春爛漫
「……ヒロインのマギー・ヘイズだわ」
かたわらで侍女のルースがそんな呟きを漏らしたのが、ソフィアの耳に届いた。
視線の先――五十メートルほど離れた場所で、ノアが可愛らしい女性の体を抱き留めている。よろけた彼女を支えてあげたようだ。
その光景を見たソフィアの足が止まる。
「あの……お嬢様?」
ルースが心配して声をかけるが、反応がない。
ソフィアの表情は特に何を訴えているでもなかった。傷ついているようでも、怒っているようでもない。ただ少しまごついているように見えた。
「大丈夫ですか?」
ソフィアがルースのほうにゆっくりと顔を向ける。
「私、今……お腹の上のあたりがキュウッとした」
「そうですか」
「これって、胃もたれ?」
「あのね、お嬢様」ため息を吐くルース。「ご自分でも分かっていらっしゃるのでは?」
「……ノアが女の子と抱き合ってるぅ」
「嫌ですか?」
「ええ」ソフィアが可愛く眉尻を下げる。「でも、嫌だと思うなんて、変よね?」
「どうしてですか?」
「だって私たちは恋人同士のフリをしているだけで、それはただの演技だから」
「たとえそれが演技で、契約だとしても、お嬢様が心の中でどう感じるかは別の話では?」
「そっかぁ」
「そうですよ」
「んー……」
ソフィアは少し混乱しているようだった。
「お嬢様」
「……せっかくお洒落したのになぁ」
「可愛いですよ、とっても。会場にいるほかの誰より、可愛い」
普段まるで愛想のないルースがしんみりした調子でそんな台詞を告げる。妹、あるいは、娘を前にしたのかのように、ソフィアを見つめながら。
けれどソフィアの元気は戻らず、浮かない顔だ。
「でも私、前もお洒落してパーティーに出席して、『ほかに愛する人がいる』って言われてしまったの」
「テオドール・カーヴァー?」
「そう……あんなのはもう、いやだな」
「お嬢様、不吉ですよ。やつの話題を出すのは、おやめください」
「どうして?」
「また現れたらどうするんです? キモイですよ」
「確かにそうね」
「資料室で氷壁に足を挟まれて以来、姿を消しているのでしょう?」
「足の治療のため、温泉地に行っちゃったんだって――ノアが『これじゃ話をつけられない』ってちょっとイラッとしていた」
「え、陛下がイラッとしていたのですか?」
「そうなの」
「それはたいしたもんですね」
ルースが感心した様子でそんなことを言うので、ソフィアは小首を傾げてしまう。
「どうして?」
「陛下が心を乱すのは、お嬢様に関係することだけだからです」
「そうかしら?」
「そうですよ」
「……そうかしら」
ソフィアが頬を染め、可愛く微笑む。
「さぁ、それじゃあ陛下のところに行きましょうね」
ルースがそう促した、その時。
「ソフィア・ブラックトォン! お前に話がある!」
「うわ、出た」
激しい動きで登場したのは、案の定、テオドール・カーヴァーだ。
彼に行く手を遮られ、ルースは嘔吐しそうな顔つきになった。
ソフィアのほうは目を丸くしてすっかり固まっている。実はソフィア――「胸を揉んでやる」などのいやらしい台詞に免疫がなく、それを躊躇なく繰り出してくるテオドールに対して、トラウマレベルの強い苦手意識を持っていたのだ。
わりと素直に「気持ち悪いよぉ」などと口にしているソフィアを見ていたルースは、『なんだかんだいってお嬢様なら、テオドールごとき軽くあしらえるだろう』と軽く考えていた。しかしそれはどうやら楽観視がすぎたらしい。
ソフィアの腕がカタカタと震え出したのに気づき、さすがのルースも焦りを覚えた。
「さぁ、ふたりきりになれる場所に移動するぞ! 先日の男娼の件で、言い訳をするなら聞いてやろうじゃないか」
「……やだ、行きたくない」
拒絶するソフィアの声は小さかった。喉が強張り、大きな声が出せなくなっている様子だ。
「ソフィアは俺から逃げられないぞ。結婚するしかないんだ」
「私が陛下と恋人同士になったこと、聞いていないの?」
「父上がそんなことを言っていたようだが、どうせ嘘だろう?」
「どうして嘘だと思うの?」
「陛下は理想が高い。君なんて相手にするものか――魔力もない出来損ないなのに。それにたとえ魔力があったとしても、ソフィアみたいに頭が空っぽな女のことを好きになるわけがないだろ? 君は顔と体しか取り柄がないんだからな」
罵られ、ソフィアの瞳がじわりと潤む。「頭が空っぽ」と誰かに言われても、普段なら笑い飛ばせた。だけど今は……ほかの女性と抱き合うノアを見てしまい、心がぐらついていた。
「……ノアはそういうことで判断しないもの」
そう弱々しく返すのがやっと。
「都合良く利用されているのに、頭が空っぽだから気づいていないんだな――いいからこちらに来い、ソフィア」
呆れたことに、テオドールは実力行使に出ようとしている。彼がソフィアの腕を取ろうと手を伸ばしたのを見て、ルースは慌てて割って入った。
ところがテオドールは赤い色を見た雄牛のように一直線――ルースという障害を払いのけ、さらにソフィアのほうへ近寄ろうとする。
「――ソフィア」
その声はテオドールが発したものではなかった。
迫り来るテオドールに怯えていたソフィアは、横手から優しく手を取られ、次の瞬間、温かいものに抱え込まれていた。
感触だけでこの腕が誰のものか分かってしまうほどに、ソフィアの中ではすでに彼の存在が当たり前になっている。
皇宮で暮らし始めて、彼とたくさんの時間を過ごしたから。
「ノア」
あなたの名前を口にするだけで、切なくなる。心震え――……そして安心できる場所に帰りついたという気持ちになる。
ふと気づけば、ソフィアはノアの腕の中に。
そしてテオドールは少し離れた場所でたくさんの衛兵に取り押さえられていた。
* * *
いつも陽気なソフィアが、腕の中で雨に打たれた子猫のように震えている。
ノアはソフィアを気遣うように見おろした。
「助けに入るのが遅くなって、悪かった」
「ノア、私――」
彼女が身じろぎして、真っ直ぐにノアのほうを見上げる。微かに眉根が寄っていた。
呼吸をするごとに彼女の動揺が治まっていくのが、そばにいるノアにも感じ取れた。
そしてふと気づいた時には。
腕の中に閉じ込めたソフィアが、彼にとってもっとも不可解な存在に変わる――……ノアは彼女の変化に戸惑っていた。
菫色の瞳がノアを囚える。エネルギーに満ちた情熱の赤と、ノアが持つ色と同じ青――それらが交ざり合い、強い輝きを放ち、彼を虜にする。
「私、ヤキモチを焼いたわ」
「ソフィア?」
「さっきノアは、女の子と抱き合っていたでしょう?」
「支えただけだよ」
「でも、だめよ」
「怒っているのか?」
「そうよ。私以外の女性に触れてはだめ」
ノアは彼女の腰を抱き、愛おしげに見おろす。
ソフィアの勝負服は白いドレスだった。
……どうしてこんなに可憐なのだろう? ノアは彼女に見惚れた。
すっきりした上半身のデザインは、彼女の良いところを存分に引き出している。
滑らかなライン――魅惑的で、健康的で。そしてウエスト部分で切り返しがあり、ギャザーとフリルをふんだんにあしらった、花弁のような軽快で可愛らしいスカート部分。
デコルテと耳には、ノアが贈ったサファイアの見事なアクセサリーが輝いている。
「心は君のものだから、許してくれ」
ノアは浮気をしたわけではないし、目の前でよろけた女性を紳士的に支えただけだ。けれど彼は誠心誠意ソフィアに謝った。
そしてソフィアだって本気で怒っているわけじゃない――むしろ先ほどの状況でノアが女性を冷たく払いのけて転ばせていたなら、その気遣いのなさに対して彼女は腹を立てていただろう。
だからこれらのやり取りは、ただひたすら甘いだけの、ふたりのじゃれ合いなのだった。
「……どうしようかしら」
そう言ってこちらを見上げるソフィアの瞳は小悪魔的だ。
「どうしたら可愛い笑みを見せてくれるんだ?」
「考えてみて」
「ソフィアは褒められるのが好きだったな」
「んー……かもね」
「君は春の妖精みたいだ」
「あなたのためにお洒落をしたのよ」
「とても綺麗だ、ソフィア」
ようやくソフィアが微笑み、華奢な手を伸ばしてくる。
ノアは頬を撫でられ、夢見るように瞳を細めた。
「――私は君に囚われた、愛の奴隷だ」
彼が優美に少しだけ膝を折り、ソフィアの腰と太腿に腕を回す。ソフィアはあっという間に彼に縦抱きにされていた。
三十センチほど持ち上げられ、視界がぐっと開ける――そのまま彼にクルリと回され、景色が三百六十度流れていった。
それにより視界に映った人々が呆気に取られ、こちらを眺めている様子が見て取れた。
一回転したあとで、ふたたび彼を見おろす。
ソフィアが愛おしげに彼の頬を両手で挟み、至近距離で眺めおろすと、ノアが幸せそうに笑みを浮かべて彼女を見上げた。
初めて氷帝の笑みを目撃することとなったギャラリーが大きくどよめいた。そこここで見物人の女性が黄色い声を上げている。
ソフィアは彼の笑顔を初めて見たわけではなかったけれど、それでもこうしてとろけるように微笑まれれば、やはりトキメキを覚えた。キュンと胸が切なく高鳴る。
ソフィアとノアの周辺でゴールドの粒子が弾けた。
その清涼なエネルギー波は会場の隅々にまで波及していった。出席者の大半が魔法の能力を有していたため、これが高レベルの浄化魔法であることに気づいた。
「――静かなところへ行こう」
テオドールにからまれたばかりのソフィアを気遣って、ノアが彼女を抱いたまま歩き始める。
ソフィアは運ばれながら、ふと侍女のルースのほうを振り返った。
いつも冷静なルースが口をポカンと開けて、去り行くふたりの姿を呆気に取られて眺めている。
ソフィアはルースと視線が絡むと、悪戯っぽく彼女にウインクしてみせた。