ハッシュドポテト 1
春もまだ遠いのに、やけに暖かな冬の日のことだった。
珍しく「すぐそこで会ったのよ」とカウンターの常連客が、三人そろって来店した。
「しっかし相変わらず日替わりで変わったのものばかり出すわね」
悦子が本日のお通しに容赦の無い感想を述べる。
「別に変わってないだろ? 今日のはごく普通の料理を出したつもりだけど?」
「こんなものをお通しで出す、あんたのそのセンスが変わっているのよ」
「違えねえ」
源が笑った。この老人は、元はそこそこ名の知れた会社の営業畑の一線で働いており、それなりにいいものを食べた経験が豊富だ。
「はあー。つまんないもの出すなと言ったりセンスがおかしいと言ったり、なのに落とす金は飲み物とお通し代だけ。なんて面倒な客なんだ」
「ちょっと、口に出ているわよ。それか独り言なら聞こえないように言いなさいよ」
「聞こえるように言ったんだよ」
やれやれ、と店主が肩をすくめると、入り口の開き戸がやや乱暴な感じで開いた。
「いらっしゃい」
一人の若者が入ってきた。
年の頃は三十くらい。太り気味の男で、少し息が荒く汗ばんでいる。おろしたての既製品のスーツが、いかにも板についていない。髪型も今日床屋にとりあえず行ってカットしましたという感じで、そちらも風貌に馴染んでない。
「いらっしゃい。カウンター……」
男は店主がそう言う前に、どっかとカウンターに座る。
「とりあえず! ナマ……?」
開口一番注文するが、語尾が弱々しい。
「あいよ。生ビールね」
男の目の前に生ビールの中ジョッキ、そしてお通しのハッシュドポテトを出す。
目の前で泡が弾けるビールの誘惑に抗しきれず、片手で持ち手を掴むと、グイッと杯を口に寄せて傾けた。
「ぷはー!」
なんとなくわざとらしいな、と常連客一同が思ったとき、男が目の前のお通しを見ていった。
「ねえ、この小皿のお料理って、お通しなの」
「そうですが」
「頼んでないんだけど!」
少し大きめの声が響き、店内の空気が固まった。
「は?」
「だから、お通しなんて料理、頼んでないって言ってるの!」
「あー……」
とっさに返事ができずにしばらく店主は考え込んだ。
「日本に来て外国人が嫌がるのが、頼んでもいないお通しを出されて金取られるってことだと聞いたよ? そんな悪習慣はやめるべきだと、僕は思うけどねっ!」
あー、こいつめんどくさい奴だ。一同は思った。騒ぎに顔をしかめた悦子が内心を吐露して一言「うぜえ……」と呟く。
「いや、うちの店は席料としてお通しをいただくことにしているんです。メニューにもそう書いてあるでしょ」
男はメニューを読まずに注文したので気が付かなかったが、たしかにそのような文言が書いてあった。
「こっ、こんな小さい字で下の方に書いてあったら気が付かないじゃないか!」
「……すみませんね。いやならお下げします」
店主は渋々男に詫びた。こんなカウンターで叫ぶ男の前に出したものを、他の客に再使用できない。下げるなら廃棄するしかない。
「まったく、失礼するよね。日本人はこういう変な商習慣を認め続けることは間違っているよ」
「はあ……」
「ちゃんと注文されたものに対して、きちんとした対応をする。これがそもそも契約のあり方であってだね……」
「……うるさい」
悦子が男に言った。
「は?」
「うるさいって言ってるのよ」
「え、君には何も言ってないけど」
「うるさいのよ! 何が外国人よ、商習慣よ。さっきからあんたがいちゃもん付けるから、大将の手が止まってるじゃないの! 営業妨害してるんじゃないわよ!」
「ぼ、僕はこのお通しっていうつまみを押しつけられるシステムがだね……」
いきなり畳みかけられるように怒鳴られて、男が縮こまる。
「文句があるなら事前にお通しを出さない店を調べて、そこに行けばいいのよ。何よ、好き勝手に店に入ってきてビール注文したのはあんたでしょ。だったらお通しもちゃんと食え! それがマナーだ!」
「な……何を言うんだ……君は……」
「おい、ほどほどにしてくれ」
店主が悦子を窘める。
「エッちゃん、まあそう怒るな」
老人の源が悦子を窘める。
「なあお兄ちゃん。うどん屋じゃこういったお通しを取らないわな。カレー屋でもそうだ」
「……そう……だね」
カウンターの老人に話しかけられて、男がおどおどと返事をする。
「たしかに日本の居酒屋やレストランではこういうお通し代を取るのが慣例で、それが客にとって不満だったりする」
「……」
「あるフレンチレストランはバケット代と称してお通し代を取る。高いフランスパンでも一本三百円だ。でもよく食べる客でも、フレンチレストランでバケット一本食うのは稀だわな」
「まあそうだわな」
ロクが合いの手を入れた。男は黙って聞いている。
「安い串揚げ屋なんてもっとひどい。お通し代としてキャベツのざく切りの代金を勘定にい入れているところもある。キャベツなんて高いシーズンでも一個三百円くらい。どんなにキャベツ好きでも、丸々一個食うことはねえわな」
「……何が言いたいんだよ」
話が説教臭くなってきたので、男が口を尖らせた。
「なあ、兄ちゃんや。レストランや居酒屋って、客にとっては腹を満たすだけの場所じゃなくて、特別な場所じゃねえのかな」
「特別? どこが?」
「おしゃれなレストランで、素敵な女の子をエスコートする。そいつはそのレストランでは客という主役になれるんだ。最高のもてなしをする自分と、ヒロインの女の子に喜んでもらう舞台のな」
「そんなの……そんなこと……」男は口ごもる。「なら居酒屋はなんなんだよ」
「ひとりで飲んだり友達と飲んだり、そんな酒の席で楽しい自分を味わう舞台だな」
「それがお通しと、どう関係が」
「兄ちゃん、お通しってのは席料を兼ねている」
「ああ」
「でも席料だけ取るのはちょっといやらしいから、気持ち程度の料理を出す。まあ本音は少しでも店の売り上げを伸ばそう、金を取ろうっていう店側のせこい営業手段なんだわ」
「うるさいよ、じいさん」
店主が苦い顔で口を挟む。
「でも席料だってなら、その代金はその舞台の入場料ってことじゃねえのかな」
「……」
「あんたもこの店の客の一員として、入ってきたんだ。入場料を払って、店の料理と酒を味わう舞台の一員としての、な」
男は黙ってお通しの皿を見た。
細切りのジャガイモが、これまた細切りのベーコンが混ざってきつね色に焼けている。
「この店の役者になったのなら、まず食ってみなよ。文句なら食った後で言えばいい」
「食べたら代金を払わなきゃならないじゃないか」
「そらまずいものなら文句を言えばいいだろ」
「それじゃ、いちゃもんつけているみたいでみっともないだろ」
悦子が怒鳴る。
「うるさいっ。まずは食えっ。文句は食った後で言えっ」
男は黙って席の正面に直ると、割り箸を割って黙って箸で摘まんで料理を口に運ぶ。
しばらく咀嚼していたが、やがて驚愕して目を見開いた。
「なんだよ、これ」
「ハッシュドポテト、ジャーマン風です」
「なんだよ、これ。何が入っているんだよ」
「ジャガイモ、ベーコン、塩こしょう、あとバターで風味を付けています」
「そんな……こんなもの初めて食べたぞ」