱きとめていた瑞希の手を軽く押し戻し、言う事を聞かない体を必死に動かして、テーブルの横に置かれた自分の上着を取る。
「外、雨だぜ。今日は一日こんな天気なんだってさ」
エルは唐突すぎる瑞希の言葉に、言わんとしている事を理解できなかった。
確かに、窓から見える空模様は、すぐに雨をやませてくれるとは思えない程に、厚い雲が覆っていた。
「そう、みたいね」
「そんな天気に、訳も分からずに巻き添え食らったけど、今みたいな状態の女の子を部屋の外に一人で放り出せるか」
エルは、その言葉に驚く「でも」
「言えないとか、秘密主義なら構わない。何も喋らなくていい。ただ、俺はついて行くだけだ。それで、もう大丈夫だと俺が思ったら、俺はすぐに帰る。それなら良いだろ」
エルは考える。断ろうと思ったが、今の自分を考えると、これ程有り難い言葉はなかった。
僅かに思案し、言葉を選び「深入りはしないでね。今以上に、あなたを現実から引き離したくはないから」
「もし、そうなりそうになったら、待てと言われても全力で逃げる」
言って、瑞希は笑う。つられて、強ばっていたエルの顔にも僅かながら笑顔が浮かんだ。
状況は、彼女にとって深刻極まりない筈だったが、この瞬間に少しの安らぎを感じた。
自分の行動に、稀にでもあれ疑問を抱く人間は多い。何故自分がそうしたのか。その行動、行為に至った理由を明確に説明できる人間はそう多くいない。
今の瑞希が、まさにその喩えとして用いる事に適している。
彼の場合、自分の行為以前に今現在何が起きているのかすら理解していない。にも関わらず、その発端となった佐伯エルに同行する意志を示した。今になり冷静な思考を用い考えれば、自分の行為に疑問を抱くのは当然だ。
――俺は何をしている。
そんな自問自答を、彼はもう数え切れない程に胸中で繰り返し、その都度答えなど導き出される事もなく、何時しか疑問は居心地悪い不和感となって彼を襲っていた。
具合が悪いわけではないが、何故か息苦しさを感じる。吐き気も感じる。
「やっぱり、帰った方が」
瑞希の腕を掴みながらゆっくり歩くエルが、長い無言の後でそう声を出した。「酷い顔色だわ」
瑞希は、頭一つ背の低いエルの顔に視線を向ける。だが、エルは視線を逸らした。
「帰りたいのなら、今からでも家に帰って」
「どうしてそんな事を言うんだよ」
「そうしたいような顔をしているわ」
瑞希は、ドキリとする。
確かに同僚の橋本麻美には、事ある毎に瑞希は感情が表情に出やすいと揶揄されていたが、初対面の人間に指摘される程であろうとは思っていなかった。
瑞希は、エルと同様に視線を逸らした。気恥かしさに顔が熱を持つのが判る。
「俺に掴まってなきゃ歩けないような奴が、何言ってるんだ」
「でも」
「大丈夫。自分が何で君に着いて行こうと決めたのか、それが分からなくて悩んでただけだ」
瑞希は、正直にそう答えた。その言葉に偽りはなかった。悩みこそしたが、不思議と帰ろうという気になる事はなかったのだ。
「それは、私も知りたいわ」
エルは瑞希の持つ傘から体が少し出ていたのか、身体を瑞希に寄せつけながら言った。
二人は瑞希の住む街の、駅へと続く商店街を傘を共有させながら歩いていた。雨は朝から少しだけ強くなった。傘をなぶる雨音が、声量の大きくないエルの言葉を聞き取り難くさせている。
傘が一本なのは、エルが体を普段通りに動かす事が出来ず、瑞希に掴まっていなくては歩く事さえままならないからだ。彼女の着ていた服は、それを着て街を歩くわけにはいかない代物だったので、瑞希の持つ鞄に入れ、今は自分の着ていたブラウスの上に瑞希から借りた、小柄な彼女には身体を余らせる程のパーカーを羽織っている。
正直サイズの違いが動き難く居心地悪さを感じてはいたが、借り物に対して不服を言うつもりのない彼女は時折袖を捲ったりしながら歩いていた。
「どうして、こんなにも私に対して良くしてくれるの。普通なら、関わり合いたくないと考えるものでしょう。私は寝起きのあなたを襲ったのよ」
「ああ、あれは驚いたし、痛かった」
彼はその時に掴まれていた腕を上げ、意地悪く言う「折られると思ったぞ」
「だったら、どうして。普通なら、今のあなたみたいにはしないでしょう」
「そうかな」
「そうよ。今のあなたの行動は極度にマイノリティ。異常にも近いわ。どうして自分を襲った相手を匿う様な行為を?」
「それが分からないから、こんな顔してるんだろう」
「まさか、理由も判らずに?」
エルが驚くと、瑞希は居心地悪そうに頬を掻いた。
「言えるのは、君が女の子だからって事かな。もし君が男だったら、家にまで連れて行って看病はしなかった。放置していたかもしれない」
「邪な意図を感じる言い回しね」
表情のない顔で、エルは瑞希を見つめる。
「上着を脱がして、ブラウスのボタンを外したのも、そういう目的があったの? 予想以上に胸が小さくて、淫らな行為は諦めた?」
その言葉に瑞希は憤慨する。
「馬鹿言うな。そんな事、考えてなかった」
その言葉に、エルは驚いた顔になる。数回まばたきをした。まったくの予想外だった。あまり予想外すぎる真面目な答えは彼女に目を剥かせた。
「ごめんなさい。冗談で言ったつもりだったんだけど」
「冗談?」
「ええ。だから、そんなにきつく言われると思わなかった」
瑞希は、大きく溜息をついた。
「冗談言ってる顔かよ、あれが。怒られてるか、嫌味かと思ったぞ」
「ごめんなさい」
エルの謝罪に続けて、もう一度溜息。今度は呆れを含んだ溜息だ。苦笑を混じらせ、彼は問う。
「ごめんなさいは、口癖?」
エルは首を傾ぐ。
「どうして?」
「朝起きてから、もう何回言われたかも忘れるくらいに言われてる。それが口癖でないなら、それを言う事が脳に擦り込まれてるかのどっちかだ」
そんなにもその言葉を言っていただろうかと、エルは朝起きてからの自分と瑞希との間で交わされた会話を思い出す。
細部まで内容を思い出す事は出来ないが、謝罪の言葉を多量に発した覚えはない。だが、瑞希はそう言っている。口癖かと問われる程に、無意識に謝罪の文句でも放っていたのだろうか。
自覚していないが、そう思われていたのであれば何か言葉を返さなくてはならないだろうか。
そう考えて彼女は口を開く。
「ごめんなさい」
またしても謝罪の言葉。これには瑞希も笑うしかなかった。
「カテド……あ、いや。君の組織ってのは、皆そんなに謝るのが好きなのか」
瑞希は、思わず口をついて出かけた言葉を、慌てて飲み込み言い直す。周りにその会話を聞いていた人間が居なかったかと見渡すが、元々人通りの少ない商店街だ。それに輪を掛けてこの雨天。すれ違う人の数などたかが知れている。
何より、すれ違う人の会話を聞き取れる人間など、そういない。
安堵する瑞希に対して、エルは冷たさを含んだ言葉を言う。
「カテドラルに属する人の全てが、元々こちら側の人間よ。あなたと同じ日常を過ごしていた、普通の人間」
瑞希は彼女の予想外の言葉に驚き歩を止める。つられてエルも足を止めるが、彼女は停止を気にせず後を続けた。
「普通の人間なら、普通に喜怒哀楽を持っていて当然でしょう。なら、中には謝るのが好きな人間もいるでしょうね。私はそうでないけれど。私のはただ単純に、偶然的に謝罪の言葉が重複しただけ」
「超能力者じゃない? 普通の人間?」
「ええ。そう言わなかったかしら」
「言った」彼は狼狽する「いや、言って良いのかよ、そんな平然とさ。内部的な事だろう?」
しかし狼狽する彼とは相反して冷静な彼女は、一度止まった歩を再開させながら、ただ進行方向を睨むように見据えて、問題ないと小さく囁いた。
「氷山の一角にも満たない、切れっ端よ。カテドラルの存在を認識しているあなたに言っても、差し支えがない程度の情報。あなた、氷山の端をみて全体の広漠さを把握できる?」
「えっと、それはさすがに無理……かな」
「そういう事。私も馬鹿じゃないわ。言える範囲を弁えて話しているつもりよ。その範囲を超える事は無いわ」
つまりは、その全貌までは話すつもりはない、という事だろう。瑞希は、エルの言葉の裏に潜む意図を、そう汲み取った。
「じゃあ、君も昔はどこかの学校に行ってたわけか。昨日のばちばちを見た後じゃ、にわかには信じられないけど」
「行ってない」
雨が少し強まっただろうか。雨音が、エルの言葉を掻き消してしまった。
「え?」
エルの足がもう一度止まる。その腕を彼女に掴まれていた瑞希は、引き留められる様な格好で、一歩遅れて立ち止まる。
エルの表情が曇る。今までに一度でも明るい表情をそこに浮かべた瞬間を見た事のない瑞希にでも、今彼女の顔に浮かんでいるものが愁傷を讃えた寂しげな色だと容易に判る。
その様子に、瑞希は息苦しくなる。胸に何か刺さったか、そこには妙な痛みも感じる。
「どうした」
問うも言葉は返らない。下を俯いたまま口を閉ざしたエルに、今度はその肩を掴み、彼女を揺らしながら問う。
「どうしたんだよ」
しかし返答は相変わらずの無言。定年の息を吐きながら、彼女を掴んでいた手をポケットに押し込み質問を変えた。
「今の質問は、切れっ端よりも向こうの質問だったのか?」
「そうじゃない」
言葉を必死に探している。今の彼女からはそんな様子が伺える。その視線は足下に向けられたままだ。
どうやら、彼女は自身の語彙の引き出しの中で困惑でもしているらしい。
長い沈黙の後、ようやくエルは引き出しから言葉を見つける。
「私は、なにも知らないの」
言われた言葉の意味を理解するのに、瑞希は多少の時間を要した。
「なにも知らない?」
言葉はなく、エルはただ頷く。返されたのは、その首肯だけだった。
「それ、どういう意味。なにも知らないって……」
「そのままの意味よ」彼女は瑞希の言葉尻に被せるように言う「私は何も知らないの」
「えっと……それ、知識や常識、って意味――」
「ではなく、私は私の何か一つでも知らない、という意味」
瑞希は謎かけめいた返答に困惑しながら首の後ろを掻き、顔をしかめた。
「なんだよ、それ」
「私は――」
言いかけて、エルは口を閉ざした。瑞希に向けて上げた表情は明らかな悲しみの顔となっていた。だが、言葉がそれ以上続くことはなく、彼女はただ、その顔を彼へ向ける事しか出来なかった。
瑞希はその表情を長く直視出来ない。気まずさから瞳を斜め上へ逸らし、彼は雨粒を降らせる空を眺める。
空は二人の心情のように濁った色をしている。
「それは、言えない方の話題だったか」
呻くように瑞希が言うと、エルは小さく頷く。
それ以上の質問を、瑞希は自粛した。純粋に、これ以上エルの悲痛な表情を見る事に彼自身耐えられそうもなかったからだ。
それは不思議な感覚だった。
何者かも判らない初対面の相手に対して、こんなにもその相手の事を知りたいと思う事が過去になかった。相手がカテドラルという、彼にとって未知の存在に属しているからか、それとも相手が彼女だからなのか。それは判らない。だが今現在、この瞬間。佐伯エルという人間に対して、昨夜の敵対心が消えている事は確かだった。
瑞希は、エルに捕まれたままの腕を動かし、彼女を自分の側に引き寄せた。
自然と抱き寄せるようになる互いの格好に、エルは戸惑う。だが、瑞希の腕の中で不思議な感覚を覚えた。
数枚の布地を通して伝って来る彼の体温がやけに心地良かった。それは懐かしくもあり安らぎにも似た、身体の芯に染み込む様なぬくもりだった。
「あ――」
喘ぐような声を漏らすエルに、瑞希は急かすように言う。
「止まってたって仕方ないだろ。ほら、行くぞ」
「……ごめんなさい」
「また謝るし。今のは謝らなくてもいい場面じゃないか?」
「そうね。今のは確かに謝る必要性の無い状況だったわね」
ぴったりと寄り添って歩く彼に掴まりながら、彼女は考えた。
謝るようなシチュエーションではない。なら、今の状況ではどう言えば良かったのだろうか。
彼女は再び自身の語彙の引き出しをひっくり返して言葉を探した。
意外と、今の瞬間に適切であろう言葉はすぐに見つかった。
「ねえ」と、彼の歩を止めるように言い、その言葉に反応して彼女を見下ろす彼と視線が交錯したのを確認してから、彼女はささめいた。
「ありがとう。あなた、優しいのね」
その言葉は寄り添った互いの体温以上に彼の身体に浸透してくる。その浸透してくる言葉が妙にむず痒くて、瑞希は赤面した。
「よせよ、そういうの」
彼は顔を背けた。その理由がエルには判らない。
「なぜ?」
「何故、って、そういう言葉、面と向かって言われると照れるだろう」
「そうなのかしら」
「そうだろう」
彼女は釈然としない表情で、ふうん、と相槌を返した。本当に釈然としていなさそうな相槌だった。
「まさか、だけど……そういうのも判らないのか?」
エルは頷く。
「判らないわ」
「なるほど」頬を痙攣させるように瑞希は笑った「これは重症だ」
「何か言った?」
「いいや、何も」
言って、引き寄せたエルの身体を先導しながらゆっくりと歩き続けた。
雨の勢いは、時間との比例関係にあるらしい。一方が進めば、一方も強まる。道のりも中腹で雨脚は本降りに変わり、彼方の景色は霞み街の輪郭は曖昧になる。
ばらまかれた雨の粒子は空気に混じり、息をするのが困難な程に大気は湿度を孕む。傘を差していても、いなくても慣れ具合に差がなさそうな瀑布のせいで、一本の傘を共有している二人の間の距離は自然とゼロに近付いてゆく。
その距離感に感想を述べたのは、予想外にもエルだった。
「こういう風に歩いていると、恋人同士に見られてるのかしら」
言われた言葉に、瑞希は、僅かに思案した。
「冗談のつもりで言ってるの?」
問い返すと、エルは人形のように頷いた。
「ええ」
彼は小さく息を吐いた。
「さっきも言ったじゃないか。冗談なら、もっとそういう表情で言ってくれないかな。それとも、そういう風に見られたい?」
「まさか」
「だろうね」
瑞希はくつくつと笑む。
そして、それよりは駅に着くまで沈黙。
人気の無い券売機の前で傘をたたみ、瑞希は路線図を見上げる。時間は正午の少し前。改札の向こうに見えるホームに人の姿は無かった。事務室からも人の気配を感じられない。そんな事がある筈も無いと判っていながら、彼は今この瞬間に人間は自分と彼女の二人だけなんではないか、なんていう戯けた妄想を抱いてしまう。
周囲にある音は、雨音だけだった。
「さて」と、財布を取り出して訊ねる「どこまで行くの? 取り敢えず、新宿まで買ったらいいのかな」
返事は即座に返される。
「行けない」という、ただ一言。
「行けない?」
瑞希は、その言葉に疑問を抱く。行けないとはどういう意味か。ひょっとすると、今目の前にある路線図にはJRの駅名しか記されていないので、そういった路線的な問題からそう言ったのかもしれない。
「えっと、JRじゃない? なら地下鉄? 地下鉄なら、やっぱり新宿で――」
「そうじゃなくて」と、彼が言いかけた言葉を、エルが遮った。「公共の乗り物では、行けない」
「行けない?」
「ええ」
「公共の乗り物で……って、おい、ちょっと待てよ」
瑞希は、はっとして思わず息を止めた。
彼女の属するカテドラルという存在と、出会った場所、そして今の言葉から連想される目的地は、この東京に於いて、一カ所しかない。
その推測が間違いであってくれ。そう懇願しながら、瑞希は口に開く。
「閉鎖区域――?」
彼女は一度だけ、小さく頷いた。
…
そこに男が立っていた。
数日は放っていたと思わせる髪は酷く乱れ、整えた様子は見れない。だが、しっかりとした足取りで歩くその姿は、一種異様な気配を漂わせる。風貌だけを見たなら、浮浪者と勘違いされてもおかしくはないが、その一挙一動が、そうではない事を物語っていた。
彼は確かな足取りで以て、地を抉るように歩んでいる。
周囲は荒れ果て、人が生活している様子はない。瓦礫が散乱し、かつては多くの人間がそこに足を運んでいたであろう高層ビル群も、今では無機質な残骸の集落として、地に立つ男を威圧する様に乱雑に折り重なっている。
閉鎖区域。
――人間は素晴らしい名前を付ける。
男が嘲笑する。男が立つのは、閉鎖区域の端。そこを取り囲む防壁がその先の風景を遮り、その範囲を隔離するように完全に包囲している。
男は、隔離された世界で自分が目的としている場所へと向かって歩き続けた。
湿った風が辺りを吹き抜けていく。強い風だった。それまでは無表情に歩を進めていた男も、真正面から吹いた風には思わず顔を背た。
正面から吹かれては呼吸も困難になる。それに、雨を目前に控えたこの気持ち悪いまでの湿度。喉を詰まらせたように息を止めた彼は、顔に渋面を刻んだ。
これだけの湿気り具合だ。雨が近いのだろう。空を覆う雲は厚く、本来そこにある筈の月や星の姿を全て呑み込んでしまっている。そうなってしまえば、閉鎖区域にあるのは深い闇だけだ。歩む先さえ見えなくなる。
だが、その闇が男には妙に心地良い。無意識に口角が上がる。
「いいね、いい感じだ」
誰に向けるでもなく、男は呟く。その言葉は、あくまで自身に向けられたものであった。
自分の言葉に酔いしれ口元は跳ね上がり、奇妙、且つ歪な笑みを形成する。
やがて到達する防壁の麓で、見える筈もないその遥か彼方先を眺めるように瞳を細めた。
冷たく、温もりなど一切無い防壁に手をつく。その冷たい感触を確かめるように滑らかな質感を弄った。
そして何かを感じたのだろう。ふふ、と自嘲にも侮蔑にも見える笑みを溢し、全方位を取り囲む防壁をその位置から舐めるように眺めた。
天には不可視の何かが飛び交っている。見えないが、それに触れると良くない事が起こるのだろう。そんな気はひしひしと感じる。目の前の防壁にも触れぬ方が得策らしい。もし触れれば、興味本位からの授業料は片腕だけで済まないだろう。
まさに監獄。そう思った。これでは、鳥でさえ抜け出せまい。
「カテドラルめ。面白い物を作ってくれる」
舌を噛み千切るように舌打ちをする。
闇は今し方より深くなり、地表の人間さえ呑み込まんとする程、しなやかな流れで大気をすり抜け、男の周囲に突き刺さってくる。
耳元では、数分前から更に勢いを増した湿度のある風が、鼓膜に不快な音を響かせながら、ひっきりなしの往来の連続。
「さて」誰かに向けて言うように彼は言い、腕を捲る「やりますか」
突き出す様に防壁へと向けた手と灰色をした硬質な壁の間で大気が小さく振動し、次第にその振動は増幅され、耳障りな程の轟音へと変貌した。
振動と同調するように、男の目の前で聳える防壁に変化が生まれる。ゆらりと防壁が蜃気楼のように揺らぎ始めた。幻覚や幻などではなく、確実にその現象は男の眼前で起こっていた。
だが、その行為は突如として何かに遮られる。何かが男の意識の中に紛れ込んできた。それが彼の行為を止めてしまう。
「今のは――なんだ」
男の意識の遮断の瞬間、目の前で起きていた揺らぎも消失する。
男は確かに感じた。人間の感覚を聴覚や視覚といった五感に分別するなら、更にその先にあるもう一つの感覚とでも言い表すべき感覚で、彼は確かに感じた。特異な波動を男は感じた。
異常なまでに荒く、激しく、狂気したような波動を。
「異質すぎる」荒々しい波動を、男はそう評する「普通の人間じゃないな」
しばし考え、やがて男はニヤリと笑んだ。濡れ羽色をした上着を翻し、どこへ向かうでもなく歩き始める。
「面白くなりそうだ」
吐き捨てるように言った男の胸元では、金色のエンブレムが揺れていた。