ハプニング
うろたえるソフィアとは対照的に、彼はとてもつらそうだった。
「正直、しんどい」
「ノア……」
「寄りかからせてくれ、お願いだ……君は俺の恋人役だろう?」
誰も見ていないのに、恋人同士のふりをするって変じゃないかしら? ソフィアは疑問に思ったけれど、彼があまりに参っているようなので、こくりと頷いていた。
たぶん……ソフィアは他者に対して親切なほうではあるとはいえ、ノア以外の異性から頼まれたなら、私的な触れ合いについて了承したりはしなかっただろう。
どうしてノアならいいのだろう? ソフィアは自分自身のことなのに不思議に感じた。
恋人同士のふりをすることを、契約として受け入れたから?
……分からない。自分のことなのに、よく分からないな……。
彼の肩に手を置き、そっと引き寄せる。
ノアはソフィアに従った。彼の動作は密やかで、猫のようにしなやかだった。
それでいて、とても従順。こうべを垂れ、ソフィアの肩に額を埋める。
しばらくふたりはそのままでいた。彼の触れ方は慎重で、それ以上踏み込んでこようとはしなかった。
ソフィアは初めこそソワソワして、天井を意味なく見上げたり、視線を横に逸らしたりしていたのだけれど、やがて覚悟(?)も決まり、さらに優しく彼に触れるようになった。髪を撫でたり、あやすように背を撫でたりというふうに。
そんなことが五分ほど続いただろうか……まどろむような時間は突然終わりを告げる。
というのも横手から、
「おーい‼ そこのふたり、ただちに離れろぉ‼」
という怒鳴り声が響いてきたからだ。そのあまりの大声に、ソフィアはビクリと肩を揺らしてしまった。
――び、びっくりしたぁ……! ハグを受け入れているソフィアには自由になる隙間が与えられていなかったので、寄りかかっているノアの肩を苦労して押し戻し、慌てて左横に視線を向けてみた。
「え、テオドール?」
なんと通路入口に立ち塞がっているのは、軽薄男のテオドール・カーヴァーではないか。旅行帰りのせいか白かった肌が小麦色になっている。
「ソフィアぁ! お前は俺の婚約者だろぉがぁ! 浮気すんじゃねぇぇぇぇ‼」
「浮気って、あなたねぇ」
ソフィアはムッとして眉を顰めた。婚約者以外の女性といちゃつき、子供ができるような行為をしている人間に、浮気者呼ばわりされたくないんですけど。
けれどテオドールにはテオドールなりの理屈があるらしく、彼からするとソフィアのこれは、とんでもない裏切り行為に該当するらしい。
「俺は絶対にお前と婚約解消しないからな! せめて一年、一緒に暮らそう。一旦、ズブズブの関係になってから先のことを考えよう!」
「無理ぃ。キモイよぉ」
「キモイじゃない。キモチよくしてやるから」
「ふぇーん。果てしなくキモイよぉ」
「とにかくそこの男、離れろ! 俺だってまだソフィアのおっぱいを揉んだことはないんだぞ! 先を越そうとするんじゃない!」
「下品!」
嫌悪のあまりソフィアは鳥肌が立った。
もうやだ、なんなのこの男、旅行に行って変態度がパワーアップしているぞぉ! それに現状ノアとはハグしているだけなのに、なんで胸を揉む揉まないの話になるんだ。
――ノアが微かに瞳を細めて、鬱陶しそうにテオドールのほうを流し見る。さっきまでソフィアの肩に額をつけていたせいで、ふたたび前髪が重く垂れてしまっていた。
「……テオドール」
ノアの声は冷ややかに響いた。
「なんだ」
「やかましい」
「なんだとコラァ‼」
「あとで話をする時間を作ってやるから、とりあえず今は消えろ。お前の目にソフィアが映っていると思うとゾッとする」
はたで聞いていたソフィアは、『ノアのこんなに刺々しい声は初めて聞くわ』と驚きを覚えた。
「はぁ? なんだお前、三下風情が出しゃばるな、引っ込んでいろ! 男娼か何かか? 小遣いをもらって、ソフィアの相手をしているのか? それならもう結構だ! 用済み! 旅行のあいだはソフィアを寂しがらせてしまったが、今晩からちゃんと俺が相手をする」
「テオドール!」ソフィアは度肝を抜かれて、素っ頓狂な声を上げていた。「あなた本当に、彼が誰だか分かっていないの?」
「知らん! 誰だ!」
誰だ、じゃないよ、陛下だよ!
なんで顔を知らないのよぉ! あなた公爵家の人間なんだから、陛下と喋ったことくらい、あるでしょう?
眉根を寄せるソフィアであったが、ふとあることに気づく――あ、もしかしてノアの髪型のせい? いつもと違うから?
でも――えぇ? それにしてもねぇ? なぜ気づかないの? いくらなんでも迂闊すぎない?
「くそ、だめだ」ノアが漏らした呟きは低く、とても小さかった。「これ以上こいつがここにいると、息の根を止めたくなる」
ソフィアは異変を感じ取った。
空間が軋んで何かがズレたような感覚。その力があまりに強大であったために、本能的な恐怖を覚えた。
それは圧倒的であるのに緻密でもあった。整然としていて、無駄がない。
気づけば、左側に氷壁が出現していた。厚みは五十センチ以上ありそうだ。透明で滑らか。
攻撃魔法は詠唱を必要とするとソフィアは大昔に習った。それなのにノアは予備動作なし、瞬きするくらいの気安さでこんなことをやってのけたの? たぶん彼は本気の一パーセントも出していない。これは単にノアの心の乱れが表れただけだと思う。
「うわぁ! 足を挟まれたぁ‼」
間抜けな悲鳴が響き渡り、ソフィアがテオドールのほうに視線を向けると、氷壁の向こう側にいる彼が両手をワタワタと動かしている。互いのあいだに氷壁が存在しているので、向こうの様子は薄ぼんやりとしか見えないのだが、どうやら彼の靴の先が氷の中に挟まれているらしい。
「ふぎぎぎぎぃぃ……! なんだこれは、突如氷の壁が出現した! 怪異だ!」
とかなんとか叫びながら、四苦八苦している。結局、靴をその場に残したままスポン! と素足を引っこ抜くことに成功したようだ。そうして彼は、
「ソフィアぁ! また日を改めて話そうではないか!」
そんな捨て台詞を残し、ケンケンしながら部屋から出て行った。
……ていうか、足は無事なのかしら? 凍傷とかになっていないかしら。
よそ見しているソフィアに、ノアが小声で問いかける。
「彼が心配?」
「え? いえ……」
「君は君自身の心配をすべきだ」
やはりふたりきりになると、ノアの声音はどこか甘く響く。ソフィアは眉尻を下げ、
「……書棚の横に氷の壁を作ったことがバレたら、オーベール女史から怒られてしまうわ」
弱り切って呟きを漏らした。
ノアも少し反省したようで、
「……あとで綺麗に消しておく」
と答えた。