中間管理職の悲哀
ファミレスを舞台とした中年独身男の悲しき日常です。
そんな彼の愚痴を聞いてあげてください。
ある地方都市。
夜遅く、エコバッグをぶら下げた男がとぼとぼと歩いている。
疲れた足取りで閑静な住宅街を抜け、田んぼの真ん中にある古びた一軒家に入っていく。
「ただいま」
靴を脱ぎ、玄関を抜けて居間へと向かう。壁のスイッチを手探りで探し、
「ただいま」
さっきより苛立った口調でつぶやいた。
視線の先には、窓から外を眺める黒猫がいる。
居間にぱっと明かりがつくと、黒猫はけだるそうに振り返った。
「いるなら返事しろよ」
ふてくされた言いぶりで、彼はエコバッグをテーブルに置く。
「ああ、おかえり」 「缶詰くうか?」 「ああ、もらおうかな」 「なんだよ、偉そうだなぁ」 「今日も愚痴りたいんだろ?」
ごく自然に黒猫と会話を続けている。傍から見れば、ずいぶん奇妙な光景だが、彼にはごく自然なことのようである。
・・・
ファミレス勤務の彼は最近悩んでいた。四〇代も後半に差し掛かり、今年から雇われ店長となった。
日々小言を言われながらも、笑顔で受け流し、心をすり減らしていた。パートの主婦や、アルバイトの女子高生から陰で馬鹿にされていることも分かっている。
なぜ、こうなったのか。
彼の人生を二〇年ほど遡ってみよう。就職氷河期真っ只中に地方大学を卒業。周りの友人たちが卒業後も就職活動に奔走する中、彼は正規雇用の道を早々にあきらめた。人材派遣会社に登録し、都内の大手外資系企業で働くことにした。
当時は収入も同期より多かった。派遣先は定期的に変わったが、正社員ではないにせよ、比較的大きな企業で働いているという自負もあった。
しかし、リーマンショックで事態は一変する。三〇台中盤に差し掛かったところで、急に無職となった。テレビでは年越し派遣村が大きく報じられ、社会問題として取り上げられていた。
人生で初めてハローワークに行き、職業紹介を受けて面接を繰り返したが、採用されることはなかった。
雇用保険が延長になるならと、職業訓練を受けてもみた。工作機械の使い方や、機械部品の製造方法を学んでは見たが、自分に合った世界だとはとても思えなかった。
生活のためと、ファミレスでのアルバイトを始めてはみたものの、何がしたいのかもわからず、だらだらとこの生活を続けることになった。
もともとまじめな性格であったことから、当時の店長に気に入られ、一年でバイトリーダー、そしてしばらくすると社員に登用してもらうことができた。
そこからの数年は、比較的穏やかだったといえる。パート・アルバイトともうまくやっていたし、店長からの評価も高かった。
給料は安かったが、結婚する相手もなく、自分の食い扶持だけを稼ぐなら十分だった。
そんな時、店長から飲みに誘われた。いつもの焼き鳥屋で、カウンターに隣同士で座る。
賑やかな店内。店長はハイボールの氷を揺らしながら彼に質問する。
「うちにきて何年だっけ?」
「バイトの頃を入れると一二年っすかね」 「古株だな」 「木村さんに比べたら、まだまだひよっこですよ」
木村さんは社員歴三〇年以上の古株だ。彼がバイトだった頃からずいぶん世話になっている大先輩だ。昔はバリバリ働くタイプの人だった……らしい。まあ、抜かりも多いのでずいぶんミスをするが、それを回転数で補うタイプだった。しかし、寄る年波には勝てず、最近ではミスばかりが目立つようになってきた。
「あれと比べられてもなぁ」
苦笑いしながら、グラスにわずかに残っていたハイボールを一気に飲み干す。
「すいません、ハイボール二つ。濃いめで」
彼は焼き鳥屋の若い店員に注文しながら、店長に聞いてみる。
「また、あの話っすか?」 「あぁ、そうだな。……やってみんか? 店長」
ここ数年、飲み会のたびにそんなことを言われたが、自分には無理だと断っていた。
例年なら、「まあ、考えといてくれ」としか言わない店長が、今回は話をつづけた。
「お父さんが病気になったって言ってたろ?」
彼の母は、彼が小学校の頃に他界し、父が男手一つで一人息子の彼を育ててきた。そんな父も七〇歳を過ぎ、今年の初めに体調を崩し、医者が常駐する介護老人ホームに入ることになった。実家から近い場所にはあるものの、今のアパートからでは何かあった時に駆けつけることができない。また、住む人がいなくなった実家の手入れもしなければならなかった。
ただ、そんなことを詳しく店長に話したことはなかった。
「年を取ると体が言うことを聞かなくなるよなぁ」的な会話をキッチンでしていた時に、「親父も病気になって介護施設に入るんすよ」と話した記憶があるくらいだった。何気なく口にしただけで、事細かに話すつもりはなかったし、なにより夕方のピークの時間が来たため、注文を捌くのに忙しく、会話はそこで途切れたはずだ。
その時以外で話したことがあっただろうか? あったかもしれないが、当たり障りない内容しか話していないような気がする。
そんなことを考えていると、『そんな細かいことを覚えてくれてるんだなぁ』と、酔いもあってか、店長の心配りにすこし胸が熱くなった。
「ちょうどお前さんの実家の近くに新店舗ができる。受けてくれるなら、おれからも推薦しておくけど、どうする?」
少し考えてはみたが、断る理由も見つからない。
『実家から通えるのか……親父も喜ぶだろうか……』
思い出してみれば、今の今まで親孝行らしいことが出来ていなかったことに気づく。
そして、『この人がここまで言ってくれるなら……』
しばらく沈黙が続いたが、店長は静かに答えを待ってくれていた。
・・・
正直なところ、彼に深い考えがあったわけではない。が、
「よろしくお願いします」
とりあえず、店長の期待にこたえたいと思った。
「おう、頑張ってみてくれ。期待してる」
「期待してる」の一言が、彼には思いのほかうれしかった。
・・・
が、
「なるんじゃなかった」
社員と店長では大違いである。
社員の頃は、文句だけ言っていればよかったことが、店長になると文句を受けたら改善しなければならない。いや、実際は改善できないので、改善したようにとりつくろわなければならない。
新しい店舗では、パートもアルバイトも新人だ。最初の数か月は、ベテランアルバイトや近隣店舗の社員がヘルプに来てくれるが、その後は現有のメンバーで回さなければならない。
アルバイトは責任感なく勝手に休み、パートはそのことを愚痴る。その愚痴は店長への批判となり、社員は見て見ぬふり。
「今までの店長はうまくまとめてたんだなぁ……」
思い返すと、歴代店長はオフィス机に胃薬を常備していたように思う。
給料は上がった。上がったが、管理職となったことで拘束時間の際限はなくなり、残業手当がなくなった。それを考えるとだまされている気もする。
やりがいもなく、楽しくもない職場と家の往復。
やさしかった店長を恨むのもお門違いだとわかっている。が、やり場のない思いが募って、つらい日々が始まった。
そんなある日、いつものように夜遅く家に帰ると、家の中からネコの鳴き声がする。
「窓、開けっぱなしだったか」
出かける時に、閉めるのを忘れたらしい。そこから猫が入り込んだようだ。
その猫は、きれいな毛並みの黒猫だった。首輪をしているところをみると、飼い猫なのだろう。窓辺のソファーの背もたれの上に乗っかり、外を見ている。ちゃんとしつけられているようで、家の中に粗相をした様子もない。
少し安心して猫を見ていると、こちらによって来た。特に警戒するそぶりも見せず、なついているというほどではないが、我が家のように落ち着いている。
凛とした佇まいが美しい。見ているだけで心が落ち着く、そんな猫だった。
ソファーに腰掛け猫を眺めながら、ビールをあおる。つまみに買ったサラダチキンを少し割いてテーブルに置くと、黒猫がこちらをちらりと見る。
「食べていいよ」
なんとなしにつぶやくと、ひょいとテーブルの上にとび乗って、うまそうに食べ始めた。
食べ終わると、またソファーの背もたれの上に載って外を眺めている。
……
ビールを二本ほど開けたころ、急に猫がひと鳴きして、窓から出て行った。
「家に帰るのか。このままいてくれてよかったのに」
ぼそりとつぶやいた言葉が聞こえたのか、黒猫は彼の方をちらりと見た後、闇に消えていった。
その日から、彼は毎日窓を開けたまま出社するようになった。すると、猫も毎日家の中で待っていて、夜中になると帰っていく。
こんな生活が始まった。
……
数週間がたったころには、ビールを飲みながら、黒猫に餌をやるのが日課になっていた。猫が帰るのは、決まって夜中の二時過ぎだった。
この時間まで、彼は猫に話しかける。その日の出来事……主に愚痴であるが、それを黒猫が黙って聞いている……ように思えた。
で、先週である。
「パートのおばちゃんが、遅刻したアルバイトの文句をずっと言いふらしてるんだよ。社員やシフトの違うパートに」
いつものように、猫に愚痴を言っていると、不意に猫が、
「で、遅刻した子には注意したのか?」
と質問が聞こえた。
「ふぁ?」
堪らず気の抜けた声が出た。
「いまお前がしゃべったのか?」 「散々話しかけといて、しゃべったか? はないだろ」 「お、おぅ」 「で、注意したのかって」
「な、なんで? 誰を?」
聞きたいことは山ほどあるし、突っ込みどころしかないが、とりあえず会話を続けることにした。
「アルバイトの子の……何ちゃんだっけ? 朱莉ちゃん? その子の遅刻癖なんだろ?」 「ああ、でも数分な」
朱莉は良い子なのだが、時間にルーズで遅刻が多い。ただ、仕事はちゃんとやるし、愛想もよいので社員や男子高校生のアルバイトからの評価は悪くない。また、飛びぬけてかわいいので若い男連中からはちやほやされている感がある。これがまたパートのおばちゃんからすると面白くない。
「お前、社員がしっかりと遅刻を叱ってれば、パートは怒らんだろ。仕事をするのは当たり前。遅刻するのは論外なんじゃないか?」 「そうはいってもなぁ」 「ちゃんと叱らにゃならん時に叱っとけ。あとで大きな問題になるぞ」
「ああ。……っていうか、いままでちゃんと話聞いてたんだ」
「そこか? 疑問に思うのは」 「いや、まあ、思うところはいろいろあんだけど……まあいいや」 「ま、飯代ぐらいは話を聞くさ」 「ってか、オスなのかよ」 「何の問題がある?」
「や、こんな独身男んところに来るとなりゃ、雌猫で……いずれかわいい女の子に……って、相場が決まってないか?」
「それ、なんてエロゲだよ……。どんだけこじらせてんだ。救いようがないな」 「容赦ねぇな」
「まずは、現実を見ることだな。そこからだ。初老の独身なんざ犬も避けて通るぞ。さて、そんじゃ、今日も頃合いだ。このへんで帰るとするわ……じゃ、おやすみ」
「お、おう、おやすみ」
彼と猫の奇妙な生活が始まった。




