第3話 旅人スモーク
カーテンの隙間から朝日が差し込み、宿屋の個室の床には一本の光の柱が描かれる。もう結構いい時間らしい。
ユリは重たい瞼を少しずつ、だが確実に開いていった。
昨日は楽しくてビールをつい大量に飲んでしまったが、体に大きな影響は感じない。どうやら魔物の体は人間だった時のユリの体よりも、アルコールへの耐性があるようだった。
隣のベッドに視線を移すと、寝ていたはずの魔王の姿はもうそこにはない。魔族と聞くと何となく夜に活動が活発になりそうなイメージだったが、魔王は意外と朝型なのかもしれないな、とユリは思った。
ベッドから這い出す。大きなあくびをしながら体を伸ばすと、ユリは部屋を出て食堂のある一階に降りて行った。
「随分と朝はのんびりなのだな」
魔王は食堂でコーヒーを飲んでいた。その姿が、なんとなく優雅だった。
「へへ、昨日はついつい飲み過ぎてしまいまして。あ、でも体はすこぶる元気ですよ!」
元気なことをアピールするため、ついラジオ体操みたいなちょっと大袈裟な動きをしてしまう。
「元気なのは良いことだ。さっさと朝食を済ませろ。その後に今後の作戦会議だ」
「はーい」
ユリは魔王の向かいに腰掛けると、宿屋のスタッフに朝食をお願いした。すぐにパンとスープが運ばれてくる。少し酸味のあるスープが胃に染みた。
手早く朝食を済ませると、ユリもコーヒーを注文した。
「で、作戦会議、と言うか、これからの予定を決めるんですよね?」
「そうとも言うな」
魔王は一口コーヒーを啜る。
「まず最優先は地図だ。ザトルーチがどうやっていたのかわからないが、我々には地図が必要だ。これがないことには旅も何もあったものじゃないだろう?」
本当にその通りだ。地図もなしにどうやって世界征服の計画を進めていたのか知りたいものだ、とユリも思っていた。
「じゃあ、まずは学術都市ビブリオですね」
「ああ、そして私は竜の谷にも行きたい」
竜の谷…昨日の祝賀会中にローブを纏っていた男が口にした場所だ。この世のものとは思えないほどの絶景だが、竜がいるとかいないとか。
テーブルにユリのコーヒーが運ばれてきた。
「竜って…実在するんですか?」
コーヒーカップに口をつけながら、恐る恐る魔王に聞いてみる。
魔王は、はぁ、とわかりやすいため息をついてから話し出す。
「忘れているなら教えてやるが、竜族はこの世界最強の種族だ。残忍で、体は巨大、空を飛び、口からは炎を吹き、あらゆる魔術にも精通していると言われている。しかし、その姿を見たものはもう数百年いない」
「数百年誰も見ていないなら、もういなくなっているのでは?」
そうであって欲しい、という願いを込めて質問する。
魔王は、ふっ、と笑みを浮かべた。
「私はそうは思っていない。それほどまでの力を持つものが、かくも簡単にその姿を消すとは思えないからだ。しかし、この世界最強は私だ。竜が生きていては世界征服にも厄介だしな。ならば私の手で始末してくれよう」
思わずむせてコーヒーを吹き出しそうになるユリ。
「ごほっごほっ…せ、世界征服は諦めたんじゃないんですか!?」
「保留中だ」
コーヒーをまたひと啜りする魔王。
「それに、竜なんて倒せるんですか?」
「当然だ。私は魔族の王だぞ」
ちょっとカッコいい…と、思ってしまった。
「だがまずはここから西に行ったところにあるビブリオだ。学術都市と言うからには、地図だけでなく、竜の情報も何かあるかもしれないしな」
二人はコーヒーを飲み終えると、チェックアウトして宿屋を後にした。
レンクの街の人たちからは、謝礼としてたくさんのお金をもらうことが出来た。感謝の気持ちとして、多くの街の人が寄付をしてくれたらしい。
二人はお金などほとんど持たずに魔王城を出てきてしまっていたため、これからの旅費として大変助かった。これがなかったら、宿屋にも泊まれないところだったのだ。
歩きながら街の様子を見てみると、どこも活気が戻っていた。多くの人々が道を行き交うようになり、道端で世間話をする人たち、鬼ごっこをする子供たち、露店で買い物をする人たち…人々の自然な営みが、そこにはあった。
街の中は歩き回るだけで楽しく、そして居心地も良く、もう一泊して観光もしたかったユリだったが、魔王が出発する気満々だったので、渋々とそれに従うこととした。
二人は西門から外に出た。衛兵に軽く挨拶をして石橋を渡ると、停まっている馬車が右手に見える。
すると、馬車の横に立っていた中年ぐらいの男がこちらに気づき、小走りで近づいて来た。
「やぁ、君たち村の英雄さんたちだろ?ビブリオに行くんなら乗っていきなよ」
英雄と呼ばれるのがちょっと気恥ずかしいユリ。
「英雄だなんて…でも、良いんですか?」
ユリは生まれて初めて馬車に乗れるとなり、目を輝かせていた。以前、ヨーロッパに旅行で行ったときにも乗る機会はあったのだが、一人旅だったということもあり、何となく恥ずかしく、今までそのチャンスを逃してきたのだ。
魔王の顔を覗き込むと、あまり乗り気がしない様子だった。
「マオさん…馬車は嫌いなんですか?」
すると、小さな声でぶつぶつと話し出す。
「…狭い空間に人間と一緒にいるというのが不快なだけだ。人間は…敵だったのだからな」
それでもビブリオまでの距離が結構あることを男に聞かされると、魔王は渋々と了承した。二人は後方から荷台に乗り込んだ。
木で出来た土台の上には布が被せてあり、それを木の骨格が支えている構造だ。布により壁と天井が作られており、乗りながら外を見ることは出来なそうだが、雨が降っても荷台の中が濡れないようになっていた。
中にはすでに三人の客がおり、ユリたちから見て右側の席に座っていた。ユリと魔王は左側の席に腰掛けた。
「よし、ビブリオに向けて出発だ!」
先ほどの男が馬車の操縦席に乗り込むと、馬車はゆっくりと動き始めた。
馬車の揺れは想像していたよりも激しかったものの、ユリにとって苦痛というほどではなかった。
荷台にはユリと魔王に加え、若い女性が一人と男性が二人乗っている。そのうち女性と男性の一人は積極的にユリに声をかけてきた。
「へー、女性二人で旅をしているのかい。それでまずは地図を探していると」
男性の方が興味津々に話しかけてくる。
「だったらビブリオは正解だよ。あそこは学術都市だからとにかくいろんな本がたくさんあるんだ。世界中のことに関することが調べられるし、よくできた地図も売っていたはずだよ。な?」
男は隣にいた女性に同意を求める。どうやら二人は夫婦のようだった。
「ええ、私はこの人とよくビブリオに行くのだけど、確か地図屋さんが街の外れにあったわ。それに旅をするなら本屋さんで観光ガイドブックも買って行きなさいな」
「それはいいアイデアですね!こっちの世界のガイドブックがどんな感じなのか、気になるなぁ」
ユリは一瞬、しまった、と思ったが、どうやら「こっちの世界」という不穏な部分は聞かれなかったようだった。
会社員をしていた時、ユリは観光ガイドブックの編集をしていたので、写真の構成とか説明文などがどうなっているのか、気になっていた。
その時突然、隣に座っていた魔王が右斜め前にいた全身ローブの男に声をかけた。
「貴様、昨日は酒場にいたな。そしてそのローブの下には剣を隠している。何者だ?」
途端に、荷台の中に緊張が走る。全員の視線がローブの男に集中した。
男は、くくく、と笑いながらフードを取った。中からは優しそうな若い男の顔が出てきた。
「いやいや、やめてくださいよ。昨日、酒場で竜の谷についてお話した者です。実は私も竜の谷を目指して旅をしておりまして…あ、この剣は護身用です。ここ最近、世の中物騒ですからね」
魔王から放たれる殺気を感じ取ってか、その男はおろおろしながら弁明を続ける。
その時、馬車が急停車した。
「山賊だ!」
馬車を操縦していた男が大きな声を上げた。
魔王とローブの男はすぐさま荷台を飛び降りた。少し遅れて、ユリも続いた。
馬車は十人ほどの男たちに囲まれていた。全員が布で口元を隠しつつ、その手には剣が握られている。いかにも山賊とわかる、人相の悪い連中だった。
「荷物は全部いただくぜ!ついでにお前らの命もな!」
山賊のリーダーらしき男がそう叫ぶと、大声で笑い出す。周りの連中も何がおかしいのか、釣られて笑い出した。
「こいつらは人間だが、殺しても構わぬな?」
魔王は余裕があるのか、ユリの方を振り返り淡々と聞いてくる。
「え、えっと…正当防衛だと思います!」
もちろん、人を殺して欲しくはなかったが、明らかにこちらを殺す気満々な奴らに囲まれてしまってはどうしようもない。そう、自分に言い聞かせた。
「英雄さんたちは、半分をお願いします。残りは私が始末しますので」
ローブの男はそう言うとさっと剣を構え、一人一人、順番に手際よく倒していく。しっかりと相手の攻撃を受け止めてから反撃をするその剣筋。かなりの剣の使い手だということが、素人のユリにもよくわかった。
「我々も行くぞ、ユリ」
魔王も大鎌を構えると、素早い動きで山賊を攻撃していく。舞うような動きで大鎌を振り回すその動きに山賊たちは翻弄され、山賊たちの攻撃は全然魔王に当たっていない。
ユリは大鎌の切っ先から飛び散る血飛沫をなるべく見ないようにしながら、火の魔法で支援する。
三人で合計七人の山賊を倒すと、残りは走って逃げて行った。その場には七人の人間の死体が転がっている。
それを見て気分が悪くなるユリ。思わず吐きそうになるのを必死に堪えた。
「大丈夫ですか?」
ローブの男は剣についた血を布で拭き取ると、魔王とユリの方に走って来た。
「ええ…何とか…。そちらも大丈夫ですか?」
ローブの男は至って元気そうだったが、吐き気を堪えながら、一応聞き返しておいた。
「私は大丈夫です。それにしてもお二人ともすごい強さですね」
ユリから見ればローブの男もすごい強さだったが、これまで「強い」なんて言われたことがなかったので、なんとなく恥ずかしさが込み上げてくる。
「申し遅れました。私はスモーク。旅人です。今は竜の谷を目指していまして、共にゆく仲間を探していたのです」
それで酒場で私たちに竜の谷の話をしたのか、とユリは思った。
「スモークさんも絶景を見に?」
そう聞いてみると、それは嬉しそうな表情で答え始める。
「はい!なんでも、この世のものとは思えないような絶景と聞いておりますので!一度見ておきたいと思ったんです」
ユリは魔王の顔を伺う。すると、魔王は見下したような目つきでスモークの方を見た。
「一緒に行きたいなら、まずはその殺気を消すことだな。それに貴様、私たちの正体に気づいているだろう」
「えっ!?」
ユリは言葉を失った。
この男、私たちが魔物だと言うことに気づいている?
スモークと名乗った男は、それでも落ち着いた様子だった。そのままにこりと微笑むと、魔王に手を差し出してくる。
「ええ、私にはちょっとした能力がありまして、あなた方が人間でないことはわかっています。それでもあなたたちほど強い人たちと一緒なら、竜の谷まで楽に辿り着けそうです」
魔王は差し出された手を少しの間、見つめていた。
「ふん、面白い」
そう言うと、魔王はその手を握り返した。
スモークはユリとも軽く握手をし、馬車の荷台に戻っていく。ユリたちもそれに続いた。
いきなり魔王がユリの体を引き寄せ、耳元に顔を近づけてきた。思わずドキりとする。
「あの男には油断するな」