片目を潰されて退場した彼女への、それは男の不変の純愛
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騎士はそれなりの地位と言える。誇りに思うことだって自由だ。かと言って、そこまでプライドを掲げるかというと、そうということもない。戦うのみ。戦争だと聞けば派兵され先頭に立つのみ。それで良いのだとその男――オスカーは考えている。オスカーは病を患っていた。医者から余命は半年程度だろうと言い渡されていた。自分はもう長くない――その事実が、彼をいっそう、奮い立たせた。名を残したいわけではない、誰かに尊敬してもらいたいわけでもない。ただ命が続く限り、戦いたかった。国のため? 違う。自分を納得させるためだ。
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騎士の仲間がいた。女性だ。ヒューイという。男性の名前だが、特に子に興味がなかった父が、生まれてくる子が女か男かもわからない段階でテキトーに付けたらしい。とんでもない話だと思うのだが本人にはいささかも気にする素振りなどなく、誰かにその話を持ち出されるたびにかんらかんらと笑った。彼女は剣も槍も達者で、国一番と呼ばれるオスカーにもひけをとらない。ほんとうに立派なものだと感じて、オスカーは敬意を表している。ほんとうに大した奴なのだ。オスカーが低い家柄のことをときどき嘆き、至極つまらない文句――なんてものを酔った勢いで吐くたびに、ヒューイはいつも笑った。「騎士にあるのは、あんたが大した奴だからだよ」と言って、笑った。その旨を聞いて、オスカーは自らを信じるに至った。ヒューイがいなければ、俺はとっくに職を辞していたかもしれない。そう思わされるたび、オスカーはヒューイに感謝した。騎士が天職だとまでは考えないながらも、騎士に就けなければ結構面白くない人生を送っていただろう。だからこそ、オスカーはヒューイに頭が上がらない。足を向けて寝ることなどとんでもない。
だからこそだ、「オスカー、ねぇ、セックスしようよ」と言われたときに驚いたことは言うまでもない。「なぜ? どうしてだ?」と訊ねたとき、「好きだからに決まっているじゃない」と笑われ、また驚いたことも言うまでもない――。
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オスカーは幸せだった。ヒューイを抱けたことに、抱いたことに。朝まで眠っていたらしい。ヒューイは窓から差し込む光をもとに本を読んでいた、裸のまま、うつ伏せで。
「何を読んでいるんだ?」
「小説。他愛もない作品」
「……なあ、ヒューイ」
「あー、私を抱いたことを申し訳なく思っているんでしょう?」
ぐうの音も出ないセリフだった。
「だって俺は、しょうもない男だろう?」
ヒューイはオスカーのほうを見上げ、にこりと笑ってみせた。それから身体を起こして、べたぁとすがりつくようにして抱きついてきた。
「謙虚なあなたは好きだな。でも、後ろ向きなあなたは大嫌い」
「しかし俺は――」
口を塞ぐようにキスをされた。
のち、額同士を押しつけた。
「安心しなよ。私はあなたを心の底から愛してる。それは一生、変わらない」
「その理由が、俺にはわからないんだ」
「恋にも愛にも言い訳は不要。理由がないからこそ、それはそうなんじゃない」
「でも、俺は……」
「だから、病気でもうすぐ死ぬっていうんでしょ? だったら最期までちゃんと愛してよ。愛してほしいんだから」
オスカーは、今度は自分から唇を求めた。
ヒューイが驚いたような顔を見せたのがわかった。
思えば、自分から女性を相手にキスをしたのは初めてだ。
「もうまもなく、また戦争が起きるだろう」
「そうだね」ヒューイは微笑んだ。「また帰ってこようよ。またキスをするために、ね」
「ヒューイと知り合ってから、俺は死ぬのが怖くなった」
「だからぁ、何があっても、そんなに弱気になるなよなぁ」
男っぽく明るく話す彼女のことが、オスカーはほんとうに好きだ。
なんの嘘も冗談も紛い物もなく。
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この国で「丘」と言えば、それは決まっている。帝国との戦場だ。帝国が気張って拠り所としている。拠点として、そこから兵を寄越してくる。帝国は強大だ。だからいつも劣勢に立たされる。それでもヒューイは諦めない。いつか帝国によって打ち込まれた杭を引っこ抜いてやるのだと意気込んで、いつもいの一番に飛び込んでいく。馬術の腕だってオスカーより上だ。だから剣術だって槍術だって。と言ってもとにかく失うことは嫌だから――。
丘での戦闘もくり返して久しい。防衛――網をくぐり抜けることは先方がいくら強力であっても難しいようだ。防衛戦を続けるしかないことは自明の理だが、しかし圧倒的に負けなければいい。街に国に被害が及ぶことがなければそれでいい。仲間はみな、そう考えているはずだ。守ることしかないのは芸がないに等しいが、延命をたどるしかなくても、それは道であり、決定的な道理だ。
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一段落つき、ヒューイの負傷を聞かされた。オスカーは目を大きくした。びっくりした。戦闘の途中で「ヒューイ!」と叫んだときにはおかしいと思っていたのだ。いつもいつも「ここにいるぞ!」という大きな声が聞こえてこなかったから。何かあったのだと察した。馬から降り、慌てて野営のテントに近づいた。
ヒューイは左の目を魔法か刃物かで抉られ、もはや虫の域だった。
オスカーは慌てた。
信じられない光景だった。
そんな、まさか、あの強靭極まりない、強さの象徴であるヒューイが……。
軍医の止める声も無視して、オスカーはヒューイの上半身を抱え上げた。
「私はもう、ダメかもしれない……なんてね」
「馬鹿を言うな!」オスカーは怒鳴った。「おまえが死ぬなんて、俺は許さないぞ!」
「あははははっ」と、ヒューイは高らかに笑い声を上げた。「死なないってば。たかが片目を取られただけじゃない」
そう言って強がってみせるのだが、左目は完全にないのだ。一撃が脳まで達しているのであれば今話せていることが奇跡で、だから、この先は、もう……。
「……わかった。任せろ。あとは俺がなんとかする」
「だ・か・らぁ、深刻になりすぎなんだってば。私があなたを守る。あなたが私を守ってくれたように」
「ヒューイ……っ」
「諦めるな、オスカー。私は帝国なんかに負けやしないんだからね」
がくりと脱力してしまったヒューイの身体を抱き締めて、それはもう、声にならない声を発して、オスカーは泣きに泣いた。
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無力で無気力だった。ああ、そうか。守りたいヒトが、女性がいるからこそ、俺は兵として頑張れたんだな……。つくづく、そんなふうに思い知らされた。前線に出ても怪我を負うことが多くなった。そのたび軍医の世話になった。情けないことながらモチベーションを欠いていた。騎士だというのに、なんと情けないことか……。
ある日、上長である准将の男性に、私室へと呼ばれた。格好のいい、渋い中年だ。さんざん、やり手と言われている。
「騎士オスカー、平たく言えば、おまえはやる気というものを失っているようだ。どうしてかな?」
言えるはずがない。「その事象」を口に出すことはひどくむなしく、情けないように思えたからだ。
「騎士ヒューイのことは知っている」
言われ、どきりと心臓が跳ねた。
「やる気どうこうの話をしたが、女――いや、女性をあまりに思っていたがゆえに人生にしょうもなさを感じることは、何も悪いことではない。だが、おまえは私にとって、じゅうぶんすぎる部下であり、だからこそ、どうしてもその気が失われたのだとするなら、役職から外そう。新しい仕事を探すといい」
「やり……ます」
「ほぅ。それはどうしてだ?」
「俺はヒトを殺す術しか知りません。知らないんです」
「それは心強い」准将は笑った。「おまえがいなければ、やがて防衛線は食いちぎられることだろう。そうならないことを祈りたいし、そうならないよう指揮をとり、援護をやるのが私の役割なんだよ」
くそったれめと思った。
准将は自らが放った言葉のとおり、しょせん、ヒトを駒としか捉えていないのだ。
だとしても、オスカーは戦うことしかよしとしない。
やっぱり、戦いの中でしか、生きることはできないから。
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今日も朝っぱらから帝国の軍が攻めこんできたのだという。前線からの早馬にてその旨を知らされたらしく、ゆえに反撃の兵隊が編成され、すぐに迎え撃つ準備が整った。なにせ騎士だ。今日も今日で前線で頑張って迎え撃たなければならない。しかしオスカーはヒューイが死んで以降、人生の無意味さに晒されているわけだ。この虚無感は誰にも埋めようがない。それでも戦おうとする理由は……そんなの、忘れてしまっていい。あやふやなままで、もういい。そう考えるくらいの、ある種の気力はある、あるのだ。帝国みたいな横柄で横暴な連中に国を明け渡すわけにはいかないのだ。
帝国の兵はよく訓練されている。一人一人が弱くない。油断したら最後、すぐにやられてしまうことだろう。それでは面白くない。他者に祖国を蹂躙されることは楽しくない。だから重ねて一生懸命に戦うのだ、今日も、今日とて。しかし戦力の差は明らかであることから、そのうち、押され始める。悔しい――悔しいのだが、もはやそんなことはどうでもいいのかもしれない――と考えを改める。「来たな! オスカー侯爵!!」などと言いながら、多くの相手方――歩兵が剣を構える。とはいえ雑兵だ、普段ならものともせず、斬って捨てるだろう。
なのに斬って捨てる意欲が、オスカーの中で鈍った。
そこに「どうでもよさ」という感情が生じた。
疲れた。
もう、疲れたのだ。
何も手にすることができなかった。
戦いの果てに得られたものなど、何もなかった。
自らが滅びようと、家族が滅びようと、果ては国家が滅びようと、そんなもの、どうだっていいなと感じ、思わされた。言い訳のしようがない。とにかくそんなふうに強く感じられたのだから。
そもそも、もはや愛したニンゲンは、どこにもいないのだ。
だったら自らは、そこそこの人生だったとしても、もう終えてもいいわけだ。
愛する者を失った気分は、かくも悲しいものなのか。
そう考えると、涙がこぼれた。
戦場にあるのに、オスカーは心から泣いたのだ。
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オスカーは捕まった。下っ端の敵兵に数で圧倒され、らしくもなく、捕らえられた。成果が得られたからだろう。オスカーは連中に両手を後ろでに縛られたまま――あとは殺されるだけだ。
それでも良かったのだ。あいにく、オスカーというニンゲンには、もはや大切にしたい物など、者など、ないのだから
首を刎ねてもらいやすいように、首を前に傾けた。
「何か言い残すことは?」と雑兵に訊ねられた。
「ない。ほんとうにもう、何もない」とオスカーは心中を発した。
最後にカクテルを飲みたかったなと思う、強い酒をミルクで割ったものだ。
だがそれはささいな希望で、だからこそ、簡単に死のうと……。
――と、そのときだった。
おぉぉーっ!! という大声が遠くから――たちまち近くから聞こえた。
オスカーを捕縛した帝国の軍は慌てふためいた様子だった。指揮官もびっくりしたように大きな声、「なんだ! 何事だ?!」と叫んだ。
「誰だ!? 誰の雄叫びだ?!」
「わかりません! ただ、とにかく大声で!!」
「そんなことはわかっている! 殺せ! 始末しろ! 間違ってもここに近づけるな!!」
「ししっ、しかしっ、もうそこまでっ!!」
なんのことかと思った。
帝国を向こうに回して分が悪いと悟れば、力強く襲ってなど来ないはずだ。
――まもなくして現れたのは、左目に黒い眼帯を着けたヒューイだった。
「馬鹿か、おまえは、オスカー! また私を抱きたいんだろう! だったら今の状況くらい切り抜けてみせろ! おまえが気を吐けば、この程度の兵など問題はないはずだ!!」
白い立派な出で立ちの、いい馬の上にいるヒューイのことを、気がつけば目をかっと見開き、オスカーは見上げていた。
「俺はもう、おまえの死体を見た! 葬儀の折、棺桶の中にいるおまえまで見たんだ!!」
「だが、私は死んじゃいなかった! オスカー、その旨すら、おまえは否定するのか!!」
否定するつもりはなかった。
絶対に否定したくもなかった。
だからもう、とても嬉しくて、嬉しくて……。
「行くぞ、オスカー! 帝国など恐れるに足らず!!」
オスカーは強い力でもって、己に課せられた両手の戒めを無理やりに解き払った。近くにいた敵兵を蹴り飛ばして剣を奪って、連中をしっちゃかめっちゃかに斬り伏せた。
ふふ……と笑った。
ふふ――と、オスカーの口元には笑みが宿った。
それから、向かいくる者らを存分に斬って回った。
ヒューイは「そうだ! その調子だ!!」と叫び、表情には微笑みを湛えてくれたのだった。
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ベッドの上、二人でいる。
ヒューイは「あははっ、また抱かれてしまったなぁ」と笑った。
「嫌だったら、断ればよかったんだ」と言い、オスカーは眉を寄せ、口を尖らせた。
「子どもっぽい態度だよ」ヒューイはますます笑った。「私のことを信じられないのであれば、もう一度、抱いてみたらいい」
「だから、そういうことじゃないんだ。質問しても?」
「ああ、伺おうか」
オスカーは素直に「どうして助かったんだ?」と言った。「奇跡なんだろう?」と問うた。
「奇跡?」
「きみにまた、会いたかったんだ」そして、オスカーは涙を流して。「ほんとうに、また会いたかった。生きている、きみと……」
「私もだよ。会いたいから、生きることに執着した。じゃなきゃ、死ぬ直前で蘇ったりしない」
そうか。
この女性はそこまで思っていてくれたのか……。。
「だったら、よかった」
「ほんとうに?」
「もちろんだ」
見つめ合って、笑み合った。
たぶん、オスカーという男性とヒューイという女性が死ぬときは、同じなんだろう。そうあることが正しいし、そうあることが、オスカーとしては、とても望ましいしとても嬉しい。
この先も、戦おうと思う。
彼女と一緒に。
「もう一度、抱いてもらえると嬉しいなぁ」
「いいさ。敬意を払おう」
「この助平め」
「あははっ」
笑い合った。