7 page 奇跡はお膳立て済みでした
消えかけた意識の外に、まぶしさを感じたのはそのときだった。
胸のあたりが、温かい。
(……なに……?)
カイからもらった胸元の御守りが、光を放っていた。直視できない強さで。
光に目がくらんだ蜥蜴頭が、首を掴んでいた手をゆるめた。
床についた足を感じて、意識が上昇する。
固い手が首から離れると、急に気道を通った空気にむせこんだ。
支えを失って、私は床に崩れ落ちた。
必死で呼吸しながら、痛むのどを押さえる。
(カイ……!)
鮮烈な光を放つペンダントを見て、すぐに分かった。
御守りが助けてくれたんだと。
(いまのうちに、早く……)
おばあちゃんを連れて逃げなきゃ……!
そう思っても、のどと足首が痛くてすぐには立ち上がれない。
意思とは裏腹に動かない体のすぐそばで、床板が沈み込むのを感じた。
床についた手のひらからきしみが伝わってきて、恐怖に顔をあげた。
白い光があふれた部屋の中に、黒い影が見える。
光が収まっていくのと同時に、ゆっくりと整い始めた焦点。
見えた光景に息を飲んだ。
目の前に立つのは、蜥蜴頭の魔物じゃなかった。
大きな背中は、全身から光を発しているように見えた。
(これは、夢――?)
本当の自分は、もう魔物にのどを裂かれてしまっていて。
死ぬ前に、ずっと見たかった夢を見ているのかもしれない。
「――地這蜥蜴か、雑魚が」
記憶の中にある、愛しい声がそう言った。
刹那。
大きな剣が一閃して、蜥蜴頭の体がふたつに裂けた。
紅い鮮血が散ったのに、怖いと思わなかった。恐ろしいものからかばう後ろ姿を見たら、怖さなんて吹き飛んでしまった。
「思ったより心臓に悪いな……次からはもっと早く呼んでくれないと」
そう言って振り返った彼の顔を、呆然と見上げた。
「オリヴィア――」
名を呼ばれても、現実のことと思えない。
精悍な長身の剣士が床にしゃがみ込む。絡んだ視線の先に、懐かしい青い瞳があった。
「……カイ、なの?」
声が震えた。成長期を過ぎた彼が、一回りも二回りも大きくなったように見えるのは気のせいだろうか。
ずっと会いたかった幼なじみが、そこにいた。
無言でのびた腕が、私の体を引き寄せた。
彼の熱を確かに感じる。固い胸に押し付けられて苦しい。
「オリヴィア、会いたかった……」
絞り出すように耳元で聞こえた声に、心臓が忙しないリズムを刻んだ。
「カイ……ど、して……?」
尋ねると、温かい体が遠ざかった。
「説明は後だ。少しだけ待ってろ、外を片付けてくる――」
答えの代わりにそれだけ言うと、カイは壊れた扉から外に飛び出して行った。
床に座り込んだまま、その後ろ姿を見送る。
「やれやれ……空間転移の魔法は、マジックアイテムを媒介にしても疲れるんですよ。飛んだばかりだというのに、私に働けと? これだから魔物は嫌いです」
すぐ背後から聞こえた、綺麗なメロディのような声に首を回す。
長い薄紫の髪を背に流した、美しい青年が立っていた。
「サミュエルさん……?」
「お久しぶりですね、オリヴィアさん」
ぐったりとしたおばあちゃんを腕に抱え上げて、美貌の青年は微笑んだ。
カイの一番の相棒である、上級魔法士。
「おばあちゃん……!」
「大丈夫ですよ、怪我などありません。気を失っているだけです」
落ち着かせるように、サミュエルさんは言った。
「今回は呼んでいただけて助かりました。外界からの働きかけがなければ、こうして飛べなかった。もう随分長いこと異次元のダンジョンに閉じ込められていたもので、飽き飽きしていたんですよ」
「……ダンジョン?」
どういうことだろう。
呼んだ? 私が?
「討伐の帰りにトラップにはまってしまいましてね。情けないことに、パーティー全員で盛大に迷子になっていました。私とカイ以外の仲間は、まだ迷子の真っ最中ですよ」
サミュエルさんは笑顔だったけれど、説明されたのはまったく笑えない内容だ。
ダンジョン。そんなところに閉じ込められていたから、行方不明になっていたのね……。
サミュエルさんは丁寧な仕草でおばあちゃんをソファーに横たえると、片腕を振った。
「反射境」
キラキラと部屋の中に光の粉が舞う。
「この部屋が魔物から見えないようにしました。おふたりとも、ここから出てはいけませんよ。ご心配なく、敵はそれほど多くないようですから、じきにカイは戻ってくるでしょう」
私も行ってきます、と。長い髪を翻して、サミュエルさんはカイの後を追っていった。
ふたりが出て行った、やけに風通しのよくなった玄関を見つめて、開きっぱなしだった口が呟いた。
「夢……じゃない」
サミュエルさんは私がふたりを呼んだようなことを言ったけれど、突然のことすぎて理解も心も追いつかない。
今はただ、じわじわと喜びが押し寄せてくる。
まだ遠くでサイレンの音が鳴っていたけれど、不安は嘘のように消えていた。
ソファーに近寄って様子をうかがう。ロビンおばあちゃんはすやすやと寝息を立てていた。
そこではじめて安堵した。
私たち、助かったんだ――。
いつの間にか頬をつたっていた涙を、指の腹でぬぐった。
カイとサミュエルさんは、それからしばらくして戻ってきた。
サイレンは止んでいて、火事も収まり、死人はいない。もう大丈夫だと言われた時には、また涙があふれた。
久しぶりのカイをよく見ようと思ったのに、ふたたび抱きしめられた。
心臓がはねたけれど、走って戻ってきたらしい彼の鼓動も速い。
それに気づいたら恥ずかしさは少し薄れて……私も彼のシャツを、ぎゅっと握りしめて返した。
「ただいま、オリヴィア」
「おかえり……カイ」
しばらくそうして、お互いの心臓が脈打つのを感じていた。
長い抱擁のあと、カイがぽつりと言った。
「またすぐ、行かなきゃいけないんだけどな」
その言葉に肩を揺らした。温かさが離れて、カイが見下ろしてくる。
もう行ってしまうの? すぐに?
とがめるような口調になってしまうことを恐れて、聞けなかった。
カイは察してくれたのか、困った顔で頬をかいた。
「まだ目的は果たしてないし、本当なら帰ってこられる立場じゃないからな」
「そんな……そんなことない。だって、助けに来てくれたんでしょう?」
「ああ、最近魔物の勢力がこっちに伸びてきてたから。万が一を考えて、これを送っておいて良かった」
私の胸元に揺れる涙型のペンダントをすくい取って、カイが言った。
「……御守り?」
「御守りっていうか、実はサミュエルが作った空間転移用のマジックアイテム……これと対なんだ」
そう言って、自分の懐から揃いのペンダントを引き出して見せる。
「強く想って相手を呼ぶと、時空を曲げてつないでくれるんだと。サミュエルが転移するための始点と終点になるそうだ」
「そうだったの……」
「オリヴィアの声が聞こえた……ちゃんと、俺を呼んでくれたんだな」
なんでそんな目で見るんだろう。
まるで愛おしい人を見るような、熱を帯びた目で。
「実は俺たちもダンジョンに閉じ込められてたから、外から呼んでもらえないと抜け出せなかったんだ。助かったよ」
「サミュエルさんに聞いたわ。大変だったのね……手紙が来なくて心配したのよ」
「あー……送ってくれてたよな。全然受け取れなくて、すまない」
「鳥たちは今頃迷子ね……」
受け取る相手が異次元のダンジョンの中では、鳥たちも辿り着けなかったろう。
私はくすりと笑った。良かった、カイが無事で――。
「やっと笑ったな」
カイがそう言って私の頬をなでた。
収まりかけた心臓が、またはねた。
「オリヴィア、俺……ずっと言いたかったことがあるんだ。聞いてくれるか?」
見下ろされた真剣な目に、黙ってうなずいた。