猫魔族の親友と二人で奇妙な温泉旅館を訪れ、絶体絶命の極限状態で僕は叫ぶ
「お、あそこに見えるあの建物じゃないかな?」
「うむ、きっとそうだにゃん」
親友のガトーも耳や尻尾を弾ませて、小刻みにソワソワしだした。二足歩行のアメリカンショートヘアに瓜二つなガトーはその小さな身長で弾むように歩く。
随分と遅くなってしまったけれど、丁度夏至も過ぎていたので日没前に辿り着けたことに安堵する。
とは言えかなり薄暗く、辺りの背の高い竹林のせいもあって日の光は届かない。
ひぐらしの鳴き声が夏の始まりを感じさせる。
「なんだか妙な風だにゃん。生ぬるいというか……」
「そ、そうかな? 夏なんだし、ジメジメしてても仕方なくない?」
ガトーは緑色の尻尾を振りつつ、鼻をクンクンとさせていた。
暑いとは言えず、かと言って涼しい訳でもない風が吹き抜け、笹の葉が音を立てている。
まるで人肌の温度のような生暖かい風は少し気持ちが悪い。
「早く温泉に浸かってサッパリしようよ」
「うむにゃん。吾輩はその後の珈琲牛乳が楽しみだぞにゃん」
そうして僕らは、旅館と思われる建物へ足を早めた。
「と、とっても貫禄があるよね?」
「なんで忖度発言をしてるんだにゃん? おんぼろ旅館だとハッキリ言うが良いぞにゃん。まぁ無料で手に入った旅行だし、こんなもんだろにゃん」
築年数はどのぐらいだろうか。
手入れがほとんど入っていないように見え、朽ちる間際とも言える佇まい。
木造の日本家屋を思わせるその建物は、湿った空気も相まって壁や木材の染みがカビにも見えてくる。実際には違うのかも知れない。でも、白い斑模様が人の手の形にも見えてとても不気味に映る。
ガトーが言う通り、人から貰った無料宿泊券だし、不満を言っても仕方が無いけれど、どうしても気分は下がってしまう。
僕が肩を落としていたら、笑顔のガトーがその肉球でポンポンと肩を叩いてきた。
「老舗ならではの料理が出るかも知れないぞにゃん? 何事も前向きに捉えるにゃん!」
「そっか……そだよね!」
気を取り直して玄関の扉をスライドさせた。
建付けが悪くなっているのかところどころ引っ掛かりながら、中を覗き込む。
「ごめんくださーい。どなたか居ませんかー?」
「いやいや、聞くまでもないだろにゃん。明かりがついてないぞにゃん」
屋内は明かりが無くてとても暗い。
入る勇気を持てずに入口のところで粘っていたら、ガトーがスタスタと中に入っていく。
そして受付のような場所を暫く覗き込み、僕の方へ手招きを始めた。
「ワドワド、台帳があるぞにゃん。ここに名前を書くんじゃないのかにゃん?」
入るのも不気味だけどこのまま外に居るのも怖くなってきて、そそくさとガトーの側に近寄った。
ガトーの頭越しに台帳を覗き込んでみる。
それは宿泊客の名簿かと思われ、様々な名前が並ぶ。
「妙にインクが古い気もするけど、名簿っぽいね」
「ワドよ。吾輩の名前も代筆してくれにゃん」
肉球の手ではペンが持ちにくいらしいし、僕が代筆してあげることにした。
「ワールドン、ガトー……っと、はい、書けたよ」
書き終えてガトーの様子を伺うと、受付の中に入って物色をしている。
「ダメだよ、ガトー。勝手に入っちゃ」
「む? これ朱肉かにゃん? 判子なんか持ってきてないぞにゃん。しかも古いのか変にドス黒いぞにゃん」
ガトーが持って来た朱肉は、色が黒ずんでいて香りもどこか鉄を思わせる。
ひとまず拇印で押してみた。僕の親指とガトーの肉球がくっきりと付いた直後、旅館内の明かりが点いた。
「ん? 旅館の人が居たのかな? すみませーん、僕らあがってもいいですかー?」
廊下の奥の方へ声をかけていると、ガトーから袖をクイクイと引かれた。
「どしたんガトー?」
「これを見るぞにゃん」
台帳をポンポンと叩いているので、再び覗き込む。
そこには「いらっしゃいませ」の文字と、部屋番号、それから宿泊日付が書き込まれていた。
明らかにおかしい。
まず部屋番号。
九三八号室なんて、この旅館の規模としてありえない。本当にそんな部屋があるのか疑わしく思う。
次に宿泊日付。
旅館の人が書き間違ったのだろうか。何故か先週の日付だ。
訝しげにそれを見ていたら、廊下の奥の方からとてもか細い声で「こちらへ」と聞こえてきた。
「空耳じゃないよね?」
「恥ずかしがり屋な仲居さんじゃ無いのかにゃん?」
そう言ってさっさと先行し始めたガトー。
客前に出るのを恥ずかしがっていたら業務にならないし、「職業選択が間違っているよ」とも思うけど、それよりもここに置いて行かれるのが怖い。
僕は慌ててガトーの後を追った。
時折灯りが明滅する廊下は、歩くたびにミシミシと嫌な音を立てている。
窓も見当たらず、閉塞感も強く、息が詰まりそうだ。
天井部分は暗すぎて良く見えないし、少しカビ臭い感じがして嫌な気分が募ってくる。
僕は内心、もう帰りたい気分になっていた。
「ガトー……待ってよぉ」
「お! 二階があるみたいだぞにゃん」
多少、急に感じる階段を上る。
不自然なほどに僕ら以外の足音がしない。上るにつれて背後は崖のような、奈落のような気がして、怖くて振り返ることもできず、とにかく足を急いだ。
「ここだにゃん。たのもーにゃん!」
ガトーは襖を勢いよく開けた。
部屋の中は灯りがついている。暗い廊下が怖くて僕も部屋に飛び込んだ。
部屋は普通の八畳間くらいで、古びた畳の香りがする。
ようやく人心地つけることができた。
「部屋は普通で良かったよ。ガトー、お茶でも飲もう」
ガトーは部屋の中を色々と物色しているけれど、僕はとにかく喉が乾いていた。ここに来るまで、いつ呼吸をしたかを覚えてないくらいに緊張していたから。
座布団があったのでそこへ座ってガトーを待つ。
壁や窓をペタペタと触って確認していたガトーが、首を傾げながら戻ってきた。
「幾ら何でも窓の外が暗すぎるぞにゃん。なんか既視感あると思っていたらここ、お化け屋敷にそっくりだぞにゃん」
「そ、それは言わないお約束だよ! 空気読んで!」
僕もずっとそう思っていたけど、口に出すと本当にお化けが出て来そうな気がして避けていた話題。
なるべく考えないようにして備え付けてあったお茶を淹れる。
お茶をガトーにも配ると、必死にふーふーと息をかけて冷ましていた。
「そんな怖がっているワドに残念なお知らせがあるぞにゃん」
ガトーはこれ見よがしに耳と尻尾を垂れさせる。
冗談では無さそうな雰囲気に僕はゴクリと喉を鳴らした。
「お知らせって?」
「ちょうど一週間前の日。吾輩、記憶が全くないんだが、ワドは記憶あるかにゃん?」
顎に手を当てて思い出そうと暫し考える。
だけど幾ら考えても何故かその日だけが空白。
物凄く嫌な予感がする。
「ぼ、僕も記憶がないんだけど何した日だっけ?」
「台帳の宿泊日だぞにゃん」
僕の心は折れた。
ガックリと肩を落とした後、すぐに立ち上がる。
「さ、帰るよ、ガトー。急いで帰れば日付が変わる頃には帰宅できるでしょ」
ガトーは僕の急変に目を丸くしていた。
「む? まだ温泉に入ってないぞにゃん。それに郷土料理が凄いはずだぞにゃん?」
僕の裾を掴んで引っ張るガトー。郷土料理が凄いという触れ込みを聞いて訪れた訳だし、興味はあるけれどこんな不気味なところからは一秒でも早くオサラバしたい。
「じゃあガトーだけで堪能してよ」
「やだにゃん! 一人にするなにゃん!」
ガトーは背中に張り付いて座れとグイグイ引っ張ってくる。ガトーも全力なようで物凄く重い。
暫くの間、「離せ」「嫌だ」の応酬を続けた挙句、僕が折れた。
「食事だけしたら帰るからね! 絶対だよ!」
「フハハ、ワドはツンデレさんだぞにゃん。吾輩が温泉行くのについてくるんだろにゃん?」
尻尾をルンルンに弾ませて浴衣に着替えたガトーが部屋を出ていこうとする。
そのガトーの頭を背後から鷲掴みにした。
「何するんだにゃん?」
「僕を一人にしないでよ!」
結局、僕も浴衣に着替えて温泉に向かう事に。
でも、部屋を出たら何故か雰囲気がガラリと変わっている。
「ワドよ。おかしいぞにゃん。向かいにあったはずの部屋が無いぞにゃん」
「あーあー、聞きたくないなー。それよりも早く先を歩いてよね」
そういって僕はガトーの肩を押す。怖すぎて先行するなんて考えられないし、人肌がないと寒くて凍えそうだ。
僕は、とても夏の気温と思えないほどの悪寒に包まれていた。
二人で恐る恐る階段を降りていく。
「なぁ、ワドよ……」
「分かってるから言わないで!」
ゆっくり降りているにしても変。
上る時の倍以上の距離を歩いたと思うのに、まだ一階の影すら見えない。ずっと暗い階段が続いている。
僕の目には涙が浮かんでいた。
「怖いよぉ、ガトー……」
「ワドワド、落ち着けにゃん。……む? 他のお客さんかにゃん?」
その言葉が耳に届き、ガトーの頭の上からそっと一階を覗き込む。
薄白い着物姿の人影が見える。
女性だろうか。
体のラインは細く、柳のような黒髪は腰辺りまで伸びていた。
「う、うぐ……」
急にガトーが苦しみ出し、僕はパニック一歩手前になりながらガトーを揺さぶる。
「ガトーどうしたの? 大丈夫?」
そうしている間に、僕にも今の異常が嗅ぎ取れた。
明らかな異臭が漂ってきている。
再び眼下の女性を見やると、彼女の両手には凶器が二つぶら下がっていた。
「逃げるよ! ガトー!」
苦しむガトーを脇に抱え、必死に階段を上る。
息も絶え絶えで、這いつくばりながら。
その荒い呼吸の合間にも、攻撃的なまでの異臭が鼻を突く。
苦しい。このままでは息が出来ない。
「何て恐ろしいものを持ってるんだにゃん……吾輩はもうダメだぞにゃん……」
ガトーはぐったりして全身の毛もしなしなになっている。
僕の心音も高鳴るばかり。それ以外の音が聞こえないほどに耳にうるさい。
ようやく二階に手が届いたところで背後に追い付かれ、その凶悪なまでの凶器を眼前に突き出される。
「ぎゃあ~~~!」
怖い怖い怖い。
どうしてこんな目に合っているのか。
意味が分からない。
既に気絶したガトーを放り出して僕は逃げる。
僕はそのくらい気が動転していたし、心臓は爆発寸前だった。
「誰か助け……」
そこで凶器を頬にピタリとつけられた。
どうしてどうしてどうして。そんな思いしか抱けない。
恐ろしくて振り返ることもできず、かと言って逃げることもできない。
それでも僕は拒絶の意思で以って全力で叫んだ。
「や、やめてください!」
突然、意味不明な攻撃が止む。
背後から笑い声がして、そろりと視線を向けた。
「お客様。こちら郷土料理ですが、平気でしょうか?」
後ろの女性は微笑みを浮かべながら言う。
「平気な訳ないよ! それ! どうみても兵器だよ!」
両手に一尾ずつのくさやを持った仲居さんに、僕は全力で抗議をした。
モンクレだって?
いやいやいやいや。くさやを両手に持って追いかけてくるなんてマジでホラーだから!