第3章 惨劇の始まり
「紋章人よ。お前が我々と調停で到達した内容をガーランド女王は認めるのか。お前は何を以てそれを保障するのか。そもそもお前が提示した妥協案はガーランドの総意か。
否! おのれ1人の考えをガーランド代表者のように述べただけ! 冷宮区の捕虜たちに訊いてみろ。ガーランドの総意は玄街殲滅と答えるだろう」
一同の視線はカレナードに集まった。彼女のやや青ざめた頬に笑みが広がった。
「グウィネス殿の言い分はごもっともです。調停は私の意志、私の望みがさせたこと。そして、短い間に大きな進展がありました。
ミナス・サレが決して頑迷でないと、聴く耳を持ち、交渉の余地もある場所だと、私は女王に進言いたします。クラカーナさま、ジュノアさま、ならびに各々方。どうぞ私を使者としてガーランドに派遣なされませ。私が女王をここに連れて参りましょう。もちろん武力を伴わずに」
全員があっけにとられ、ついで、それを歓迎する顔に変わった。
グウィネスは焦燥に駆られ、思わず口を開いた。
「使者は冷宮区の捕虜が務める! 紋章人、調停を口実にガーランドに帰らせはせぬ!」
「あなたが恥を知っているなら、そのようなことは口にしないでしょう。
ですが、大いなる進展です。使者を提案していただけるとはありがたい。
クラカーナさま、ジュノアさま、局長の皆さま、どうぞ女王への書簡をご用意下さい。私も一筆を添えましょう。必ずマリラは参ります」
玄街首領は歯がみした。なぜこうなったのだ。これが調停の力とでもいうのか。それとも紋章人が特別なのか。
……いや、侮っていたのだ、グウィネスよ、お前はカレナード・レブラントを、クラカーナを、ジュノアを、領国府の面々を侮っていた……。
グウィネスは煮えたぎる後悔の中にいたが、束の間だった。再び彼女の思考は紋章人の息の根を止め、ついでマリラの最期を見届けることに向けられた。彼女に反省は無く、後悔をすぐに捨て、次なる策謀に身を焦がした。
紋章人に用意した毒が効くには時間がかかる。その間にガーランドと正式な交渉が始まらなければ良い。そうとも、術はある。医療ミス、不慮の事故、玄街狂信者による暗殺。
さらにジュノアの隙を突けたら、なお良い。副領国主は娘であり、母であり、夫を亡くした女だ。罠を仕掛ける弱点は多い。なんと好都合なことだ。
正午が近くなり、朝議堂の扉が開いた。ソーゲとニキヤが広場に出向き、調停の成果とストライキの解散を告げた。執政局長が浮かない顔で午後の予定を確認しようとクラカーナに近づいた。
その時、ジュノアの侍女が朝議堂に飛び込んだ。
「大変でございます! ジュノアさま、お戻り下さい。お子さまが、ああ、お子さまの息が! シーラ医師はおりますか!」
アガンの父と娘は椅子を蹴るようにして部屋を出た。シドも2人を追った。カレナードは思わずシドのあとに付いて走った。足首の銀の鎖が音を立てた。
残った者は「サージ・ウォールの毒か」とつぶやいたが、何人かはそっとグウィネスを見た。視線は明らかに疑念を含んでいた。
「彼女が言うように本当に毒なのか。それとも……」
シドはカレナードに振り向いた。
「おい、体調悪しのメイク、意味が無くなってるぞ」
「それより本城がざわついていませんか。何だか……悲鳴が聞こえるような……」
シドは医局に通じる大通りに出るなり唸った。
「何があったんだ、なぜ子供ばかりが!」
そこには幼い子供を抱きかかえ、悲嘆にくれる親たちで溢れていた。
子供たちはぐったりして、息は細く、呼びかけに答える力は僅かで、苦しさにもがいているのは多少体力のある5歳以上だった。中には10歳以上の学舎の生徒もいた。
看護師たちが医局からありったけの酸素吸入マスクを持出して救急処置を試み、医師らは原因を調べるのに躍起だが、押し寄せる患者の数でそれどころではなくなりつつあった。ざっと見渡しただけで200人か、それ以上だ。
医局のホールをようやく抜け、シドとカレナードはアガン家の小さな後継者が横たわる部屋に入った。
生後9ヶ月の赤ん坊の胸は上下しているものの、酸素吸入器の力で僅かに動いているだけだった。丸い頬は白くなり、唇も赤味を失っていた。
ジュノアは取り乱してはいなかったが、眉が震えていた。
祖父は呼びかけ続けている。
「気を保て! 気を保て!」
カレナードはこの光景を何度も見ていた。父と旅した頃にも見た。オルシニバレ市でさえ捨て子や早産で産まれた赤子が苦しむのを見た。
「シド、この症状は誕生呪を受けられなかった新生児とよく似ています。いえ、そのものと言っていい。
体内のナノマシンが活動を停止しかかっているか、再び不活性の状態になっているか、それに近いものです。玄街の誕生呪を、起動コードを試して下さい」
「それは出来ない。起動コードを人体に再度かけるのは危険だ」
「そんなバカな! 起動コードは基本のものなのに」




