プロローグ
土曜日の午前五時半。静寂の中にアニソンが響き渡る。
ベッドからモゾモゾと這い出してきた女は大きく体全体を伸ばすと、勢いよく立ち上がり、すぐ隣のカーテンの隙間から外を覗き見た。
まだ外は薄暗い。
女の名は井上ユリ。今年で二十七歳。出版社で旅行雑誌の編集をしている、ごく普通の会社員だ。
ユリは枕元に置いてあったスマートフォンのアラームを止めると、いつもより随分と朝早いというのにご機嫌な様子で台所に向かっていく。
電動ポットでさっとお湯を沸かしインスタントコーヒーを煎れると、昨日買っておいたコンビニのメロンパンを一気に口の中に詰め込んでいく。それを熱いコーヒーでちびちびと胃に流し込むと、ユリは足早に洗面所に向かった。
今日は早朝からのバイク旅。下道で東京から福島に行き、温泉に入って一泊し、帰ってくる予定だ。
ユリは何よりも旅が好きだった。これまでに十回以上も海外旅行をしているし、電車を使った国内旅行の経験も数多い。そして、最近は中型二輪免許を取ったこともあり、バイクでの旅にハマっているのだ。
愛車は比較的最近発売されたホンダのGB350。なんとなくレトロな見た目のネイキッドバイクだ。ユリはネイキッドと呼ばれる種類のバイクが好みで、ヘッドランプも古風な丸型がタイプだった。そこで、まさにユリの嗜好にマッチしたのがGB350だったと言うわけだ。
正直、バイクにはあまり詳しくないユリだったが、バイク屋の店頭で実写を見て即決。まさに衝動買いという勢いで百万円近くの出費をしてしまった。
それでも後悔はしていない。バイクに乗って、今まで行ったことのないところに行き、今まで見たことのない景色を見る…それが何よりも楽しく、その楽しみはバイクに乗り始めるまで味わったことのないものだった。
ユリは化粧もほどほどに済ませると、バイク用の装備品を着用し、昨日のうちに用意して玄関に置いておいた大きめのリュックサックを背負う。
「安全第一!今日は良い一日にするぞ!」
そう独り言を言うと、ユリはヘルメットとグローブを持ち、自分の部屋を出て行った。
外は快晴だった。
赤いGB350をバイク置き場から出し、再度装備品を確認すると、サイドスタンドを出したまま、ユリはバイクに跨った。
身長があまり高くないユリにとって、これが一番緊張する瞬間だった。バイクに乗る人にとって一番の恐怖は立ちゴケ(バイクが止まっている状態でその重量を支えきれずに倒れてしまうこと)だと、ユリは以前から思っていた。車体が傷つくのは嫌だし、何より、心へのダメージが大きい。
ユリは跨ったまま左足でサイドスタンドを払うと、キーを差し込み、エンジンを始動した。
ドコドコと鳴り出す単気筒エンジンの音。ユリにとってそれは、まさに旅の相棒の鼓動だった。本当はその鼓動が安定するまでしばらくアイドリングさせておきたかったのだが、早朝だと言うこともあり、近所迷惑にならないよう、ユリはスロットルを少しだけ回し、さっさとクラッチを繋いだ。
バイクはゆっくりと動き出した。
土曜日の早朝、東京の幹線道路はまだ空いていると言える状態だったが、すでに走っているトラックの姿が多く見られた。
朝早くからご苦労様です!
ユリはそれほどスピードを出すこともなく、すり抜けをすることもなく、トコトコと安全運転で順調に走っている。
今日のお昼は何を食べようかな。
夕飯は今晩泊まる温泉旅館で食べる予定だが、お昼については決めていない。ユリはあまりギチギチにスケジュールを詰めるのが好きなタイプではなかった。ある程度、その場の勢いで決められるのも旅の醍醐味だと思っていたからだ。
道の駅やパーキングエリアで済ませるのがいいかな。
ユリは旅行中、出来るだけファストフード店やチェーンレストランを避けるようにしている。食べるのが大好きなユリは、なるべくご当地のものを食べたいと常日頃思っていた。特に最近は道の駅が増えたこともあり、気軽にご当地グルメを満喫できる。
とは言え、お腹が空いたらファストフードでも何でも食べてしまうのがユリ流だ。バイクの運転は集中力が必要なので、空腹では危険なのだ、と、いつも自分に言い聞かせていた。
その時、目の前の信号が黄色に変わった。停止線までの距離はそれほどない。今からブレーキをかけると結構な急ブレーキになってしまうだろう。
よし、加速しちゃおっと。
ユリはギアを一段下げると、一気にスピードを上げた。
停止線を越えた。まさにその時、ユリは視界の右側になんとなく違和感を覚えた。
突如、対向車線から右折してきた大型トラックが視界を覆う。
ぶつかる!
左には避けられないと判断したユリは、前後のブレーキを全力でかける。しかし直前まで加速していたのが仇となった。バイクはそのままトラックの側面に突き進んでいく。
ドンッ!!
重くて鈍い衝撃音が聞こえると、目の前が見えなくなった。
ユリはしばらくの間、自分の体が宙に浮いている感覚を味わった。しかし次にドスンと言う衝撃を体全体で受けると、体の感覚がなくなった。
何が起きているかわからない。
しばらくすると「救急車を呼べ!」と言う男性の声やサイレンの大きな音が聞こえ始めたが、その音も次第に遠くなっていく。
私、死ぬんだ…。
ユリにはそれがなんとなく理解出来ていた。
まだまだ、もっと、たくさん旅、したかったな。
意識が薄れていく中、それだけを考えていた。






