scene.7
「────棗さん。私です、司です。開けてください」
コンコンと控えめにドアをノックする音が聞こえて閉じていた瞼をゆっくりと開けば、戸惑ったような司の声が部屋のドア越しに聞こえて。その声に、「あぁ、今は泉見棗だっけ」なんてぼんやりと思いながら、「くああ」と大あくびをしてから「はいはぁい」と言葉を返して、ドアを開ける。するとドア越しに小さく溜め息を吐かれてしまう。
「────はぁ。棗、よくこの短時間で眠れるね。晩御飯だよ」「やりィ。ありがとねぇ、つーちゃん」
無意識に口元を隠すように聞き手とは反対側の右手で触れながらドアを開ければ、司は部屋から出てきたボクの姿を見て、僅かにほっとしたように息を吐いて。その様子を見ながら、「なに、なんかあったのォ?」と尋ねれば、司は無意識に手に持っていたものを背後に隠してから、「何もないよ。ご飯が冷めるから、早く行こう。……着替えてないの?」と呟いて。何かをボクから隠すようなその行動が何となく気に食わないながらも、「ふぅん?」と返して「着替えるの、面倒なんだ」と言って、司の肩に腕をまわす。
「そういや司さん、食費まだ足りそうなのォ?」「棗の食費もボクの方に回してもらってるからね。当分は足りそうだよ」「当たり前だねぇ。ボク料理できないもん」
司の部屋に入って手洗いと消毒を済ませていると、司は「ちょっと待ってて」と言って、隠し持っていたものをテーブルの端に置いてからキッチンの方へ向かって行って。ボクはその様子を横目で見ると、「不用心だなぁ」と頭の中で呟いて、司に気付かれないように水を出したまま彼女が机の上に置いたものを見る。
「────"将棋入門書"ォ?こっちは……はぁ?"チェス入門書"?つーちゃん、おべんきょーばっかでついにおかしくなっちゃったぁ?」
さんざんやってるのに今更いらないだろなんて呆れながらパラパラとページを捲っていると、将棋入門書の最終ページに小さなメモ用紙が挟まれていて。何の気なしにそれを手に取れば、"天塩さんへ"と書かれた端正な文字が目に映って、思わずメモ帳を注視する。
"すべてが参考になるとは言えませんが、私が子供の頃に読んでいた本を選びました。少しページが擦り切れてしまっていますが、それでも宜しければ差し上げます。参考になれば幸いです 司"
「────は?」
思わず飛び出した自分の声は、酷く情けない声で。そう言えば近頃、司の部屋から出てくる天塩さんの姿をよく見たな、なんて今更思い出してしまう。
ボクはぺらぺらとページを捲りながら、俯いて人差し指で唇をなぞる。司とボクが子供の頃から変わらない、考える時の癖だった。
「天塩さんとつーちゃん……ねぇ?」
暫くぼんやりと考えた末に、徐にメモ用紙を抜き取るとそのままメモを二つに折って、ボクのブレザーのポケットに入れる。それと同時に、エプロンを付けた司が「なっちゃん?」とボクを呼びに来る。
「────なぁにィ、つー」「そろそろご飯できるから食器を────って、」
司はエプロンを付けたまま、ボクが手に持っているものを見ると、慌てたようにボクの手から本をひったくるように取って。何かを隠すような素振りに内心舌打ちしたいような気持ちを抱えながらも、「懐かしくてつい手に取っただけだよォ」と言って、ひらひらと手を振る。
「司さん、よくその本で勉強してたよねぇ」「……ああ、うん。あの頃はなっちゃんに勝てなくて、随分悔しい思いをしたんだよ」
ゲームで棗に勝てないのは今でもだけどね、なんて付け足して苦笑する司に、「そー?」とだけ返して。「つーちゃん、ボクお腹空いちゃった。食器出せばいーんだっけ?」と言って司の肩を軽く叩けば、司は戸惑ったような顔をしてから「あぁ、うん」と呟いて、その本をやけに大切そうに机の上に置いていた。
「そーいや、つーってさ」「ん?」
柔らかな湯気が立つクリームシチューをスプーンで掬いながら、相変わらず手袋をつけたまま、マスクだけを外した司がボクの方を見て。それににやにやと笑い返しながら尋ねる。
「────天塩さんと付き合ってんのォ?」「ぐっ」
シチューを向かい合って食べながら何の気無しにそう言えば、司は彼女にしては珍しく、無作法に咳き込んで。「失礼」と言ってから、コップに注がれたミネラルウォーターを飲むと、心底嫌そうな顔で「何言ってるの、なっちゃん」と眉間に皺を寄せる。
「どこをどう見ればそうなるの。あれは、」「単なるお友達ィ?でも、つーはそう思ってても、天塩さんは思ってないかもしれないねぇ」
けらけらと笑いながらシチューを口に運べば、司は「食事中に喋らないでって言ったでしょ」と呟いてから、小さくため息を吐く。
「天塩さんはそんな器用な人じゃないよ」「ふうん?」
そう言ってシチューを口に運べば、司は小さくため息を吐いて。「棗」と、子供をあやすようにボクの名前を呼ぶ。
「────ボクは棗を置いていったりしないし、棗よりも先に幸せになんてならないよ。……棗だけが、ボクを裏切らないんだろ?」
そう言って微かに微笑む司に、心の奥の粘ついた暗い部分が満たされてゆくのを感じて。食器が音をたてないように注意しながら、「そーだよォ」と返す。
「他人は司さんを傷つけるけど、ボクは絶対に司さんを傷つけないよォ。司さんの望むまま、理想の泉見棗になってあげる」
────だから司も、ボクを捨てたりしないでね?
そう言って微笑めば、司はなぜか少しだけ困ったように笑ってから、「当たり前でしょ」と呟いた。
「────そんじゃ、そろそろ戻るねぇ。ごちそうさまァ」
夕食の片付けを終えてから、隣にある自分の部屋へ戻るために司にそう言えば、司はなぜかこちらを見つめていて。それに内心警戒しながらも、「なぁに、司さん」と言えば、司は「女の子連れ込むときは合図してよね」と言って。それに内心拍子抜けしながら、「司さんも一緒に遊ぶゥ?」と尋ねれば、彼女は苦虫を噛み潰したような表情で、「そんなわけないでしょ」と続ける。
「そんな不潔なこと出来ないよ」「あっはは、司さんはそうだろうねぇ?慣れるとたのしーよぉ、複数も。誰がどの泉見棗を求めてるのかわかんなくなるけど」
ボクはそう返すと、「そんじゃーねェ」と司の部屋を出て、隣にある自室のドアを開ける。今日は誰とも予定が無かったし早めに眠ってしまおうか、なんて思いながら、ポケットの中身をベットに放り投げると、スウェットに着替えてから乱暴に身体をベットに投げ出して。それから、先程司の部屋から持ってきた紙をベットに寝転びながら、司になって読み上げる。
「────"幸いです"……ねぇ?」
かったい文章だなァなんて思いながら、その手紙をごみ箱へと捨てる。万が一司が見つけても、どうせごみ箱のなかじゃ触れやしないだろうと思いながら、くつくつと喉を鳴らして笑う。
「────あげないよぉ?ボクの大事な演出家なんだから」
気に食わないものが芽吹く時は、芽吹いてしまう前に摘み取ってしまう。それは、両親が昔からやっている、手垢のついた泉見棗の演出方法のひとつだった。
「つーも不用心なんだよねぇ。賢いのに、肝心なところが抜けてて可愛いなぁ。……あは、でも、まさか天塩さんなんて予想外だったなァ。あの子、賢いからちょっと苦手なんだよねぇ」
くつくつと喉を鳴らして笑っていれば、不意に部屋のなかに携帯電話の低い唸り声が響いて。「はいはぁい」と出れば、それは演劇部部長────高等部二年の墨山奈々からのお誘いで。ボクはパラパラと[棗ノート]を見返しながら、墨山奈々の求める泉見棗────即ち、[実力のある生意気な後輩]を演じる。
「センパイ、お疲れ様。今日も頑張ってて偉かったね?……あは、もう自分の部屋にいるから大丈夫。……おいで?」
電話口で聞こえる墨山奈々の啜り泣きを聞きながら、頭を司と天塩さんから[墨山奈々]へと切り替える。愛されるのは、[演じている泉見棗]でしかなくて、そこにただの[泉見棗]は必要ないから。
三十分後に墨山奈々と会う約束を取り付けると、小さくため息を吐いてからシャワー室へ入って、短く切られた髪を洗う。
成長が止まったように発達しない胸も、髪型も、細胞の一つ一つまでボクと司は同じだったはずで。……それなら、何もかもを知っているべきなんじゃないか────なんて、つい自分のことを棚にあげて考えてしまう。
「墨山先輩、今日やけにピリピリしてたもんねェ。大変だなァ、部長さんって言うのは────ま、そう言う事でストレスを解消しようとしているあたり、先輩も人のこと言えないと思うけどねェ」
シャワーを済ませると、小さく欠伸をしてから携帯電話を操作して司に電話を掛ける。すると司は酷く嫌そうな声で『はい』と出て。墨山奈々との話をすれば、小さく溜め息を吐いてから『今日は会わないって────はぁ、わかったよ』とだけ答えて、部屋を出てゆく音が聞こえて。
「つー、どこ行くの?」『隣で聞きたくもないものを聞く趣味もないからね────ちょうどさっき誘われたから、天塩さんの部屋にでもお邪魔するよ。……その、渡したいものもあるし』
言いにくそうに告げられた言葉に、「ふうん?」と返して。「そんじゃ、終わったら連絡するねェ」と言って電話を切ってから、シャワーを浴びようとベッドから起き上がる。すると、先程ごみ箱へ捨てたメモ帳が目に入って。それを拾い上げてから、思い切り破り捨てる。
「────これもエンターテインメントだよォ、つーちゃん」
カーテンコールが鳴らないように、この滑稽で歪んだ、優しい劇が終わらないように。そのためなら泉見棗は、どんなことだってして見せる。
千切れたメモ用紙はバラバラになって、ごみ箱の中へと沈んでゆく。バラバラになった紙は、もう二度と戻ることは無い。
身体をあげて、顔をあげて、言葉をあげて、人格をあげて。そうすれば皆が愛してくれるんだと、そう思っていた。時折どうしようもなく空っぽになる空洞を、どうしようもなく誰かを傷つけたくなる感情を、理解してくれるのは司だけだと思っていた。
「嘘つきで可愛くて────なのに最近は勝手なことばっかりして。たまにあんたをどうしようもなくぶっ飛ばしたくなるよォ、司さん」
くつくつと喉を鳴らすように笑っていれば、遠慮がちにドアをノックする音が聞こえて。浅く呼吸をしてから、すぐに[演劇部の泉見棗]の表情になってドアを開ける。
「いらっしゃい────センパイ」
今にも泣きだしそうな墨山奈々の顔を見て、どうしようもなく加虐心が煽られるのを感じて。強く手首を引いて部屋に入れてから鍵を掛ける。
ベッドの上に横になった墨山奈々の顔は、子供みたいに泣くのを我慢している表情で。宥めるようにキスをしてから、その癖のついた柔らかい髪に指を通す。
「────っ、棗」
縋るように回された華奢な腕に、「はいはぁい」と答えて、あやすように優しく一定のリズムで背中を叩く。「センパイはいーこだねぇ?」と耳元で優しく囁けば、彼女は「うん、うん」と、子供のように答えて。「私、良い子だよ。棗、私、ちゃんとやれてる?」なんて尋ねるものだから。その耳元に優しく口づけると、「やれてるよォ」と返す。
「センパイは偉いねェ?」
柔らかくそう返せば、彼女はあたしの肩に顔を埋めるようにして「うん」と何度も呟いて。その背中を優しく叩きながら、そのままベッドに横になる。
「明日の朝までこうしててあげるよ、センパイ」
そう言って頭を何度か撫でれば、彼女は柔く笑って「うん」と呟いて。やがて疲れてしまったのか、そのまま眠ってしまう。
その様子をぼんやりと見つめながら、小さく欠伸をして。もう歯磨きも済ませたし、このまま本当に眠ってしまおうなんて考えて、ゆっくりと瞼を閉じて。先輩に布団を掛けてから、ゆっくりと眠る。
────少しだけ懐かしかったのは、司のことを考えていたからだ、なんて。どうしようもない感情が、何だか酷く滑稽だった。