29 共に生きる家族 アロン
夏の終わり。あんなにも恨めしかった太陽の熱や蝉の鳴き声もしずまって、少し寂しさを覚えはじめた頃――
エレガントな雰囲気のお婆さんが、『天使のはしご』にやって来ました。
「いらっしゃいませ」
「外出先用の、給水器を見せてちょうだい」
「はい。こちらがそうです。ごゆっくりどうぞ」
裕福なご家庭の方は新鮮なお水を飲めるよう、住宅設備として大型給水装置の魔道具を取り付けていたりします。私のお店で扱っているのはその簡易版で、旅をする皆さんのための持ち運べる給水器です。
「あの子ももう歳だし、食事は気をつけなくてはいけないからどうしようもないけれど、せめてお水だけは、いつも冷たくて新鮮なものを飲ませてあげたいの」
そう言ったマダムの視線の先には、店の軒先で舌を出しているワンちゃんがいました。『その子』が、お婆さんのお連れ様でしょう。毛皮を身につけていますから、私たちよりも暑いですよね。
気が利かず、申し訳ないことをしました。
「どうぞ、一緒に中に入ってください」
「まあ。それはありがたいわ。アロン、こっちにいらっしゃい」
まだまだ、こちらの世界で犬は番犬で、あくまでも人のペット。
でも、日本では家族としていつも一緒に居る人たちを大勢見てきました。他にお客さんも居ませんし、お誘いして大丈夫でしょう。
浅いお皿に冷たいお水を入れてお出しすると、それはそれは美味しそうに、ペロペロと飲んでくれました。
「ありがとう。いつも今あなたがしてくれたみたいに、普通のお皿にお水をあげているんだけれど、どうしてもお留守番させる時には、生ぬるくなっているのが可愛そうで……。知人からこちらの話を伺って、今日はお邪魔したの」
「まあ! それでしたら、口をつけるとお水が出るこちらのタイプがいいかもしれませんね。アロンさんでも、感知して精製するはずですよ」
お婆さんが手に取って商品の説明を聞いている間に、アロンさんは眠ってしまいました。毛並みから、ご高齢なのがわかります。
「起こすのも可哀想ですし、少しこちらで涼んで行ってください」
「ウフフ。優しい店主さんね。是非、お言葉に甘えさせてもらうわ」
そして、お婆さんと私の、ゆるりとした雑談がはじまりました。
「ああ、よかった。アロンは私の孫みたいな存在なのに、なかなか気持ちを理解してもらえなくて、悲しくなることも多かったの……」
アロンさんの食事に気をつけたり、室内で過ごさせることに、よく嫌味を言われたそうです。
私だって、日本人の記憶がなければ、お婆さんの気持ちをおもんぱかることは難しかったかもしれませんね。
「このお水のことだって、色々な意見があったわ。犬だから、一日一回替えただけで充分だろうって……。でも、もし私なら、やっぱりずっとグラスに残ってるお水を飲むより、新鮮なお水を飲みたいわ。食欲だって落ちてきているの。残りの命、せめて、少しでも快適に暮らして欲しいじゃない?」
確かに、巻き込まれて運が悪かったのか良かったのかはわかりませんが、私は今世でも人として生きています。犬として新たな生を送ることになったとしていたら、この方のように想ってくれる方の元で暮らしたいですね。
「この子の親はね、私が主人を早くに亡くして失意に暮れていた時、裏路地から聞こえた鳴き声が妙に気になって、ボロボロになっているところを見つけたの」
「裏路地に女性一人で入るのは、怖かったのでは?」
自分のことは棚にあげ、正直に疑問をぶつけていました。
「怖かったわ……。でも、それ以上に助けなければと思ったのよ。そうして出会ったのがこの子の親のバロン。はじめは警戒されたけれど、すっかり懐いてくれたわね。子どもに恵まれなかった私にとって、本当に息子のようだった……」
その後、お婆さんはバロン君が子孫を残せる可能性を狭めたくないと、知り合いのツテを借りてマロンちゃんに出会ったそうです。
「マロンはすぐ私に懐いてくれたけど、バロンとはなかなか関係が深まらなかったわ。でも、私が体調を崩して家にいるようになると、タイミングを見計らってくれていたかのように、二匹に子どもが産まれたの」
「わあ! それがここにいる?」
「そう、この子。アロンよ。伏してばかりはいられないと、病に打ち勝つ力を与えてくれたのもこの子たちね」
五匹産まれた子のうち、兄弟たちはお知り合いの方にお迎えされ、その中でも、父親似で一番人に懐かないで手のかかる子だったアロンさんが、お婆さんと両親と暮らしたそうです。
お婆さんは、『本当に困った子だったのよ』と、眉尻を下げておっしゃいましたが、とても幸せなお顔をされていました。
「私も寿命が近いけれど、でも、やっぱりこの子が先よね……。バロンやマロンを見送った時も辛かったけれど、アロンが居てくれたから乗り越えられたの……」
「アロンさんは、ずっと寄り添ってくれていたのですね」
「ずっと一緒に歩んで来た本当の家族だわ。でも、いよいよ私は一人ぼっちになってしまうのね……。アロンが私の最期の家族よ……。だからこそ惜しみなく、この気持ちを伝えたいの。アロンも、幸せな余生を過ごせているといいのだけれど……」
お婆さんの気持ちが、なんとなくわかりました。きちんと面倒が見られるかと不安を抱えて、新しいご家族を迎えられません。
これからは、一人で生きる覚悟を決められているのでしょう。
人にも動物にも、必ず死はやって来ます。病に苦しむことも多いでしょう。
それでも、この国には人のお医者さんしかいません。
まして、カイさんのように言葉が通じないのです。
「私にアロンさんの気持ちを代弁することはできませんが、少なくとも私がアロンさんなら、『この家に生まれて良かったなぁ』と感じていると思いますよ」
「ありがとう。可愛い店主さん……」
人生経験四十年――そんなモノは、死生観の前ではちっとも役に立ちませんね……。
私なんかが願うまでもありません。お婆さんとアロンさんを見ていれば、どんなにアロンさんが幸せな日々を送っているかわかります。
それでも、願わせてもらいたいと思ったのです――
『アロンさんが、幸せな最期を迎えられますように……』
ちょっぴり切ない気持ちになって、お店の外を眺めていると、入り口付近の窓ガラスに猫パンチをされました。あのプニプニした、ピンク色の肉球は――
『なんか、犬臭いな……』
「カイさん、いらっしゃいませ。今日は、アロンさんというワンちゃんが来てくれたんですよ」
『そうか。それよりセルマ。なにか嫌な事でもあったのか?』
カイさんは鋭い洞察力をお持ちですね。
「嫌な事と言うより、考えさせられることがあって……。言葉にするのは難しいのですが……」
私は今日の出来事を、ただ端的に説明しました。自分が何を感じたかまで、上手く話せなかったからです。
『俺たちはわかりやすいと思うぞ? 飯をくれる奴は好きだし、セルマみたいに気に入れば、こうして挨拶にも来る。触られて嫌なら怒るし、面白いや気持ちいいが勝った事は素直にねだる』
確かに。カイさんは普段あまり触らせてくれませんが、気分が乗った時にはゴロゴロ言ってくれるので、とてもわかりやすいです。
『俺は、野良猫生活も悪くはないと思っているが、その犬も、飼い犬生活が気に入ってるんだろうな。それに、その婆さんもセルマも、好きでここ生まれたわけではないだろう? 俺らと違わん』
「まあ、そうですね」
『飯も食えて、寝床もあって、四六時中命が危険に晒されてないなら、あとは各々の気持ち次第じゃないか? 環境に適応して、楽しんだもん勝ちだ。しかし、人間ってのは面倒だな。俺たちは、気持ちそのままを表してるだけなんだけどな。犬なんて、俺たちよりわかりやすい』
確かに。人間って面倒な生き物ですね。頭でっかちになって考えても、答えなんて各々の中にしかありませんから、憶測でしかないのに……。
『俺だって、死は恐ろしいし、大切なモノとの別れも怖い。でも、せっかく今自由に生きられるんだから、うだうだしてないで楽しく生きればいいんじゃないか?』
「カイさんは本当に男前ですね。すみません。こんな話をしてしまって……」
『気にするな。セルマと居るのが楽しいから、俺はここに来てるだけだからな』
なんとも嬉しい言葉です。人間と違って、カイさんがありのまま生きている方だからこそ、その言葉がより嬉しく感じさせてくれますね。
「フッフッフッ。それでは、またここに来たくなるよう、ミルクをお出ししましょう!」
『ああ、それはいいな』
深く考えたり悩みすぎたりせず、カイさんやアロンさんのように今この時を一生懸命生きて、相手に素直な気持ちを表せる在り方も、これまた素敵ですね。
「いらっしゃいませ」
魔法雑貨屋『天使のはしご』に、今日もわけありっぽいお客さんがやって来ました――