scene.9
────昼休みを告げるチャイムが鳴ると、次の授業の準備を机の上に出して、司が来ないうちに弁当と飲み物を持って教室を出る。程よい大きさの弁当箱を右手に、飲み物を左手に持ってペットボトルを片手で弄びながら廊下を歩く。リノリウムの床が上履きの靴底に擦れて、キュッという耳障りな高い音を吐き出した。
すれ違う人は皆、各々の昼食のスタイルをとるための準備に忙しくて。騒がしい人混みの中に紛れ込んでいると、まるで自分がどこにもいないような気がして酷く安心した。
マスクと手袋を付けた状態では私と棗を判別出来ないのか、普段よりも声を掛けてくる人は少なくて。「あんなに寄って来ても結局そんなもんじゃんねェ」なんて内心嘲笑しながら、屋上へと向かう。
ほんの少し汚れた階段を上って立ち入り禁止の札かぶら下げられたロープを跨ぐと、鈍く銀色に光るドアを開ける。差し込んできた光が酷く眩しくて目を眇めれば、同じように昼食を摂っていた誰かが慌てたように私を見ていた。
「……泉見」「────あぁ、初めまして。……ええと、棗さんのお知り合いの方ですか? すみません、一組にはあまり行かないものですから」
そう言って困ったように笑えば、目の前の女子生徒────そう、以前から何かとこちらに突っかかってくる武村美弾は、少しだけ驚いたようにたじろいで。少しだけ色素が薄い黒髪が、彼女の反応に呼応するように微かに跳ねた。
「……お前、泉見じゃないのか?」「それは正解でもあり、不正解でもありますね。……ふふ、あまり私達のことを知らないんですね。高等部から入学された方ですか?」
既にわかりきっていることを訪ねれば、目の前の武村さんはまるで狐にでもつままれたかのような、酷く奇妙そうな表情をして。「あぁ」と返す彼女に柔く微笑んで、「こちら、座っても宜しいですか?」と彼女の隣を示せば、彼女はあいかわらず無愛想な表情で「……あぁ」と返した。それに「どうも」と返して、彼女の隣に腰を下ろす。
「私は棗さんの双子の妹で、泉見司と言います。普段は一年二組に在籍しています。確かに、高等部から入学された方でしたら、棗さんと間違えるのも無理はありませんね。……お名前をお聞きしても?」
そう言って彼女を見れば、彼女はどこか困惑を隠しきれない表情で「……武村、美弾」と言って。短く切られた髪を耳に掛ければ、予想していたよりもずっと整った顔がそこにはあった。
ふぅん、司さんなら話すんだァ────なぁんて、何処か面白いような気持ちで彼女を見つめていれば、彼女はどこか居心地が悪そうな表情をして。それから腰を浮かせると、「……邪魔して悪い。あたしは別のところで食べるから────」と言って腰を浮かせて。思わずその細い手首を掴むと、私よりもずっと熱い体温が手袋を伝って、じわりと浸み込んできた。
「どうして。貴女が先にこちらに来ていたんですから、ここで食べれば良いでしょう? 私が邪魔でしたら、場所を変えますから」
意識的ににこにこと笑いながら、精一杯[人当たりの良い泉見司]を演じて。そこにいる存在は本当は全部空っぽなのになァなんて思いながら彼女の言葉を待てば、彼女はほんの少しだけ困ったような表情をして「……そんなつもりはない」と言うと、観念したように溜息を吐いて「解った」と答える。
「……解った、ここで食べるよ」「どうも。楽しいお昼になりそうですね」
そう言って腰を下ろす彼女に唇の端だけで笑って、お弁当箱を開ける。彼女はちらりとそれを一瞥すると、学校近くのコンビニエンスストアであるニアマートのマークが印字されたコンビニ袋を揺らして、サンドイッチとパックのお茶を取り出して。私もそれを一瞥すると、あまり食事を他人に見られたくもないかと思いお弁当箱を開けて昼食を口に運ぶ。冬特有の乾いた風が髪を柔く揺らした。
「そろそろ屋上で食べるの、寒くないですか?」「……あんたに関係ないだろ」
髪を耳に掛けながら武村さんの方を見ながらそう言えば、彼女は思いのほか淡々とそう答えて。寡黙な人だなァなんて内心苦笑しながら「そうですか」と返せば、武村さんはサンドイッチを口に運んで咀嚼して。短く切られた髪が再び微かに吹いた風にのって柔く揺れた。
その様子をちらりと横目で見ながら、「司さんと面識が無くて助かったなァ」なんてぼんやりと考える。面識があれば、ボクが[泉見司]ではないことを見抜かれてしまっていると思うから。
ペットボトルのお茶に口を付けながら、この人には一体どんな[泉見棗]が見えているんだろうな、なんて思う。……まぁきっと、それを知ったところで彼女が[泉見棗]を恋愛感情として好きになる訳でも、[泉見棗]が彼女を好きになる訳でもないのだけれど。
静かな屋上で昼食を摂りながら、気まずゥ────なんて思いながら早々に切り上げて二組に戻ろうかと思い、ペットボトルから口を離すと、不意に「────お前は、」と武村さんが口を開く。
「────お前はあまり、泉見と似てないんだな」
少し低いその声がやけにはっきり聞こえたような気がした。その言葉にカチンと来て、思わず「はァ?」と尋ねそうになるのをぐっとこらえて「……そうですか? あまり言われたことは無いですが」と返せば、武村さんは何かを考えているような表情で「あぁ。……いや、」と呟く。
「もしかしたら、泉見が誰にも似ていないのかもしれないな」
その言葉に思わず、一瞬だけ呼吸を止めて。ひゅっと言う掠れた呼吸音がやけに耳についた。動揺を隠すように震える声を隠して、「……随分と、棗さんに入れ込んでいるんですね」と言えば、武村さんは驚いたような表情をして。「違う」と呟くと、そのまま黙ってサンドイッチを口に運んでいた。
やがて昼休みが終了する20分前を告げるチャイムが鳴った。武村さんはその音を聞くと、コンビニの袋の口を縛って持ち運びがしやすいようごみをまとめて。私も弁当箱を袋に入れて、ペットボトルに残ったお茶を飲み干してから「じゃあ」と立ち上がれば、「ああ」と武村さんは答えて。鈍く光る屋上のドアの取っ手に触れれば、手袋越しに酷く冷たい感触が伝わった。
言い訳のように聞こえるが────その時の私は、本当に早々に切り上げて教室へ帰ろうと思っていて。だから、本当なら彼女に構っている暇なんてなかったのだ。
けれどその時、私は司のことや、司と次第に仲が深まっていく天塩木染に対して、得体の知れない焦りと、そしてそれを自分が感じなければならないことに対する怒りのような感情があって。……だから、この目の前の気に食わない人間を騙して、弄んで、最後に種明かしをしたときに、彼女は一体どんな表情をするのか────なんて、何処か意地の悪い感情が湧き上がってきた。
────思えばその時、私は泉見司ではない、ただの[泉見棗]として彼女の前に立っていて。それでも、その事実を認めることは、私にとって酷く屈辱的なことだった。
「────武村さん……でしたっけ?」
私はドアに触れていた手を離すと、彼女をゆっくりと振り返って。武村美弾と言えば、いつもの彼女とは似ても似つかないような、酷く間の抜けた表情でこちらを見ていて。その表情にくつくつと喉を鳴らすように笑うと、彼女は少しだけ不愉快そうな表情をした。
「……そうだけど」「くっくっくっ、先程もお話ししましたが、私は泉見 棗の双子の妹の泉見 司と言います。……あぁ、すみません。あまり人に触れることが好きではないので、握手は出来ないんですが」
そう言って出来るだけ申し訳なさそうに笑えば、武村美弾は特に気分を害した様子もなく「気にしなくていい」と呟いて。本当に寡黙な王子様だなァ────なんて思いながら、「そうですか」と言って唇の端で柔く微笑む。
相手に媚びへつらうのなんてまっぴらごめんだ────けれど、目の前のこの女がどうして泉見棗をあそこまで嫌うのか、純粋に興味があって。まぁせいぜい、新しい泉見棗の演劇のための肥やしにでもなれば良いか────なぁんて、軽く考えていた。
武村さん、と名前を呼べば、彼女は酷く不機嫌そうに「なんだよ」と答えて。それでも少しだけ態度が柔らかいのは、泉見棗ではなく泉見司と話しているからなのだろうけれど。
「……あなたは、明日もここに食べに来ますか?」「さーな。約束はしないよ。あたしは縛られるのは嫌いなんだ」
武村美弾はと言うと、どこか怪訝そうな表情を浮かべたままそんなことを馬鹿正直に答えていて。そんな真っ直ぐさは彼女らしいな────なんて、心の中でつい苦笑してしまう。
私は「そうですか」と言うと左耳に髪をかけてから、ずれたマスクを直す。その途中で「私は縛られるのは好きですよ」と答えて。「そうか」と言う武村美弾に対して「気が合いませんね」と言えば、彼女はため息をついて「なんなんだ。喧嘩売ってるのか、お前は」と呟く。
「おや、とんでもない。……そうですね、強いて言えば────」
私は背の低い武村美弾に合わせるように屈んで、その耳元で出来るだけ柔らかい声色で囁く。それは例えるなら、警戒心の強い手負いの獣を懐柔するように。
「……あなたと明日も昼食をともにするような友人になりたいと思う程度には、あなたに興味がありますよ。武村さん」
そう言って彼女の小さな耳の輪郭を手袋越しになぞれば、彼女は慌てたように耳を隠して。警戒心の強い小動物のようなその反応にくすくすと笑えば、武村美弾は「……お前、歪んでんな」と苦々しく呟いて。それから諦めたようにため息をつく。
「……あたしと友達になりてぇってことか? 自分で言うのもなんだけど、お前や泉見棗とはタイプが全然違うと思うぞ」「はは、周りに自分と同じような人間ばかり集めて理解された気でいるのは、自分と相手の世界が広がらなくて勿体ないことだと私は思いますよ」
そう言えば、武村美弾は何かを考え込むように俯いて。その様子を酷く面白く見ていれば、武村美弾は顔をあげて、その真っ直ぐな目で予想通りのことを口にした。
「……まぁ、確かにそうかもしれないな。良いよ、友達になろう。……よろしくな、泉見」
小さく笑った彼女を、内心せせら笑うような気持ちで「こちらこそ」と言えば、彼女は酷く照れ臭そうに頬を掻いて。その様子を見つめながら、つい「────司」と言葉が口をついて出た。
「は、」「……泉見では棗さんと同じでしょう。私の名前は司です」
そう言えば、彼女は一瞬だけ驚いたようにその澄んだ目を瞬かせて。薄く形のよい唇が、「つかさ」と言葉を復唱する。子供のようなその行為に苦笑して「はい」と答えれば、彼女はぎこちなく何度かつかさ、つかさ……と口に出した。
「慣れないな」「……まぁ、最初は皆ぎこちないものでしょう」
とは言えボクも今まで友人以上の行為を行う相手は多くいても、きちんとした[友人]と言う相手は初めてだから、どう言ったものかは解らないのだけれど。
「あぁでも、大勢の人の前では話しかけたりしないでくださいね。……貴女、確かファンクラブがあるでしょう。後々関心もない揉め事に巻き込まれるのも面倒なので」
そう言えば、武村さんは「あぁ」と呟いて。その様子に小さく笑いを溢してから、「……ではまたいつか、屋上で。……武村さん」と言えば、彼女の少し低く透明な声が「……美弾」と呟く。
「……は、」「……あたしの名前は、武村美弾だよ。……司」
友達になるのに名前を知らないのは変だろ、なんて言う彼女の言葉にふっと小さく笑って。「……わかりました、美弾さん」と言えば、彼女はほんの少しだけ柔らかな表情で「……あぁ」と呟いた。
武村美弾とともにクラスへ戻る廊下を歩く。リノリウムの床が上履きで擦れて、きゅっという耳障りな音をたてた。
ちらりと二組の中を覗けば、まだ司は帰って来ていないようで。大方、一組を抜けるタイミングを見失ったんだろう────なんて、呆れてため息をついて。少し先を歩く武村美弾に「……では、私はこちらなので」と二組を指差せば、彼女は二組のプレートと私の顔を見比べると、「わかった」と言って、先を歩いて行く。
その後ろ姿を見送りながら、マスク越しに小さく舌を出して。にやにやと笑いながら、彼女に聞こえないように呟いた。
「────騙される方が悪いんだよォ、武村さん」
面白いことになってきたなァ────なぁんて思いながら、二組の戸を開けて席に座る。一組よりは多少大人しい二組は真面目な生徒が大半なのか、もうすでに数名を除いて席に着いていて。それを横目に見ながら、先程の武村美弾の言葉をふと思い出す。
────お前はあまり、泉見と似てないんだな
その言葉に、周りに気づかれないように小さく舌打ちして、怒りを押さえ付けるように教科書を取り出して、パラパラとページをめくる。
「────あんたに泉見棗がわかって堪るかよ。ばぁぁぁか」
苛立ち紛れに呟いた言葉は、彼女に届くこともなくて。何故だかそれが、酷く虚しく感じられた。