第9話 大蜘蛛シェローヴァ
真っ黒なその蜘蛛は巨大で、近づいてくるとその大きさがよくわかった。大きめのカバほどだろうか…ユリにはその大きさを表す言葉が容易に思い浮かばない。その頭にはたくさんの目がついており、口を開くと鋭利な牙がその姿を現した。
シェローヴァと呼ばれたその蜘蛛は愉快そうな声で話し出す。
「それは私のセリフですよ。魔王様。なぜ人間の姿をして、しかも人間たちと一緒にこんなところにいるのです?ザトルーチ様も同じです。世界征服計画はもうとっくに始まっているはずじゃなかったのですか?」
シェローヴァは魔王とザトルーチの顔を知っているようで、すぐにそれぞれの正体に気づいていた。
「予定が変わった」
魔王は落ち着いて返答する。
「命令だ。指示があるまでドワーフたちを食うのをやめろ。人間もだ」
シェローヴァは何がおかしいのか、静かに笑い出す。
「ふふふ、面白いことを言いますね。魔族なのに、ドワーフや人間を殺すな?私は世界征服計画に合わせてここを抑えていると言うのに、あなたは変わられた。昔は狡猾、残忍なお方だった。何が原因なのか」
魔王とユリの前をうろうろと左右に動き回る大蜘蛛。たくさんの脚が忙しなく動いている。何かを考えているのか、大蜘蛛は時折二人に視線を移す。
ユリは恐怖から、黙って震えていた。大蜘蛛のたくさんの目と自分の目を合わせないよう、下を向いている。
その時だった。シェローヴァがぐいとユリに近づき、その顔を覗き込んだ。ユリは咄嗟に息を止めた。
「あなたは…ザトルーチ様ではありませんね?魔王様をたぶらかしているのはあなたでしょうか?」
答える隙も与えずに、シェローヴァはいくつもある腕の一つをユリ目掛けて素早く振り下ろした。
顔に当たりそうになった、次の瞬間、
ガキィィィイン!
頭を両手で抑えしゃがみ込んだユリが顔を上げると、シェローヴァの攻撃は魔王の大鎌によって防がれていた。
「ま、魔王様…」
へなへなと座り込んでしまったユリの目には涙が溢れ出す。
死ぬかと思った。
「私の僕に手を出すな」
シェローヴァは大きく一歩後ろに下がる。
「あなたは変わられた。以前であれば仲間が殺されようと気にはしなかったはず。それを助けるだなんて…魔王失格ですね」
突如、魔王とシェローヴァの激しい戦いが始まった。魔王はしっかりと相手の動きを見て、何本もの脚から繰り出される攻撃を弾き返していく。時折飛んでくる蜘蛛の糸も大鎌で処理していた。
シェローヴァは正面向かっての勝負だと不利と察したのか、一旦壁際まで引くと、壁を登り、360度あらゆる方向の壁と天井を走り回り始めた。そして様々な方向から蜘蛛の糸を魔王めがけて飛ばす。その巨体からは考えられないほど俊敏で軽快な動きだった。
魔王は大鎌を構え、飛んでくる蜘蛛の糸の対処で精一杯だった。ユリの方を見て叫ぶ。
「ユリ!立てるなら魔法で足止めをしろ!」
「は、はい!」
ユリは以前、キャンプをしていた時に魔王から教わった魔法を思い出し、右手を前に突き出す。
「ルート!」
するとユリの右手からは氷の塊が飛び出した。
これをシェローヴァの足元に撃ち込めば、動きを止められるかもしれない!
「ルート!ルート!ルート!」
連続して氷の塊を飛ばしていく。だがシェローヴァの動きは俊敏で、なかなか思い通りの部分に当たらない。
「何をしている、ユリ!早くしろ!」
魔王はその間にも飛んでくる蜘蛛の糸を大鎌で対処する。今はユリに向かって飛んでくる分にも対応しているので、さらに大忙しだ。
「は、はい!ルート!ルート!ルー…おえぇ」
吐いた。どうやら魔法は使い過ぎると体に大きな負担がかかるようだ。フラフラしてうずくまるユリ。すると、蜘蛛の糸でぐるぐる巻きになったヘレナが腕を伸ばし、ユリに向かって何かを投げた。
「おい、これ飲みな!」
ユリに渡されたのは魔力の回復薬だった。瓶を開けて一気飲みすると、ユリは立ち上がってまた魔法を連発する。
「ルート!ルート!ルート!」
その時、壁を移動していたシェローヴァの後ろ足に運よくユリの魔法がヒットした。もがいて逃れようとするが、足が凍りついていて動けない。
「よくやったぞ、ユリ」
そう言うと魔王は大鎌を構え、大きな跳躍で壁に張り付いたシェローヴァに斬りかかった。
ギャァアアアアー!!
採掘場に大きな断末魔が響き渡った。大蜘蛛は真っ二つとなり、その死体が地面に転がり落ちる。
「や、やったぁ…」
またもへなへなと座り込むユリ。それを見て、魔王は手を差し出した。
「よくやったな」
一言だけだったが、握り返した手は少しだけ暖かかった。
ユリは、自分でもなぜだかよくわからなかったが、とても嬉しい気持ちになり、顔も少し熱っていた。
しかしその時、「おーい!早く助けろー!」と、ヘレナの声がぐるぐる巻きの糸の塊の中から聞こえてくる。その横でも、同じくぐるぐる巻きになっているスモークが蠢いていた。
ユリと魔王は、べとべとする蜘蛛の糸を手で引き裂き、ヘレナとスモークを救出した。
「いやはや、今回はまったく役に立てなくてすいませんでした」
スモークは申し訳なさそうな顔で謝る。
「ヘレナ、あの薬、助かりました」
ユリはヘレナにお礼を言う。すると、少女はちょっと恥ずかしそうに下を向いてしまった。
「…薬はいろいろ持ってるから、いつでも頼れ。ないものは作る」
やっぱりこいつ可愛いな、と思い、ユリはヘレナの頭をくしゃくしゃになるまで撫で回した。