scene.10
授業終了のチャイムが鳴った。目の前の教師がチョークを置くと、学級委員の御神本さんが号令をかける。いつもの癖でマスクを直すと、小さく溜め息を吐いて手首をほぐして。優等生でいるのも楽じゃないな────なぁんて思いながら、小さく息を吐いて顎の辺りで切り揃えられた髪を耳にかけると放課後特有の騒がしい声がやけにクリアに聞こえた。
部活へ向かうために荷物を纏めながら、今日は筋トレと発生練習と────なんて頭の中でスケジュールを組み立てて。荷物を肩に掛けてから、「今日はサボる訳にはいかないもんねぇ」なんて内心溜め息を吐いて教室を出ようとした────時だった。
「────司さァん」
ふと教室の出入り口で自分の名前を呼ぶ軽薄そうな声に内心舌打ちをして。荷物を纏めていた鞄を机の上に置くと、意識的に笑顔を作って「……どうかしましたか、棗さん」と笑う。すると目の前の[泉見棗]は微かにたじろいだように目線を泳がせると、「……ちょっと良いかなァ?」と言って、手袋越しに私の手を引く。
「なんですか? これから部活なので、もう行かないと」「……それは良い心がけだね」
いつも通りの表情に小さく舌打ちをして。[泉見司]に戻ってしまった彼女に溜め息を吐くと、「……なぁに、司さん」と口調を[泉見棗]にして尋ねれば、彼女は面倒臭い子供の相手をする母親のように眉根を寄せて、「……お昼から何を怒ってるの」と小声で尋ねる。
「……私と天塩さんが一緒にご飯を食べたことが気に食わないの? だからなっちゃんも一緒にって言ったのに、迎えに来たときにはいなかったし……。……ねぇ、何を怒ってるの?」
聞き分けのない子供を諭す母親のような口調がやけに癇に障った。普段なら気にも留めないはずなのに今日だけ癇に障ってしまうのは、きっと司の言っていることが正しい言葉だからだ。まるで母親のように間違っていることを諭して、バラバラになったものを正しいものへと作り上げて欠けたものを補おうとする司の行動は、まるで自分の理想とする形に人間を作り上げようとしているみたいだった。無意識に他人を思い通りに動かそうとするのは、昔から両親に愛されることが無かった弊害なのかもしれないな、なんて思ってしまう。困ったような彼女の表情に内心小さく溜め息を吐いて、少しずつ言葉を紡いでゆく。吐き出した言葉は酷く湿っていて、それはまるで駄々を捏ねる子供のようだった。それが一体誰の言葉なのかは解らないと言うのに。
「────天塩さん天塩さんって五月蝿いな。たかだか三年間の付き合いなのに、簡単に尻尾を振っちゃってつーちゃんは随分とお利口さんなんだねぇ。あっちはあっちで、今夜にでも同室の子とベッドで仲良くおねんねしてるかもしんないのにさァ」
そこまで言ってからしまったと思い口元を隠せば、司は想像してしまったのかマスク越しに右手で口元を覆って、眉間に皴を寄せる。汚れのないマスクの奥から、吐き気を堪えるような低い呻き声が聞こえた。
「……なっちゃんと一緒にしないでよ。天塩さんはそんな器用な人じゃないよ」
ため息交じりに呟かれた言葉に小さく息を吐くと「へぇ? さぞかしお育ちが良いんだろうねェ」と言って、苛立ちを誤魔化すように髪を耳に掛ける。おかっぱの髪を耳に掛けると、騒がしい校内の音がクリアに聞こえた。
舞台の上で[泉見棗]はいつだって、誰かの[想像上の理想]でなければならない。それが倫理的に間違っていても、風紀委員会から目を付けられても、[泉見棗]は最期の瞬間まで役者で居なければならないのだ。演じて、演じて、演じた先が────例え何処とも繋がっていなくても。
[姉]として見れば、司が他の誰かと関わって視野を広げることは良いことであるべきだ。あの他人を支配したい性格と、天塩木染の、あの平凡なのんびりとした性格は相性が良いんだろう────相性?それは一体、誰が決める?
そうきっと、ボクは目の前のこの女が、恋愛なんてくだらない遊戯によって変えられてしまうのが許せないのだ────でも、あたしはゲームが大好きだったはず。それなら、目の前のこの子の嘘さえも愛せるはず────愛せる? 私が? 家族を?
────ボクはなんで、こんなにも焦っているんだ?
「────なっちゃん?」
固まってしまったボクを心配してか、司がなっちゃんと名前を呼ぶ。棗の頭文字をとってなっちゃん。[なつめ]は少し言い辛いから、司は昔から[なっちゃん]と呼んでいた。特殊な家庭の中でまるで普通の子供のように呼ばれるその呼び名が何だか酷く温かくて────そして同じくらい、心底嫌いだった。
ボクは司に聞こえるように大きく溜め息を吐いて自分の席に踵を返して鞄を肩に掛けると「……どいてくれる、司さん」と言って。たじろいだように身体をどかす彼女に一瞥をくれると、そのまま部室とは反対側の方向へ向かって歩こうと歩を進める。すると、手袋越しに少し低い体温が「ちょっ、なっちゃん」とボクの手首を掴む。
「……どこ行くの」「どこでも良いだろ、司さんには関係ないよォ」「あるよ、今日は部活でしょ。演目決めと配役のオーディションの話もしないといけないんだ。なっちゃんがサボったら全体に関わる」
真剣な表情でそう言う司に、「全体? 司さんの演技プランに、だろ」と嘲笑するように笑って続ければ、司は表情を強張らせて。しまったと思うと同時に、そんなことを考えている自分自身に酷く嫌気が差した。
ボク達が天塩木染の存在で、揺らいでゆくことが許せなかった。天塩木染の────言ってしまえば、たかが一人の女子高生の存在ひとつで、ここまでうまくやって来れたものが壊れてしまうことが、癇癪を起こした子供のように堪らなく嫌だった。
顔を強張らせる司を見ながら、つい小さく舌打ちをする。司と一緒に作ってきた泉見棗と言う作品が、勝手に他人に作り替えられてゆくような感覚。ここまでうまくやって来れたのに。消費されるべきは向こうであってボク達ではないはずなのに。……それなのに、そんなことにも呑気に気が付かない司のことも嫌だった。
「────なぁんっちゃってェ」
司の行動に内心呆れながらもおどけたようにそう言えば、司は一瞬だけ驚いたような顔をして。それから呆けたようにボクを見つめる彼女に、出来るだけ[優しい泉見棗]の顔をして笑いかける。
「冗談だよォ、冗談。つーちゃんが頑張ってるのも良く知ってるし、実際演劇部はそれで助かってる面も沢山あるしねェ。演劇部はぶつぶつ文句言う前につーちゃんにもっと感謝すべきだよォ」
そう言ってひらひらと手を振れば、司はほっとしたように息を吐いて。「そんなことは無いよ」と笑う彼女に内心舌打ちをしたい気持ちを堪えながら微笑み返して。ボクのそんな行動に安心したのか、司は甘えるようにボクを見て、「なっちゃんが怒ってなくて良かった」と笑う。
「怒る? ボクがぁ? まさか、司さんに怒ったりなんかしないよォ」「────そうだよね、なっちゃんは私のことを見捨てたりなんかしないよね?」
ほんの少し媚を混ぜたような表情が、少しだけ癇に障った。けれども、それに気づかないふりをして「そうだよォ」とにこにこと笑うと、司の肩に手を置いてそっと耳打ちする。
「……つー、ボク実は────」「ん?」
ボクの真剣な表情に釣られたように、司も真剣な表情をして。自分と同じ高さにある耳に、そっと囁いた。
「────トイレずっと我慢してたんだよね」「……は?」
司の呆れたような「早く済ませてきなよ。先行ってるから」と言う言葉に、「はいはぁい」と適当に返事をして。その姿が完全に見えなくなったのを確認してから、部室とは反対の屋上の方向へ向かって歩いてゆく。リノリウムの床に上履きが擦れて、キュッという小さな音を立てた。
「騙される方が馬鹿なんだよォ、司さん」
あんな簡単な演技でも普段演技を見慣れているはずの司が騙せるんだから、[天才子役・泉見棗]はまだ生きていられるかもねェ────なんて思いながら、近頃はすっかり冷えてきた屋上の鈍い銀色に光るドアを開ける。ヒュッと言う北風が柔く頬を撫でて、おかっぱの髪を柔く乱した。
ドアを閉めて辺りを見回すとこの寒い時期にこんなところに居るもの好きはそうそういるはずもなく、私は目的の人物を思っていた通り簡単に見つけることが出来た。
彼女は恐らくお気に入りなのだろうか、相変わらず屋上の所定の場所に座るとノートにシャープペンシルを走らせていて。よほど集中しているのか、私が入ってきたことには気が付いていないみたいだった。
私は影で気付かれないよう彼女の後ろの方にまわると、微かに屈んで彼女の耳元にそっと囁いた。
「────精が出るねェ」
出来るだけ小さく声を掛けたつもりだったのだけれど、それでも予想していたよりは大きな声だったのか、彼女は────武村美弾はびくりと肩を微かに跳ねさせて。それから、あの相変わらず不愉快そうな表情で眉間に皴を寄せると「……何か用か」と低く呟いて。その声と表情は相変わらず不機嫌そうで、それがまた一層彼女に対する嫌悪感を駆り立てた。
「武村さんってあたしのこと嫌いなの? いつもすっごい顔してるよねェ」「……余計なお世話だ」
彼女はあたしの言葉に心底嫌そうに呟くと、再びシャープペンシルをノートに走らせて。その手元を見れば、それは数学の教科書だった。
「それ、今日の課題?」「……当たり前だろ。お前も聞いてたじゃないか」
武村さんと言えば、必要最低限のこと以外をあたしと話す気はなさそうで。そこそこの難易度の発展問題をすらすらと解いてゆく様子から恐らく頭の出来は良いんだろうな────なんて考えて。「ふぅん」と適当に答えてから欠伸をすれば、ふとこちらを見てくる彼女の視線に気がついて。「なぁにィ」と言えば、彼女は眉間に皺を寄せて「……いや」と答えた。
灰色の屋上が橙色に染まっていた。その様子をぼんやりと見つめていれば、屋上には武村さんがシャープペンシルをノートに走らせる音が聞こえて。途中から採点でもしているのか、一度シャープペンシルの音が止んだと思ったら、今度は赤ボールペンで丸をつける音が聞こえてくる。
「────好きなの?」「……は?」
いつもなら面倒だから声なんて掛けなかったはずで。それでもつい声を掛けてしまうのは、勉強をしている様子が司に被って見えたからだった。
呆けたような彼女の顔にくすりと笑みを溢すと、「それ、勉強」とノートを指差して。すると彼女は、少しだけ嫌そうな顔をしてノートを閉じると、「……別に好きな訳じゃない」と返す。
「へー、じゃあなんでやってんのォ?」「お前に関係ない」「へぇ」
欠伸をしながら適当に返せば、目の前の武村美弾は酷く嫌そうに顔を顰めて。こんな顔、ファンクラブの子が見たら何て思うのかなぁ────なんて思いながら小さく彼女に向かって微笑めば、彼女は一瞬だけ呆けた顔をして、それから気まずそうに視線を逸らした。普段から頼んでもないのに突っかかってくる様子からは想像できないようなその表情は、あたしの嗜虐心を擽るには十分すぎるほどで。あたしは彼女を見て小さく笑うと、「……前にも聞いたけどさァ」と呟いて、彼女に近づいて逃げられないように腕を掴むと、その耳元で小さく囁く。
「────あたしを嫌いなのはお前の方だろって、どうして?」「……は、」
にやにやと笑いながらそう問えば、武村さんは面食らったような表情をして。それから気まずげに視線を逸らすと、「……何でもない」と続ける。
少し低く澄んだ声が、彼女にしては珍しく頼りなげに聞こえた。その態度に「何かあるんだろうな」と考えながらあたしは「ふうん」と呟いて彼女から手を離すと、「教えてあげようか」と言って彼女の短く切られた黒髪にそっと触れて、その耳元で囁く。
「……君があたしを嫌いじゃないのなら、あたしは君のことが嫌いじゃないよ」
吐き出された言葉は一人分の熱を持って彼女のもとへと届く。驚いたように耳に触れた彼女を見てくすくすと笑うと、彼女は酷く嫌そうな顔をして「……やめろよ、それ」と呟いて。その表情が少しだけ和らいだのを見ると、「そんじゃーね、武村さん」と屋上のドアの方へ向かって歩いてゆく。
「風邪ひかないようにした方がいーんじゃない? ファンクラブの子にうつしたら可哀想だよォ」
へらへらと軽薄そうに笑いながらそう言えば、彼女は酷く嫌そうに顔を歪めて。「……お前に関係ないだろ」と言う言葉に、「まぁ、武村さんが風邪ひいて休んだらこっちにファンクラブの子がまわってきてラッキーだけどねぇ」と言えば、彼女はまるで奔放な子供に手を焼く母親のように溜息を吐く。……まぁ母親となんて、星花に入学してからここ数年話したことは無いのだけれど。
ゆっくりと空が暗くなってきたのを見て、そろそろ司のところへ戻ろうと屋上のドアノブに手を掛けた────時だ。
「────泉見」「んあ?」
やけに神妙そうに名前を呼ぶ武村さんに振り返ると、武村さんは彼女にしては珍しく伝えるべきか否か迷っているようで。少し何かを考えているように俯くと、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「────あたしは、」
武村さんはゆっくりと言葉を紡ぐ。少し低いその声は、少しだけ震えていた。
「あたしは別に、お前のことが────」
────不意に、携帯の着信音が鳴った。その音に画面を確認すれば、そこに表示されていた名前を見る。武村さんを見れば、なんとも気まずげな顔をして口をつぐむ。
「ごめんねぇ。……はい、棗です。うん、うん。ごめんね、一回切る」
一度電話を切ってから、先程何かを言い掛けていた武村さんに「なぁに?」と尋ねれば、彼女は気まずげな顔をして「……なんでもない」と口をつぐむ。
「そう、そんじゃーねぇ」「……あぁ」
ひらひらと手を振れば、武村さんは相変わらず無愛想に答えて。それに小さく苦笑してから屋上を出て携帯電話を持つと、先程掛かってきた電話にかけ直す。
「────もしもし、うん。ごめんねぇ、途中で切って」
電話口からは少しだけ啜り泣くような声が聞こえて。その音に混じって聞こえる今から会えないかと言う言葉に、つい口角を上げる。
「今から?良いよォ、別に。何時間だって一緒にいてあげる、おねーさん?」
へらへらと笑いながらそう言えば、電話の向こうからは「待ってる」と伝えられて。自分が求められていることにほっと息を吐きながら、「……ね、おねーさん」と尋ねる。
「────おねーさんはボクのこと、好き?」
出来るだけ優しくそう問えば、電話口からは「棗が一番好きよ」と返されて。それにほっと息を吐きながら、「そっか」と返す。
「これからそっちに行くね。風紀委員に見つかったら大変だから、部屋の鍵開けておいて」
二言三言会話をしてから電話を切ると、不意に乾いた風がボクの髪を乱す。手元の携帯電話を弄びながら、司に部屋に荷物を置いておいて欲しい旨をメッセージで伝えれば、一言[わかった]とだけ伝えられる。
相手が壊れるくらい、好きだと言って欲しかった。紛い物の愛でも良いから、[泉見棗]が此処にいる証明が欲しかった。
「────武村さん、ね」
不特定多数の人間を泣かせることをやけに咎めてくる彼女を思い浮かべながら、小さく舌打ちをして呟く。
「……愛してくれないなら要らないよ。ばぁぁぁぁか」
小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかった。