scene.5
かつて高等部の校舎だった旧校舎は、新校舎の設立に伴って部室棟へと変更になった。もちろん、あたしたちが来る前のことだから、それがいつだったのかは定かではない。とは言え安全面の問題から三階と屋上は立ち入り禁止になっていて、あたしも中等部の入学前はそこに立ち入ることのないよう、強く注意を受けていた────けれど。
(守るやつなんかいないだろォ、そんなの。入れないようにするなら非常階段にテープをぐるぐる巻きにするくらいしなきゃ)
まぁ星花は『いーこちゃん』が多いから無いんだろうけどと思いながら立ち入り禁止の札を跨ぐと、そのまま外階段を上がってゆく。カンカンと言う音を立てながら登ってゆく瞬間は、少しだけ悪いことをしているようで好きだった。
悪い人間でいるよりは、どちらかと言えば善い人間でいたい。けれどずっと善い人間でいるのも疲れてしまうから、たまには悪い人間にもなってみたい────そんなことを零した自分に、旧校舎の屋上に入れる方法を教えたのは中等部に入学したばかりの頃に付き合っていた高等部三年生の先輩からだった。「内緒よ」と言って笑った彼女が学校内でも有数の『いーこちゃん』で通っていたこともあり、その物珍しさから覚えていたのだ。好きだったとか、ずっと引きずるような恋だったわけじゃなくて、彼女の持つ二面性がボクの劇の肥やしになればいいと思って、意識的に覚えていただけかもしれないけれど。
カンカンと音を立てながら登ってゆくと、やがて再度『立ち入り禁止』と書かれた札が見える。鎖のついたその札を跨ぐようにして屋上に上がれば、そこには橙色に染まる空の宮が良く見えた。
「……なるほどォ」
風に靡く自分の髪を抑えながら、心の中で「良い場所教えてくれてどーも」と適当に感謝しながら先程もらったばかりのコピー用紙を取り出すと、咳ばらいをしてから台本の文字を読み上げてゆく。
雨の中、路地裏に傘を差さずに微かに俯いて立つ人物。
あたしはそのト書きに従うように微かに俯くと、台本に書かれた台詞を読み上げてゆく。湿ったアスファルトの匂いが肺の中で暴れまわるような感覚がした。
「……なに?」
頬を落ちてゆく冷たいものの正体を探るように顔を上にあげれば、茶色のトタン屋根から雨粒が落ちていた。僕は正体を知ったことに安堵しながら、ぎゅっと自分の左胸を抑える。
「……ああ、どうしてだろう。妙に胸の中が空っぽでたまらない」
僕は荒い息遣いを殺すように強く胸を抑えながら、心を落ち着けるように荒い呼吸を何度も繰り返す。車のヘッドライトが僕を照らして消える。
「……ああ、気味が悪い。どうしてこんなに酷く空虚なんだ」
僕は、壁に手を付けながら這うように歩いてゆく。ネズミがその横を通り過ぎてゆく。ドブネズミ、というらしい。ここで蹲っている間、ソレのことをそう呼んで気味悪がる人間を見た。
黒く澄んだ瞳が僕を見上げる。その瞳に映る僕の顔は、どうしようもなく空虚だった。
「……でも、お前は名前がついているだけ────」
「────おい」「……あ?」
急速に引き戻されてゆく意識に妙な空虚感を感じながら声のする方へ目線を向ければ、そこに立っていたのは同じクラスの武村 美弾で。するすると自分の中から≪役≫が抜け落ちてゆくのを必死に繋ぎとめるように荒い呼吸を何度か繰り返していれば、声を掛けた張本人である武村 美弾は一瞬だけ嫌そうに眉を顰めた後、「……泉見?」と低く名前を呼んだ。
泉見。いずみ。耳からその言葉が入ってきた瞬間、自分の中から完全に役が消えてしまって。「邪魔すんなよ」と思いながら大きく深呼吸すると、あたしはパッと笑顔を作って「どうかした?」と笑いかける。
「どうかした? 武村さん。ダメじゃん、旧校舎の屋上、立ち入り禁止だよ?」「……お前もだろ」
武村さんは嫌そうに眉を顰めると「……具合でも悪いのか」と呟く。それに「え?」と返せば、武村さんは再度嫌そうに「具合」と短く呟いた。
「……さっき、具合悪そうな声が聞こえたから。……見に来たら、お前がいて」
薄い黒の髪が、夕日に透けてその輪郭をまろやかに浮かび上がらせている。予想外の言葉に押し黙っていれば、武村さんはあたしの顔を見て「……なんだよ」と呟いた。
「……あぁ、いや、心配とかするんだと思って」「……具合悪そうだったら誰でもする。失礼だな、お前」
眉を顰めたままそう呟く武村さんの言葉に「普通」と呟けば、武村さんは「なんだよ」と不機嫌そうに呟く。その様子に司が子供のときみたいだななんて思いながら「いや? 心配してくれてどうもありがとう」と言えば、武村さんは「ああ」と言うと荷物を肩に掛ける。
「……それ」「うん? ああ、演劇部のオーディションがあるからさ、練習しないといけなくて」
五月蠅くしてごめんねと言えば、武村さんは「いや」と言って一瞬だけ何かを考えるような表情をして。それから小さく息を吐くと「……邪魔して悪かったな」と呟いた。
「あ?」「……なんなんだ、お前。邪魔して悪かったって言ったんだ」「あ、あぁ、別に……」
武村さんはあたしの返事に眉を顰めたまま「じゃあな」と言うと、カンカンと音を立てながら外階段を降りてゆく。あたしは暫くその姿をぼんやりと眺めると、小さく呟いた。
「……変な奴」
あたしは小さく呟くと、「演技って気分じゃないな」と呟いて来た時と同じように外階段を降りてゆく。旧校舎の方から、自分が住む菊花寮の方へ向かう途中に振り返ると、武村さんがちょうど正門を出ていくのが見えて。何となく彼女が正門を出ていくのを見送ってから、今度は本当に菊花寮へと戻っていった。