陥落
◇◆◇
時間は元の流れに戻り、瑞希は一日の営業利益を考えると、目を背けたくなる程に散々だった一日を終える。
意味も無く疲れる一日だった。朝と同じ位置の事務所のデスクに凭れる彼は、今日をそう評する。
予約が増えるわけでもなく、大きな金額を使う客が来る訳でもない、客単価も極めて低い一日だった。
だからこそ、疲れた。普段なら、営業が始まれば終わるまで常に何かの仕事に追われているのだが、こうも閑散とした一日ともなれば、身に蓄積されるのは暇疲れだ。
瑞希は、そんな疲れを溜め込んだ肩を揉み、張った筋肉を解す様に大きく背伸びをした。
――暇な日は暇な日で、疲れるもんだ。
心の中で呟き、大きな欠伸。心なしか、今日の疲れは朝方残っていると感じた前日の残りより重たく感じる。
「お疲れチャン」
声を掛けられ後ろを見ると、そこに麻美の姿があった。
「お疲れ」
それまでに、麻美と同じ様にその通路を通り帰宅していったスタッフに返した言葉と同じ言葉を言う。だが彼女に対してのみ、もう一言付け加える。
「実は大して疲れてないだろ」
嫌味のつもりだったが、その言葉を聞いた麻美は、予想外にも「言えてる」と言って笑った。
彼女は、コックコートの一番上のボタンを外しながらロッカーの中に消える。
通り過ぎる時、外したボタンの隙間からちらりと彼女の下着が見えた。見てはならないものを見た、とは思わないが、かと言って凝視するつもりもない瑞希は、とりあえず社交辞令の様に顔を背ける。
そして、通り過ぎる時に鼻を刺激した強い油の臭いと、魚や肉が混ざった、決して良い匂いとは言えない香りに笑う。
「相変わらず、酷い臭い」
瑞希が言うとロッカーの扉の向こうで麻美が声を張る。
「フォアグラやヒラメの香水。――あ。今日はオマールも混じってるか」
「高価だ」くっくっ、と笑い「でも、つけたくない」と言う。
「非売品だから、プレミア価格でかなり高価だよ」
「それでも嫌だ」
「犬や猫なら、よだれを垂らして寄って来るくらいに好かれるのに」
「犬や猫に好かれるより、人間の女性に好かれたいよ」
「普通なコメント」不服そうに彼女は付け加える「つまんない」
ドア越しに、麻美がその臭いの元凶であった一日の仕事を汚れで称えたコックコートを脱ぐのが分かった。放り投げられたコックコートが扉に当たったのだろう。かつん、という音が、扉から響く。
「面白さを、俺に求めるなよ」瑞希はぼやく「芸人じゃないっつうの」
「なに? なんか言った?」
「別に。ただの悪口」
瑞希が時計に目を向けると、まだ九時だった。レストランのラストオーダーも、九時。
こんな時間に仕事を上がれる事は、まず無い。散々な一日であれ、この時間は貴重だ。
「なあ」瑞希が、扉の向こうにいる麻美に声を掛ける「すぐに帰るの?」
「その予定」
「一杯、飲んで行かないか?」瑞希は携帯を取り出し、メールを確認する。
「さっき、オオヤマさんからメールが」
「オオヤマさんから?」
「本文。店が暇すぎて死にそうです。以上」
麻美が扉の向こうで大笑いする「なにそれ」
メールの送信者は、二人の知人だ。二人の職場であるこのレストランから歩いてもそれなりに近い位置で、小さなバーを開いている人物。
バーがあるのは、西麻布。立地も立地だ。閉鎖区域に近い事と例の事件の影響で、夜に賑わうべき土地だと言うのに人通りも寂しくなっていると聞く。
そんな状況での、救助信号だったのだろう。瑞希へ届いたメールとは。
「どう。救世主になりに行くか?」
「うーん……」
麻美は、瑞希の提案に難色を示す。
「明日、朝早いからなあ」
ロッカーから着替えて出てきた麻美は、その扉のすぐ近くに張り出されている、シフト表に目を向けた。
明日は、朝一で仕込みが待っている。週末に催される披露宴用の鯛が店に運び込まれる。それを片付けてから、その日に必要な仕込み。
そう考えると、明日の朝は忙しそうだ。ともなると、今日の早い時間帯の帰宅は恩恵である。有り難く頂戴し、身体を休めたい。
そして、麻美は気付いた。
「そのお誘いがあるっていう事は、瑞希ちゃん、明日はお休み?」
「そう」
「だから、行こうかって気になってるんだ」
「まあね。次の日が休みなら、終電で帰っても支障が無いし」
「明日の予定は?」
瑞希は考え「無い」と言う。
麻美は呆れた。
「無いって、なんにも無いの?」
「あるとしたら、洗濯と部屋の掃除かな」
「淋しい休日」蔑む様に麻美は言う「デートとかしたら?」
「相手がいればするさ」
言って、斜め後ろの麻美に提案する「立候補は?」
「しない」
逡巡も無く断り、短く舌を出す。
「じゃあ、お先に」
従業員用の出口に向かい、朝と同じ様にタイムカードを切り、いつもの定位置、ホルダーの一番前に自分のカードを差す。自分と瑞希以外のカードが、全て退社になっているのを見て、明日の朝も一番前にカードがある事に、麻美は小さな優越感を感じた。
「明日は良い休日を」まだデスクに座る瑞希へ手を振った。「飲まされすぎないように気をつけてね」
「ははは。気をつけるよ。じゃあ……また明後日」
そういって会話を締めくくろうとした瑞希の言葉に、麻美はニヤリ、と意地悪な笑みを返す。
「残念」
麻美は壁に掛かったシフトを指差した。
「私、明後日から二連休」
「お、貴重な二連休かよ」
「うらやましい?」
「一日ちょうだい」
「明日休みの人が何を言ってるのよ。この、ばか」
「冗談だよ」
「冗談に聞こえない」
「だって、半分は本心だから」
「まったく、もう」
麻美は呆れ笑いをしながら、外への扉を押した。
開いた扉の向こうから、湿度を混じらせた外気が流れ込んできて、彼女の身体を押す。思わず、彼女は息を止めた。
既に雨が降っているような湿度だ。世界が濡れているかのようで、どこか気持ち悪い。
「降りそう」
「……雨?」
麻美がうんと頷くのを見て、瑞希は天気予報を思い出す。今晩から明日にかけて、確か天気は大きく崩れる、とか予報が出ていただろうか。明日は一日雨模様だ、と。
「降られないようにも、気をつけて」
そう言われたが、そればかりは空次第だ。彼には気を付けようもない。
「じゃあ、四日後までごきげんよう」彼女はそう言って、扉の向こうへ出る。
「はい、ごきげんよう」
瑞希の返事の後で、扉は閉まる。
麻美の姿が消えた後、一人館内に残された瑞希は、調べ物の為にインターネットの画面を開いた。
気になるワインの生産者がいたので調べていたのだが、文明の発展により、あらゆる情報を提供してくれる、インターネットの膨大な情報量の中に、そのあまりにマイナーな生産者は、名前程度しか紹介されていなかった。
せめて、家柄や歴史、どういった熟成をさせているのかが知りたかったのだが、どうやら無理のようだ。今ばかりは、ネット社会の情報網も役に立たない。そればかりか、ディスプレイ外からの不必要な広告が気なってしまう。
――無理そうだな。
諦める瑞希は、再び時計に目を向ける。麻美が帰ってから、大した時間も経っていない。まだ九時台だ。
そんな折、携帯が震えた。
無音だった室内に突然響いたものだから、彼は肩を震わせて驚いた。そして携帯を開いてみると、メールが一件受信されていた。
件のバーからのメールだった。
文面に、思わず瑞希は吹き出す。
「オレ危篤、スグニ来イ。って……電報かよ」
苦笑するも、仕方ないと彼は立ちあがる。
瑞希は、鞄の中に煙草と財布という少ない手荷物を入れると、外へ向かう。
外は、麻美の言った通りだった。既に雨が降っているかのように、空気に水分が混じっている。降るとなると、街の景色を霞ませる程の瀑布となるだろう。
ふと、瑞希は何気なく夜空を仰ぎ見た。
夜の闇は、吸い込まれそうな程に深い色をしている。さながら、無を目の前にしているかのようで、妙な恐怖感さえ抱く。
夜空から少しだけ視線を下げると、そこには高い壁が見える。
閉鎖区域を取り囲み、そこを文字通りの閉鎖された区域としている防壁。
あれの内側がどうなっているのかを、彼は知らない。彼だけでなく、凡ての人間があの防壁の内側がどうなっているのかを知らない。
歴史の教科書なんかでは、過去の六本木と呼ばれていた時代の写真を見る事が出来るが、それはあくまで過去の姿だ。六本木崩壊が起き、防壁で囲われて以降の姿は誰も知らない。
この地がこうなって、十年。
「なにも、無くなってんのかな」
瑞希がそう考えたのは、仰いだ空の色があまりに深く、無のようだ、と感じたからなのだろう。
そして歩き出す瑞希は、うなじの辺りがじんと熱を帯びている事に気付いた。
…
「状況は、君達が思っているより深刻だ」
穏やかだが、その裏に潜む身を潜めたくなるような威圧感を秘めた言葉に、女は身体を震わせた。
追い打ちをかけるように「理解しているか」と問われても、萎縮した彼女は立っているのがやっとだ。声など出せない。
「はい」
返答したのは、女の横の男。事務的に聞こえるが、どこか面倒臭そうにも聞こえる。
威圧的な言葉の主は、重ねた齢の長さを象徴した白髪混じりの髪を撫でるように掻き、その顔に苦渋の色を浮かべた。
そして、深い吐息と共に、二人の名を呼ぶ。
「木暮陣介」
名を呼ばれ、男が答える「はい」
「如月 詩織」
「……はい」
彼女はどうにか返事が出来た。だが、その声は上擦っていた。
返事を聞き、老人は続ける。
「先に規定として定めていた、能力による捜索対象の捕獲、及び殲滅は失敗。それだけでなく、任務同行という形で作戦参加していた佐伯エルの能力展開と作戦の参加。更には力を暴走させ、あげく、対象の逃亡と佐伯エルの失踪」
老人は、言葉を僅かに途切れさせ「弁明は」と、弁明を許さない言い方で言った。
そのせいで、陣介も詩織も発言が出来ない。辺りには重苦しい沈黙だけが蔓延った。
出来る事なら、詩織は息が詰まり呼吸する事さえ困難なこの場所から、一秒でも早く立ち去りたい。居心地の良い自室で、この真っ黒な制服を脱ぎ、裸足になってアイスを食べたい。今の彼女の気分は、チョコミントだ。チョコミントのアイスに噛り付きたい。
だと言うのに、庁舎に戻るや否や、上官に呼び出され、あっという間にこの査問会議だ。
場所は円形の、天井の高い広間。壁際には、祭壇のような椅子が等間隔に並び、そこには陣介や詩織と同じ濡れ羽色をした制服に身を包んだ人間が、二人を取り囲むように座っている。
全方位からの視線は、最早監視だ。それだけで十分に居心地が悪い。
まして、その祭壇に腰を下ろす総勢十二名が、全員二人よりも階級が上となると、僅かな身動ぎも出来なくなる。詩織が先程から萎縮している理由の殆どが、それだ。老人の口調に気圧された訳ではない。状況が、彼女には我慢が出来ないのだ。
彼女は落ち着く、冷静、静観する。それらの単語とは無縁の人格である。
「弁明は、無いのか」
初老の老人は、他の祭壇より一段高い位置のそこから二人を、そして、その場の凡ての人間を眺めながら再び問う。
「能力については」陣介が、物怖じせぬ口調で言う「把握した時には、すでに展開されていました。前なら何とでも出来ましたが、後じゃあ無理でしょう」
老人は眉を震わせた。
「しかし、止める事は出来たであろう」
「出来た……でしょうけど、その時点で対象とある程度まで同調してましたから」陣介は首を掻きながら横の詩織を指差す「急に止めるのは危険だって、こいつが」
「なっ……!」
萎縮を跳ね除ける憤慨で、詩織は髪を逆立てた。
「裏切り者」なるたけの小声で陣介に噛み付く「私を売るつもり?」
陣介も小声で返す。
「売るも何も、事実じゃないか。言ったのはお前だ」
「だからって……!」
「つまりは、黙認した、という事か」
老人が会話を遮って問い掛ける。
二人は愚痴の小競り合いをやめる。
「彼女の身の安全と、対象の発見を優先した結果です」陣介は言う「不安定な状況下で能力を解除して、新人の身に何かが起きては、それこそ問題だ」
「しかし」老人は、陣介の言葉に被せて言い放つ。
「結果的には、佐伯エルは力を暴走させ、現在もその消息は不明だ。これも十分な問題」
陣介は、言葉を詰まらせる。それ以上言葉を返そうも、思考の中に浮かぶ言葉全てが、今この場所においてはどんな効力もない。無意味な言葉しか思いつかない。
そして、再びの重圧。沈黙。
震える唇を必死に開き、やはり同じような震えた言葉を発したのは、意外にも詩織だった。
「恐れ入りますが、こちらからも質問があります」
老人がその声に反応し、恐怖心さえ抱かせるような視線を無言で詩織に突き立てる。
詩織は、声を上げた事を後悔した。しかし、そこから先を続けなくては、この状況から解放される事が有り得ない。ならば、勇気を持って訊ねるしかない。
突き刺さる視線から逃れるように視線を下に向け、彼女はひとつだけ問う。
「彼女、佐伯エルの能力については、どこまで御存知だったのでしょうか」
「……どういう意味だね」
この時、老人の眉が痙攣した事を彼女は見逃さなかった。
「彼女は、私の見る限り難なく能力を解放していたように見えました。私達は、彼女を新人の同行という認識で扱っていました。彼女を適合者だと、知らされていなかった」
「知らさなかった我々にも落ち度がある、と?」
彼女はその返答に動揺する「そうは、言っていません」
「我々は、佐伯エルが適合者である事を知っていたのかか、と聞いているのか」
「どこまで認識していたのかが知りたいのです。少なくとも、初対面であった私達よりも情報を持ち得たのは、枢機卿、あなたです」
枢機卿、と呼ばれた老人が、そこで初めて言葉を詰まらせる、髭を手で撫で、聞こえない程度の声で唸る。
「その点においては、多少とも寛容に考えねばならんだろう」
老人は、そこで初めて視線を二人から逸らした。目の前の空中を捉え、物思いに耽るようにするが、それは一瞬。瞳には、すぐさま元の鋭刃を纏った視線が戻る。
「しかし、それが冤罪の材料にはならん。それに、お主達は適合者の中でも抜きん出た存在と聞く。隊長に及ばずとも劣らんと、推薦があった。そのように実力のある人間であれば、たとえ予期し得ぬ事態であったとしても、何らかの対応は出来た筈。認識していたかしていなかったかは、今回の一件の議論の解答には繋がらない」
「でも、能力の解放から暴走、そして消失までは一瞬でした。いくら私達でも限界はあります」
「自分達に非が無いと言っているように聞こえるが」
「そのように聞こえたのであれば、陳謝致します。しかし――」
会話は平行線。活路が無いまま永遠の押し問答は続くのかと陣介が辟易し始めた時、徐に会話に割り込む声があった。
「事態は一刻を争う」
その声は二人の真後ろで響いた。振り返ると、眼鏡を掛けた男が祭壇から立ち上がっていた。髪に緩やかなウェーブを宿した、雰囲気も柔らかな男。
彼は神経質そうに眼鏡の端に触れながら、言う。
「佐伯エルは、二人の報告によれば現在も犠牲者との同調下にあると考えられます」
眼鏡の男は、陣介と詩織に聞く「そうだったね」
陣介は首肯した。
「暴走の発端には、過度の被害者となった人間との同調と、それによって視覚を共有していた最中に俺が犠牲者に襲いかかり、それを自分が殺されると錯覚したから暴走したと思われます。その状態での失踪。同調解除のきっかけは、今のところ考えられない。だったら、今も同調下であると考える事が妥当でしょう」
「自力で解除している可能性は?」
「ない」
「言い切るんですね」男は苦笑した。
陣介は気まずそうに語る「暴走を自分で抑え込む事の難しさは、俺もよく判ってますから」
「経験談、と受け取って構わないかな」
「この場の誰しもが一度は経験した、と受け取っていただけるなら」
陣介は嫌味のように言う。それに男は苦笑した。そして何度か頷いてから、話を続けた。
「現状は、確かに早急な行動を求められています。対象である犠牲者と同調したままであろう佐伯エル。それがあとどれ程まで保たれるているのかは不明。しかし、こう考えませんか。彼女を見つけ出せば、犠牲者も見つけ出せる状況であるのだ、と」
その考えの欠点を老人は指摘する「佐伯エルの消息は不明だ」
そう返されるのを予期していた男は、こう返す。
「なら、探す対象を変えましょう」
眼鏡の男の言わんとしている事を、老人はすぐに理解した。
「佐伯エルを、か」
「えぇ、それも今すぐ」
男は不敵に笑んだ。
「事態は深刻だと仰ったのは、貴方です」
老人は、白い髭を軽く揺らし、ニヤリと笑う。
「口が巧いな、卯之花隊長」
「直属でなくとも、大切な部下を守る為です」
その間の二人は、戸惑いながら事態を眺める事しか出来ない。自分達の前方と後方に居る二人が、自分達を挟んで言い合っている。その言葉と言葉の間には入り込む隙間が無い。こうなると、傍観しか出来ない。
この査問会議は、陣介と詩織の処遇を決める会議の筈。だと言うのに会話に置いてけぼりだ。
二人が惚けるのも道理だった。
枢機卿と呼ばれる老人は、視線を自らの足下に向けて僅かに熟考する。その様子を眺める二人に、憂慮の念を示すような口振りで宣告した。
「お前達二人の今回の一件は、決して、その処分がまとまった訳ではないと言い渡した上で、この閉幕の後より、至急佐伯エルの捜索にあたるよう命ずる」
「はい」陣介がしっかりとした意志を称える、強い口調で応える。
「はいっ」詩織が嬉々とした声で応える。
救われた。彼女は安堵した。頭の中では、早くもチョコミントに噛り付く自分を想像してしまう。
「本日、只今を以て、双方にはこれが新たな任務として行動する事を命じる。即刻、取り掛かる様に」
「了解しました」
二人は、枢機卿に対して一度深く頭を下げると、後方にある出口へとその足を向けた。
陣介が違和感を感じたのは、その時だった。
周囲に並ぶ、十二人いる筈の隊長格。等間隔に並んでいる祭壇の中で、一カ所だけ空席があった事に気付く。
陣介は、何故その場に居るべき隊長の姿がひとつ無いのかを怪訝に思いながらも、その場を後にした。
呼ばれて足を止めたのは、広間を出てすぐの事だった。
二人が振り返ると、先程の男がそこに立っていた。卯之花と呼ばれていた、あの眼鏡を掛けた男。
「宗一郎さん」陣介がその姿を確認すると、歩み寄る卯之花宗一郎に会釈した。
卯之花宗一郎。緩くパーマの掛かった髪質が、彼の柔らかな人柄を象徴するように足取りに合わせて揺れた。
詩織も卯之花の姿に、言葉よりも先に頭を下げる。
「先程は擁護して頂いて、有難う御座いました」
そんな二人からの感謝の姿勢に、彼は照れた。
「よして下さい。感謝される事じゃない。それに、他の隊長連中もああいった結果が最善だと知っていたんだ。当然、枢機卿もね。今回の査問会議なんて、形式的なものさ」
「卯之花大隊長の言葉が無ければ、私、胃に穴が開くところでした」
詩織の言葉を聞き、卯之花宗一郎は、眼鏡の奥の瞳を細め、肩を揺らしながら、笑った。
「顔が真っ青だったね。今にも倒れるんじゃないかと心配したよ」
「そんな、……そんな顔、してました?」
冷静を装っているつもりだった詩織は赤面した。だが、内心でアイスが食べたいなんて思っていたという事まで見透かされていない事には安堵する。
「あの」と、陣介「聞きたい事が」
卯之花は、彼の語調が少し変わった事に気付き、少しだけ気を張る。
「なんだい?」
「隊長格に何かあったんですか? ひとり、姿が見えなかったんですが」
その質問を境に、それまで穏やかさが浮かんでいた卯之花の表情に気まずさが浮かんだ。明らかに、触れてはならない話題であった事が分かる。
察知した陣介は、慌てて言葉を吐き出す。
「あ、いえ、ただ気になっただけなんで、別にお話頂けなくても」
「いや、いいんだ。現に何人かは知っている事だし、近々全体へ正式通達される予定ではあった事だから」
「入れ替わりか何か、ですか?」
「そうじゃなく……」
気持ち悪い沈黙。
そして、卯之花は無慈悲な口調で告げる。
「死んでしまったよ。殉職だ」
その言葉に二人は震えた。