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鶏レバーの煮物

 全ての客が早く帰ってしまった寒さの厳しいその日の夜遅く、店主は閉店準備に取り掛かっていた。


「まだいいかな」


 入り口の開き戸がカラリと開いた。もう還暦にそろそろ届くか、と思われるような歳の男が入ってきた。


「糸川さん」

「先日、杉浦さんとばったり会ってね」

「ええ、この間あいつから聞きました」

「会社を辞めてから、君がここで居酒屋をしてるって聞いて」

「……寒いでしょう。とりあえず中へ入ってください」


 糸川は店に入ると少し遠慮がちにカウンターに座った。


「何か飲みますか?」

「熱燗を、もらおうか」


 店主は徳利の中に酒を注ぐと、お燗鍋の湯へその徳利を入れて酒を温める。


「お通しは何が……糸川さん、鶏レバーの煮物があるんですが、レバーはお好きですか?」

「ああ、それでいいよ」

「苦手なら他のものもありますが」

「いや、それでいい。手間のかからないものをもらおうか」


 店主は鶏肝の入った小鍋を温め始める。


「……君にだけは謝っておきたくてね」

「何をですか?」

「君の会社を、結果的に裏切ったことだよ。すまなかった」

「よしてくださいよ」


 頭を下げる糸川に、店主は笑う。


「あれは、あの会社が悪いんですよ。俺は再三『イトカワ製作所さんに、手形で支払いしちゃダメだ』って会社に言ってたんです」

「そうらしいね」

「なのに手形で支払いをしてしまった。よりにもよってヒラマサの振り出したやつをですよ。今、あそこがピンチなのは自業自得です」

「でもそんな場所でも、君がいた会社で、杉浦さんは今でも勤めているんだよ」

「……仕方ないですよ。自分が選んで入った会社だ。俺も、あいつも」


 料理を温めている鍋がチリチリと音を立て始めた。


「うちのために、君は会社をクビにまでなって……」

「イトカワさんと関係が悪化したらどうなるかなんて、誰にでもわかることでした。俺の方から見限ってやったんですよ。気にしないでください」

 

 料理を皿に盛り付けながら、店主は呟くように語る。

 糸川はため息を吐く。


「そうか……でも部長を殴ったのは良くないな。会社員が上役を殴ればクビになることぐらい、君も知ってるだろ。辞め方が良くない」

「ああ」店主は笑う。「殴ったのは退職のついでですよ、ついで」

「ついで?」

「気に食わない上司をぶん殴って辞めるのはサラリーマンの夢ですからね」


 しばしきょとんとした糸川は、やがて大笑いした。


「やっぱり君はとんでもない奴だな」

「やっぱり、って俺のことなんだと思ってたんすか」


 店主も吹き出した。


「いや君の武勇伝はね、私の部下たちの語り草だったんだよ。『あの人ならやりかねない』ってみんな笑いながら言ってたよ」

「それは良かった。あのハゲを殴った甲斐がありました」


 酒が温まったことを徳利の底で確認すると、糸川の前にお猪口と共にカウンターに置いた。

 茶褐色に色付いた鶏の肝には、刺身のツマ用に余っていた大根の細切りを添えて出す。


「へいお待ち。お通しと熱燗」

「……いただきます」


 糸川は鶏のレバーを箸の先で摘むと口に運んだ。

 料理を咀嚼して、目を丸くする。


「……これは」

「面白いでしょ?」


 店主が悪戯が上手くいった子供のような顔で笑う。


「不意打ちだな」


 糸川が味わいつつ感心する。


「醤油で煮てあるのかと思ったら、洋風の味だ」

「ウスターソースとニンニクと唐辛子で鶏肝を煮たんです。普通に出していたんじゃ、ただの家庭料理ですからね」

「そっかぁ、ソース味か……」


 しみじみと味わいながら、熱燗を口に含む。


「あの部長も今は立場が苦しいらしいな」

「……俺がぶん殴ったハゲですか?」

「杉浦さんが言ってたよ。君が騒動を起こしたおかげで、『イトカワ製作所さんとの交渉決裂が、社内でうやむやにできなくなっちゃったの』とのことだ」

「そうだったんですか」


 悦子め、社内のことなのに口が軽いな、と内心独りごちる。まあいいのか。糸川はうちの会社の不始末の最大の被害者だ。この男はことの顛末くらい知る権利はあると思う。


「うちの資金繰りがショートした時、上手いこと特許を買い叩くつもりだったそうだ。だけど私からそっぽを向かれて、その失敗を誤魔化しきれなくて、もうすぐ子会社に出向らしい」

「不意打ちだったってわけですね。俺のパンチは」

「そうらしい」


 糸川は笑う。お互い過去のことに色々思うところはあるだろうが、こうやって笑い合えたのはよかったと店主は思う。


「君も一杯どうかね。もうそろそろ店じまいなんだろ」

「ではいただきます」


 店主も杯を取り出して酒を受ける。


「君とこうやって酒を飲む日が来るとはな」

「そうですね」

「しかし、居酒屋を経営する才覚があったとはなぁ」

「ここ、前の店主から居抜きで受け継いだんですよ」

「ほう」

「学生時代にここでバイトしてたんですけど、会社員になっても内緒で土曜日に仕込みの手伝いをしてたんです」

「ダブルでワークか、けしからんな」


 糸川が笑いながら言った。経営者だったころの考え方なのだろう。


「前の店主が、もう身体がしんどいから跡継げるのなら譲りたいって話があって、いい機会だからその話を受けたんです」

「なるほどな、だから上手くいってるのか」

「ええ。さすがに居酒屋を新規オープンなんて、そんな冒険できませんから。金も伝手もありませんし」

「料理の味もその店主から受け継いだのかい?」

「料理も客も引き継ぎました」

「そうか、それは良かったな」


 糸川はまるで息子が社会で認められたような顔をして酒を口に運んだ。


「熱燗、もう少しいただこうかな」

「今日のところは奢りにしておきますんで、これまでってことで」

「悪いよ、そんな」

「いえ、再会を祝して、ご馳走させてください」

「そうか、ならお言葉に甘えるかな。でも再会祝いなら、もう一杯くらい……」

「糸川さん、肝臓悪くして入院したことあるでしょ」

「……そんなことまで知ってたのか」

「だから今日は一本だけです」

「まいったな……あ、もしかするとあれか。お通しの鶏レバー」

「はい?」

「肝臓の悪い奴は肝臓食わせるといいとか、以前君が言ってたんだよな。中国人の健康観」

「え、ああ、それね」

「ひょっとして、レバー選んだのも」

「あー……そんなことを考えたかもしれませんね」


 糸川は苦笑した。


「君の親切は、どうもわかりにくいんだよ」

「そうですかね」

「もっと自分の気持ちはわかりやすく表現しないと、相手に伝わらないぞ」

「なんの話ですか?」

「さてな」


 糸川は「ごちそうさん、また来るよ」そう言い残して帰った。

 店主は彼のために一人、再会を祝して酒を飲んだ。


鶏肝を醤油の代わりにウスターソースで煮るだけで、ちょっとお洒落なツマミになります。


皆様にお知らせです。

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m(_ _)m

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