チートスキル『すべてを知る者』〜誰にも知られない男、苦悩の一ヶ月〜
『お〜め〜で〜と〜ございます! 次の保有者はあなたですッ!』
朝食のパンを半分に割ったところで、俺の目の前に女神が現れた。白いドレスに金色の髪。背中には立派な翼。頭上には、いかにも神々しい光の輪まで浮かんでいる。ただし、声がやたら大きい。
『どーもっ! 女神です!』
「……はい、お世話になってます……?」
『では、改めまして!』
女神は両手を広げた。
『あなたは本日より……じゃじゃーん! 固有スキル〈すべてを知る者〉の保有者となりますッ!』
――その瞬間だった。脳みそに、世界全部をぶち込まれた。
知らなかった人間。知らなかった場所。知らなかった事件。
昨日のこと。十年前のこと。百年前のこと。
王都の地下水路で、今も眠っている死体のこと。
北の村で飼われている犬の名前。
隣の家の主人が昨日、妻に隠れて酒を飲んで、その酒代を妻には「本を買った」と嘘をついたこと。
「……うわ」
俺はパンを落とした。
『すごいでしょう! イッツァ、ミラクル!』
「最悪だ」
『ホワイ!?』
女神が本気で傷ついた顔をした。
『全知ですよ? 世界のすべてが分かるんですよ?』
〈すべてを知る者〉。その名の通り、過去から現在に至るまで、世界のすべてを知ることができる。
その代わり、嘘をつくと、死ぬ。
「……俺の前に何人の保有者がいて、どんな末路を辿ったか、把握してますか?」
『してません!』
女神は笑顔だった。腹が立つくらい爽やかな笑顔だった。
十二人。これまでの保有者は、みんな二週間持たずに死んだ。精神を病んで自害したやつ。この力のせいで魔女として処刑されたやつ。スキルを授かった直後、凡ミスで即死したやつ。
『ではでは、頑張ってください! アデュー!』
女神の身体が光り始めた。
「おい、待てよ!」
光が弾けるようにして、女神は消えた。食べかけのパンと、俺だけが残った。
「……最悪だ」
本当に最悪だった。
俺は、このスキルについて誰にも話さず、普通に生活することにした。
◇
「兄ちゃん兄ちゃん、どうだい! 南方産の極上魔石! この色艶を見てくれよ!」
市場の露店で、商人が魔石を見せてきた。中で炎のような光がゆらゆら揺れている。
「いくら?」
「銀貨三枚!」
「高いな」
「いやいや、これでも――」
「ふーん、仕入れ値は銅貨八枚ってところか」
商人が固まった。値切り交渉の最中、相手の仕入れ値まで分かるのは便利なのかもしれない。
「……へへ、ダンナ。随分と良い目をお持ちのようで」
「どうも」
俺は魔石を買わずに去った。商人が小声で呟いた。
「……あの野郎、なんで分かったんだ?」
もちろん全部、聞こえた。
◇
酒場では、かなり言葉を選んだ。
「聞いたか? 昨日、南門で冒険者同志の殴り合いがあったらしいぞ」
「へえ」
「一人が意識不明でよ。相手が悪かったんだな」
「そうか」
「……お前、興味ないのか?」
「まあ、そこそこ」
「つまんねえ奴だな」
その名前、喧嘩の原因。前日に何があったのか。それどころか、一年前に二人が初めて会った日のことまで、俺は知っている。
別に知りたくない。でも知っている。全知とは、そういうものらしい。そして世界は、思った以上に嘘でできている。
「元気?」
「ああ……元気だよ」
元気じゃない。
「この料理、あなたのために作ったの! おいしい?」
「も、もちろん!」
まずい。
「また今度飲もうぜ」
もう二度と会うつもりはない。
「君だけだよ」
別の女にも同じことを言っている。
人間は毎日、山ほど嘘をつく。嘘をつかなければ、関係が壊れることだってあるからな。
でも、俺だけが、それを許されない。
◇
ある日、街の広場で勇者の一行を見かけた。
「勇者様だ!」
人々が歓声を上げる。白銀の鎧を着た勇者が、にこやかに手を振っていた。
俺は、その勇者が昨日の夜、宿屋で一人泣いていたことを知っている。ただ剣の才に恵まれ、勇者として選ばれただけで、彼は誰も殺したくなかった。
そして、勇者の隣を歩く聖女は平和より金に興味があることも、魔王は人類を滅ぼしたいわけではないということも、国は争いを終わらせるつもりがないことも、俺は全部知っている。
⋯⋯思っていたよりずっと面倒くさい。俺は何も気にしないことにして、屋台で串焼きを買った。
◇
「ねえ」
彼女と食事をしていた。とても赤い夕暮れだった。窓の外では、魔法灯が一つずつ明かりを灯している。
「なに?」
「最近、変じゃない?」
「そうかな」
「そうだよ」
彼女はスープをかき混ぜながら、俺を見た。
「前より喋らなくなった」
「そう?」
「そう」
「……」
「ほら、今も」
彼女が笑った。でも、無理に笑っていることを俺は知っている。
彼女は不安だった。俺が自分から離れていっていると思っている。そして、その通りだった。ただし、それは彼女が悪いからではない。俺が、知りすぎているだけだ。
「私のこと、嫌いになった?」
「なってない」
「じゃあ、好き?」
「好きだよ」
これは本当だった。だから死なない。
「……愛してる?」
「……」
言えなかった。
頭の中には、彼女についてのすべてがある。初めて会った日のこと。彼女が俺を好きになった日のこと。俺が彼女を好きになった日のこと。喧嘩した日のこと。仲直りした日のこと。彼女が一度だけ、俺に隠れて泣いたこと。俺が彼女に言えなかったこと。彼女が俺に言えなかったこと。
全部。本当に全部。だから分かってしまう。
俺は彼女を愛している。でも、一人になりたいと思ったこともある。別れた方がいいと思ったこともある。それでも、失いたくないと思ったこともある。人間の感情なんて、そんなものだ。
それを「愛してる」と、たった五文字にするのは、あまりにも雑すぎた。
「……どうして言ってくれないの?」
彼女の声が震えた。
「俺は――」
言いたい。全部言いたい。お前が今、何を考えているのか。俺がお前をどう思っているのか。お前が俺に隠していたこと。俺がお前に隠していたこと。
全部、全部話してしまえばいい。そうすれば楽になれる。俺の頭の中には、言葉にされていない真実が多すぎる。それを一つ残らず吐き出してしまいたい。
嫌われてもいい。泣かれてもいい。怒鳴られてもいいそれでもいい。もう、知っていることを一人で抱えていたくない。
「……俺は」
彼女が俺を見た。
俺も彼女を見た。
言葉が出てこない。
「愛してる?」
「…………」
答えられなかった。
彼女の目から、涙が落ちた。
「そっか」
「違う」
「何が違うの?」
全部違う。でも、何が違うのかを説明したら、もっと傷つける。
「俺は、お前を――」
そこで止めた。
彼女は笑った。
泣きながら。
「もういいよ」
「待ってくれ!」
分からない。何を待ってほしいのか。俺自身、分からない。
いや、本当は分かっている。彼女に残ってほしい。でも、もう俺は彼女を幸せにできない。彼女に幸せになってほしい。その相手が俺じゃなくてもいい。
……嫌だ。
全部、本当だった。だからこそ、何一つ口にできなかった。
彼女は席を立った。
「さよなら」
俺は何も言えなかった。
ドアが閉まった。その音だけが、妙に大きかった。
◇
その夜、俺は一人で部屋に座っていた。
何度も何度も考えた。嘘をつけば死ぬ。知らないことは言えない。未来については何も分からない。真実を言えば、人を傷つける。じゃあ、どうすればいい。
「……答えは、沈黙だ」
俺は呟いた。
何も言わなければ、少なくとも死なない。
俺は、それから口を閉ざした。
友人に酒へ誘われても。母親に心配されても。昔の仲間に「お前、最近どうしたんだ?」と聞かれても。
何も言わない。言わなければ嘘にはならない。そう、答えは沈黙だ。
気づいたときには、誰もいなくなっていた。
それでも俺には、全部分かる。友人は、俺の悪口で盛り上がっている。母親は、俺が病気なのではないかと心配している。彼女は、俺のことをまだ好きだ。
苦しい。
知らなければ、諦められた。分からなければ、忘れられた。でも俺は、全部知っている。なのに、何も言えない。
……あのとき、愛していると、言えば良かった。
◇
一ヶ月。俺は、いつの間にかスキル保有者の最長寿命を記録していた。だが、何の自慢にもならない。すべてを知る俺にとって、すべては無駄なこと。
だから、俺はもう死のうと思う。
……なあ、あんたはどう思う? こんなスキル、欲しいと思うか? ああ、言わなくていい。言わなくても分かるからな。
「それじゃ、こんな小説に付き合ってくれてありがとな。次は、あんたの番だ」




