ソフィアの良いところ
一週間後。
ソフィアが資料室で仕事をしていると、向こうのほうで扉が開き、閉じる音がした。
彼女は書棚のあいだにいたので、出入口は直接視界に入らない。
オーベール女史から頼まれた本を探していると、誰かが通路に入って来た気配がある。顔をそちらに向けたソフィアは、「あ」と驚いてしまった。
「――陛下!」
彼は前に会った時と少し様子が違っていた。
服装はちゃんとしているのに、それでもなんとなく気だるげに見えるのは、前髪が重く顔にかかっているせいだろうか。髪がグチャグチャに乱れているというわけでもないのだが、ONかOFFかでいえば今の彼は完全にOFFモードであり、なんとも退廃的な感じがする。
「お久しぶりね!」
状況を踏まえると、ソフィアの挨拶は能天気にも感じられた。
そして。
「……一週間だよ、ソフィア」
対照的に、そう答えた彼の声音はこの上なく静かで、どこか投げやりな響きがあった。
書棚に右肩を触れ、寄りかかるようにして佇む彼――逆光気味で表情が窺えない。
ソフィアは引き出そうとしていた本を書棚に戻し、彼のほうに近寄って行った。
一歩、二歩、と足を進めるうち、空気が変わっていく。物理的な距離が縮まるにつれ心の距離も近付づいて行くような、なんとも不思議な感じがした。ほかの人に歩み寄った時にはこんな感覚になったことがないので、ソフィアは今自分自身に起きているこの特別な現象に少し驚いていた。
「そうね、一週間ぶり」
「すぐに会いに行くと、君は言ったのに」
責めるような台詞なのに、なんだかくすぐったく感じられ――……彼の声が鼓膜をジワリと揺らし、熱があとに残る。ソフィアは小さく息を吸い、彼を見つめ返した。
「皇宮に引っ越すために、荷造りをしていたの」
「そんなにかかる?」
「あのね、昔――十二歳以前に書いたものなんかが色々出てきて。こちらに持ち込むつもりはないんだけど、見ているだけで懐かしくて、荷造りが進まなくなっちゃったの。……意外かもしれないけれど、私って子供の時は賢かったのよ」
「今も賢いよ、君は」
「え」
「本当に俺はそう思う」
「どうして?」
「君がとても親切だから」
彼の在り方は静かで落ち着いているのに、どういうわけか心の中で泣いているみたいに見えた。
「人生で一番大切なものがなんなのか、ちゃんと分かっている。俺は――……人間ができていないから、優しい君を独り占めしたくなるんだ」
ソフィアは意図せず、半歩前に踏み出していた。引き寄せられる。
ソフィアは彼をただ見つめ、そっと手を伸ばした。彼の前髪に触れ、優しく整える。
「会いに行かなくて、ごめんなさい、ノア」囁きかけたあとで、ソフィアは微かに瞳を揺らした。「あ……ノアと呼ばれるのは、嫌い?」
「いいや。君にそう呼ばれるのは、嬉しい」
「そう」
ソフィアが笑みを浮かべる。
ノアは物思う様子で彼女を見つめ、しばらくのあいだぼんやりと黙り込んでいた。
やがて。
「ソフィアとはなかなか会えないし、色々と話が前に進まなくて行き詰まっていた。テオドール・カーヴァーと一度きっちり話をしておこうと思ったんだが、恋人と旅行に出ていてまだ話せていないし」
「恋人と旅行って――ゾーイと?」
彼の子猫ちゃん。
「そうだ」
「じゃあテオドール本人と話をしなくても大丈夫じゃない? 彼、今、可愛い恋人のことしか頭にないのよ」
「けれど旅行から戻ったら、また君にちょっかいをかけるかもしれない」
「それはないと思うわ」ソフィアは楽天的だった。「だってね、父が今朝、『テオドール・カーヴァーとの婚約は上手く解消できそうだ』って言っていたもの。父は娘と陛下が付き合っているとすっかり信じ込んでいるから、張り切ってくれてね――先方と相談をして、両家でなんとなく話がついたみたいよ。正式な手続きはこれからだけれど、目途はついている」
ソフィアがお喋りに夢中になっているあいだに、ノアは書棚に寄りかかるのをやめ、彼女の肩に手を伸ばした。
一体、何がどうなったのか――……。
ふと気づいた時には、ソフィアは半回転させられ、書棚を背にしていた。ノアが棚に手をつき、彼の中に閉じ込められてしまう。これでは籠の中の鳥と同じだ。
至近距離にサファイアの輝きがある――深い、深い、青――。
ソフィアはうろたえ、小声で彼に囁きかけた。
「……ノア? 近くで見るとあなた、瞳の色がかなり濃くなっているわ」
「かもね」
「どうして? 半月は大丈夫だって言ってなかった?」
あれからまだ一週間しかたっていないのに。
「君のせいかも」
「私の?」
「どうしてこうなったのか、俺にも分からない」
「あなたに分からないのなら、私にはお手上げよ」
「――ハグしていい?」
「え?」
意味が分からなかった。ソフィアはパチリと瞬きし、呼吸が浅くなったのを自覚した。
彼が何を考えているかもよく分かっていないのに、かぁっと頬が熱くなる。