余白の先に
頼られたら断れない。昔からずっとそうだった。何かをお願いされると、頭で考えるよりも先に「いいよ」と答えていた。困っている人を見かけたら、絶対にほっとかなかった。自分を犠牲にしてまでも、その人を助けてあげる。それが優しさだと思っていた。
「良樹は優しい人だね」
そう言われる度に、胸の奥が満たされていく。でも、同時にざらざらとした何かが残る。
俺の優しさは、誰かのためなんかじゃなくて、『周りからよく見られたい』という自分の承認欲求のためなんじゃないか。そんな予感を、ずっと見て見ぬふりをして生きてきた。
結衣と出会ったのは数年前の雨の日だった。傘も持たず駅に向かって走っている彼女に、迷わず傘を差し出した。彼女はなんのためらいもなく受け取った。こんな風変わり人も居るのかと意表をつかれたが、そんな彼女に心奪われた。わがままだけど、芯の強い真っ直ぐな人だった。なんだか自分にないものを持っている気がした。
つまらないことで喧嘩をしたとき、彼女は涙ながらにこう言った。
「良樹って、優しいけど、苦しそう」
当時の俺は、その言葉の意味を理解出来なかった。いや、理解しようとしなかった。自分の生き方を否定されているような気がしたからだ。
彼女との時間は、とても新鮮で初体験の連続だった。でも、そんな日々が俺の心を満たすことは無かった。
あるとき、彼女が交友関係で落ち込んでいた。俺は「元気だして」と言って、背中を軽く叩いた。でも彼女の顔は晴れなかった。むしろ痛みに耐えているようだった。それを悟られたくなかったのか、彼女は顔を逸らして何も喋らなかった。そうして、二人には次第に距離が生まれていった。
「良樹は、私のことを見てるようで、ずっと自分をみてたよね」
別れのとき、沈黙の中で彼女が静かに残した言葉だ。
彼女の言うことは全て引き受けていた。それなのに、彼女は不満だったのか。だったらそう言ってくれればよかったのに。俺は、彼女の本当の声を聞こうともせず、心の中で開き直ったのだった。しかし、就職して慌ただしい日々が過ぎていっても、この言葉は俺の胸に刺さったままだった。
ある日、同僚が仕事で大きなミスをした。俺は迷わずフォローに回った。気がつけば終電を逃し、徹夜で報告書を作っていた。
広くて暗いオフィスには明かりが一つだけ。それが逆に誇らしい。他人のために身を粉にする自分が輝いているようだった。
「これできっと、あいつの助けになる」
そう信じていた。
翌朝、仕上げた報告書を上司に提出した。しかし、返ってきたのは思いがけない言葉だった。
「増井、なんで勝手にやったんだ?あれは、あいつにやらせておけばいいんだよ」
一瞬言葉を失った。
「い、いや、その……もう時間的にも余裕がなかったですし」
「そういうことじゃない。あいつの成長の機会をうばってどうすんだ」
感謝されると思ってたのに。注意されるなんて。俺が今まで作り上げてきた張りぼては、みるみるうちに崩れていった。
その瞬間、一人きりのときよりも、オフィスは何倍も暗くなった。
帰り道、ぼーっと歩きながら自分自身にといかけた。
「俺は何のためにやってんだろ」
答えはすぐにでた。俺は誰かから『頼られたい』だけだった。俺は皆に『期待されている』と思い込みたかったのだ。そうすることで、自分がすごい人間だと思えた。それが俺の輪郭をつくっていた。それに気づいていながら、蓋をして偽りの優しさを振りまいていたのだ。
けれど現実は、誰も俺にそんな期待は寄せていなかった。皆が、自分のことで精一杯だった。そして、それは俺も同じであった。
数日後、後輩の多田が、期日が迫る中プレゼン準備で行き詰まっていた。
「手伝うよ。何からやればいい?」
多田は少し後ろめたそうに答えた。
「いえ、大丈夫です。自分でやります」
それでも、俺はまだ変わっていなかった。
「でも、ここは俺がやった方が早いから」
すると、彼は遠くに突き放すように、静かに言った。
「増井さん。そんなに頑張らなくてもいいんじゃないですか。自分で何とかしますから」
その一言が、不思議なほど胸を押さえつける。そして、それはとても優しい言葉だった。でも、その奥には確かな距離が感じられた。
差し出していた手がガタガタ揺れる。必死に抑えようと顔を背けた俺は、多田にはどう映っていたのだろう。考えるだけで、血の気が引いた。
その瞬間、また自分が、頼られようと頑張っていたことに気づいた。けれど、それは自分の居場所を作るためだった。それは他人のための行動なんかじゃなかった。『他人に必要とされている』という錯覚が何度も俺をそうさせていたのだった。
その後はずっと上の空で、何も手につかなかった。何をしていたのか思い出せない。やっと我に返れたのは、自室のベッドの上だった。
次の日は、仕事を休んだ。顔を洗おうと洗面台に向かう。鏡に映った自分にこう問いかけた。
『俺は、誰かのことを分かろうとしてきただろうか』
もう一人の自分はいつまで待っても返事をしない。それが答えだった。
分からなかった。ただ、分かろうともしなかった。
分からないから仕方ない、と自分に言い訳して諦めていた。
だけど、それは相手に向き合ってぶつかる勇気がなかっただけだ。誰かに嫌われるのを恐れていたのだ。
だから、俺はずっと俺だけを見ていた。それで、誰かを見た気になっていたんだ。
ふと、結衣の言葉を思い出す。
「確かに、俺って苦しそうだ」
自分の存在価値を示すために、他人に必要とされようと必死だった。関心はいつも内側を向いていて、自分のために精一杯だった。だから、俺は他人のことを見ようとはしていなかった。
『自分は素晴らしい人間なんかじゃない』
そんなのことは知っていたような気がしたけど、ずっと認めたくなかった。でも、そう思うことで、少し心が軽くなる。
そうして生まれた心の余白を、他人を見ることに使えばいい。胸にストンと落ちる。視界が開けたような気がした。部屋に差し込む朝の光がこんなにも優しかったのは初めてだ。
後日、仕事終わりに多田が話しかけてきた。
「増井さん、この前はすみませんでした。なんとか自分で乗り越えることが出来ました」
「おう、そうか。また一つ成長出来たな。お疲れ様」
「でも、あの時増井さんが助けようとしてくれたこと、本当に嬉しかったです」
俺は笑って首を横に振った。
「いや、俺もあの時自分のことばっかり考えていたよ。でも、多田がああ言ってくれたおかげで、目が覚めたよ。ありがとう」
多田も少し笑う。
「俺も、増井さんの気持ちなんとなく分かります。自分を受け入れるってしんどいですよね」
「そうだな。まだ遅くないって信じてみるよ」
今までの自分も、全てが間違っている訳では無かった。でも、もう歩みは止めない。そう強く決意した。
帰り道、突然雨が降り出した。俺は駅まで走った。どこか懐かしい気分だった。
あの時目を背けた言葉の意味が、ようやく分かったような気がした。
家で一息ついたとき、なんだか気になって久しぶりにメッセージを送った。
『久しぶり。元気してる?』
数分後、返ってきた。
『うん。良樹は?』
『ようやく、自分のことを少し受け入れられた気がする』
しばらくして、スマホが鳴る。
『そう。よかったね』
それを見てスマホを置く。もう彼女から連絡が来ることは無い。けれどそれで良かった。
「良樹は、私のことを見てるようで、ずっと自分をみてたよね」
今だからわかる。あれは俺を責める言葉ではなかった。
きっと、俺に自分を見つめ直すきっかけをくれた言葉だったのだ。
それが正しいのかはもう俺には分からない。でも、これが、俺なりに考え抜いたあの言葉に込められた思いだった。
胸に深く刺さった棘が抜けたような気がした。
人は、誰かに期待されなくても生きていける。
誰かに必要とされなくても、ありのままの自分を自分で認めて生きていける。
本当に必要なことは、他人からの評価じゃなくて、納得できるまで自分の頭で考えることだ。
頼られたら断れない。困っている人はほっとけない。
その性格は、きっとこの先も変わらないだろう。
でも、もう背伸びはしてない。相手に正面から向き合える。
今の俺なら、ただ笑ってこう言える。
「今の俺で良ければ、力になるよ」
それは、かつて『自分のため』だった言葉が、初めて『相手のため』にもなった瞬間だった。
こうして、また俺は誰かから褒められた気がして気持ちが良くなった。




