07
「朝あの野郎と一緒だったって!」
大輝が大声を上げて立ち上がった。怒号が教室に響き渡り、教室が水を打ったかのように静まり返る。
「だ、大輝、声大きい」
あかねが小さく囁きながら、大輝の裾をひっぱる。大輝は誰の目を憚ることなく、くそ、と一言呟くと椅子に座る。
次第に教室の空気が戻って行く。
「んで、ありさ、何かされなかったの?」
教室が元に戻るのを確認すると、あかねは声を顰めてありさに尋ねる。
「何かって?」
パンを呑みこんで、ありさは尋ね返す。首が微かに傾いていた。
「んやー、別になんもないならいんだけど、ねえ、大輝?」
「俺に聞くんじゃねえ」
大輝が口を尖らせて答える。
そこから会話はあまり続かなかった。ありさはただパンをその小さな口で食べ、あかねはお弁当の端を突き、大輝は購買の戦利品を苛ただしげに食べていた。
「またご一緒してもいいですか?」
そんな空気に割って入るかのように、しかし自然とした空気を漂わせた良平が言って出る。
うん、とありさは頷く。大輝はそれを見るなりさっさと立ち上がり、どこかへ行ってしまった。
ぴたっと時が止まったような錯覚。刹那、笛が鳴り響き、あかねは勢いよくプールへ飛び込む。水飛沫が上がる。たくさんの気泡が体の横を流れて行く。あかねは勢いよく、脚を尾のようにしならせ水を蹴った。体が推進力を得る。体が前に進み始める。水面に浮上。右手、左手と交互に水を掻き始める。水の流れを感じる。ぐいぐい、ぐいぐい。息が苦しい。顔を水面から上げる。口を開くと空気が勢いよく流れこんできた。顔を戻す。あかねは水を蹴り、掻き押し込んだ。もっと前へ、もっともっと早く。イルカのようにしなやかに。あかねはただがむしゃらに泳いだ。
壁に手がつき、顔を上げる。疲れがどっと肩にのしかかってくる感じがした。酸欠だった肺が、酸素を求め忙しなく活動している。
タイムは何秒だったのだろう。あかねは顔を上げ、パートナーの晴美の方へ顔を向けた。
「あかね、おめでとう!」
晴美は自分のことのように、満面の笑みを浮かべ、手に持つストップウォッチをあかねに見せて来た。
タイムを確認する。自己ベストよりもタイムが縮んでいた。
「よっしゃあ!!」
あかねは周りを憚らず大声を上げた。それから大きくガッツポーズ。やった!
「ほら、いつまでもそんなところで喜んでないで、上がった上がった」
「ん、オッケー」
晴美に言われ、あかねはプールの縁に両手を当てて、自分の体を持ち上げる。無重力から解放された体は、鉛のようにずっしり重かった。
「んじゃあ、わたしの分もよろしくね」
「はいよー」
あかねは晴美からストップウォッチと笛を受け取ると、快活ににっこりと笑った。体は重くても、芯の方は軽々としていた。
笛を手に持つと、あかねは声を張り上げる。
「位置について――」
その掛け声に合わせて、晴美は大きく前屈した姿勢を取る。それからぴたりと止まった。
それを確認すると、あかねは笛を鳴らす。ピーという甲高い音が響いた。同時にストップウォッチのボタンも押す。
晴美は水の中へ飛び込んで行った。綺麗な放物線を描きながら、水に着水する。
そのままぐんぐんと晴美は、プールを掻きわけて進んで行ってしまった。
あかねはその姿をぼんやりと見つめていた。水飛沫を上げて、晴美が前に進んでいく。
ふと足元の水面に目をやる。あかねはそこに、不意に蘇るようにありさの満面の笑みを見た。二か月前のあの事故に遭う前の、ありさの明るい笑顔。
この二カ月、あかねは人は変わるものだと言う事を、嫌と言うほど思い知らされていた。
ありさは変わってしまったのだ。
あるいは代わってしまったのか。
よく怒り、よく泣き、よく満面の笑みを浮かべてはしゃいでいたありさは、二か月前の事故で置き去りにされてきてしまったのかもしれない。
今のありさは本当に希薄だと、あかねは心配で心配でならなかった。我此処に在らずといった感じ。あの元気で明るかったありさは、もう戻って来ないの?
胸が張り裂けるような痛みが、あかねを襲う。首を横に振った。
あたしにも出来ることはある。また、二か月前みたいに二人ではしゃぎながら会話出来るようになる。強く手を握りしめた。
ありさは入学当時、いや、今でも十分そうなのだが、有名人だった。
それは単純に顔が良かったことと、屈託のない笑顔からだった。ありさは男女問わず魅了していた。
何度も男に言い寄られている姿を見た。ありさはその度に困ったような笑顔をしていた。本当に大変そうだった。でも、屈託のない笑顔がそこにはあった。
それが今ではどうなのだろうか。二か月という期間は、短いようで何かが崩れ、壊れて行くには十分すぎる時間だったのかもしれない。
ありさが言い寄られることはなくなった。代わりに、憐憫と同情の目で見られるようになった。それだけではなく、ありさからあの屈託ない笑顔が後形もなく消え去ってしまった。
ふと、不意に例の転校生、布川良平の姿が目に浮かんできた。
あの男の目的がよくあかねにはわからなかった。
しかし、ありさが目当てだと言う事に間違えはないだろう。
あかねはそれが怖かった。いつか何かが起こるのではないかと、どうしようもなく思ってしまっていた。
ありさが失明していると知ってもなお、それでも声をかけてくる布川良平という存在。
彼は一体、何者なんだろうか。
そんなことを考えていると、いつの間にか晴美が戻ってきていた。慌ててストップウォッチを押す。危ないところだった。
肩で息をしながら晴美が水の中から上がる。
「タイム、どうだった?」
「うーんっと」
あかねはタイムを晴美に見せる。
「ちょっと残念かな」
「えー」
晴美は拗ねたように口を尖らせた。
書く気力が、スランプによって徐々に削がれている気がする今日この頃。
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