03
そして時間は流れ昼休みになった。真理恵が用意してくれた市販のパンを齧りながら、今日はいつもよりも騒がしいとありさは感じていた。
「なんだか今日の昼休みは慌ただしいね。何かあったのかな?」
「さあ?」
何かあったのだとしてもありさには関係ないことだ。ぱくっとパンに齧りつく。
「転校生が来るらしいぞ」
その時、購買へ行っていた大輝が帰ってきた。すぐ近くの椅子を引っ張り出して、ありさたちのすぐ正面に座る。
「なんでも、すげー美形だとか、スポーツの腕をかわれて来たんじゃないかとか、色々今その噂でもちきりだぜ?」
「えー。嘘だー」
大輝の話にあかねが食ってかかる。
「流石に言い過ぎだよ。ただの噂じゃないの?」
「いや、確かにただの噂だけどよ。でも、そっちの方が面白くないか?」
「まあ、確かに」
大輝の言い草にあかねも頷いた。
高校に入ってから転校生が来る確率はかなり低い。それも同学年と言えばさらに低くなる。皆、転校生がどんな奴なのだろうと、根も葉もない噂を立てはやし楽しんでいた。
ありさはそんな様子を無感動で聞き流していた。もう自分は相手を確認することはない。そんな話は物珍しいだけで、すでに現実感は欠如していた。
今日もまた学校が終わる。これから部活動のある大輝とあかねに別れを告げると、ありさはひとり校門の横に立ちつくした。こうして真理恵の迎えを待っているのだ。
誰も自分に目もくれていないことを、ありさは気付いた。いつものことだ。失明する前のことを思い出す。あの頃は、影でアイドルじゃなんだとよくもてはやされた物だった。それが今では悲劇のヒロインとして実しやかに囁かれ、今もう大輝とあかね以外真っ直ぐに見てくれる人はいない。
噂も七十五日と言うが、人間の付き合いというのも所詮はそんなものなのかも知れない。だから皆、必死でコミュニケーションを取り、円滑な人間関係を築こうとする。
それがもうありさにはたまらなくしんどかった。自分はもう、失明というフィルターを通してじゃないと、会話もコミュニケーションもとれない。気遣いはありがたいが、まるで腫れものを扱うかのように接してくれる。それはもう、仕方がない事以外の何物でもなかった。
そんなことを考えていると、校門の前で一台の車が停車する音をありさは聞いた。
「ありさ、お待たせ」
その声ですぐに迎えが来たのだと悟る。バタンとドアを閉める音が聞こえ、真理恵が小走りで近づく。
「待った?」
「ううん、大丈夫」
「そう。それじゃあ、今日はどうしましょうか。母さん、今日は時間があるから、どこかにショッピングにでも行こうかと思うんだけど、どうする?」
「いい。今日はもう帰ってしたいことがあるから」
「そう……じゃあ、帰りましょう」
右手を温かく包まれ、それに導かれるようにありさは車へ向かって歩き出した。
ショッピング。買い物。お出かけ。
ずっと家で点字の本を読んでいたかった。読書をしておきたかった。
真理恵の車に乗り込み、会話も少なく車は自宅へと真っ直ぐに向かって行く。家に着いた後、ありさは部屋で本を読み漁った。
翌朝、いつものよりも早く目が覚めた。今日は昨日よりもさらに蒸し暑い。それが明らかな原因だった。盲人用の目覚まし時計で確認すると、いつもよりも一時間は早かった。パジャマが汗を吸い込み、なんだかべたべたと気持ち悪かった。
今日はもうシャワーを浴びてしまおう。ありさはそう決めると、ベットからゆっくりとあたりを確認しながら部屋のドアまで行き、ドアを開ける。階段を神経を使いながら降りていると声がして、ありさは思わず立ち止まった。
「盲導犬でも飼いましょうか」
真理絵の声だ。続いてありさの父、慎吾のうなるような声が続いた。
「毎日の送り迎え、私もあなたも大変だと思うの。それにありさにもそっちの方が気楽でいい気がして」
「そうはいってもだな……。盲導犬は高いぞ。それだけじゃない。維持費も手間もかかるはずだ」
「それを言ったら毎日のガソリン代はどうするんですよ。私もあなたも学校とは別方向だし。犬と違って手間はかからないけど、そっちの方が高くつきません?」
「そうはいっても、ありさが納得するかどうか。うちにはもう猫までいるんだぞ?」
ありさは降りかけていた階段を再びあがる。両親の会話はそこで途切れてしまった。 自分の部屋へ入り、ベットまで向かう。ベットを見つけると、そこへ倒れ込む。それからなにも見えない瞳で虚空を見つめた。
そのとき、ベットのしたから小さな猫の鳴き声が聞こえてきた。
ありさが世界を見失ったきっかけとなった、あの夜に助けた子猫だ。名前はアイ。
あれから二ヶ月。後ろの右足を怪我していたアイは、それも癒え、すっかり回復していた。現在もありさの家にいるのは、ありさの強い希望たってのことだ。
ありさが上半身を起こすと、不意にその膝の上にアイが飛び移ってきた。そして丸くなる。ありさはその背をゆっくりと撫でた。
それから数刻して、アイは飛び降り、ありさも下へ降りる。
今日も真っ暗な一日が始まったのだった。