飛行機に手を振る子供の話
(今のうちに書いておこうという気が唐突に過ったので書きました)
周囲が四キロメートル程の、小さな島のある夏の日のことだ。
小山が一つぽこんと浮かんだような島には、殆ど平地が無い。本土に近い側に船着き場があって、その周辺にギュッと人々が集落を作っている。
そんな島の人々は、殆どが互いを知っており、「隣の息子が誰の甥」「誰某の叔父さんが自分の父が乗る何某丸の船長」「同級生の何某ちゃんと誰某ちゃんはいとこ」等という具合に、自分にとって血縁の近い遠いはさて置き、全人口が親戚であるかのように大体の繋がりを、意識しないままに把握している。
仮に初対面の人物と出くわしても、「初めまして」の後、「何処其処の誰某の姪で何某に嫁に来た」と聞けば、直ぐに自分にとっての何かしらに繋がることが判る――そんな、よくあると云えばよくある田舎の、小さな島だ。
ここからどんどん暑くなり始める、というくらいの時刻、よく晴れた青い空。さざ波がきらきらと光る海。
少年、と云うにもまだ早い男児が、沿岸の道を駆けていく。
この島は、自動車の通れる道が「無い」と云って嘘にならないくらいに狭い道だけなので、男児とすれ違う大人は、
「こけるなよ」
と声を掛けても、「車に気を付けろよ」とは云わない。
飛行機の飛ぶ音がしたので、立ち止まる。
かっこいい形の飛行機が飛んでいく。見上げて、笑って大きく手を振った。
「いつか自分もあんなのに乗って操縦したいなあ」
そんなことを思っているのだろうか。
それとも、周りの大人達が「この子は賢い」「神童じゃ」などと評す男児なので、もしかしたら、
「カモメやトンビより大きな鉄の塊が、どうして空を飛んでいるのだろう」
そんな科学的思考の萌芽となる好奇心故でもあろうか。
田舎の小さな島で生まれ育った大人の云う「賢い」だから、何処までの高みを臨める素質を持つのかは、実際のところ誰にも判らない。
ただ、まだ小学校に通う年齢ではないのに、読み書きとある程度の計算が達者だったのは事実だ。
男児には弟が居たが、まだ小さかった。
やっと一人で歩くことに「大人がそこまで心配しなくなった」くらいの年齢であるから、自動車が危ないということは無い島とは云え、歩く・走るが楽しくて仕方ない年頃の兄と一緒に、お互いが満足する遊びというのは、難しい。
何せ島である、兄弟二人で遊ぶには、「海」という命に関わる罠が四方に存在する。
弟のことは、男児の叔母さんが見てくれている。
男児は、島に唯一の小学校へ駆けていった。
彼は何の気兼ねもせずに校庭に入り、校舎に近づく。それを止める者も居ない。
校庭に面した窓を覗き込むと、彼の母親が教壇に立って授業をしていた。
それは、いつものことだった。
授業を受けている自分より少し年上の児童達。「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼ぶ見知った顔もある。
窓から、先生の息子が覗き込んでいるのに気づいた児童は、隣の席の者と顔を見合わせてから教壇に向き直り、くすくすと笑う。
そこで先生が、息子に気づくこともあれば気づかないこともある。そもそも、教室の児童が、男児に気づかないこともある。
気づいたからと云って、児童や他の教諭、母親が彼を強く叱ることも無かったから、彼は校舎の窓から母が居る教室を覗き込むことを悪いこととは思っていなかった。
児童、教諭からしても「いつものこと」、校庭に犬が入り込むのと比べて全く珍しくないことなのである――もっとも、この島に猫は居ても犬は居なかったが。
教諭をしている母を恋しがって学校に遊びに行っていたのか、それとももう学校に行って勉強している「にいにい」「ねえねえ」が羨ましかったのか、それは判然としないけれども、学齢に達していないのに読み書き計算が達者な理由の一つとして、この日常、経験があった可能性はある。
その日も、彼が飛行機に手を振ったのかどうかは分からない。
彼の叔母は、兄嫁の次男である彼の弟をおんぶしてあやしていた。
とんでもなく大きな、同時に不愉快な音がして、子供をおんぶしたまま、兄嫁が教壇に立っている、兄嫁のもう一人の息子が、今日もいつも通りに遊びに行った、小学校の方へ駆けていった。
島民達も、もちろん、集った。
彼らは、自分が目にしたものを、たった一言で表現出来た。
地獄。
二階建ての校舎に、爆弾が落とされていた。
叔母の背中に負ぶわれていた男児は、兄と母を亡くした。
背中に男児を負ぶっていた女性は、兄嫁と甥を亡くした。
この空襲を語るに於いて、死者数内訳を示すにあたり、「教職員」「児童」は当然として「その他」が添えられる――資料を作成する人物の性質によって、それをどう表記するかはブレがあるかもしれないが――。
それは、まだ入学していなかった、飛行機を見つけると手を振っていた男児のことである。
2025/12/10
実話ベースに脚色が加わった文章です。
「ノンフィクション」とラベリングされるときの定義、作法について明るくないので、「ものがたり」と読んで貰って構いませんが、フェイクと称されるのは許容できません、悪しからず。




