第10話 天国
魔物と魔人族の境界線に位置するのが人型の魔物である。彼らは人間と同じように二足歩行で歩き、彼ら独自の言語があるが、知能はそこまで高くない。しかし舐めてかかると痛い目を見ることもあり、ゴブリンはその典型例である。ゴブリンは集団で統率のとれた行動をとる。狡猾で、人間の真似をすることもある。 だが彼らが魔人族と呼ばれることは決してない。魔人族は側から見て人間と区別がつかず、唯一の見分け方は身体のどこかに魔印が刻まれていることである。彼らがなぜ人間と同じ姿をしていて、それでいて人間よりも遥かに膨大な魔力を持つのか、未だに明らかにはなっていない。
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聖暦500年 7月1日
ゴブリンたちが一斉にアイリスに襲いかかる。アイリスは攻撃を躱しながら一歩一歩後ろに下がっていく。
「……この位置なら奥まで充満しないかな」
一体のゴブリンが棍棒を振りかぶろうとしている。アイリスは攻撃の瞬間に手に持っていた3つのポーションを投げつけた。棍棒とポーションの瓶がぶつかり、中身が宙で混ざり合う。その瞬間、爆音と共に紫色の霧が道に充満した。ゴブリンたちは喉を掻きむしって苦しみだす。アイリスは霧の中で平然と立っていた。
「ポーションが効かないっていうのも、案外悪くないかも」
しばらくすると、ゴブリンたちは皆口から泡を吹いて倒れた。アイリスはポーチに命令する。
【吸え】
するとポーチの口が開いてそこに紫色の霧が渦を巻きながら吸い込まれていく。あっという間に霧は消えて無くなった。アイリスはゴブリンの死体を避けながら奥に進んでいく。すると松明で照らされた広い空間に出る。そこには巨大なゴブリンの主と、その後ろに隠れるゴブリンの子供たちがいた。彼らの横には手足を縛られた村の住民たちが転がされている。
「……デカいね」
ゴブリンの主は棍棒を薙ぎ払うようにしてアイリスに攻撃してくる。
【砕け】
アイリスがそう呟くとポーチから暴食獣の禍々しい手が飛び出して棍棒を掴み、粉砕する。続けてアイリスは命令する。
【潰せ】
巨大な手が瞬時にゴブリンの主を鷲掴みする。ミシミシと音をたてながらゴブリンの身体が細くなっていく。ゴブリンが呻き声をあげた時、次の瞬間には肉塊へと変化していた。血が辺りに飛び散り、アイリスの顔にも付着する。彼女に怯えたゴブリンの子供たちが左の通路から逃げようとする。しかし、そこから凍えるような冷気が彼らを包み込む。子供たちは何が起きたのかわからないまま凍らされた。
「さっっむ……!え、フラメール!?」
「はい。フラメールです。この通路の先にも巨大な空間がありました。そこにいたゴブリンは全て殺しました。……残念ながら、村の住民たちは解体されていましたが」
「……そう、わかった。お疲れ様。色々と聞きたいことはあるけど、その前に生存者を救出しよう」
アイリスは住民たちの縄を切る。しかし、彼らは怯えて立てない様子だった。
「大丈夫?安心して。ゴブリンは全員倒したよ」
アイリスは座り込んでいる女の子に手を差し伸べる。だが彼女は手を取ることはしなかった。
「……アイリス。顔に血が付いてますよ」
「うん?ああ、ほんとだ。……よし!これで怖くない!さ、外に出よう!」
アイリスはそう言ってニカっと笑って再び手を差し出す。女の子は安心した様子でアイリスの手を取った。
「皆さん、この通路を通ってください。あちらは見ないように。……ご家族が心配なのはわかります。ですがここはまだ危険です。一旦山を降りて、その後再び私たちが調査します」
フラメールは住民を説得して洞窟の外に出る。山を降りるまで護衛して、依頼を出した村に住民を預けた。アイリスとフラメールは大きな布を何枚か持って再び洞窟に戻り、住民の死体をできる限り丁寧に包む。
「バラバラにされているので、身元を判明させるのは難しいかもしれませんね」
「……けど、頭部はみんな残されている。それだけでも、お墓に埋められるようにしておこう。村の住民が落ち着いたらここに来て自分の家族がいないか確認してもらうよう村長に言っておくよ……それにしても、ここ寒すぎ!!あちこち氷だらけだし!!フラメールってもしかして氷魔術使うの?」
「はい。剣に付与して使っています」
「……もし一緒に戦うときは遠くで戦闘してね。決して私に近づかないこと!」
「本当に寒いのが苦手なんですね」
「君もそうだって言ってたじゃん!」
「苦手ですが、この魔術が一番得意なので」
「あんまり苦手そうに見えないんだけどなぁ」
アイリスとフラメールは氷の柱になったゴブリンたちの死体を通り過ぎて、洞窟の外に出る。空を見ると、太陽が徐々に傾いてきていた。2人は村に戻り、村長に報告をする。
「……そうか。皆死んでおったか……」
「一応死体は布で包んでおいたよ。氷魔術のお陰で洞窟内は冷えているから、しばらくは死体を安置できると思う。……住民たちの心の準備ができたら、連れていってあげて」
「わかった。生き残った隣の住民たちはまだ動揺していて、洞窟のことを話せるのはしばらく先になりそうじゃ。すぐにでも行きたいと言っておる者もおるが、今の精神状態じゃと、何をしでかすかわからんからの」
「ただ、なるべく早く遺体を回収するようにはしてください。死臭が漂っているため、他の魔物が近づいてくる可能性があります」
「ゴブリンは時間が経てば灰になって消えるから、その後の方がいいかも」
「助言大いに感謝する。お二人とも、本当にありがとう。お主らは村の英雄じゃ。報酬はきちんとギルドに支払っておる。安心して受け取ってくれ」
「うん。村長さんも、これから大変だろうけど、頑張って。何かあったらすぐにギルドに依頼してね。あの町の冒険者はみんな頼りになるから!」
「もちろん。頼りにしておる」
「それでは、私たちはこれで失礼します」
「お二人とも、本当に、本当にありがとう」
村長は再び礼を言って深々と頭を下げる。アイリスとフラメールは村長の家を出て、村の出口に向かう。すると出口にさっきの女の子が立っていた。こちらに気がつくと、走って近づいてくる。
「あ、あの!助けてくれてありがとうございました!さっきはごめんなさい……最初に手を差し伸べてくれたのに……」
「うんうん、全然気にしてないから大丈夫だよ!君はもう平気?」
「……ママが隣の部屋にいたの。1回だけ声が聞こえたんだけど、そのあと聞こえなくなっちゃった……ママは死んでないよね……?きっとまだどこかに隠れてるんだよね……?」
女の子は今にも泣き出しそうだった。彼女はもう頭の中では理解していた。それでも、それでも、受け入れらないこともある。アイリスは彼女の視線と同じ高さにしゃがみ込む。
「君のママは、天国に行ったんだよ。実はあの部屋は天国に繋がっていて、君のママや村の住民たちは運良く魔物から逃れることができたんだ」
「うそ、そんなのうそだよ……!」
「うそじゃないさ。私の耳を見てみて。とんがってるでしょ?これはね、天国にいる天使の証なんだ。私はさっき天国に行って君のママに会ってきたよ。ここはとてもいい場所だから、ずっとここにいたいんだって」
「……あなたは、本当に天使様なの?」
「本当だとも」
「じゃあ天国ってどんなとこ……?ママ、どんなところに行っちゃったの……?」
「待ってて、今見せてあげる」
アイリスはそう言うとポーチから1つのポーションを取り出す。そのポーションは他のポーションと違って瓶にラベルが貼られていた。
『特性ポーション"春来の桃源郷"』
アイリスはそのポーションを地面に一滴垂らす。その瞬間、3人の取り囲む風景が一瞬にして変化した。
暖かな色の花畑がどこまでも広がっていて、爽やかな風が花の甘い香りを運び、彼女たちの鼻腔をくすぐる。空は青く、遠くの雲のように見えたのは、幾つもの巨大な白亜の城だった。
「わぁ、すごい!ここが天国なの?」
女の子が興奮した様子でアイリスに話しかける。
「そうだよ。これが天国の風景。君のママはこういう場所にいるんだ」
「ママ、いいなぁ。私もここにいたい!」
「君がいい子で長生きしていれば、私が必ずここに連れて行ってあげる」
「本当!?約束、約束だよ!」
「うん、約束」
アイリスと女の子は花畑の上で指切りをする。フラメールはこの現状に呆気に取られていた。
指切りが終わると、風景は徐々に霞んでいき、やがて元の景色に戻った。
「バイバイ!天使様!白髪のお姉さん!ありがとう!」
女の子は笑顔で手を振ってアイリスとフラメールを見送る。村から少し離れると、フラメールはすぐさま質問した。
「アイリス、さっきのはなんですか」
「天国の風景だよ」
「誤魔化さないでください。あれはポーションによる幻影です。ですが、どこまでも広がる景色、風が吹く感触や音、運ばれてくる花の匂い、そのどれもが本物でした。……五感全てを騙す幻影なんて、聞いたことがありません。もはやポーションの域を超えています」
「言ったでしょ?ポーションなら何でもあるって。あれは私オリジナルのポーションだよ」
「……あれは最早、精霊の———」
「やめて。私、その表現が大嫌いなの」
アイリスはそう言ってフラメールを睨みつける。フラメールは思わず出かかっていた言葉を飲み込んだ。
「……それに、なんであんな"御伽話"を言ったんですか。あの少女だって、本当は母親が死んだことを理解していたはずです」
「そうだね。確かにあの子は母親がもう死んでるとわかっていた。それでもああやって私に聞いてきたのは、怖かったからだと思う。もう母親と一生会えないんじゃないか、痛い思いをして死んじゃったんじゃないか、そんな不安があの子にはあった」
「……」
「昔、私の友人に絵本作家がいたんだ。彼女は精霊の聖典に書かれているような、全ては無に帰るなんてつまらない終わり方よりも、お花畑の楽園で、みんなが平和に暮らしている結末の方がよっぽどいいって言っていた。私もそう思う。死んだあとなんて誰にもわからないんだし、どんな妄想をしたって自由だよ。人間だけじゃない。エルフも、魔物も、魔人もみんな、死んだあとは、各々の幸せを享受してるはず。そう考えれば、気が楽にならない?」
アイリスはそう言ってフラメールに笑いかける。出会った当初から見せていた、明るく元気な笑顔。今後も彼女はいつだってこんな笑顔を見せてくる。だが後になって、フラメールは初めて気がつくだろう。この時見せていた笑顔の裏に、ほんの少し、ほんの少しだけ、寂しさが隠れていたことに。




