マギーと氷帝
――さて、時は少し巻き戻る。
聖女マギーは数週間前から皇宮資料室で仕事を始めた。そして勤務早々オーベール女史から依頼され、陛下の執務室に本を届けたことがあった。
初めて陛下に対面した際、マギーは彼の放つオーラにただただ圧倒された。
――高貴で神秘的!
ああ、なんてすごいのかしら、彼は特別だわ!
そしてたぶん重大な問題を抱えてもいるわね……マギーの勘がそう告げる。注意深く眺めてみると、彼の周囲を黒い靄のようなものが取り囲んでいるようにも感じられた。
そこでマギーは、
「窓を開けて、部屋の中に風を入れるとよろしいですよ」
とアドバイスしてみた。にっこりと微笑みながら。
マギーとしては陛下に話しかけたつもりだったのだが、なぜか室内にいた側近のイーノクという男性がグイグイ進み出て来て、
「はいはい、どうも」
とぞんざいにあしらい、マギーを部屋から追い出してしまった。
陛下はほんの一瞬こちらを眺めただけで、すぐに視線を逸らした。それは『音がしたからそちらを見ただけ』というような、情緒の欠片もない、ただの反応に過ぎなかった。
マギーは皇宮資料室へと引き返しながら、
「陛下のために、何かできることがあるはず」
呟きを漏らし、考えを巡らせた。
昔から自分はガッツだけはある。冷たくされても、へこたれない。
陛下に好かれたいとかではなく、彼の力になりたいの――ただ自分がそうしたいから、損得抜きに行動するのよ!
――そして二度目に本を運んだ際、彼のブローチに目が留まった。「それ……」と陛下に話しかけようとしたら、またイーノクの邪魔が入る。
「はいはい分かった分かった」
――ああもう、一体何が分かったっていうのよ! まだ私、「それ……」しか言ってないんですけど! なんなの、この人!
前室まで押し出され、そこでイーノクとふたりきりになったので、仕方なく彼に申し出てみる。
「陛下のブローチが気になっています。私なら浄化できるかもしれません」
「なるほど……しかしあれは使用中だから貸し出せない」
「そんな、そこをなんとか! 私、皆さんご存知のマギー・ヘイズです!」
どうぞよろしく!
「知っとるわ」
「浄化の聖女ですよ!」
「分かった分かった、じゃあそうだな――同じようなものが六つある。過去、陛下が使用していたものだ。それを渡すから、もう帰ってくれ」
それは押し売りを追い返すがごとくの投げやりな台詞にも感じられたが、マギーは気にしないことにした。物事というのは結果が大事だ。こうして粘ったことで、陛下にまつわる重要な六つのアクセサリーを預かる流れになったのだから、満足すべきだろう。
資料室に戻り、オーベール女史に、
「陛下の私物を浄化するという、重要なミッションを遂行せねばなりません。そのため仕事をしばらく休みたいのですが」
と告げると、あっさりと了承された。
その後何日も教会に通い、ひたすら祈りを捧げ、とうとうマギーはやり遂げた。
アクセサリーに使用されている石が、『漆黒』から『薄いグレー』に変わったのだ。
汗だくになりながらマギーは歓喜に打ち震えた――ああ、できたわ! 私、浄化に成功した! 神様、ありがとうございます! マギー・ヘイズ――私は平和を愛する聖女、マギー・ヘイズです! 今後もどうぞごひいきに!
ルンルン♪
得意満面でふたたび皇宮資料室勤務に戻ろうとしたマギー……ところがここで想定外の事態に。
ムキムキマッチョなオーベール女史から、
「あなたが担当していた仕事は、すでに別の方が引き継いでいます。もうあなたは結構――聖女のお務めに集中なさい」
とショックなことを言われてしまったのだ。
「え! 私の仕事を誰が引き継いだのですか?」
「名前を聞いてどうするのです?」
「だって……その方は陛下の執務室に本を運ぶわけですよね?」
「そうですね」
「陛下は難しい方だと思いますわ。普通の人ではこの仕事は務まらないのでは?」
「普通の人というのは、たとえば、あなたのような人のことですか?」
マギーはびっくりした。他人から『非凡』と評されたことは多々あれど、『普通』と言われたことはこれまで一度もなかったからだ。
そこで両腕をむん! と持ち上げ、力こぶを作ってみせながら、冗談めかしてこう返した。
「私、元気だけはあるんです! 元気は普通以上! そして突き抜けて能天気! マイペース! ちょっと天然です、てへ! それが私の取り柄です!」
「ああ、そう……」なぜかいたたまれない様子のオーベール女史。「でもわたくし、あなたの上位互換をもう知ってしまったから……」
「私の上位互換なんて、存在しませんよ!」
「いいえ、世界は広いのよ、マギーさん――相手が空に浮かぶ雲だとすると、あなたはせいぜいタンポポの綿毛程度」
「ひどい!」
「これでも手加減して表現したのですけれどね」
「もう、とにかく――後任の名前を教えてくださいな! でないと納得できません!」
「ソフィア・ブラックトンさんです」
「ソフィアさん……どういう方です?」
「どういう方?」
オーベール女史の顔が盛大に顰められる。まるで世紀の難問を突きつけられたかのような表情だった。
「あー……わたくしの語彙力では到底説明できません」
「は?」
「この会話、本当に時間の無駄だわ。いいこと、あなた――後任にヤキモチを焼くのはおやめなさいね」
「私、ヤキモチなんて……」
「とにかく、資料室にあなたの席はもうありません。さようなら」
――バタン! 鼻先で扉を閉められ、マギーは資料室をクビになった。
――というようなことが過去にあり、マギーは浄化した(正確には五十パーセントほど浄化できた)六つのアクセサリーを持ったまま、陛下とふたたび相まみえるチャンスを待ち望んでいたのである。
* * *
後見人であるホルト伯爵に連れられ、『春の訪れを祝う会』に出席したマギー。
陛下へ挨拶する人の列に並び、マギーは着飾った自身の姿をもう一度見おろした。
――うん、いいわ! ばっちり!
レモンイエローのドレスは自分に似合っていると思う。瑞々しくて、とても素敵だ。
陛下は以前顔を合わせた時のことを、覚えていらっしゃるかしら……? マギーは心臓がドキドキしてきた。
マギーが本を持っていった際に、「窓を開けて、部屋の中に風を入れるとよろしいですよ」とアドバイスしてあげた、あの件――あとになってから彼は、『あの子は一体、誰なのだろう?』と何度も思い返したりしたかしら?
前の人が終わり、マギーの番が来た。
ホルト伯爵が挨拶し、マギーのことも紹介してくれる。ここで何か私的な言葉をかけてもらえるものと期待していたのに、陛下から告げられたのは通り一遍のありふれたもので……。
マギーは思わず彼のほうに一歩踏み出していた。
「あの、陛下――お預かりしているアクセサリーの件で、ちょっと」
たくさんお話したい! 早く言わないと! 気持ちばかりが焦って、足を捻ってしまう。慣れないヒールを履いていたせいもあるだろう。
陛下は紳士なので、当然、マギーが転ばぬよう手を伸ばして支えてくれた。しかしそれは必要最低限の気遣いでしかなかった。それゆえ『さらにもっと』を期待していたマギーには少し物足りなく感じられた。
もしかするとその『少し物足りない』が、無意識のうちに表に出てしまったのだろうか……不可解にもマギーの足の関節がさらにグニャリと曲がり、上半身を支えきれなくなる。その結果、マギーはみっともなく彼のほうにしなだれかかってしまった。
――その後のことは、あっという間の出来事だった。
マギーは横手から強い力で引っ張られ、気づいた時には毅然とした女性騎士に抱え込まれていた。それは介助というよりも、拘束に近いものだった。
唐突な動きで陛下に接近したので、不審人物と勘違いされ引き離されたのだ……マギーは一拍遅れてその事実に気づいた。
そしてこの状況に激しく狼狽し――言い訳しなければ! とすぐに思った。こんなことで彼に勘違いされたくないわ。私は見事に浄化を成功させたのだ。彼にちゃんとそれを伝えないと――
陛下のほうを見ると、彼はすでにマギーから視線を外していた。微かに眉根を寄せ、どこか遠くを眺めている。
超然としている陛下しか知らなかったので、この時の彼の横顔を見てマギーは驚いた。
一体何を見ているのだろう? 陛下の佇まいには、衝動めいた何かが滲み出ている。
「陛――」
「マギー」ホルト伯爵から叱責の声が飛んで来た。「さぁ、ほら、下がるぞ。こんな無礼な振舞いは許されない。立場をわきまえなさい」
マギーはハッとして体を縮こませた。
いつも温厚で、マギーのことを優しく見守ってくれていたホルト伯爵から厳しく叱られたことで、自分が先ほどしでかしたあれやこれやが、なんだかものすごく恥ずかしくなってきた。