第6章 想いの頑固なベル・チャンダル
ヴォー特務大佐の温もりが伝わった。
「それに……こうしてそなたに触れたかったのだ。私は15番艦でミセンキッタに向かう。10時に出発するまで傍にいておくれ」
「それなら、7時からのミナス・サレ歌劇団の公演を観ませんか? アガン家に挨拶なさるのなら、その時にいかがです」
「ジュノア殿とはたびたび連絡を取っている。今日はただの特務大佐として会おう。ミナス・サレは劇場を開く余裕があるのだな」
「いいえ、故郷と住み家に別れを告げるための公演です、大佐殿」
「別れを告げる?」
「はい。歌劇団の芸術監督、エリザ・トリュの企画です」
その通りだった。1時間の公演の大半はミナス・サレを讃える歌で埋め尽くされた。民謡に始まり、労働歌や明るい歌謡曲、建国の歓びをのせたバラード、宗教儀礼の賛歌、最後は領国歌で締めくくられた。
観客は残った市民の中で最終脱出任務についている者が多かった。歌劇団の歌声は芳翆区の病棟にも流された。移送を待つ傷病者を元気づけるためだ。
公演の最後にエリザ・トリュと団員たちは舞台に並んだ。
「ミナス・サレ歌劇団はこの舞台に育てられました。別れを告げるにはあまりにも思い出の多い場所でございます。しかし、今は勇気をもって旅立つ時がまいりました。歌劇団は大山嶺の東のどこででも再び歌い踊り、物語を演じ続けます。その時は、どうぞ、皆さま、たとえ粗末な芝居小屋でも空の下でも、私たちの歌をお聴きください。
またお会いしましょう。団を代表し、エリザ・トリュ、皆さまの未来に安息の日が訪れますよう、心から祈念いたします」
幕が床に着くまで、歌劇団と観客は互いに手を振った。アンコールはなかった。団員は10時出発の輸送艦に乗るからだ。クラカーナ・アガンの眼に光るものがあった。
「よくやってくれた。儂が育てただけのことはある。そうだろう、ジュノア」
「父上も歌劇団と一緒に出発してはいかがです」
「儂は最後の便に乗る。それだけは譲らんぞ」
「まったく……。あら、カレナードも来ていたのね」
ジュノアは紋章人の眼が潤んでいるのに気付いた。
「いい歌声だったわね。そちらの方を紹介して」
「ガーランド、ヴォー特務大佐です。輸送艦でミセンキッタへ発つ前にアガン家の方々に御挨拶を」
アガン親子は分かっていて芝居をした。
「ようこそ我が領国へ。いかがかな、儂の自慢の歌劇団は」
マリラは髪をぴっちり編み込み、小麦色の肌の美丈夫に変装していた。
「すばらしい。心の琴線に触れる歌でした。ミセンキッタ領国主が歌劇団を保護してくれるでしょう」
「ほう! では、ララークノ嬢によろしくお伝え願おう、横取りはしてくれるなと」
ジュノアは父の本気の伝言に吹き出し、カレナードもつい笑みが出た。
10時に15番輸送艦は離陸した。管制塔のダユイの声を、通信器の傍にいるシャルは聞いていた。
「西の風5メートル、天蓋の隙間風は時に10メートル、デンベス回廊オールグリーン」
特務大佐は女官と共に、女性船員用の小部屋で毛布を広げた。早朝勤務の数人が先に眠っていた。暗がりの中、ベル・チャンダルは大佐の髪にカレナードの残り香を発見した。
「大佐、大切な方との逢瀬はいかがでした?」
イアカは「ヤバい」と口には出さず、毛布をさっと目の高さまで上げた。
「ベルさん、どうしちゃったの。死にたいの」
女王はかいがいしく寝床を整えるベルの手を止め、ささやいた。
「どうした。そなたがこれほど率直な物言いをするとは……」
ベルの瞳はゆっくりマリラに向けられ、一瞬目を合わせたが、ベルは顔をそむけてしまった。
「ベル、私と紋章人のどちらに嫉妬しているのだ?」
イアカは冷や汗と共に毛布を頭まで上げた。ベルが「御両人に」と答えるのが聞こえた。
「そなた、良い相手はおらぬのか」
「お2人が良いのです」
「……恋はいうことを聞かない野の鳥よ。困ったものだな、想いの頑固なベル・チャンダル」
マリラはそっとベルの頬にキスしてやった。イアカは小声で「お支度が整いました」と毛布をひらひらさせた。偶然耳にしていたのは、朝4時からの粥作りが待っているラーラだ。
「シャル! 私、何も聞かなかったことにするわ!」
翌日、ラーラの濃い粥とビスケットは乗員と子供たちの腹を満たした。遅い朝食を取るシャルの横で彼女はウトウトしていた。
艦はもうすぐテネ城市の郊外、ミセンキッタ大河を西に渡ったキャンプ地に降りる。近くに外れ屋敷が五つあった。1年前にテネ城市から基地機能が移され、周辺に新たな避難民の町が出来つつあった。




