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慟哭

 他サイトにて連載中の『EYES』に大幅な加筆修正を加え、新装版として掲載いたします。加筆修正、の域を越えて内容は大きく変わりますが。


 少しでもお楽しみいただければ幸いです。

「明日死ぬとして、生きてた実感ってあんのかね……」

 数分後に死ぬ男が、闇のように深い夜の静寂(しじま)の中で囁いた。

 辺りに充満するのは、ぬるく気持ちの悪い湿度。雨が近いらしい。空気も気早に、その臭いを混じらせ始めている。

 降るとなると、濡れたかのようなこの湿度。街の輪郭を霞ませる瀑布となる事だろう。

「何?」

 女は、男の言葉を聞き取ることが出来なかった。耳を隠す髪をふわりと掻き上げて聞き返す「何て言ったの?」

「いや、ほら。よく言うだろう」

「だから、なにを」

「そういう事を」

「……わからないわ」

「そのままの意味だぞ?」

「えっとね」

 押し問答みたいなやりとりに、女は思わず噴き出して笑う。

 二人が腰を下ろす、ベンチ代りの大きな瓦礫。それが、彼女の動きに合わせて揺れた。

「聞こえなかったのよ。意味を聞いているんじゃなくて、純粋に聞き返しているの」

「ああ」男は、噛み合わなかった会話の理由をようやく悟る「悪い」

 男は言い直す前に、古く痛みの目立つ濡れ羽色をした制服のポケットを探り、煙草を探す。

 煙草はすぐに見つかった。いつもの右内ポケット。箱の中に残っていたのは、一本。最後の一本だ。

 彼は貴重な一本を口に運ぶ。だが、ライターをどこに入れたのかが分からない。いつもなら左のポケットだが、今日はそこに無い。他のポケットを探してみるが、見当たらない。

 仕方ないと煙草を諦めかけた時、横からカチッとライターに火の着く音が聞こえた。横を見ると、女がまだ真新しいライターに火を着けている。

「愛用のジッポは、庁舎のあなたのデスクの上よ」

「気付いてたのか、忘れてるのを」男は座ったまま体を僅かに前に倒し、煙草に火を着ける。

 深く煙を吸い込み、口の中でその香りを堪能し、吐き出した。

「教えてくれればいいじゃないか」

「無くても作戦に支障の無い忘れ物は、どうだって構わないもの」女は意地悪く笑う「禁煙のいいきっかけになるかもしれないしね」

 言われ、男はそんなものは無いと笑う。

「それで?」

「……で?」

「話の続きよ。それで、何て言っていたの?」

「ああ」男は指先で昇る紫煙が流れていく先を追い掛けながら、言う。

 煙は夜の空気に溶けるように、細く流れている。

「よく言うだろ。死ぬ時に、後悔なく生きてこられたかどうかを考えるって。俺の場合、まさに今がそれを考えるべきなんだろうが……。よく分からん」

 その言葉を境に、男は言葉を失った。吸うわけでもなく、ただ煙草が灰に変わる様だけを見つめた。

 そして、長い沈黙。

 やがて女が、口を開く。

「私は、後悔なんて無い」

 男が小さく身を動かすと、煙草の先端に溜まった灰が音もなく地面に落ちた。男が感じていたよりも、ずっと時間は過ぎていたらしい。

「後悔なんて無いわ」と、もう一度言う。言って、僅かな沈黙を挟み「悔いは無かったと思いたいだけなのかも。もし本当に終わりだとしても、自分くらいは自分の人生に悔いが無かったんだって思っていたい。そう思いたいだけ。……自分の、人生だったんだから」

 そして、彼女は恥ずかしげに笑んだ。

「ごめん。多分、あなたの質問の答えになってはいないわよね」

「いや、そんな事は無いさ」

 男は充足感を得た様な笑みを浮かべる。

「なるほどね」男は、自分の中で僅かな安堵感が生まれるのを感じていた。

 ――あぁ、俺は何時でもこいつの言葉に救われてきた。

 彼の安堵感や充足感は、いつだって彼女からだった。

 終わりを目前にして、今更に男はそれを思い出す。

「ありがとな」

 男の口から謝辞は無意識に零れていた。

 予期せぬ言葉は、女をひどく狼狽させる。

「何よ、急に」

 いつもらしくない男の反応に戸惑う女は、向けていた視線を男から逸らす。しかし、逸らしたは良いものの、次に何を見れば良いかが定まらない。彼女の瞳は、忙しなくあちこちを泳いだ。

 男は、女の反応を横で感じてから、言葉を続ける。

「だが、まあ、初めて会った頃からお前のその口振りは気に食わなかったが。後悔があるとするなら、それを治してやれなかった事……」

 男がニヤリと笑うのを見て、女は逸らしていた視線を男へと戻す。狼狽も、予期せぬ言葉が呼んだ妙な恥じらいも消える。今は、何か一言でも言い返してやりたくてならない。

 だが、男の視線に女は発しようとしていた言葉を頭の中で蒸発させてしまう。。

 男は、ただ真っ直ぐに女を見つめる。

 その瞳の奥には、深い親愛を感じる。女へ向けられている、深い思いだ。男の瞳には。それが溢れている。

 女は余計に男を直視出来なくなる。

「その目」まるで、自分の裸身を見られているようで、恥ずかしさに戸惑った女は耐えきれずに再び視線を逸らした。

「ずるい。本当に何でも判っているのは、あなたの眼じゃない」

「いや、俺の能力はそっち(・・・)じゃない。さすがに、無理だ」

「まぁ、確かにそうよね」

 言って、二人は笑った。

「でも」女は、笑っていた呼吸を整え、まだ少し上擦った声で言った。「今はどう思ってる?」

 男は、まるで予想していなかった質問に、すぐにその言葉の意図を理解する事が出来ず、二度、女を見て瞬きをする。

「ねぇ」

 女は、僅かに体の向きと角度を変え、男にすり寄った。互いの肩が触れ、互いの肌の温度が僅か数枚の布地を通して伝わってくる距離にまで肌を寄せる。

「言って」

 女は強請る様に、少し上にある男の顔へ向けて顎を上げた。

 男はその仕草に従い、顔を落とし、柔らかな女の柔らかな唇に自分の唇を重ねた。手に持っていた煙草を捨て、あいた両手で自分よりもずっと小さな女の体を引き寄せ、強く抱きしめる。

 それから、どれ程の時間が流れただろうか。女の体を抱き締めたまま、またすぐに唇を重ねられる程度にまで重ねていた唇を離すと、小さな声で言葉を発した。

「今、何時だ?」

 女も、男との距離を保ったままで左手に着けた腕時計に視線を落とす「……52分」

 それを聞いてから、男は女の体を解放する。腰掛けていた瓦礫から立ち上がる。

「早いな」

 少し遅れて女も立ち上がった。

 二人は廃墟と化した周囲の中の一点、自分たちの正面に視線を向ける。

 二人の周囲は、過去には文明を讃えていたであろう痕跡こそあれ、今やその面影すら残さず、ただ朽ち果てていく運命を強要された廃墟でしかなかった。

 二人は荒廃の中心に居た。

「礼儀正しいのが来るんじゃない?」女は笑う「あっち(・・・)の世界でも、五分前行動が徹底されてるいるのかも。有り難い話だわ」

「時間にルーズな奴なら、もっと良い事が出来たのに」

「馬鹿」

 女は眉をひそめる。見つめる、目の前のただ一点に集中する。

 そこには何も無かった。数秒前までは、確かに何も無いただの虚空であった。

 だが今は、そこにキャンパスか何かがあるかのように、細く黒い一本の線が浮かんでいる。長さで言うと3メートル程。空中に浮かんだその一本の線を確認してから、女は長く伸びた髪を後ろで縛り上げた。

「干渉現象を確認」

 その言葉の直後、二人の声だけが流れていた空間に、突如として耳をつんざくけたたましい音が響いた。何十、何百本もの鋭く研がれた針や刃物で、鏡面を引っ掻き回しているような耳を塞ぎたくなる程の音だ。

 思わず耳を塞ぎたくなる轟音に、二人は苦悶の呻きを漏らす。肌の毛穴が萎縮し、鳥肌が浮き立つ。

 不快な轟音と同調するように、空中に浮いた一本の線はゆっくりと上下に開かれ、扉を開き始める。

 扉、のように見える虚空に浮かんだのは、その向こうに闇を覗かせる穴。あちら側(・・・・)との境界面。

 ゆっくりと開くに従い、開かれた線の向こう側に広がる空間も、徐々にはっきりと認識できるようになってきた。それまでは廃墟を写していた空間に突如として開いた扉は、表現するならばやはり穴のように見え、開いていくに従って吐き気を誘う淀んだ空気を吐き出し、瘴気と形容すべき醜悪な風は、二人の体を侵すように通り抜けていった。

「相変わらず」女は唇を噛み締め、言う「嫌な空気」

 男は、暫く口を閉ざしたままだったが、胸の内に小さな違和感が生まれてから、怪訝そうに首を傾ぎ、言った。

「妙だ」

「何?」

「開くのが遅すぎる。これじゃあ、せいぜい犠牲者(ヴィクティム)だ」

「確かに」女も、その違和感は感じていた。「おかしいわね」

 二人は、その空中に浮かぶ扉から目を離さず、そこ以外の周囲に気を巡らせる。そして、

 状況の変化は、一瞬。

 世界を破壊するような轟音は突如として響く。

 それまで発生していた音の何十倍もの音。それに気付く二人の背後に、先程と同じ一本の黒い線が浮かんでいた。

 いや。同じではない。扉が開き、その向こうから瘴気を吐きだすまでが一瞬だ。線は瞳が瞬く刹那の間に巨大な扉へと成長していた。

「後ろ!」

「分かってる!」

 男は、まだ開きかけのひとつ目の扉へ向けて駆け出し、まだ僅かに残った闇と地面との隙間に体を滑り込ませ、新たにに生じた扉との距離を離す。

 振り返った時、女は男のすぐ横をすり抜け僅かに後方に控える。

 身構える。

 これは異様な光景だ。二人の人間が、空中に浮かぶ闇と対峙している。

「こいつは、凄ぇ」

 男は、頬に汗が伝うのを感じた。これを、恐怖と呼ぶのだろうか、なんて考える頭を一度振る。

「推測してくれ」

 告げられて、女は考察した

「干渉現象から完全な開門まで、一秒未満……」

侵略者(アグレゾール)?」

「でしょうね」

 後方に発生した扉は、先に発生していた扉を飲み込み、さらに巨大な扉を形成した。最終的には、幅も高さも男の身の丈より何倍も巨大な虚空に浮く闇となった。

「安定化」女は一歩後退る「来るわよ」

「あぁ」

 男は眼を閉じる。

 大きく息を吸い込む。

 数秒息を止める。

 拳を強く握る。

 吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出す。

「一気に第三解放まで行く。フォローしてくれ、頼むぞ」

「……分かった」

 女の返事を聞き、男は眼を開く。

 その色は、金色に変わっていた。男の双眸は、僅かに濁りを孕んだ金色に輝いていた。

 二人の目前に生じた扉が淀んだ空気を吐き出しているのと同じように、男からもそれとは異なる衝撃に近い突風が生じる。

「10分で終わらせる」

 男が言う。その言葉を待っていたのか、闇を讃えた扉のなかで何かが動いた。

「早く帰って、風呂にでも入ろう」

 女は震える手で服の胸元を握り締めた。

 恐怖心から、自分の声までもが震えてしまう事を必死で堪えた。恐怖心を抱えている事が男に気付かれないよう、小さく深く息を吸い込んだ。

 震えは、止まらない。

「悔いは無ぇ」

 それが、数分後に死ぬ男の最期の言葉だった。  



 ◇◆◇



「  」



 男は、名前を呼ばれた気がして目を開けた。

 いつもと何も変わらない地下鉄の車内。周囲に知った顔があるわけでもなく、その場所で男が声を、それも名前を呼びかけられる筈もない。

 ――寝てたのか。

 男は気付く。夢か何かだろう。或いは、何かの音がそう聞こえたという、錯覚。

「間もなく表参道」

 車掌の業務的な声が車内に流れ、男は入り口の上にある電光掲示板に目を向ける。自分がいつも降りる駅名が表示されている。膝の上に置いた鞄を肩に掛け、電車が完全に停止する前に、ドアの前まで移動する。

 足が重い。前日の仕事の疲れが抜けていないのか、朝のこの時間、歩く事さえ億劫に感じてしまう。

「あぁ、くそ」男は吐き捨てるように言う「寝足りない」

 ――栄養ドリンクでも買っておけばよかったかな。

 そんな事を考えながら電車を降り、鎖を引き擦るような重たさを覚えた両足を必死に動かしながら改札を抜けた。

 いつも通る長い地下道を抜け、改札から一番離れたところにある出口から地上へと抜けた。

 地上に出ると、男はまず肩に掛けた鞄に手を忍び込ませ、手慣れた様子で、煙草とライターを同時に取り出した。視界の隅には路上喫煙禁止区域(・・・・・・・・)と書かれた標識。

 気にせずに出口から一番近い裏道に入り込み、口にくわえた煙草に躊躇う様子もなく火を着ける。

 ――どうせ、監視してる奴なんていないだろうし、それにこの道は煙草を吸う奴しか通らない……。

 男は自分に言い聞かせるように、胸中にそんな言葉を響かせた。

 そんな時だった。

「よう、不良」

 まだあどけなさが残る女の声が後ろからするよりも早く、男は着ていた黒いベルベット地の上着の裾を強く引かれる。自分のすぐ後方に誰かがいる事に気付く。

 それが誰なのかは振り向かなくても判る。よく知った人物だ。何より、挨拶よりも先に服を引っ張りかねない人物を彼は一人しか知らない。

「歩きながら煙草吸ったら駄目なんだよ」女は続ける。

 男は面倒臭そうに顔を顰めさせながら振り返る。振り返ると、予想通りの彼女がそこに居た。

「違う」女を確認した彼は、眉にしわを寄せる「煙草を吸いながら、歩いてる」

「同じじゃない」

 女は少し呆れて笑った。「屁理屈ばかり」

 ――あぁ、どうして今日に限って、こいつに出くわしたんだ。

 男は朝一番の、このあくまで日常ありふれた、知人との遭遇という不幸に舌打ちを打ちたくなる。

「何、怒った?」

「怒る? 俺が? ……なんで」

「そういう顔してる」

「……どんな」

「こう――」女は、右手の人差し指を立て、自分の眉間にあてた。「こうなってる」

 女は笑う。「瑞希ちゃんは、感情顔に出やすいから」

 男の名前だ。瑞希。相澤瑞希。名前のみを文字として見ると、女性の名前と思われがちなこの名前を呼ばれ、男は、それまでと同じ表情で女を見る。

「仕事が始まればポーカーフェイス」

「どうだか」

 女は歩調を早めながら続ける。

「私は厨房だから、そういうの見てないし」

 ふと、女は気付いて嫌味を言ってみる「お客さんも瑞希ちゃんなんて見ていないのかもね」

「見てないよ」彼、瑞希は認める「レストランに来る客が見ているのは、8割が料理。2割が内装」

「見られてないじゃん」

「そんなもんだよ、サービススタッフなんてさ。料理を食べさせる側の存在を、消費者はよく知ってない」

「作る側も同じようなもんよ」

 今度は、女の方が不機嫌な表情に変わる。

「鳩が客の口に運ばれるまでに、どんだけ面倒な仕込みがあると思うのよ。窒息させて血と一緒に熟成させて、羽をむしって、皮を炙って毛を完全になくして……」

「客は」瑞希は愚痴が長くなりそうな予感を察知して、口を挟んだ。「旨いって言って食ってるよ」

「当然じゃない!」 振り返りながら、女は手に持っていた鞄で瑞希の膝あたりを叩いた。「私が仕込んでるんだから」

「仕込みだけじゃん」

「うっさい」

「火入れはまだ許されていないポジション」

「まだ」と、女はその僅か二文字の単語を強調してから「させてもらえてないだけ」と続ける。

 それからも、二人の会話は続く。

 否。

 愚痴は続く。

 お互いの職場であるレストランに来た客の話。ソースが甘すぎた、濃度が濃すぎないか、料理の提供までの早さ……。

 時折は年相応に話題のアーティストの新譜を聞いたか、なんて話も出たが、

「聞いてない」

 の一言で敢無く会話は消滅。

 気が付くと、二人の足は店の裏口に到着していた。

「あぁあ」

 女は、タイムカードを探しながら不満げな声を出す。いつも、一番最後に店を出て、朝は一番……ではないにしろ早く来るので、自分のカードはすぐに見つかった。

 朝出勤する時、大抵の場合カードは一番前にある。この場所が彼女のカードの定位置だった。

 カードには、橋本麻美と書かれている。彼女の名前だ。

「仕事の話をしている時の方が、話が盛り上がってるなんて嫌だなぁ」

「仕方ないんじゃないの? そういう性分なんだろ、俺たちって」

「まだ年頃の女の子なのに」

「誰が」

「私」

「年頃ねぇ」笑う瑞希は、駅を出てすぐに火を点けた煙草をタイムカード横の灰皿に押しつけ、そのまま自分もカードを切る。

「何よ」

 麻美は、やや嫌味を含ませた瑞希の言葉に反応する。

「25歳、十分年頃」

「何も言ってないじゃん」

「瑞希ちゃんだって同い年でしょ」

「だから」瑞希は、詰め寄る麻美の頭を数回宥めるように優しく叩く「何も言ってない」

「目が言ってる」

 麻美は瑞希の手を払い、レストランの事務スペースに入っていく。女性用のロッカーは事務所の奥だ。

 瑞希も、麻美の後から事務所の中に入り、麻美の入っていった更衣室から少し離れたところの机に座り、パソコンの電源を入れた。

「瑞希ちゃん、まだいる?」扉越しに、麻美の声。

「あぁ」と返事を返す。扉越しで相手には見えないのに、しっかりと手まで振り「ネットでニュース見てる」と教える。

「あのさ」少しの間を挟み、着替えを始めた麻美が問う「昨日のニュース、やってる?」

「……ああ」

 瑞希は、慣れた手つきで画面の中のインターネットのフォルダーを選択し、いつも見ているニュースの記事を開く。

「もう流れてる」

 確認するのはトピックス。画面をスクロールさせ、流すように記事を確認した。

 経済情報。芸能ニュース。それらより上の行に、その記事は題名を掲載させていた。

「でも、書いてる事は変わらないな」

「遺体は見つかってないの?」

「遺体どころか、殺人事件だって断定も難しいんだろ?」

「でも、今年になってからもう五回」

 瑞希は、もう一度画面をスクロールさせ、記事のタイトルを確認すると、誰にも聞こえないような小声で呟いた。

「連続猟奇殺人、痕跡のみで、未だ遺体は発見できず」

 事件は、今年の初頭。まだ新年を迎えた興奮が街の中に残り香のように残っている頃に起きた。発見者は民間人、発見されたのは、夥しいほどの血痕のみ。遺体は、必死の捜索にも関わらず、未だに発見されていない。それと全く同じ事件が先日も起き、結果五回目の「猟奇殺人」として世に報道されている。

 捜査している警察も、前例のない事件の発生に未だに解決への糸口すら見つけられずにいるのだが、ただ唯一判っている事がある。それは、その五件の事件、全ての発生場所に、一つの共通性が見られた事。

「全部、閉鎖区域(・・・・)の近くで起きてるんでしょ?」

「そう……みたい」

「私さ、家、結構近いんだよね」

「恵比寿だっけ?」

「そう」

 それまで、扉越しで少しこもって聞こえていた麻美の声が、重い扉を開く音と共に普段通りの響きを取り戻した。瑞希が振り向くと、まだ白いコックコートに着替えた麻美が立っていた。

「本当、怖い」髪を結えながら、彼女は脅える。

 瑞希は浅く考える。

「何なんだろうな、マジで。死体が消えるなんて」

「犯人、絶対にレクター博士みたいな奴だよ」

「レクター?」

 思いがけない単語に、瑞希は思わず吹き出す「羊たちの沈黙の?」

「そう、そのレクター博士」

「なるほど」瑞希は、背中を深く椅子に倒し「うまい事言うな」

「本当に怖いんだから。昨日だって、少し遠回りして帰ってるんだよ」

 閉鎖区域は旧名称で呼ぶなら、六本木。麻美のマンションは恵比寿。決して遠く離れているわけでもないが、確かに、こういった事件が起きた場合には、気懸かりになる距離である。

「早いとこ、犯人見つかってほしいもんだね」

 瑞希は、パソコンの画面を閉じ、続いて予約を打ち込んであるファイルを立ち上げると、また一本、煙草を取り出し火を着けた。狭い室内は、瞬く間にその香りで充満されていく。

 瑞希は体を動かし、椅子に座ったままで手を伸ばして換気扇のスイッチを入れる。

 低い、換気扇の回る音が事務所を震わせるように響いた。

「じゃあ、先に行くね」麻美は、瑞希の肩を叩き「吸いすぎ」と警告する。

「朝から何本目よ、煙草」

「控えるようにするよ」

「無理なくせに」

 笑いながら麻美は手を振り、事務所から消えていった。瑞希は開かれた予約表で、今日の予約を確認する。

 昼が12件、夜は閑散として3件のみ。古い洋館を改装して作られた、言わば、グランメゾンと称される、彼の勤めるレストランとしては、悲鳴を上げたくなる予約の入り具合である。

「高級フレンチレストランが、聞いて呆れる」

 悪態を付きながら、瑞希は、その予約表を数枚プリントアウトした。麻美が出ていってから無言が支配していた室内に、プリンターが作動する無機質な音が響く。

 時計に目を向けると、ちょうど九時になるところだった。定時の出勤時間は十時。同僚が揃うまでは、まだ一時間もある。

 ――昨日の、あのお客さんにメールでも送れそうだな。

 そう思い、今度はパソコン上のメール作成画面を開き、毎回彼の中では通例になりつつある文面で、昨日に来店した客への感謝の文面を打ち始めた。

 しかし、頭の中は大して気にも留めないように思っていた筈だったのに、直前の会話が未だに残響のように残っていて、なかなか思うようにキーボードを操作する指が動いてくれなかった。

 連続する謎の事件。

 発見されていない遺体。

 唯一の手掛かりとなる、現場に残されていた大量の血痕。

 そして、閉鎖区域。

 いつもと何一つ変わらない日常の朝に、瑞希の頭は理由も分からずにひどく混乱を始めていた。


 その時、彼の胸を這うようにかじっていたのは、紛れも無く恐怖感であった。



 ◇◆◇



 時間は、巻き戻る。静寂と深淵な闇が支配する深夜へと。

 まだ、日付が変わってから一時間も経っていない。日中こそ、少しずつ春らしい陽気を感じるようになる季節ではあるが、この時間ともなれば肩を窄めたくなる程に周囲の大気は冷たさで肌を刺す。

 場所は、六本木。

 現在は、多くの場合、別の名で呼ばれる。

「閉鎖区域」

 その場に立つ三人の人間の内、その声から男だと分かる人間が呆れたような声を上げた

 この地が、その名前で呼ばれるようになってから、既に十年の歳月が流れていた。

 事のきっかけは、六本木の地下で発生した大規模な地殻変動と、それに伴う今も尚その発生が謎に包まれている、広範囲に渡る融解現象(メルトダウン)であった。

 ただ、その報道が世間に流れた時、人々が驚いたのはその事実より、その二つの併発した現象を察知した機関が全くの未知の存在であったという事であった。

 機関の名前は、カテドラル。

 キリスト教における、司教座聖堂を指すその名を冠した機関は、突如としてその存在を現し、六本木の地が消失するという誰もが疑わざるを得ない事実を伝えた。

 人々は戸惑い、自らの取るべき行動に迷いの色を見せ、ある者は従い、ある者は、それこそ都市伝説や世紀末に溢れる過去の人間が残した滑稽な予言か何かだと、その報道を無視した。

 しかし、カテドラルの告げた二つの現象の内、地下の地殻変動は、確実にその予兆を見せ始めた。

 微震の連続。

 人々が、カテドラルという未知の存在を認識しざるを得ないと判断した時、その日は訪れた。

 いつの時代も、日常が崩壊する瞬間とは唐突で、無慈悲で、否応無くその事実を人々に突き立てる。

 六本木のみ(・・・・・)で発生した、マグニチュード8を超える人類史上においても例のない、限り無く局地的な大地震。そして、その直後に併発した、本来ならば、核融合における悲惨な事故としてしか発生しないはずの、同じく六本木のみにおいて発生した融解現象。

 人々は、その一部始終を発達したメディアの力を持って、リアルタイムで目撃し、その世界の終演を彷彿とさせる光景に恐怖し、身を震わせた。

 しかし、二つの現象は、あくまでも六本木のみでしか発生しなかった。

 それが、この現象の大きな謎である。

 大地震も融解現象も、隣接する土地にまで広がることがこの十年、一度も無かった。

 そして、六本木の崩壊。六本木は聳え立っていた数多のビルを崩壊させ、融解させ、消滅した。

 過去に文明を讃え、発展の象徴のように扱われていたその地は、結果、その一帯を閉鎖区域と名を変え、現在に至る事になる。

 それと同時に、その正体さえ謎に包まれていた、カテドラルと自らを名乗った機関は、忽然として歴史の裏にその姿を消した。

 カテドラルが何者であったのか、その事実を知る者は、結局、カテドラル自身のみでしかなかった。

六本木崩壊の直後は、多くのカルト的な報道番組が街を埋め尽くし、カテドラルのその存在を探る傾向が見られた。

 ある者は、FBIのような確実にその存在を隠蔽された機関だと真実味のある事を。

 ある者は、カテドラルと言うキリスト教に影響のある名前から、フリーメーソンのようなキリスト教から派生した数多くの宗派の一つが奇跡的に予言を的中させたのだと、ありとあらゆる文献から資料をかき集め、こじつけ、報道した。

 しかし事実に辿り着く者は現れず、やがて六本木崩壊もその他のあらゆる悲惨な事件や紛争と同じように人々の記憶から薄れ、過去の出来事の一部へと記憶の奥に追いやられていった。

 今も尚、閉鎖区域としていかなる場合も立ち入りを禁じられたその場所に立つ三人の人間。

 全員が同じ、軍服に似た燕尾服のような、上着の裾が長い濡れ羽色をした制服を身に纏い、その表情は、目深に被った金の刺繍を施された帽子によって見えない。たとえその帽子が無かったとしても、頼りない月明かりのみが照らす宵の暗がりである。隣合う人間の表情さえ見る事が出来るか判らない。およそ、その輪郭を捉える事が限界であろう。

「閉鎖区域」

 声から男と分かる人間が、続ける。「やっぱ、良い気持ちはしねえよな。まだ瘴気が残留してやがる」

「そりゃあ、たったの十年やそこらじゃ浄化はされないでしょ」

 もう一人は、同じようにその声から女だと判った。声色が多少落ち着いて聞こえるので、少女、と位置づけするよりは、実際の年齢は上だろう。

「いや」男は女の言葉を否定するように首を振る「雰囲気が苦手なんだ。この……息が詰まる感じが」

「仕事だから、我慢」

「はいはい」言って、男は乱暴に頭を掻いた。

「律儀にこんな所で、毎回事件なんて……」

「こんな所、だからでしょ」女は被っていた帽子の鍔を僅かに上げ、周囲を見渡す「ここは、世界の境界面。ここでなら、なんだって起きる」

「だから嫌いだって言ってるんだ」

「だから我慢だって言ってるの」

 面倒臭そうに言うと、女は準備運動のように腕を回す。

「始めるわよ」

 ゆっくりと息を吸い、そして、充分に肺の中を呼気で満たした後、それを吐き出す。

「捜索開始」

 直後、男と女の双眸に変化。

 瞳が金色に輝いた。濁りを帯びた、金色だ。

「鬼が出るか、蛇がでるか」

 男は、どこか楽しげな声色で詠った。


 閉鎖区域に立つ人間は三人。

 それまで、沈黙を保っていたもう一人は、ただ人形の様に二人の様子を見つめるだけであった。



 …



 それから、どれ程の時間が経ったか。実際には、ものの数分だが、男には何倍もの時間が経過していたこのように感じられた。

 男は臓腑でも吐き出しかねない溜息をつくと、飲み込まれそうなくらいに深い色の夜空を仰いだ。

 闇のような色の空だった。

「駄目だ」男は疲弊しきった声を漏らす「まるで、痕跡がねぇ」

 男は、すぐ横で同じように神経を研ぎ澄ませていた女を見て「もう、向こうに帰っちまったんじゃねぇのか?」と、問う。

 探しているモノが見つからないのであれば、それは無いのではないか。彼はそう判断したくなっていた。

「空間の干渉現象は、一度だけです」声は、女とは別の方向から。

 それまで、事の成り行きを眺めていただけの、もう一人の人間だ。

 女だろう。もっとも、こちらの方はもう一人の女とは異なり、確実にまだ少女だと見て取れる。恐らくは、年端もいかない齢だろう。

 先の女は制服の上からでもそこに確かな女性的な体のラインが見えていたが、その少女には、そのふくよかなラインは無く、肩も狭い。

 三人目は明らかに少女だ。その身体は小さい。声も明らかに幼い。

 そしてその声は、どこか人として欠いてはならない感情を欠落させている、ようにも聞こえる。

 そんな抑揚のない声で、少女は言った。

「二度目の干渉現象が観測されない限り、まだこちら側にいる可能性が極めて高い」

 少女のその言葉に彼は苛立つ。

「判ってるよ」

 男が舌打ちをして顔をしかめると、女がくすりと笑った。

「新人に諭されちゃあ、どうしようもないわね」

 その言葉が、彼の苛立ちを更に刺激する。

「うるせぇな」

 悪態をつき、男は改めて神経を研ぎ澄ます。探しているモノの痕跡を見つける為、彼は再び自身の感覚神経を大気に混じらせた。

「見つかるまでやりゃあいいんだろう」

 彼の感覚の中で、世界は小さくなってゆく。肌で感じられる範囲が広がってゆく。

 皮膚と空気との境界が消えていく感覚。大気に混じった彼の神経は、その金色を灯した双眸に彼方の光景を届ける。そこからでは見える筈のない、彼方を。

「まったく」男は見える景色に愚痴をこぼした。「魔的すぎるよ、相変わらず」


 うなじが、熱を帯び始めていた。



 少女はどうするか悩んだ。それまでと同じように傍観だけをしていようか、それとも、ふと視界に写り込んだ黒く変色した痕跡にその意識を向けてみようか。

 思案は短い。彼女はその痕跡へ向けて歩み寄る。傍観は止める事にした。

 極力、集中をしている二人の邪魔をせぬよう足音を殺す。気付かれないよう、という意味の方が僅かに強い。

 事前に知識がなければ、その痕跡が何であるのかを知る事は難しかったであろう。流れ出てから既に長い時間が経ち、元々の色は大気による腐敗を受け入れて、この頼りない月明かりの下では黒い液体にしか見えない、人間の物であろう夥しい血。

 しゃがみ込みよく見ると、すでに乾燥を始めている。現状では、それを液体と定義する事は難しい状態である。

 酸味に似た異臭が少女の嗅覚を刺激する。胃腑が異臭に驚き萎縮する。

 だが、彼女は表情を変えず、恐る恐る固形化を始めた液面に細い自らの指を浸した。

 砂に触れている様な、ざらりとした感触。

 ――勝手な行動。

 そこで少女は一瞬だけ躊躇う。

 ――査問会議にかけられるだろうか。

 だが、今は自分の事を考えているような状況ではないと判断する。

 少女は瞳を閉じ、意識を集中させた。

 そして、少女は確信する。



「探し方を変えればいい」

 唐突に少女が言った言葉に、二人は怪訝そうな表情で顔を見合わせた。

 何を急に言い出すのか。抱く感慨は、そういった内容だろうと感じてはいたが、少女は気にせずに言葉を続けた。

「私たちが探しているのは、一回目の干渉現象が発生した際の、五人の人間を捕食してその波長が変わっているであろう対象の痕跡」

 女は、ええと頷く。それは作戦開始前のブリーフィングで、ノイローゼになるくらいに繰り返し説明を受けた内容だ。

「把握されている対象の波長は、それだけ。で、それを探すのが私達の今回のお仕事」ふと、思い出したように付け足す「そいつがもう何人食べたんだかわからないから、ブリーフィングで教えられたそいつの波長なんて、たいしてアテにならないんだけど」

 女は、少女の背後へと歩み寄る。その気配を感じながら、少女は更に集中する。

「波長の変化は人間の成長と同じようなもの。変化したとしても、その面影は残っている」

「その面影を見つけ出す事は難しいわ」

 少女は少しの沈黙を挟み、指先のみを浸していたその血痕に、手のひら全体を押しつけた。

 ゼリーみたいな感触に、少女は悶える。

「人間にも、波長が」少女は思い出しながら語る「対象の波長の変化は、捕食した人間の波長に由来する筈では」

「まあ、理論的にはね」

「おい」二人の会話に男が入り込む。その顔には、何かに気付いた様な表情が浮かんでいる。

「まさか、おまえ……」

「ええ、そうです」

 少女は、閉じていた瞳を開いた。

「その対象の波長の面影は、ここにある」

 少女の両目は、二人と同じ様に輝いていた。

 だが二人との相違点は、その色が白銀だった事。さながら月を埋め込んだかのように、その輝きは眩い。

 男が慌てて声を上げる。少女の行動を制するのが遅すぎた。

「お前の作戦参加は許可されていない。今すぐ力の展開をやめろ」

「処分なら」と、少女は語調を強くする。

 その瞬間の少女の声は、男が初めて耳にした、彼女の感情というものを感じられる響きをしていた。

「いくらでも受けます。だから、今だけは許して下さい」

「だからって、お前みたいな新人が……」

 男が詰め寄ろうとするのを、少女は体を動かさずに、言葉で制する「もう少しなんです」

 少女の肩が忙しなく上下を始める。呼吸は不規則さを増し、その表情には苦痛とは異なる疲労の色が伺滲み始める。

 どこからか浮き出た汗が、頬を伝った。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 少女は悶える。どれだけ呼吸を繰り返しても、首を絞められたようで苦しさが治まらない。だが、無理にでも平静を保ち「もう少しで見つかる」と言う。

 二人は酷く驚愕した。

 白銀の両目を見開いたまま、ただ、己の正面を見つめる少女。

 だが、彼女は目の前の風景を見てなどいない。彼女の視界に映っているものは、それとは全く異なる風景だった。

 例えば、自らの視界を綺麗に覆う眼鏡やそういった物に映像が映し出されるように、彼女の目に映り込む光景は、確実に今彼女の目の前にあり、彼女が見ているものではなかった。

 彼女の視界は、高速で目まぐるしく移動している。レーシングカーの前方に取り付けたカメラがあれば、こんな映像を録画していただろう。彼女が見る景色の速度は速すぎる。

 ある時は地上を駆け抜け、ある時は上空へ飛び上がり俯瞰風景を見せ、そしてまた地上を高速で移動した。

 ――もう少し。

 少女は、自らの頬にまた汗が流れるのを感じた。今度のは、先程よりも粒が大きかった。

 想像以上に疲れる。少女は、まだ自分自身の感覚を保ったままの聴覚に、自分の激しい息切れの音を聞く。長距離を全力疾走するよりもひどい息切れだ。呼吸する度に、息が喉を切り刻むようだった。呼気に、血の味が混じっている。

 ――もう少し。

 視界は僅かに減速する。彼女はごくりと、喉を大きく上下させて唾を呑む。そして、再び荒い息。

 ――もう、少し。

 そして世界は止まる。

 その瞬間、彼女の細い体は痙攣するように震えた。

 背中を大きくそらす。

 荒げていた呼吸が、水を打ったかのように静まった。

 彼女が見る世界は静止している。

 彼女の視神経が、対象の視神経と重なり合った。

「見つ、かった」

 その言葉に男と女は、驚きの色を隠す事が出来ない「本当に、見つけちまった」

 呟く男の声に、女が続ける。

同調(リンク)したの?」

「はい」

 背が反り返ったままの歪な姿勢で、少女が答える。その姿は、折れた花、みたいだった。

「近く。すぐ、近くを……歩いてる」

 その視界には、ゆっくりと歩く何者かの視界が映り込んでいた。だが、その目線の高さは人間のものよりもずっと低く、地面のすぐ近くを移動している。荒廃した背景から、場所が閉鎖区域内である事は判る。

「どこだ」

「焦らすような事を言わないで」

 女が男を宥める。女には、少女の置かれている状況がどれ程に不安定で、どんな些細な出来事でも容易くバランスを崩せる天秤の状態かが判っていた。

「ゆっくり」優しい口調で、女は語り掛ける「ゆっくり、今の状態を維持することだけを考えて」

「は、い」

 少女の視界は、変わらず、ゆっくりと歩を進めていた。幾つかの瓦礫を越え、過去の融解現象によって黒く変色を起こした、元々はビルであった部分の壁を曲がる。そして、彼女は見付けた。

 荒廃の中心に佇む三つのシルエット。

 少女は気付く。

 ――私達だ。

 いけない、と察知して、少女は声を張り上げた。

「構えて!」

 そして、獣の声。

 雷鳴のような雄叫びは空気を裂き世界を壊すかのように響く。

 少女には、その同調を続ける対象が初めに狙いを定めた人間が何者なのかが分かった。

 自分のものではない視界に、自分の姿が迫る。見る間に、自分が近付いてくる。

 初めに狙われたのは、少女だ。 

 視界の中で一瞬のうちに迫る自らの姿。自分の首筋に狙いを付け、獣は牙を並べた唾液まみれの口を大きく開いた。

 獣の牙が、細い少女の首筋を捉える。その至近距離。後はその牙が少女のやわ肌を裂き、内側に保っていた血肉が裂かれた皮膚から噴水の様に噴き出すのだろう。

 少女は生を諦めた。頭に思い描いた末路通りの死に方に身構える。

 だが、臨終のその直前、視界の中に現れたのは男の姿だった。

 鼓膜をつんざく轟音と共に獣は吹き飛び、ビルの壁を粉砕しながら、その粉塵の中に消える。

「無事?」

 女が少女の後ろで身構え、訊ねる。男は、獣を殴り飛ばした姿勢のままで少女の前。

「あぁ、俺はな」

「そっちは」少女を見下ろす「大丈夫?」

 少女はどうにか首を動かし首肯した。その頷きを遮るように、濛々と舞っていた粉塵が震える。

 爆発のような咆哮。やがて鎮まる煙の中から、ようやく獣はその姿を露わにした。

 粉塵の中に浮き上がる異形の全形は、まるで肉の塊。犬のような外形をしてはいるが、あまりに醜く人より巨大だ。

 両頬の肉は抉り取られたように消失している。鋭く並んだ牙も何本か足りない。

 そして、一番の異常は前脚。人間であれば肩甲骨のあるべき部分から生える白い骨格。獣の骨格が、そのまま隆起し皮膚と筋肉を突き破ったであろう事が、突き出た骨格に付着した血痕と肉片から判る。

 それは、脚の継ぎ目から突出した槍のようだった。

 男は舌打ちする「犠牲者」

 女は少女の前に出る。

「相当に変体を起こしてるわね」後に、正直な感想「しばらくは、肉を食べたくなくなる」

「だが」男は姿勢を地に這うように屈める「この程度なら、余裕で殺せる」

 男は、一気に駆け出した。いや、駆け出す、と言う言葉は適切ではない。男は、獣が瞬きをするほんの一瞬の間に、互いの間隔を眼前に迫るまで縮めていた。

 男の動きは、速すぎる。

 眼前の獣。握り締める拳。旗幟を掲げる様に振り翳し、獣の頭蓋を粉砕させる。

 筈だった。

 男の拳は、何事も起きなければ確かに獣の頭蓋骨を粉砕し、死に至らしめていただろう。だが、その何事が起きた。

 突如として響くのは、少女の悲鳴。

「やめて!」

 硬直するように、彼は止まる。振り返ると、少女は頭を抱え全身を恐怖に震わせながら、平静とは懸け離れた様子で叫んでいた。

「やめて、やめて!」

 ――何だ?

 男は状況の一切が判らない。その、男が困惑している一瞬の隙を突き、獣が牙を剥き出しにした。

 腹部に重たい衝撃が走り、男は吹き飛ぶ。

 押し潰された肺は膨らむ事が出来ず呼吸が止まる。転がるように地面で跳ね、ようやく止まった彼は息をするより先に、まず吐血した。

 獣の、あの巨大な前脚にやられたか。だが、負傷は致死ではない。吐いた血の量も少ない。

 彼は口の周りの血を拭いながら立ち上がる。

「どうした!」

 叫ぶように男が聞くと、少女のすぐ横にいた女は彼より困惑した面で告げる。

 少女は、ただ狂乱して「やめて」「たすけて」と悲鳴を繰り返している。

「力の制御が出来なくなってるみたい! まずいよ。このままあいつと同調をしていたら……」

「同調って、犠牲者とそいつの状態は、同調してるようには見えねえぞ」

「忘れたの? 同調させた対象は犠牲者じゃない。直前に捕食された人間の意識!」

「じゃあ――!」

「今、この子の体は、犠牲者の体の中で死にたくないともがいている人間と完全に同調してるの! それが、力を不安定にさせている!」

 舌打ちをして、男は苛立ちながら指示を出す「呼び戻せ!」

「無理よ! 深いところまで潜りすぎてる。私たちが何をしても、彼女が自分で戻ってこないと……!」

 そこまで口にして、女は全身を強い力に襲われて言葉を切る。

 何が起きたのかを理解するよりも、全身に痛みが走る方が早かった。景色が流転し、彼女は錐揉みしながら瓦礫の山に突っ込んだ。

 男が慌てて駆け寄ろうとするが、獣がそれを遮る。

「ちくしょう」吐き捨て、女の名を叫ぶ「詩織!」

 女から返答はない。だが、意識を失ったわけでも気を失ったわけでもなかった。あまりの衝撃の強さに、体がまだ自由を取り戻していないだけのようだ。

 苦痛に顔を歪ませたまま、女は少女を見る。そして、危機を知る。

 今自分を襲った衝撃は、獣の力ではない。少女の力だ。少女の力が彼女自身の制御を離れ、勝手に溢れている。それが、女の体を襲い、吹き飛ばした。

 その証拠に――少女の周囲で、瓦礫が独りでに弾け、吹き飛んでいる。

「陣介!」 女も叫ぶ「暴走してる! 止めさせて!」

「言われなくても……!」

 男は駆けだす。その進路を、またしても獣が邪魔をする。

「邪魔だ!」地を抉るように、男は踏み込む「どけ!」

 その瞬間、男は忘れていた。少女は今、この獣と感覚を共有している事を。


 少女は見る。

 振り翳された拳が自分に迫り、その頭部を粉砕する――。


 その時少女のあげた悲鳴は、さながら断末魔であった。

 だが、その悲鳴を掻き消す大気の振動は、予兆も無く始まる。

 数多の針や刃物の先端を鏡面に突き立て、引っ掻き回しているかのような不協和音。同時に空中には闇が開く。

「干渉現象!?」

 男が驚愕している間に、獣は闇に巨躯を呑み込まれて消えた。闇も、そのまま溶けるように消える。

 それと同時に、耳障りだった不協和音も余韻すらなく消えた。

 一転して、身が竦む程の静寂。無音の中、しばし動く事を忘れる二人は、その場に残されたのが二人だけである事に気づく。

 少女は、獣と闇。それと共に消えてしまっていた。

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